共通テストで満点をとるための世界史

〔24〕マウリヤ朝・クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝

これまでのインドでは都市国家や小国分立の段階であったが、アレクサンドロス大王の東方遠征がインダス川まで到達することで、防衛上の必要性が生じ、インドの統一へ向かっていった。その結果、チャンドラグプタが、前317年にマガタ国のナンダ朝を倒し、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝(都パータリプトラ:中国では華氏城と呼ばれ、花の都を意味した)を建国した。マウリヤ朝の最盛期の王はアショーカ王で、インド南端を除く前インドを統一した。ダルマ(仏教のルール)に基づく、政治を行い、各地に磨崖碑を立てた。その後、第三回仏典結集を行い、石柱碑を建て、スリランカなど海外への布教も進めた。

 クシャーナ朝は中央アジアの大月氏国の支配を脱したイラン系民族クシャーナ族によって打ち立てられた。最盛期、二世紀前半の第三代の王カニシカ王は、都プルシャプラであったが、今日のデリーの近くのマトゥラーを副都とした。この時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムとペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。また、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。大乗仏教の乗とは乗り物のことで、大乗(マハーヤーナ)とは大きな乗り物のことであり、ブッダの教えに従って出家をして悟りをひらくことは、自分1人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想だった。大乗仏教は、菩薩信仰を中心に中国や日本に伝わっていきます。ちなみに、大乗仏教と対比される小乗仏教(上座部仏教と呼ばれる)は僧侶が自己の悟りを得ることを信仰の第一義としていた。仏典がパーリ語で書かれているので、パーリ仏教とも言われている。上座部仏教は、マウリヤ朝アショーカ王によって保護され、その王子マヒンダによってスリランカに伝えられ、その後東南アジア各地へ広がっていった。

 前1~後3世紀にかけては、南インドのデカン高原にドラヴィタ人系のアーンドラ部族が独立し、サータヴァーハナ朝(都:プラティシュターナ)を立てた。アーリヤ文化を積極的に受け入れ、バラモンが移住し、バラモン教を南インドへ伝えた。公用語としてはサンスクリット語を採用するなど、インド南北の文化の架け橋となる役割を果たした。

〔25〕グプタ朝・ヴァルダナ朝

 グプタ朝は都をパータリプトラとし、チャンドラグプタ1世が350年に建国した。最盛期の王はチャンドラグプタ2世であり、中国(東晋)の僧、法顕が仏教を学びに訪れた。仏教の繁栄と共にバラモン教の復興、ヒンドゥー教の発展が見られた。ヒンドゥー教は、典型的な多神教であり、シヴァ神、ヴィシュヌ神などを信仰する宗教で、生活様式や思考の全体に影響を与えた宗教であり、カースト制度やインド世界の独自性の土台を築いた。5世紀頃には、仏教を学ぶ寺院としてナーランダー僧院を建設し、仏教教義研究の中心となった。ちなみに、ナーランダー僧院は7世紀のヴァルダナ朝でも栄え、中国(唐)から訪れた玄奘や義浄もこの学院で学んだ。インド古典文化の黄金期と呼ばれ、ヒンドゥー教の法典であるマヌ法典によりインド人の生活規範を定め、サンスクリット文学が盛んになった。二大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」が生まれた。「マハーバーラタ」に含まれる聖歌バガヴァッド=ギーターは世界で最も深淵にして美しい哲学的詩歌と言われ、20世紀のガンディーのサティヤーグラハなどのインド独立運動に際しても指針となった。また、インドのシェイクスピアとも呼ばれるカーリダーサの戯曲として「シャクンタラー」が生まれた。天文学や数学が発展し、十進法や「ゼロの概念」が生まれた。仏教美術としては、グプタ様式としてアジャンターやエローラの石窟寺院が作られた。

 グプタ朝が衰退した後、インドは分裂状態に戻ったが、古代インド最後の統一国家として、606年にヴァルダナ朝(都:カナウジ)をハルシャ=ヴァルダナが建国した。上述したとおり、この時代にナーランダー僧院に唐の僧玄奘が学びに来ている。しかし、このヴァルダナ朝はハルシャ王の死後急速に衰退し、インドは、ラージプート時代と言われる分裂期に入った。

〔26〕インドのイスラーム化、ムガル帝国の成立

8~10世紀にラージプート時代に入り、インドでは諸王朝(プラティハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝など)が乱立していたが、11世紀以降のインドはイスラーム化していく。イスラーム教国ガズナ朝が1019年にアフガニスタンから侵攻し、1192年には同じくアフガニスタンからイスラーム教国ゴール朝が侵攻する。さらに、1206年にデリーにゴール朝の奴隷兵士(マムルーク)出身である将軍アイバクがインドに自立した最初のイスラーム王朝奴隷王朝(都:デリー)を建国する。奴隷王朝という名称は、歴代のスルタンが奴隷又はその直系出身であったためであるが、実際には奴隷でスルタンになったのは3人に過ぎないとしてマムルーク朝と呼ばれたり、クトゥブ朝と呼ばれることもある。その後、14世紀から15世紀にかけてハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝など五つの王朝が作られていくが、五つの王朝の都は全てデリーであったため、デリー=スルタン朝と呼ばれる。ちなみに、南インドはチョーラ朝、パーンディヤ朝、ヴィジャヤナガル王国などが続いた。

 その後、1526年にモンゴル帝国のチンギス=ハンの子孫と自称とするバーブルにより、デリー=スルタン朝最後の王朝であるロディー朝の王イブラーヒームの軍をパーニーパットの戦いで破り、ムガル帝国(都:デリー)を建国する。ムガル帝国は第三代のアクバル(在位1556~1605)は、ジズヤ(人頭税)の廃止により、ラージプート族(ヒンドゥー教)と和解し、軍事制度・官僚制度を整備して、その基盤となる土地制度や税制、貨幣制度などを統一してムガル帝国の全盛期を出現させた。新都アグラを建設した。その後、5代シャー=ジャーハーンはアグラに、愛妃ムムターズ=マハ-ルの墓廟としてタージ=マハールを建造した。

〔27〕ムガル帝国の衰退と地方勢力の台頭

熱心なイスラム教徒で「祈る人」とも呼ばれた第6代アウラングゼーブは、帝国最大の領土を形成し、インド南端を除く全土の統一を果たした。しかし、ヒンドゥー教徒を圧迫し、ジズヤを復活させ、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。その結果、ラージプート族の支持を失い、非ムスリムの激しい反発を買った。デカンのマラーター王国やパンジャブのシク教徒が反乱を起こし、彼の死後、ムガル帝国は衰退する。その混乱に乗じ、イギリスやフランスの勢力が進出し、植民地侵略が始まることとなる。

ムガル帝国時代の文化はインド=イスラーム文化と呼ばれ、中国の影響を受けて綿密で装飾的な絵画であるミニアチュールが発達し、ムガル絵画と呼ばれる細密画が生まれた一方、伝統的なラージプート絵画なども生まれた。また、建築においては、上述したタージ=マハールが代表的である。宗教では、イスラム教徒ヒンドゥー教に加え、両者を融合させたシク教をナーナクが創始し、パンジャーブ地方に信者が拡大していった。また、言語ではウルドゥー語が生まれた。

〔28〕東南アジアの諸王朝

13世紀までの東南アジアにおいて、カンボジアでは、1世紀に扶南が成立する。これは東南アジア最古の王朝として知られている。ローマ帝国の金貨が出土したオケオ遺跡に見られるようにタイランドワンに面する港オケオでは東西交流の拠点として繁栄した。6世紀に入ると、真臘(アンコール)が建てられた。12世紀にはアンコール朝でアンコール=ワットが建造され有名である。

ベトナム北部では、秦漢時代から続く中国王朝のベトナム支配をベトナム人の李太祖が終わらせ、1009年に李朝(大越国)を開く。それ以前の前4世紀頃にはドンソン文化や銅鼓などが知られていた。続く、陳朝では、元の侵攻撃退や字喃(チェノム)の作成などで知られる。その後、黎朝、阮朝が続く。

ベトナム南部ではチャンパーといわれる、林邑が2世紀頃、8世紀頃、環王、10世紀に占城が続く。占城米(チャンパー米)が有名で、中国の宋で盛んに栽培され収穫が増大する。ビルマでは、8世紀にピュー王国が建てられる。

ミャンマーで唯一の世界遺産としてビュー王国時代の遺跡が世界遺産として登録されている。続く11世紀にパガンが建てられる。パガン朝では上座部仏教が反映した。その後、トゥングー、コンバウンといった王朝が続く。

タイでは、7世紀にドヴァーラヴァティ王国が建てられ、上座部仏教が盛んになった。その後、タイ族最古の王朝であるスコータイ朝でも上座部仏教を信仰し、その後、アユタヤ、ラタナコーシンが続いた。

マレー・スマトラでは、7世紀にシュリーヴィンジャ王国が建設された。マラッカ海峡を抑え、唐僧義浄(「南海寄帰内法伝」)が立ち寄ったことでも知られ、大乗仏教が栄えた。その後、マラッカ、アチェといった王朝が続く。

ジャワでは、8世紀にシャイレンドラ朝が建てられ、世界遺産として登録されているボロブドゥールの仏塔を建造したことで知られる。グディリ、シンガサリ、マジャパヒト、マタラムといった王朝が建てられた。マタラム朝はヒンドゥーの国である。

〔29〕中国文明の発生

黄河流域の黄土地帯にアワなどの雑穀中心の農業が始まり、長江では、稲作中心の農業が始まった。黄河文明は、前40世紀~20世紀に黄河中流域に栄えた仰韶(ヤンシャオ、ぎょうじょう)文化として彩陶文化が見られ、赤褐色で幾何学模様の彩陶(彩文土器)が、1921年にスウェーデン人のアンダーソンによって河南省で発見された。使用されていた。次に竜山(ロンシャン、りゅうざん)文化(黒陶文化)が黄河下流域に見られ、黒陶の使用されていた。この文化を夏王朝とする時代として有力視されている。また、灰陶の使用も見られた。長江流域では、前50世紀~前33世紀頃の稲作農業の遺跡として知られる河姆渡(かぼと)遺跡が知られ、日本に稲坂を伝えたと言われている。他には、前33世紀~前22世紀頃の浙江省を中心とした良渚(りょうしょ)遺跡や四川省の成都の北方で発掘された三星堆(さんせいたい)遺跡がある。

その後、黄河流域に都市国家(=「邑」)が形成される。これはメソポタミアの都市ウルやウルク、ギリシアのポリスと同じ種類のものである。このような邑の連合体からなる国家形態を邑制国家と言う。その邑の連合体として殷王朝が成立した。都の跡として、殷墟が河南省安陽市で発掘されている。この遺跡には、亀甲や獣骨に甲骨文字が刻まれていたことで知られる。漢字の原型とされ、20世紀に入る時期に王国維と羅振玉によって解読された。殷王朝では、祭政一致の神権政治(占いにより国事を決定)が行われていたことがうかがわれる。高度な青銅器の製造技術を持っており、当時は商と呼ばれていた。

〔30〕周王朝の時代

周王朝は、前半は、西周と呼ばれ、西周が弱体化して東周と言われるようになる。東周の頃になると、春秋・戦国時代に入る。西周の都は現在西安である鎬京(こうけい)であり、天命思想と易姓革命の考え方が成立し、血縁による封建制度体制を取っていた。王や一族、功臣を諸侯とし、その下に卿、大夫、士の身分を置いた。その結果、宗族(同族集団)が形成され、宗法(一族の掟)でまとまっていた。西方の遊牧民(犬戎)の侵入(前770年)によって、西周は都を洛邑に移し、それ以降は東周と言われることになる。東周の時代は春秋・戦国時代とも呼ばれる。春秋時代(前770~前403年)と呼ばれるのは、魯国の孔子の著作「春秋」に由来しており、有力諸侯の覇者(晋の文公)が現れ、周王室を尊重し尊皇攘夷を唱え、互いに戦い合う戦国時代(前403年~前221年)となる。なお、戦国時代の名称は、前漢末の劉向(りゅうきょう)によって編まれた「戦国策」による。異民族が攻めてくる危険から周王室を諸侯が守るという名目で諸侯同士が争うようになるわけです。春秋五覇と呼ばれる覇者としては、上述した晋の文公の他、斉の桓公などが上げられるが、残りの三者については諸説ある。春秋時代で最も有力であった晋が韓、魏、趙の三カ国に分裂したことから戦国時代は始まる。鉄製農具の普及や牛耕の普及、青銅貨幣の流行などの変化が見られた。周王室を無視して互いに戦う下剋上の時代であり、戦国七雄と呼ばれる韓、魏、趙、秦、楚、斉、燕の七カ国が争った。

〔31〕諸子百家

諸氏百家とは、春秋・戦国時代に登場したいろいろな学問のいろいろな先生」のことを意味し、「子」というのは先生を意味し、孔子は孔先生という意味になり、「家」というのは学問のジャンルを言う。乱世の時代では、家柄ではなく実力が重視され、思想・学問の世界でも重視されるようになった。

儒家は、上下関係に基づく秩序(忠や孝)による理想社会を目指す学問であり、孔子が祖で、「仁」や「礼」の完成を目標とした。この孔子の考えを受け継いだ孟子は、人の本性は善であるという性善説を唱え、仁に基づく徳治主義による王道政治を主張したのに対し、同じ儒家の荀子は性悪説を唱え、礼の重要性を強調した。

道家は、人為的な道徳を否定し、無為自然を説く学問であり、代表的な人物として老子や荘子が挙げられ、後の道教に影響を与えた。墨家は、墨子を祖とし、無差別の愛(兼愛)や非攻(戦争を起こさない)を重視しつつ、戦争のない平和な時代を招来するために、武器を開発し、それを利用して小国を応援し、戦争をしかける大国に対抗した。

法家は、荀子の影響を受け、法律を重視する法治主義を唱えた。戦国時代の秦が法家の思想を取り入れ、秦の孝公は商鞅を採用し、李斯は秦の始皇帝に仕えた。法家の思想家としては韓非子がいる。他に、論理学を唱える公孫竜らに代表される名家や兵法を説く孫子や呉子に代表される兵家や合従策や連衡策などの外交策を論じる縦横家として諸侯をまとめようとした蘇秦(合従策)や秦に仕えた張儀(連衡策)がいた。また、天体の運行と人間との関係を説く陰陽家である鄒衍、農業技術を論じる許行ら農家がいた。

春秋・戦国時代の文学作品として、中国最古の文学作品と言われる「詩経」や魯の国の歴史書である「春秋」、戦国時代の南にあった楚の屈原らの詩が収められている「楚辞」がある。

〔32〕秦の統一

戦国七雄のうち秦の孝公が法家の商鞅を採用し、強大化した。また、貨幣で、円銭を活用し、黄河流域に多く流通させ冨を蓄え、政の代に戦国を統一し、前221年に始皇帝と名乗った。中国に統一王朝が現れたことは西方社会にも広く伝わり、中国を China というのも、秦(シン)に由来し、China、シナ(支那)が、中国を意味することばとなったのは秦に由来する。秦は、都を咸陽に置き、全国を群や県に分ける郡県制を採用し、中央から派遣した役人に統治させる中央集権的な体制であった。国を運営する上では法家を採用し、李斯を丞相とする一方、医薬、占い、農業以外の書物を焼却し、儒家を弾圧し抗殺(生き埋め)にする焚書坑儒を行った。貨幣は半両銭を作り、度量衡(重さや長さの単位)を定め、篆書といった文字の統一を行った。対外政策としては、北の異民族である匈奴を攻撃し、長城を修築し、南方の華南を征服し、南海郡を設置した。しかし、秦の統一は僅か15年しか保たれなかった。急激な統一政策や対外戦争や大土木工事を行ったことで民衆の反感を買い、陳勝・呉広の乱という農民反乱を受け、秦は大きく動揺し、それを経緯に楚の項羽や漢の劉邦が挙兵し、秦は滅亡する。最終的に項羽を打ち破った漢の劉邦が勝利し、漢王朝を打ち立てた。

〔33〕前漢の成立

前漢は、前202年に中国を統一し、都を長安に置き、劉邦を祖とし、高祖ともいわれる。郡国制を施行し、郡県制と封建制を併用した。具体的には、都の周りを直轄し、周辺を諸侯に治めさせた。景帝の頃、呉楚七国の乱が起きたため、平定後、諸侯の勢力を抑圧し、郡県制に移行し、中央集権的な体制となった。前漢の全盛期は、武帝の時代である。外征では匈奴を打倒するため、張騫(ちょうけん)を中央アジアの大月氏国(たいげつしこく)や大苑(フェルガナ)などに二度にわたって派遣し、西域の情報を収集させた。その結果、血汗馬の入手を目的とし、大苑を遠征し、その後匈奴を攻撃し、敦煌郡など4群を設置した。東は、衛氏挑戦を征服し、楽浪郡など4群を設置し、南は南越を征服し南海郡など9群を設置した。内政面では、塩、鉄、酒を国の専売し、貨幣は、五銖銭を鋳造し、均輸法で物価を調整し、平準法で物価の抑制を図った。学問は儒学を官学化し、董仲舒のすすめで五経博士を置いた。

しかし、武帝の死後、宮廷内の宦官や外戚の横暴、地方豪族の進出で前漢は弱体化した。

〔34〕後漢の成立、漢の社会と文化

前漢の外戚の王莽が帝位を奪い、原理的な復古主義を唱える古文派の儒学者である劉歆(りゅうきん)をブレーンとして、周を理想とする極端な復古政治を理想とする新を、後8年に建国したが、23年に赤眉の乱で滅亡した。この混乱の中から漢の劉氏一族の劉秀は25年に光武帝として帝位につき、漢王朝を復興させた。これ以降を後漢といい、都を洛陽とした。光武帝の時代には、倭の王に「漢委奴国王」の金印を授けた。光武帝の死後、後漢の対外関係は積極化し、西域都護である班超の活躍により西域事情が判明し、ローマ帝国の存在などが分かり、班超の部下の甘英が、大秦国(ローマ帝国)に派遣された。それによって、マルクス=アウリウス=アントニヌス(大秦国王安敦)の使者が旧南郡(ベトナム中部)に到達した。

社会面では、大土地を所有し、農民を支配する豪族の登場に対し、哀帝の時代に限田法を出すが、効果が上がらなかった。また、前漢の武帝が、役人を採用する方法を郷挙里選という地方長官の推薦による官吏登用を行ったため、豪族が官僚化していった。

前漢においては儒学が官学化され、董仲舒の提案で五経博士が置かれていたが、後漢においては、訓詁学が発達し、鄭玄(じょうげん)らが古典における字句の解釈をした。歴史書では、前漢では司馬遷の「史記」(太古~武帝)、後漢では班固の「漢書」(前漢)がある。どちらも紀伝体(それぞれの人物の伝記をまとめる)であった。従来は、木簡、竹簡であったが、後漢の蔡倫により紙が発明された。

〔35〕後漢の滅亡、三国、西晋時代

宦官、外戚の横暴が続き、党錮の禁が起き、宦官が官僚を弾圧した。政情が不安定になり、貧農の急増など社会的な不安が広がると、太平道と五斗米道という民間の新興宗教団体の活動を生み出し、とくに太平道は張角によって184年の黄巾の乱の勃発という民衆反乱を起こり、最終的に魏の曹丕によって後漢は滅亡した。後漢が滅亡してから隋が成立するまでの時代を中国の分裂期「魏晋南北朝時代」といい、後漢滅亡後、魏、呉、蜀の三国時代を経て西晋、そして、五胡十六国→北魏→西魏/東魏→北周/北斉、東晋→宋→斉→梁→陳といった国々に置き換わった。

三国時代では、魏は曹操の子、曹丕が建国。都は洛陽であり、屯田制が実施された。また、九品中正が実施され、地方に中正官が置かれ、人材を九等級に分けて推薦させる制度が取られた。その結果、豪族による上級感触の独占が生じ、貴族階級が形成された。このことから、上品に寒門なく、下品に豪族なしといわれた。蜀は劉備が建国、都は成都、呉は孫権が建国し、都は建業(西晋の時代に健康と改名され、東晋の時代に都となる)であった。

西晋は、魏の家臣であった司馬炎が、265年に建国し、中国を再び統一した(都は洛陽)。しかし、290年からの八王の乱で動揺し、異民族匈奴により滅亡(311年永嘉の乱)した。文化としては、乱世に背を向け知識人が哲学などの話にふける清談が流行する。その後、中国は南北に分裂し、南北朝時代といわれるようになる。

〔36〕北魏の国々

五胡十六国時代になると、まず五胡と呼ばれる匈奴、鮮卑、羯、羌、氐が中国へ侵入する。これら五胡や漢民族によって16の国が建てられるが、短命な王朝として終わる。この時代、仏教が普及し、外来僧の仏図澄や鳩摩羅什により布教(鳩摩羅什は仏典の漢訳を行う)される。五胡十六国の中から鮮卑が残り、中国北部を統一し、北魏と呼ばれる。

北魏は、拓跋珪(たくばつけい)が386年に平城を都とし、建国する。3代目の太武帝が、439年に北燕、北涼、夏を併合して華北を統一し、寇謙之(こうけんし)が完成させた民間宗教である道教を保護し、国教とする一方、仏教を弾圧した。471年に即位した6代の孝文帝は、漢化政策をとり、異民族の服装や言葉を禁止した。また、都を洛陽に遷都し、農民に土地を支給し、死後返還させる均田制を取った。仏教を保護し、竜門(洛陽付近)、雲崗(平城付近)、敦煌(西域)に石窟寺院を建てた。

その後、孝文帝の漢化政策に対する北方民族の不満が高まり、523年、胡人の兵士が起こした六鎮の乱の後、西魏、東魏へ分裂した後、西魏は北周、東魏は北斉へと変わる。西魏では、均田農民に兵役の義務を負わせる徴兵制度である府兵制を始め、この制度は、後の随唐にまで継承される。

〔37〕南朝の国々

東晋は、都を健康(現在の南京)とし、西晋の一族司馬睿が、317年に江南に建国。書聖とされる書道の王羲之や女史箴図で知られる絵画の顧愷之(こがいし)、帰去来の辞で著名な詩人の陶淵明などが知られる。また、僧侶の法顕がインドのグプタ朝を訪問した。

宋、斉、梁、陳における都は全て健康である。また、梁の昭明太子が「文選」を編纂した。呉から南朝の文化を江南の貴族文化として六朝文化と言われる。

〔38〕随の統一と唐の成立

北周の外戚であった楊堅(文帝)が、581年に中国を再統一し、都を大興城(長安)に置く。均田制、租庸調制、府兵制を実施した。租庸調制は均田農民に穀物(租)、労働(庸)、絹布(調)させることである。均田制については、北魏では、給田を、男、女、耕牛、奴婢に与えていたが、隋では男女に限られた(ちなみに、唐では男のみに限定された)。また、科挙を実施し、主に儒学を対象にした学科試験による官吏任用制を採用した。2代目の煬帝は、政治中心の華北と経済中心の江南を結合する大運河を建設した。また、高句麗へ遠征を行うが、失敗し、民衆の反感を買い、反乱を防ぎきれず滅亡する。

唐は、李淵(高祖)が建国し、都を長安とした。その子、李世民(太宗)が唐の初期の最盛期の皇帝とされ、貞観の治と言われる。突厥(東突厥)を征服した。高宗は、新羅と同盟をした上で、百済や高句麗を滅ぼした。日本は百済の救援に向かうが白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北した。

〔39〕唐の制度

唐は三省六部に編成され、中書省(詔勅の作成)、門下省(詔勅の審議)、尚書省(詔勅の実行)の三省と、吏部(役人採用)、戸部(財政)、礼部(祭式、教育)、兵部(軍事)、刑部(司法)、工部(土木)の六部に分かれた。地方行政組織は、州県制が取られた。周辺異民族に対しては、六つの都護府(安西、北庭、安北、単于、安東、安南)に監督させる羈縻政策をとり、統治はその民族の長へ任せた。律(刑法)や令(行政)の法典を整備し、科挙制度を採用した。均田制を取り、男子に口分田(死後返納)や永業田(返納なし)を与え、租庸調制や府兵制を実施した。

唐の都、長安は東西対象の計画都市として整備され、国際都市として外国使節や商人の来朝が盛んであった。また、渤海は長安に似た上京竜泉府を建て、日本の平城京に影響を与えた。揚州や広州(海港都市)も繁栄し、市船司(貿易管理役所)を設置し、ムスリム商人が来航した。

〔40〕唐の周辺諸国

唐は世界の中心と考え、周辺の国と冊封関係や朝貢関係を持った。モンゴル高原のトルコ系の突厥では、北方遊牧民最初の文字である突厥文字が使用された。内紛により分裂し、唐の太宗により滅亡した。同じくトルコ系のウイグルは、マニ教を信仰し、中国を圧迫するが、安史の乱で唐を援助したが、キルギスに敗れ滅亡した。中国東北地方が、高句麗が滅亡した後は、ツングース系靺鞨族(まっかつぞく)の大祚栄が渤海国を建国した。都は上京竜泉府。朝鮮半島では、新羅(都:慶州)が朝鮮半島の国としてはいち早く唐と同盟して、百済を滅ぼし、半島を統一した。また、白村江の戦いで日本に勝ち、高句麗を滅ぼした。骨品制(氏族制度)をとり、仏教を保護して仏国寺を建てた。雲南では、チベット=ビルマ系王朝の南詔が成立し、チベットでは、ソンツェン=ガンポが吐蕃を建国し、チベット仏教(ラマ教)が成立し、チベット文字が生まれた。

〔41〕唐の動揺、滅亡

則天武后(高宗の皇后)と韋后(中宗の皇后)の専横し、中宗を毒殺しようと試みるが失敗するものの、中宗から皇帝の位を取り上げ、690年に中国唯一の女帝として、則天武后が即位した。これを武韋の禍という。国号を周と改称し、科挙官僚を積極任用した。則天武后の死後、韋后が専横するも、玄宗が父睿宗を復位させ、復興した。玄宗は唐中盤の盛期、開元の治を築くが、楊貴妃を寵愛する余り政治が乱れた。均田制が崩壊し、私有地である荘園制が発達、また府兵制が崩壊し、募兵制を実施し、節度使に率いさせた。しかし、力を持った節度使の安禄山と部下の史思明が安史の乱が起きる。これは、異民族ウイグルの援助により鎮圧されるが、安史の乱後、節度使はいよいよ地方の豪族として藩鎮といわれるまで強力化し、地方政権化する。また、貴族階級が没落し、佃戸制(小作制)に基づく新興地主が成長した。そのため、徳宗の代に租庸調制が崩壊し、宰相楊炎の提案により両税法に税収制度が切り替わった。こうして唐の後期は、均田制、租庸調制、府兵制が行われなくなり、荘園制、両税法、募兵制へと移り変わった。その後、875年に塩密売人の王仙芝、黄巣らによる黄巣の乱により、長安は灰燼と帰し、その後、黄巣を鎮圧した朱温が、朱全忠と名乗り、907年に唐を滅ぼした。

〔42〕唐の文化

唐の文化の特色は、貴族的であり、国際的であった。その例として、外来宗教として、祆教(けんきょう、ゾロアスター教)やマニ教、回教(イスラム教)、景教(ネストリウス派キリスト教)が流入し、大秦景教流行中国碑などが建立された。また、仏教では、唐から仏教を学ぶために玄奘が陸路でヴァルダナ朝のインドに渡った(「大唐西域記」)。さらに、義浄が海路で分裂時代のインドへ渡り、帰路で東南アジアを渡った(「南海寄帰内法伝」)。また、浄土教や禅宗が流行し、国家の仏教から個人の仏教へ変移していった。儒教では、古典を解釈する訓詁学が流行し、孔穎達(くようだつ)が「五経正義」を書き、その後の科挙のテキストとなった。明の永楽帝の「四書大全」「五経大全」、清の乾隆帝の「四庫全書」などに先立つものであった。文学では、唐詩として、王維や李白(詩仙)、杜甫(詩聖)、白居易といった詩人が活躍し、韓愈や柳宗元などの文章家や山水画の呉道玄や書の顔真卿、華やかな色彩で知られる唐三彩といわれる焼き物が生まれた。

〔43〕五代十国

節度使の朱全忠が907年に唐(哀帝から禅譲を受ける)を滅ぼし、後梁を建国した後、五代十国の興亡が起こる。節度使たちは軍閥化し藩鎮として台頭し、武人政権による武断政治が横行した。また、貴族階級は没落し、佃戸制に基づく大土地所有者の新興地主たちが台頭した。朱全忠が後梁を建国し、後唐や建国を契丹族の国、遼に助力して貰った礼に万里の長城を含む燕雲十六州を譲った後晋、後漢、後周などが現れた。

〔44〕北宋と遼

北宋の北方では、契丹族の国、遼が耶律阿保機により916年に建国された。上述したとおり、後晋より燕雲十六州を譲り受けており、領有していた。また、北宋とは1004年に澶淵の盟(せんえんのめい)を結び、講和した。州県制と部族制の二重統治体制であった。女真族の金の攻撃を受け滅亡した。一方、北宋の北西には、タングート族の西夏を李元昊が1038年に建国した。西夏文字が用いられていた。

北宋は、都を大運河と黄河の交点にある開封とし、趙匡胤が960年に建国した。北宋は、節度使を無力化し、禁軍(皇帝の親衛隊)を強化した。文治主義を取り、軍事よりも、政治や学問を重視し、科挙の最終試験の殿試(皇帝の面接)を加えた。節度使を無力化したため地方軍が弱いため、澶淵の盟により、遼に多額の銀と絹を渡し、和平を結ぶなど、平和を重視した。神宗の時代、財政難に苦しんだ北宋は王安石の改革(新法)により、青苗法、均輸法、市易法、募役法などの富国策や保甲法や保馬法などの強兵策が取られるが、司馬光ら保守派官僚(旧法派)と対立した。徽宗、欽宗の代に弱体化し、1127年の靖康の変により女真族の金により滅亡した。

〔45〕南宋と金

女真族の完顔阿骨打(わんやんあくだ)が、1115年に金を建国し、遼を滅ぼした後、契丹族の生き残りたちと耶律大石が、西遼(カラ=キタイ)を建国した。金は中国に進出し、北宋を滅亡させた(1127年靖康の変)。猛安(もうあん)、謀克制(ぼうこくせい)と州県制を併用し、女真文字を使用した。

1127年の靖康の変で金が北宋の都開封を占領し、華北一帯を制圧したため、北宋は滅亡したが、宋の一族である高宗が江南に逃れ、江南に臨安を都(現在の杭州)として、南宋を建国した。南宋では、和平派の秦檜(しんかい)と主戦派の岳飛が内部対立するものの、和平派が勝利し、金と和議を結んだ。金に対しては、淮河を国境とし、臣下の礼を尽くし、毎年多額の銀や絹を献上した。

〔46〕宋の社会、経済

宋の時代では、夜間営業を許可するなど商業統制を撤廃し、都、開封や臨安が繁栄し、商業都市が発達した。また、地方の小規模な定期市である草市が鎮や市として小商業都市として発達した。海外貿易が発展し、広州や泉州、明州などに市舶司をおき、海外貿易を管理させた。同業組合が発生し、相互扶助と独占的営業権を商人の組合である行や手工業者の組合である作が生まれた。その結果、貨幣経済が発展し、銅銭が一般に流通し、紙幣や手形が用いられるようになった。北宋で使用された交子や南宋で使用された会子が知られる。手工業としては、絹織物や景徳鎮の特産物である陶磁器が有名である。科挙出身の文人官僚の士大夫階層が、新興地主として形勢戸による荘園の経営(佃戸に耕作させる)を始めた。長江下流域の江浙地方が稲作地帯として開発され、江浙熟すれば天下足る、といわれるようになった。ベトナムから占城稲(チャンパー米)が入り、稲の品種改良が行われた。また、茶の品種改良も行われた。

〔47〕宋の文化

科挙の整備や都市が繁栄することを背景に、士大夫(官僚、読書人、地主)中心の文化が築かれた。庶民文化も発展。儒学は、それまでの訓詁学から発達史、哲学的な宋学(朱子学)が成立した。宋学の創始者は、周敦頤(北宋)で、宋学の大成者は朱熹(南宋)であり、五経よりも四書を重んじ、大義名分論を論じた。一方、陸九淵による主観的唯心論が登場した(後に陽明学となる)。歴史書では、司馬光が編年体の中国通史の「資治通鑑」を著した。文学では、欧陽脩や蘇我ら唐宋八大家が登場した。詩では、詞(はうた、宋詞)が庶民に流行した。美術では、徽宗皇帝や宮中画家が、院体画(北宋画)を描き、文人画(南宋画)が流行した。工芸では、青磁、白磁などの工芸品が隣接諸国へ影響を与え、高句麗白磁などが生まれた。宗教では、金の王重陽が、儒教、仏教、道教を融合させた全真教を創始した。宋代には、木版印刷や羅針盤、火薬が発明された。

 〔48〕遊牧民の活動

 内陸アジアの遊牧民たちは、草原地帯で、羊、馬、牛などを飼育し、定期的に移動していた。騎馬技術により、圧倒的な軍事力を持ち、農耕地帯(中国)への侵入を繰り返した。遊牧国家には、最初の遊牧国家といわれる南ロシア草原地帯のスキタイがあり、そのスキタイの影響で匈奴、月氏、烏孫などの国家が形成された。秦や前漢を圧迫した匈奴では、単于といわれた王たちのもと、遊牧国家が形成された。最盛期の王、冒頓単于は漢の高祖を破った。しかし、武帝の反撃後は衰退した。鮮卑は、後漢を圧迫し、その後、五胡の北魏を建国。北魏を圧迫したのがモンゴル系の柔然である。トルコ系の突厥は、隋や唐を圧迫したが、東西に分裂した。唐代の後期にはトルコ系のウイグルが安史の乱において唐を援助している。北宋を圧迫した契丹族は耶律阿保機(やりつあぼき)により遼を建国した。女真族は、完顔阿骨打(わんやんあくだ)により金を建国し南宋を圧迫した。モンゴルは、チンギス=ハンがモンゴル高原を統一し、フビライ=ハンが元を建国した。明代には、オイラトのエセン=ハンが明の正統帝を捕らえる土木の変があった。また、タタールは、アルタン=ハンが明代の北京を包囲した。女真族は、ヌルハチが後金を建国し、後に清となった。清の時代には、ジュンガルが清の乾隆帝に平定された。

〔49〕モンゴル帝国の形成

テムジンがモンゴル高原を統一した後、クリルタイ(部族集会)でハンの位につき、チンギス=ハンとなる。千戸制を始め行政組織を整えた。その後、チンギス=ハンは、ホラズム、ナイマン、西夏を征服した。2代目オゴタイ=ハンは金を征服し、都をカラコルムに定めた。バトゥは征西し、キエフ公国を攻略し、1241年にワールシュタットの戦いでは、ドイツ・ポーランド連合軍を破るが、オゴタイ=ハンがなくなり、征西が止まった。その後、4代目のモラケ=ハンはフラグを征西し、アッバース朝を滅ぼした。

〔50〕元とハン国の成立

モンゴル帝国では、相続争いが発生し、ハイドゥの乱が起きるが、5代目フビライ=ハンは、1271年に元を建国し、1276年に南宋を滅ぼし、中国全土を統一した。都を大都(北京)に遷都した。高麗を属国化し、南宋を滅ぼした。南のビルマのパガン朝(ミャンマー)は滅ぼしたが、日本(蒙古襲来、元寇)や陳朝(ベトナム)、ジャワの攻略は失敗した。モンゴル帝国は、フビライの元、チャガタイが始めた中央アジアに創始したチャガタイ=ハン国、バトゥが南ロシアにキプチャク=ハン国(金張汗国)、フラグが、西アジアにイル=ハン国を打ち立て、緩やかに連合をした。その結果、交通路が整備されて、ジャムチといわれる駅伝制が施行され、海上交易では、杭州や泉州、広州の港が整備されるなど東西文化が交流した。使節・旅行家が往来し、ローマ教皇の使節プラノ=カルピニやフランス王のルイ9世の使節ルブルックがモンゴル帝国のカラコルムへ訪れた。また、ローマ教皇の使節モンテ=コルヴィノが元の大都へ訪れ、カトリックを布教した。その他、マルコ=ポーロはフビライに仕え、「世界の記述」を著し、イスラムの旅行家、イブン=バットゥータは「三大陸周遊記」を著した。

〔51〕元の社会と文化、元の衰退

政治制度としては、中国の伝統的な官僚制を採用。政策決定はモンゴル人を中心としながら、実力主義を取った。モンゴル人には中央の要職を占め、色目人(中央アジア、アジア出身の人々)は公益に明るく、財務官僚として重用され、金の支配下にあった人々で、契丹人や女真族を漢人(非服属民)とし、南人は南宋の支配下にあった人で最下層とされた。科挙の回数は減少し、士大夫階級が没落した。

元の文化では、庶民文化が隆盛し、戯曲(元曲)、「西廂記」(せいそうき)「琵琶記」が著された。チベット仏教が保護され、パスパによるパスパ文字が作られた。郭守敬(かくしゅけい)が授時暦(じゅじれき)を作成したが、これが、日本に伝わり、江戸時代の貞享暦となった。元時代には、交鈔(紙幣)が乱発され、経済が混乱し、物価の高騰を招き、民衆の生活が圧迫した。ペストなどの疫病や飢饉が発生し、社会が乱れると、白蓮教徒を中心とした紅巾の乱が1351年に発生し、明に大都を奪われ、元はモンゴル高原へ退いた(北元)。各ハン国も内紛により衰退した。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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