共通テストで満点をとるための世界史講義 世界史講義⑪ 第一次世界大戦
〔152〕第一次世界大戦
セルビア人がオーストリア皇太子を射殺したサライェヴォ事件が起きた結果、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、それに対し、ロシアはセルビアを支援した。すると、瞬く間に各国が参戦し、同盟国(ドイツ側)では、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア、協商国では、イギリス、ロシア、フランス、日本、イタリアが参戦した。機関銃が登場したことで、塹壕戦となった。西部戦線では、マルヌの戦い、ヴェルダンの戦い、ソンムの戦いが起き、東部戦線では、タンネンベルクの戦いでドイツが圧勝する。しかし、海戦となるとイギリスが制海権を握っており、ドイツを海上封鎖した。次第にドイツの物資が不足しだし、国家の総力を尽くした総力戦となる。新兵器としては、航空機、毒ガス、戦車、潜水艦が生まれた。ドイツは物資不足から、無制限潜水艦作戦が行った。これによって、アメリカの船が攻撃され、アメリカも参戦することとなった。ドイツは次第に劣勢になる一方、ロシアはブレスト=リトフスク条約で戦争から降り、ドイツでもキール軍港で水兵が暴動を起こし、全国で暴動が広がり(ドイツ革命)、ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命し、ドイツは敗戦した。
(153)ロシア革命
ロシア革命では、世界ではじめての社会主義による国家(ソヴィエト連邦)が成立した。2回の革命によってロマノフ朝が倒れ、第一次世界大戦を降りたことになった。社会主義では、生産手段を国有化し、給与を分配しようとする考え方である。第一次世界大戦が長期化し、国民生活が窮乏し、首都ペトログラード(ペテルブルク)でデモやストライキが全国化していった。労働者兵士のソヴィエト(評議会)が組織され、皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝が滅亡し、政権は臨時政府に引き継がれる三月革命(ロシア暦二月革命)が起きた。
臨時政府(資本家中心)は戦争を維持する方針をとった。しかし、兵士、農民、労働者による各ソヴィエトが自治を始め、国家単位のソヴィエトが成立しつつあり、二重権力状態が生じた。亡命先のスイスから帰国したレーニンが、四月テーゼを発表し、「すべての権力をソヴィエトへ」「戦争の即時停止」を訴えた。新首相ケレンスキーが戦争継続を主張するが、ボルシェヴィキ中心のレーニン、トロツキーが蜂起し、臨時政府を倒し、権力を握った。これを十一月革命(ロシア暦十月革命)という。こうしてソヴィエト政権が樹立し、全ロシア・ソヴィエト会議が開催された。会議では、平和に関する布告として即時講和(ブレスト=リトフスク条約)でドイツと単独講和で戦争から降りた。また、地主の土地を無償で没収する土地に関する布告を行った。
〔154〕ソヴィエト政権
ソヴィエト政権の政策としては、ブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和し、ボリシェヴィキを共産党と改称し、一党独裁を始めた。首都をペテログラードからモスクワに移し、コミテルン(第3インターナショナル)を創設し、世界中で革命を起こし、社会主義国家を増やそうとする組織(世界革命論)を整備した。これに対し、周囲の国によるロシア革命潰しとして、対ソ干渉戦争が行った。ソヴィエト政権は対抗策として、赤軍を組織し、チェカ(非常委員会)を組織し、反革命派を逮捕した。ソヴィエトは戦時共産主義をとり、農作物を強制的に徴収し、物資は配給制にした。この結果、生産が混乱、低下し、多数の餓死者が出た。そこで、ソヴィエト政権は、新経済政策(NEP)を行い、戦時共産主義を解除し、市場経済の一部復活を認めた(農作物の自由販売、企業の私的営業を認めた)。その結果、富農、資本家階級が復活した。このタイミングで、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し、ロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシの四つのソヴィエト共和国が連合した。
〔155〕ヴェルサイユ体制と国際連盟の成立
第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議がヴェルサイユ宮殿(鏡の間)で行われた。そのため、ヴェルサイユ体制(第一次大戦後の国際秩序)という。出席者はアメリカはウォルソン、イギリスは、ロイド=ジョージ、フランスはクレマンソー-などであった。ウィルソン大統領の14ヵ条が会議の基本原則となった。秘密外交の廃止、軍備縮小、ヨーロッパ諸国民の民族自決(その民族が自らの国を持つように)、国際平和機関の設立が含まれた。ヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)では、ドイツの全植民地の放棄、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、ラインラントの非武装、巨額の賠償金(1320億金マルク)、巨額の賠償金は減額されるものの、2010年10月4日まで返済に時間がかかった。他の敗戦国との講和では、サン=ジェルマン条約(対オーストリア)、トリアノン条約(対ハンガリー)、ヌイイ条約(対ブルガリア)、セーヴル条約(対オスマン帝国)などが締結され、敗戦国は領土が縮小された。オーストリア・ロシア領だった国々が民族自決の原則により新興国家が独立した。フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアなどが成立した。
世界の恒久平和を目的とする国際連盟が本部をスイスのジェネーヴとして成立した。組織は、総会、理事会、国際労働機関、国際司法裁判所などが設置された。国際連盟は、アメリカが不参加(上院の反対により不参加)、ドイツやソ連の除外などの矛盾があった。また、全会一致主義を取っていたため、一致することが極めて困難であった。さらに、武力は持たなかった。
〔156〕国際協調の進展
米大統領ハーディングの提案で、ワシントン会議が開催された。会議では、海軍軍縮条約(主力艦の保有比率を英5、米5、日3、仏、1.67、伊1.67)とされた。四カ国条約では、太平洋地域は現状維持とされ、日米英仏が締結し、日英同盟が解消された。九カ国条約(イギリス、イタリア、ポルトガル、中国、アメリカ、ベルギー、フランス、日本、オランダ)では、中国の主権尊重、現状維持が約束された。ワシントン体制では、アジア太平洋の秩序維持が目的とされていた。国際協調の進展としては、ロカルノ条約で、ドイツと西欧諸国の現状維持、相互保障とラインラントの現状維持が約束された。その翌年、ドイツが国際連盟に加入した。また、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相のブリアンにより、不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が提唱され、国際紛争解決の手段として戦争を否定した。ロンドン会議では、補助艦の保有比率を英10、米10、日7に軍縮された。
〔157〕西欧諸国の停滞
第一次世界大戦後、イギリスはアメリカに莫大な借金を抱え。経済的に困難な時代となった。その間、第4回選挙法改正で、男21歳、女30歳からの選挙権が与えられ、女性に参政権を与え、第5回選挙法改正で、21歳異様のすべての男女に選挙権を与えた。また、マクドナルド首相が初の労働党内閣を組閣。アイルランド問題では、アイルランド自治法延期に抗議し、シン=フェイン党の反乱(イースターの蜂起)が起き、アイルランド自由国が成立した(この段階では、イギリスの自治領)。しかし、その後エールと改称し、事実上の独立を果たした。
フランスはドイツの賠償金の不払いを理由に、ベルギーと共にルール占領を実行した。しかし、フランスの外相ブリアンはロカルノ条約を締結し、沈静化した。
ドイツでは、戦後の混乱に乗じ、ローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトらの指導で、社会主義革命を図るスパルタクス団の活動が起きるが失敗した。1919年にヴァイマル憲法(ワイマール憲法)が制定された(初代大統領はエーベルト)。しかし、フランス、ベルギーのルール占領により、猛烈なインフレーション(物価が1.2兆倍)が発生した。それに対し、シュトレーゼマン内閣が英リツし、新紙幣レンテンマルクを発行し、インフレーションを克服した。また、アメリカ合衆国は、ドイツに対し、ドーズ案(アメリカ資本による経済復興)とヤング案(賠償額の減額1/4)を提示した。
〔158〕アメリカの繁栄と世界恐慌
大戦中、連合国に物資、戦債を提供し、債務国から債権国へ展望した。また、民主主義が進展し(女性参政権)、共和党政権下(ハーティング、クーリッジ、フーヴァー)で繁栄していく。文化面では、フォードT型、大衆娯楽(コカコーラやジャズ)などが生まれた。保守的傾向としては、禁酒法・移民法(日本を含むアジア系移民の禁止)が成立した。
しかし、1929年10月24日に「暗黒の木曜日」が起き、世界恐慌が訪れる。工業製品の生産過剰、農業不況などから、ウォール街で株価が暴落し、空前の恐慌となった。フーヴァー大統領は、フーヴァー=モラトリアムで、資本主義の自然回復力を主張し、戦債支払いの一時停止を決めたが、効果がなかった。そこで、フランクリン=ローズヴェルト大統領(民主党)による「新規まき直し」政策としてニューディール政策が行われ、農業の生産統制を行う農業調整法(AAA)や産業の生産統制を行う全国産業振興法(NIRA)を施行し、作りすぎを抑えた。また、労働者の団結権と団体交渉権を認めるワグナー法を発布した。之に基づき、産業別組織会議(CIO)が成立し、労働組合が出来た。更に、公共投資による地域開発を行うため、テネシー川流域開発公社(TVA)を設立させた。対外政策としては、善隣外交(ソ連の承認、キューバのプラット条項外し)を行った。
〔159〕ブロック経済と社会主義
世界恐慌への対応で、植民地を保有した国や社会主義国など「持てる国」と植民地が少なく対応出来なかった国である「持たざる国」へと別れた。イギリスでは、第二字幕ドナルド内閣(労働党)が失業保険削減などを行ったが、党首を降ろされた。その後、マクドナルド挙国一致内閣が生まれ、自治領の地位向上、イギリス連邦を成立させるウェストミンスター憲章、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)の形成をオタワ連邦会議で決定した。こうした一連の動きを、ブロック経済(自国と植民地で自給自足を図り、海外の経済的影響を避ける)という。フランスもフラン=ブロックを形成し、仏ソ相互援助条約を締結。また、反ファシズムの人民戦線内閣である社会主義よりのブルム内閣が組閣された。
ソ連では、スターリン体制が確立し、反対派の粛清、個人崇拝の強化が行われた。ソ連では、五カ年計画による計画経済を実施しており、世界恐慌の影響を受けなかった。スターリン憲法を制定し、人民戦線戦術で拡大するファシズムに対抗した。
第一次世界大戦後、後発資本主義国であるイタリアやドイツでは恐慌の対応策がない「持たざる国」であったため、国家、民族の全体に国民が従属する全体主義や露骨な侵略を行うための軍備拡張や独裁政治、軍国主義が隆盛した。
イタリアでは恐慌前からファシズムが進展しており、領土拡大の実現がならず、ヴェルサイユ体制への不満が高まっていた。政党ではファシスト党が党首ムッソリーニの下、社会の広い層から支持され、ローマ進軍を行い、首相となり、政権を握った。ファウメ併合を行い、アルバニアを保護国化した。また、ラテラノ条約で、ヴァチカン市国の独立を承認し、ローマ教皇と和解した。
ドイツでは恐慌の影響が直撃した。それに対し、ナチ党が成立し、ドイツ民族の優秀性を強調し、ヴェルサイユ条約の破棄を主張した。ヒトラーはミュンヘン一揆でクーデタによる権力奪取を図るものの失敗し、投獄される。獄中で「我が闘争」の著作を開始し、合法的に権力を得ることに成功した。共産党を弾圧し(国会議事堂放火事件)や全権委任法(立法権を政府に集中)を成立させ、一党独裁を実現し、ナチ党以外の政党、労働組合の解散を命じた。こうして、ヒトラーは総統に就任した。軍事行動を開始し、ザール地方併合、再軍備宣言、ラインラント侵入を行い、ロカルノ条約を破棄した。
〔161〕枢軸の形成・スペイン内戦
恐慌後、イタリアはエチオピアへ侵攻し、併合した。スペイン内戦でスペインが国内で革命、王政が廃止されると、人民戦線内閣が成立(社会主義より反ファシズム)した。それに対し、旧王党派や地主層から支持されたフランコ将軍が反乱を起こした。イギリスやフランスは不干渉であったが、ドイツやイタリアはフランコを援助した。それに対し、ソ連や義勇軍(ヘミングウェイやオーウェルなどの作家たち)は人民戦線内閣を援助した。だが、フランコが勝利し、ドイツとイタリアが接近した。
ベルリン=ローマ枢軸が形成された後、日独防共協定の締結され、その後、三国防共協定に拡大し、日独伊の三国同盟が成立して、三国枢軸が形成された。
(続き)
世界史講義⑫ ナチス、朝鮮王朝
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |