イギリス現代史入門(大学受験のための世界史特別講義)(4)

銃後の生活

戦争は、国民の日常生活をも組織化していった。政府は、衝動買いによって生活必需品が不足し物価が上昇することを避けるために、1940年1月に食料と燃料の配給制度を導入した。国民一人ひとりに配給手帳が配布され、乳児にミルク、ビタミン計画では子供に濃縮のオレンジ・ジュースや肝油などが配給された。いわば、国家が国民の身体を統制することに着手したのである。

物不足、行列待ち、そして厳しい統制の時代のパラドクスとして、保守党の政治家で食料大臣のウルトン卿の言葉を借りれば、国民が「長年こんなにも健康だったことはなかった」という状態が生まれた。ベヴィンは、これを不十分と考えて、労働者への配給をさらに降らそうとしたものの、実現には至らなかった。配給制度は、国民を健康にしたが、それ以上のことはしなかったのである。依然として特権階級は、配給制度の外側で贅沢な食事を享受し続けていた。

ドイツによる空爆への対応でも、政府は必要最低限のことしかしなかった。空爆の被害は、甚大になることが想定されていたが、疎開計画は自発的になされるべきだとされた。民間団体に疎開を計画・実施する権限が与えられ、それに地方自治体が最低限の援助をおこない、中央政府は何もしなかった。富裕層は、子供を海外に送り出したり、寄宿学校にやったり、別荘に移り住んだりする経済的余裕を持ち合わせていたが、労働者階級の子どもたちは疎開計画によって百万人ほどが都市を離れることになった。

受け入れ家庭の多くが労働者階級であり、上流階級と中産階級のあいだでは、疎開者の受け入れを拒否する傾向が高かったといわれる。受け入れた場合も、子供たちは冷淡で無情な取り扱いを受けたという。疎開を経験した者は、疎開計画が民間団体の能力を超え、公的機関による介入が望ましいこと、また労働者階級の家族や共同体が高い道徳性を保持していることを発見した。

「ブリッツ(The Blitz)」と呼ばれるドイツ軍による都市に対する空襲では、際立ったパニック現象は発生しなかった。1940年秋にはロンドンに対する空襲が始まり、それは58日の連夜に及ぶものとなったが、標的となったのは主として港湾施設が集中する東部のドッグ地区周辺であった。市民は地下鉄の構内を利用した防空壕へと避難した。政府は一万人単位の収容施設を開設したが、連日の空襲で3万5千人がこれら避難所に詰め込まれた。

BBCで戦時放送を担当した『ウィガン波止場』や『1984年』などで知られる作家ジョージ・オーウェルにとっては、首相のチャーチルではなく、空襲を耐え忍び、率先して救助にあたった看護師や消防士などの市民こそが「真の英雄」だった。軍関係の工場が集積する中部地方のコヴェントリは、1940年11月14日に大規模な空襲を受けた。またポーツマスやハルといった軍港を抱える湾岸都市も空襲を受け、これらの諸都市では戦後の再建の時代に、抜本的な復興計画が採用されることになった。

1930年代の記憶

ケン・ローチといえば、今やイギリスを代表する社会派の映画監督である。彼の『1945年の精神』(2013年)は、福祉国家の誕生についての同時代人へのインタビューから構成されたドキュメンタリー映画で、改革と革命的な精神に満ちあふれた「1930年代の資本主義への記憶」が存在していたのであり、「1930年代へは戻りたくない」という気分が改革への機運を醸成したとされる。それでは、実際のところ、1930年代とは、どのような時代だったのであろうか。

近年の研究によれば、1930年代には、フォード主義的生産システムが導入され、女性の労働市場への進出が進み、獲得賃金をもとに消費社会の萌芽が生まれ、ダンスホールの文化が花開いたとする説もある。しかし、1930年代の全体の基調としては、やはり「失業の時代」であった。大戦期間の労働者の間では、失業が慢性化していたが、1929年のニューヨーク・ウォール街の株価大暴落のあとに失業率は劇的に上昇していった。大恐慌は、イギリスへも波及し、社会不安が醸成され、ファシスト同盟のオズワルド・モーズリーに共感する労働者も登場するようになった。だが、労働者の多くは、反ファシズム運動に参加し、なかには夢を求めて、海を渡り、スペイン人民戦線の義勇兵となった者もいた。

この時代には、失業に関する社会調査や失業者の声を歴史に残す取り組みが行われ、フェミニストたちは、出産時の母性を保護する運動に取り組んだ。全国失業者運動と労働組合によって組織された反失業運動は、世論の変化をもたらした。たとえば、1936年のジャロワの飢餓行進は、北東部の造船の街からロンドンに向けて行われ、沿道から喝采を浴び、新聞などジャーナリズムでも取り上げられた。

だが、これらに対する政府の方針は冷淡なものであった。蔓延する失業の原因を労働者の怠惰に求め、貧困を自己責任とする道徳的差別を行った。その最たるものが、失業手当受給者の選抜を行うための「資産調査(ミーンズテスト)」であった。これは納税者である中産階級の利害を反映するもので、失業手当の削減を目的として「不正」な受給を摘発するものであったが、それが逆に貧困を拡大することになった。

こうした社会保障システムの「空白」を埋めたのが、民間団体の活動であった。慈善病院や友愛組合などのヴォランタリー組織の起源は、旧くは18世紀にまで遡ることができるが、この時期にも規模を拡大させながら、福祉の供給主体として活動を続けていたのである。しかし、大恐慌によって中産階級の経済的疲弊が激しくなり、彼/彼女たちの寄付や善意に頼る慈善活動の限界が露呈していた。また戦時動員体制のもとで中央集権化による国家の一元管理が進んでいくと、地域ごとにバラツキと不統一のある福祉システムへの疑問が呈されるようになった。

ベヴァリッジ報告

政府は、1941年のはじめから再建問題委員会を設置して、来るべき戦後に経済・社会・政治の諸分野で、どのような秩序を構築すべきかについて検討を開始していた。1930年代の失業をめぐる問題で浮き彫りになったのは、国家がどのような役割を果たしうるのか、すなわち、国家か民間か、中央か地方か、拠出制か税方式か、普遍主義か選別主義か、といった福祉をめぐる多岐にわたる争点であった。

これらの難問に取り組んだのが、ウィリアム・ベヴァリッジであった。ベヴァリッジは、自由党の指導的存在であったが、連立内閣で閣僚を務めた労働党のアーサー・グリーンウッドから既存の社会保険制度を再検討するように委託を受けた。ベヴァリッジは、もともとヴォランタリーな組織による福祉の提供が最善の方法であるという信念を抱いていたが、空襲、疎開、徴兵の経験によって、国家が中心的で積極的な役割を果たしうるという考えに徐々に移行していったといわれている。

ベヴァリッジの委員会は、1942年12月に『社会保険と関連サービス』と題された報告書を提出した。ベヴァリッジの提案は、戦後の福祉政策の包括的な青写真を提供することになった。それは、市場では解決できない「五つの巨悪」、すなわち「窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰」から、すべてのイギリス人を解放することを目的としていた。つまり、社会保障、医療サービス、教育、住宅、雇用政策など、貧困が包括的で統合的な社会保障計画によって根絶できることを示したのである。

なかでも最も重視されたのが社会保障であり、ベヴァリッジの原則は次のように要約できる。第一に、社会保障は、政府が国民に対して保障する生活水準としての「ナショナル・ミニマム」に設定すること、第二に、すべての人への均一給付に対応して拠出もまた均一でなければならないこと、第三に、すべての人を包摂することであった。

当初政府は、ベヴァリッジ報告書の細部にわたる発表を行わない方針であたが、最終版で全文公表という形態をとった。報告書の刊行は、幸運なタイミングによって社会に大きなインパクトを与えた。1942年の戦況、とりわけ戦争の勝敗の帰趨に関する不安を払拭した北アフリカ戦線のエル・アラメインでの連合軍の勝利から、数週間のことでだったからであった。国民は、戦争によって勝ち取った福祉の増進をさらに強化する実現可能な方策を求めていたのである。

ベヴァリッジの報告書は、60万部以上を売るベストセラーとなり、広く世論を喚起した。その一方で、報告書の刊行は、政治的対立を明確化していった。労働党、自由党、労働組合会議などが報告書の早期の実現を求めたが、保守党、大蔵省、資本家団体は、消極的な態度をとった。また世論調査によれば、報告書の認知度は極めて高く、広く労働者階級から受け入れられていることが明らかになった。

アトリー政権

保守党は、すべての人への福祉の給付というベヴァリッジの前提を支持することを拒んだ。チャーチルは、そうした公約を、守れない贅沢として考えていたようである。1943年1月に戦時内閣に宛てられた秘密メモのなかで、彼は「偽りの希望を持たせることで人々を欺きたくなかった」と述べていた。だが。戦間期の保守党の「経済的リアリズム」と「常識」という言葉は、戦時期には人気を失っていたのである。

これに対して労働党は、ベヴァリッジ報告を推奨することによって、その利益を享受した。労働党の訴えは、過去の窮乏状態に回帰する恐れが広まっていたなかで、「1939年に戻りたい」と思っていた権力と富をもつ人々に対する「人民」の意識を喚起した。1945年の労働党の選挙マニフェスト『将来について目を向けよう』は、こうした時代精神を捉えたものだった。

1945年5月にヨーロッパでの戦争は終結した。それにともない、戦時連立内閣は解消して、二ヶ月あまりのチャーチルを首班とする「暫定」内閣が続いた。7月26日の総選挙の結果は、労働党が400近い議席を確保する一方、保守党は200議席あまりの惨敗、労働党の地滑り的な勝利となった。労働党は、経験豊かな五巨頭(アトリー、ベヴィン、モリソン、ヒュー・ドールトン、ヒュー・ゲイツケル)の存在が影響力を発揮した。ある調査によれば、中産階級の21パーセントが労働党支持を表明したと言われている。新政権では、アトリーは信頼の厚いベヴィンを外務大臣にあて、ドールトンが大蔵大臣に、リチャード・クリップスが商務大臣に任命された。

クレメント・アトリーは、1883年にロンドンの富裕な弁護士の子どもとして生まれ、パブリック・スクールからオックスフォード大学へ進学、卒業後は弁護士となった。彼は、ロンドンの労働者街にあるトインビーホールを拠点として、ベヴァリッジなども関わった貧困救済運動であるセツルメント活動に取り組んだ。労働階級の貧困の状態に直面したアトリーは、社会主義に感化された独立労働党に加入するが、それはセツルメント活動のようなヴォランタリーな慈善活動だけでは、貧困は解決しないとの認識に至ったためだった。

戦後の労働党は、都市部やイングランド北部や中部、ウエールズやスコットランドの工業地帯での労働者階級の投票に依拠していた。保守党は、中産階級主体の郊外や農村地域で議席を保持した。この選挙によって戦後の二大政党制が確立して、それは1974年まで続くことになる。

共通テストや記述試験で満点をとる日本史講義 

武蔵境駅徒歩30秒武蔵野個別指導塾 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾

武蔵野個別指導塾・武蔵境唯一の完全個別指導型学習塾

【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

TOPに戻る

個別指導塾のススメ

小学生コース

中学生コース

高校生コース

浪人生コース

大学院入試コース

社会人コース(TOEIC対策)

英検準1級はコストパフォーマンスが高い

英文法特講(英語から繋げる本物の教養)

東大合格は難しくない

英語を学ぶということ

英文法講座

英検があれば200~20倍楽に早慶・GMRCHに合格できる

現代文には解き方がある

共通テストや国立の記述テストで満点を取る日本史

共通テストで満点を取るための世界史

武蔵境駅徒歩1分武蔵野個別指導塾の特徴

サードステーションの必要性

完全個別指導塾とは何か

学年別指導コース

文部科学省

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
PAGE TOP
お電話