イギリス現代史入門(大学受験のための世界史特別講義)(5)
地上のイェルサレム
アトリー政権は、ベヴァリッジのプランに基づいた「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家、「地上のイェルサレム」の建設に着手する。1946年から1948年にかけては、このプランを具体化する社会立法が集中的に審議され、議会を通過し、そして実施されていった。1946年には労働災害法を成立させたが、より重要なのは同年に成立した国民保険法であり、その制度は、疾病、失業、退職、寡婦、孤児、妊婦、死亡のすべてをカバーし給付金を与えられることになった。国民保険基金は、国家、企業、国民の三者の拠出によるものとされた。1948年、さらにこれらの対象からこぼれ落ちる人のために国民扶助法が制定され、火災・水害の罹災者、ホームレス、労働災害や保険制度への拠出金を支払えない人々を救済した。1948年には、国民年金法も導入された。こうしてイギリスは、史上初めてすべての個人が「ナショナル・ミニマム」と保障される普遍主義的な福祉国家を導入することになった。
そのなかでもっとも重要であるのが、1946年11月に労働党の保健大臣アナイリン・ベヴァンのもとで制定された国民保健サービス(NHS)を構築するものであった。国有化による職業的自律性の喪失を恐れた医療従事者たちの利害を代弁する医師会などが反対したものにもかかわらず、医療サービスは行政的にひとつの組織に統一化され、地域ごとの格差も小さくなっていった。NHSは、その後、何度か改変を加えられながらも、戦後福祉国家の象徴的存在としてイギリスの社会や文化、国民生活のなかに定着していった。
続いてアトリーは政権は、労働党が党綱領第四条に掲げてきた理念であり、1945年の選挙マニフェストでも公約とした基幹産業の国有化に乗り出す。国有化こそが、産業に計画性をもたらし、生産効率を高め、雇用を確保して、富の再分配を約束するものとされた。まずイングランド銀行が国有化され、民間航空、石炭(1947年)が続いた。さらに鉄道、運河、運輸、電気(1948年)、ガス(1949年)に広がり、最後は鉄鋼(1951年)にまで及んでいった。
これらの国有化にはほとんど抵抗は見られなかったが、鉄鋼をめぐっては、賛否が分かれた。国有化を主導した副首相ハーバーと・モリソンの方式によれば、政府が資金が資本を提供してトップの人事も決めるが、労働者の経営参加や価格政策や消費者との関係には不干渉とされ、これは戦前の公社方式を踏襲したものであった。
ベビーブーム
1945年5月から7月までの暫定政府の時期には、家族手当法が制定されていた。イギリス全世帯に対して、二人目からの子どもの一人当たり週5シリングの児童手当が支給されることになった。これは、ながらく女性議員のエレノア・ラスボーンの運動によって主導されてきたものだったが、所得の再分配という観点からも、人道主義・フェミニズムの観点からも、(今日では批判されている)優生学に基づく、「国民的効率」の観点からも、正当化されていった。
国勢調査によれば、20世紀前半のイギリスでは、産児制限運動家のマリー・ストープスが唱導する家族計画によって出生率が低下していた。だが、この家族手当は、戦争への動員からの解除という要因と相まって、戦後の「ベビーブーム」という人口動態上の変化を生み出すことになった。この人口動態の変化に対して政府は、住宅供給を増加させるため住宅補充金を増額して「ニュータウン」建設を進め、一部の民間賃貸住宅の統制を課した。1945年の時点で、人口の10パーセントが基準を下回る住宅での暮らしを余儀なくされていた。保健大臣のベヴァンは、毎年24万戸の住宅を新たに建設すると約束した。
1946年の住宅法は、頑丈で断熱性や通気性に優れ、バスルームが屋内にあることを公営住宅の基準とし、必要とするすべての人々に地方自治体が住宅を供給すると宣言した。ベヴァンの住宅法は、戦前イギリスに見られた劣悪なスラムの住宅の経験から導き出されたものであり、民間の家主や建設業者よりも地方自治体を提供できるかという信念に基づいていた。
教育の分野でも大規模な変革がおこなわれた。戦後イギリスの中等教育の枠組みは、1944年のバトラー法によって与えられた。それは、中等教育を無償化し、11~15歳までの子どもの教育を義務化したものであったが、1948年の労働党政権時にエレン・ウィルキンスン教育大臣のもとで実施に移された。
バトラー法では、「イレブン・プラス」といわれる十一歳児童に対して行われる選抜試験によって三種類の学校が準備されていた。すなわち、大学入学の必要性を満たすためのグラマー・スクール、職業教育を強調した技術系の実業学校、その他のための現代中等学校(モダン・スクール)である。イングランドとウェールズでは、ほとんどが現代中等学校に進学したが、15パーセントが技術系に、残りの15パーセントがグラマー・スクールに進学した。
これらは、労働党が推進する「機会の平等」という理念を体現すると同時に、選抜制を導入することで、実力主義という原理を併せもつものだった。これによって、全国各地に学校が建設され、国家の教育への投資の拡大も進んだ。実際、グラマー・スクールに進んだ生徒たちにとっては、教育が社会的上昇の回路として機能していくことになった。かくして、戦後のベビーブーマー世代にとって、教育は巨大な社会変動のエネルギーの源泉を提供していくことになったのである。
経済危機
経済学者ジョン・メイナード・ケインズによれば、1945年にイギリスは「金融上のダンケルク」に直面していたとされる。第二次世界大戦中、イギリスはアメリカからの「武器貸与法」による武器の無償供与によって、巨額の国際収支の赤字の半分を埋め合わせており、戦時生産を遂行することができたのだった。だが、1945年9月に日本が降伏文書に調印すると、アメリカは突如として武器貸与法を停止した。その結果、イギリスは事実上破産することが懸念されていた。
ケインズの「ダンケルク」という表現は、政権にあった労働党の政治家を覚醒させるための政治的レトリックとして読み取ることができるが、当時の対外政策の現実を的確に捉えた表現でもあった。イギリスは海外資産の売却などによって国富の4分の1を失っており、世界第二の債権国から最大の債務国に転落していたのであった。
1945年12月までにアメリカとの交渉にあたったケインズは、37億ドルあまりの借款をアメリカから引き出して危機を回避したが、アメリカが貸与の条件として、2パーセントの利子、50年償還、ポンドの自由交換性の回復など厳しい条件をつけたので、この協定は、政治家たちによって怒りをもって迎えられ、「経済上のミュンヘン」(屈辱的な宥和政策)と呼ばれることになった。
急場をしのぐことができた政府は、国民に耐乏生活を強いることになった。国民生活のあらゆる領域において物資が不足して、食糧用の油や砂糖、肉類などの不足が深刻化し、戦時統制を継続して配給の長い行列が続いたのである。
1947年には、厳しい冬がイギリスを襲った。1月には、20世紀最悪といわれる寒波で国全体が麻痺した。それは、急速な石炭の不足によるエネルギー危機を引き起こし、生産活動の危機をもたらし失業率も上昇した。さらに1945年のアメリカの借款に対する協定での条件に基づいて、ポンドが自由にドルと交換できるようになると、8月までにポンドの流出が加速していった。
ポンドとドルとの自由な交換は、8月20日に停止されたが、ドル不足は深刻となり、緊縮財政と「耐乏の時代」が続くことになった。この危機を打開するために、1948年にはアメリによる復興援助計画であるマーシャル・プランによる支援を受け入れた。それは国内政策においては、社会主義的な統制経済を解除して自由市場を導入することを意味しており、社会保障に対する財政支出の制限に向けて圧力が加わるようになった。
帝国からの撤退
1947年の危機は、金融危機から始まって、海外との関わり方を大きく見直す結果へと繋がった。困難な状況下にあった労働党政権は、ギリシアとトルコへの金融支援を打ち切り、委任統治領という状態を改め、パレスティナ問題を国際連合に委託し、インドから1948年6月までに手を引くことに同意した。こうして「帝国からの撤退」に道筋がつけられた。
ただ、1945年から47年までは、ソ連の拡大とアメリカの孤立主義的傾向のために、アトリーが望んだ諸外国との関係の見直しはできなかった。英米関係は、金融協定や原爆の開発などをめぐってギクシャクしていた。アメリカはイギリスを潜在的なライバルと見なしており、イギリスが帝国を維持しコモンウェルス諸国との関係を保っていることを嫌悪していた。
しかし、1947年から1949年になると、アメリカが国際主義的傾向をとるようになる。ギリシアとトルコの支援を引き受け、マーシャル・プランによって、ヨーロッパ経済復興のために130億ドルの資金を提供し、北大西洋条約における西ヨーロッパの安全保障に対して介入することを明らかにした。アトリー政権で外交を担ったのはベヴィンであったが、このベヴィン外交によって、イギリスはアメリカを永続的にヨーロッパに介入させるという戦時期以来の外交政策を継続させることに成功したのである。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |