〔52〕明の成立

白蓮教による紅巾の乱を経て、自立した朱元璋(洪武帝)が江南を統一し、1368年に明を建国。都を金陵(現在の南京)とし、元をモンゴル高原に交代させた。洪武帝からは一世一元の制が樹立し、皇帝独裁体制が確立し、中書省を廃止し、六部を皇帝直属とした。また、科挙制度を復活させ、中国古来の伝統を復興させた。明律、明令を制定し、法典の整備をし、衛所制をとり、海禁政策を取り、民間貿易を禁止し、朝貢貿易を推進した。110戸を1里、10戸を1甲とし、里長、甲首を置く、里甲制を採用し、徴税・治安の責任を負わせた。租税台帳として戸籍に当たる賦役黄冊(ふえきこうさつ)を作り、土地台帳に当たる魚鱗図冊を作成した。六諭(りくゆ)と呼ばれる六箇条の儒教道徳(儒教、朱子学)で民衆の教化を図った。

〔53〕明の最盛期と衰退

2代目建文帝は、1399年~1402年の靖難の役で永楽帝に帝位を奪われた。永楽帝は都を北京へ移し、内閣大学士を設置し、皇帝独裁の補佐をさせ、明の最盛期を築いた。また、永楽帝は、朝貢貿易(勘合貿易)を促すため、イスラム教徒の宦官である鄭和に南海遠征をさせ、東南アジア、インド洋、アフリカ沿岸まで大航海を行わせた。この大航海は船62隻に2万8千人が投入された。このときに冊封を受けた国には、日本や朝鮮、琉球、南海諸国が含まれる。永楽帝の死後、北虜(北方の遊牧民族)、南倭(沿岸部の海賊で倭寇)に苦しめられ、明は衰退する。正統帝は土木の変においてオイラトのエセン=ハンに捕らえられ、その後、タタールのアルタン=ハンによって北京が包囲された。万暦帝の頃、張居正による改革が行われ、税の納め方を銀納に統一した一条鞭法(いちじょうべんぼう)が施行される。豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われた際には、明は挑戦に援軍を送るが、それが財政を圧迫した。万暦帝が朝廷に顔を出さなくなり、東林派(官僚中心)と非東林派(宦官派)が争い、その後、李自成の乱により、明は滅亡する。

〔54〕明の社会

家内制手工業が発達し、綿織物や生糸、陶磁器などが長江下流域で盛んになった。長江下流域が手工業中心になり、稲作の中心は長江中流域の湖広地方に移り変わっていった(湖広熟すれば天下足る)。特権商人とされた山西商人や新安商人が活躍し、同業者の相互補助、連絡機関である会館や公所が設立された。都市部に商人や郷紳など富裕階級が集中し、農村では佃戸(小作人)が困窮し、抗祖運動が起きた。メキシコ(墨)や日本銀が流入した結果、一条鞭法が実施され、土地税と丁税(人頭税)を一括して銀納とされた。

〔55〕明の文化

永楽帝による編纂事業により、中国最大の百科事典である「永楽大典」が作られたり、「四書大全」、「五経大全」「性理大全」など朱子学による思想書がまとめられた。朱子学が官学化されたため、思想が固定する一方、王陽明が、心即理、知行合一を説く実践的な陽明学を大成した。思想はこのように限定的であったが、実学は隆盛し、薬物に関する総合書を李時珍が「本草綱目」、農業技術に関する「農政全書」や暦法を研究した「崇禎暦書」を著した徐光啓が登場した。また、産業技術を伝える宋応星による「天工開物」が著された。庶民文学では、小説「三国志演義」や「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」が生まれ、絵画では、董其昌が南宋画、仇英が院体画の流れを受け継ぐ北宋画で活躍した。工芸では、景徳鎮で赤絵が始まった。この時代にイエズス会宣教師のマテオ=リッチが渡来し、中国初の世界地図である「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」を作成し、徐光啓と「幾何原本」を作成している。

〔56〕清の成立

ヌルハチが、女真族(満州人)を1616年に統一し、国号を金とし建国した(後金と呼ばれる)。八種類の色で軍隊や行政を分ける八旗を編成し、満州文字を制作した。2代目ホンタイジは、国号を清と改称し、漢人八旗や蒙古八旗を形成した。順治帝の時に、李自成の乱により明が滅亡した後、山海関の呉三桂の先導により万里の長城を通り、中国内へ侵入し、李自成を討伐し、北京を占領した。呉三桂ら3人の漢人武将を雲南、広東、福建の藩王に任じ、三藩を与えた。ヌルハチ、ホンタイジ、順治帝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝らは清の六名君と呼ばれるが、その中でも最も名君とされた康熙帝が登場。呉三桂らが1673年に三藩の乱を起こすが、康熙帝が鎮圧。また、台湾の鄭成功らの反清運動も鎮圧し、台湾を直轄領にした。ロシアのピョートル1世と外興安嶺を国境に画定するネルチンスク条約を1689年に結んだ。地丁銀制を開始し、税のかけ方を土地へ一本化した。ちなみに、康熙帝から雍正帝、乾隆帝の時代を清の黄金期と呼ぶ。

〔57〕清の最盛期

雍正帝(在位1722~1735年)は、朝四時から夜十二時までの激務をこなすため、軍機処を設置し、皇帝独裁の補佐をさせた。ロシアとモンゴル、シベリアの国境を画定するため、1727年にキャフタ条約を締結した。孔子を礼拝しても良いかどうかについてイエズス会内部で起きた争い、典礼問題により、キリスト教の布教を禁じた。乾隆帝は、ジュンガルを平定し、新疆と命名した。理藩院を整備し、新疆やチベットなどの藩部といった周辺部を統治する役所を整備した。理藩院の下、チベットや新疆などは、清の領土ではあるものの大幅な自治を与えられた。対ヨーロッパ貿易を広州一港に限定し、公行(こうこう、特権商人)に貿易を独占させる貿易制限令を発令した。そのため、イギリス使節マカートニーが渡来し、通商を要求したが、失敗した。また、1796年に白蓮教徒の乱が起き、次第に社会が不安定化していく。

〔58〕清の社会、経済

雍正帝が設置した軍機処が、政治の最高機関へ変貌していく。兵制では、八旗(満州八旗、蒙古八旗、漢軍八族(黄、白、赤、青を縁取りがあるものとないもので八つに分けた)など旗人に旗地を支給し、さらに漢人で組織する常備軍である緑営を組織した。対漢人政策として、懐柔策と抑圧策を併用し、満漢併用制(役人は女真族と漢民族を同数とする)を採用した。科挙を実施し、編纂事業を行い漢民族の伝統を重視した。一方では、文字の獄、禁書を行い、女真族の風習である辮髪を強制した。税制では、地丁銀制を実施し、丁税(人頭税)を廃止し、土地税の中に繰り入れ、銀で納入させた。海禁政策を緩和し、輸出が盛んになり、銀が流入していたため、公行に貿易を独占させ、貿易を制限したが、その結果、茶を買いたいイギリスの東インド会社と摩擦を起こすこととなった。また、福建や広東などの商人が清を出て東南アジアで貿易を行うなど南洋華僑が増大した。

〔59〕清の文化

康熙帝による「康熙字典」(漢字字典)、雍正帝による「古今図書集成(百科事典)」、乾隆帝では「四庫全書(3万6千冊の重要書籍の集成)」が編集された。唐の孔穎達の「五経正義」、明の永楽帝時代の「四書大全」「五経大全」と区別する必要がある。儒学では、宋や明では朱子学など実践的な哲学が重視されたのに対し、後漢や唐の訓詁学が発展し、黄宗羲や顧炎武、銭大昕(せんたいきん)らによって、考証学が発達し、古典の言語学的研究が進んだ。清末期には、によって、社会変革に結びつく実践を重視した公羊学が起こった。庶民文学では、「紅楼夢」や「儒林外史」などの小説が生まれ、イエズス会の宣教師活動の結果、アダム=シャールやフェルビーストらが大砲の鋳造技術を伝え、ブーヴェが、中国の地図である「皇輿全覧図(こうよぜんらんず)」が作られた。明のマテオ=リッチの坤輿万国全図は世界地図であるので区別が必要。カスティリオーネによって、西洋画法の紹介がされ、中国初のバロック庭園である円明園が設計された。典礼問題とは、キリスト教宣教師の論争で、孔子や祖先に対する祭祀を認めるか否かで、イエズス会は認めるが、その他のカトリックが認めず対立が深まり、康熙帝によりイエズス会以外の布教を禁止したが、続く雍正帝は、キリスト教布教全般を全面禁止した。

〔60〕中国王朝と日本

前漢は、「漢書」の中で倭を紹介し、後漢では光武帝が倭の奴国王に「漢委奴国王」の金印を授けた。三国時代では、魏が邪馬台国と通行し、卑弥呼が「親魏倭王」の称号を得た。その後、ヤマト政権による統一が「倭の五王」として東晋、南朝に朝貢された。隋や唐時代は飛鳥や奈良、平安時代に該当し、遣隋使、遣唐使が派遣された。唐代には新羅と唐の連合軍と百済を救援しようとしたが、白村江の戦いで敗北している。安史の乱の後、唐末期には、菅原道真により遣唐使が中止され、国風文化が流行するが、宋代には鎌倉時代になり、元代には、日本遠征(元寇)が行われ、文永、弘安の役と呼ばれている。明代は、室町時代に対応し、倭寇の活動が活発化される一方、日明貿易(勘合貿易)を行い、足利義満が日本国王に任じられている。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄、慶長の役)は、壬辰、丁酉の倭乱と呼ばれている。江戸時代、徳川家康は朱印船貿易を促進し、東南アジアへ進出した。清の時代は、マカオ(ポルトガル)、台湾(オランダ)を通じて、日中貿易がされていたが、鎖国政策により、交易はなくなった。この時代、琉球は日中両国に両属していた。

〔61〕イスラームの誕生

イスラーム教は、アッラーへの絶対服従を説き、厳格な一神教であり、多神教や偶像崇拝を厳禁とした。同じ一神教のユダヤ教やキリスト教は否定せず、同じ啓典の民として認めている。最後にして最大の預言者はムハンマド。教典は「コーラン」でムハンマドが受けた神の啓示をアラビア語で記述した。神の前に信者は平等であり、イスラーム教徒をムスリムという。7世紀前半ササン朝とビザンツ帝国の抗争を受け、従来の交易路が衰退し、迂回路のアラビア半島西部が発展し、メッカやメディナなどの都市が発達し、貧富の差が拡大し、社会が不安定になった頃、メッカのクライシュ族の商人ムハンマドがアッラーの啓示を受けた預言者として伝道活動を開始した。メッカの大商人らによるムハンマド迫害を受け。メッカからメディナへ本拠地を移し(ヒジュラ、聖遷)、622年からイスラーム暦の元年が始まる。メディナでイスラームの共同体(ウンマ)を作り、実力を蓄え、メッカを占領し、異教の神殿であったカーバ神殿の異教の像を破壊し、聖殿とした。その後、勢力は拡大し、アラビア半島を統一し、統一後ムハンマドが死亡する。

〔62〕正統カリフ時代、ウマイヤ朝

ムハンマドの後継者である宗教指導者をカリフといい、正統カリフ時代が始まる。アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの初代四人はムスリムらの選挙によって選ばれた正統カリフと言われる。イスラームによる征服活動は聖戦「ジハード」と呼ばれ、第二代ウマルの代にニハーヴァンドの戦いでササン朝を651年に滅亡させる。その後、シリア総督として、ダマスクスを治めていたムアーウィヤが、661年にウマイヤ朝を建国し(都、ダマスクス)、カリフの地位へつくが、以後カリフの地位は世襲となる。ムアーウィアを認めるイスラームの多数派をスンナ派といい、アリーの子孫のみを正統と認めるシーア派にイスラームはその後分裂する。ウマイヤ朝はイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、ヨーロッパへ侵入するが、732年に、フランク王国とのトゥール=ポワティエ間の闘いに敗北。ウマイヤ朝では、アラブ人のイスラーム教徒の多くが税を免除されるが、マワーリーと呼ばれた非アラブ人(征服地)のイスラーム教徒にはシズヤ(人頭税)やハラージュ(土地税)の義務があった。ジンミーと呼ばれる征服地の異教徒と同じジズヤ、ハラージュといった税制がマワーリーにも取られたため、平等を求める民衆の不満を買い、750年にアッバース朝によって滅亡した。しかし、756年、アッバース朝から逃れたウマイヤ朝の勢力がイベリアで後ウマイヤ朝を建国し、コルドバを都にした。

〔63〕アッバース朝の時代(8世紀のイスラーム世界)

アブー=アルアッバースが750年に建国。アラブ人の税制特権を廃止し、イスラーム教徒であれば、アラブ人でも非アラブ人でもハラージュ(土地税)のみを課した。異教徒には、ハラージュに加えて、ジズヤ(人頭税)を課した。イスラーム法(シャリーア)に従う政治を行い、751年にタラス河畔の戦いで唐と戦いで、唐の捕虜より製紙法が伝わった。2代目マンスールの代に円形都市として知られる都バグダードが建設された。786年に即位した5代目ハールーン=アッラシードの時、アッバース朝は最盛期を迎える。

〔64〕イスラームの分裂(10世紀のイスラーム世界)

アッバース朝は、地方政権に分裂し、ファーティマ朝とブワイフ朝から圧迫を受け、弱体化した。後ウマイヤ朝は、アブド=アッラフマーン3世の時代に、最盛期を迎え、カリフを自称する。また、エジプト、都カイロでウバイドゥラーにより建国されたファーティマ朝はシーア派を信仰し、カリフを自称し、3カリフ時代となった。ブワイフ朝は、アフマドにより946年にイランに建国され、シーア派を信仰し、アッバース朝のバグダートを占領。イクター制(軍人に給料ではなく、土地を与えてそこの農民から徴税される仕組み)を採用した。中央アジア初のイスラーム王朝であるサーマーン朝や中央アジアに建国された初のトルコ人王朝カラハン朝が起こった。

〔65〕セルジューク朝の時代(11世紀のイスラーム世界)

トゥグリル=ベクによって、1038年にセルジューク朝が建国された。1055年にバグダードを陥落し、シーア派のブワイフ朝を倒し、アッバース朝カリフからスルタンの称号を受け、スンナ派の支配を回復した。マドラサ(学院)を盛んに建設し、宰相ニザーム=アル=ムクが、ニザーミーヤ学院を建設した。2代目スルタンのアルプ=アルスラーンは、1071年、マンジケルトの戦いで、ビザンツ帝国を破り、ビザンツ皇帝ロマノス4世は捕虜となり、ビザンツ帝国を圧迫され、十字軍の原因となった。

イベリア半島では、ベルベル人国家ムラービト朝が、都マラケシュとし、建国され、アフリカのガーナ王国を攻撃。アフリカ内陸にイスラームが広がった。ファーティマ朝はエジプトに存続し、カラハン朝も中央アジアに存続、ガズナ朝がトルコ系王朝として成立し、北インドにイスラームを広げた。

〔66〕アイユーブ朝の時代(12世紀のイスラーム)

ファーティマ朝の宰相サラーフ=アッディーン(サラディン)が、ファーティマ朝を12世紀後半に滅ぼし、エジプトにカイロを都とし、建国したのが、アイユーブ朝である。第三回十字軍では、聖地イェレサレムを奪回。サラディンは、寛容で名君と歌われた。セルジューク朝は急速に弱体化し、ムワッヒド朝が、都マラケシュにベルベル人によって建国された。

ホラズム朝は、イランに建国され、一時期イスラーム世界最強国となるが、1231年にチンギス=ハンに攻められ滅亡。ゴール朝は、アフガニスタンに建国された。

〔67〕モンゴルの世紀(13世紀のイスラーム)

モンゴル王国のフラグが、バグダードを占領し、アッバース朝を滅ぼし、イル=ハン国を建国する。ガザン=ハンの時代に最盛期を迎え、宰相ラシード=ウッディーンが「集史」(歴史書)を著し、イスラームを国教にした。イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝が、グラナダを都とし、アルハンブラ宮殿を建てたが、スペインにより1492年に滅亡した。マムルーク朝が、カイロを都とし、メッカ、メディアを支配した。インドでは、ゴール朝のマムルークであるアイバクが、都デリーに奴隷王朝を成立させた。奴隷王朝以後の四王朝(ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝)をデリー=スルタン朝と呼ばれる。

〔68〕ティムール朝、サファヴィー朝

ティムールが建国。チャガタイ=ハン国の分裂の混乱期から建国し、都をサマルカンドに置く。西アジアの大半を支配し、イル=ハン国を併合、15世紀に小アジアへ進出氏、アンカラの戦いでオスマン帝国を破る。明遠征の途中で病死。四大ウルグ=ベクの死後分裂し、最終的にはトルコ系ウズベク人により滅亡した。

イラン=イスラーム文化を中央アジアに広め(トルコ=イスラーム文化)、首都サマルカンドに壮大なモスクを建て、シラン文学や細密画、天文学、暦法を発達させた。サファヴィー朝はイスマイール1世が1501年に建国し、神秘主義、教団の長となる。都はタブリーズ、イラン人の民族意識を高揚させ、シャーの称号を使用し、シーア派を国教とした。

アッバース1世の頃最盛期を向かえ、新首都、イスファハーンを建設し、世界の半分をいわれた。サファヴィー朝滅亡語のイランでは、アフシャール朝、泉都町、ガージャール朝が成立した。

〔69〕オスマン帝国の成立と発展(14~16世紀のイスラーム世界)

オスマン朝は、オスマン1世が、小アジアに建国。ムラト1世は、バルカン半島に進出氏、マドリアノープルを首都とする。イェニチェリ(新軍)は、キリスト教の指定をイスラームに改宗させ、スルタンの親衛隊とした。

バヤジット1世は、ニコポリスの戦いで、ハンガリーを破り、バルカン半島を統一。アンカラの戦いで、ティムールに完敗し、一時衰退。メフメ2世は、コンスタンティノープルを守る川へ艦隊を山越えさえ、コンスタンティプールを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させた。コンスタンティノープルはイスタンブールと改称され、オスマン帝国が遷都した。

〔70〕オスマン帝国の最盛期(16世紀のイスラーム世界)

セリム1世は、サファヴィー朝を破りシリアへ進出、引き続き、マムルーク朝を征服した。また、マムルーク朝を征服することで、メッカ、メディナといったイスラームの両聖地を握った。オスマン朝、最盛期は、スレイマン1世。モハーチの戦いで、ハンガリーを征服。隣国オーストリアに対してウィーン包囲を行うが失敗。プレヴェザの海戦で、スペイン・ヴェネツィアを撃破し、地中海の制海権を握る。

セリム2世が、オーストリア征服のため、フランスと同盟し、フランス商人に帝国内の居住と通商の自由を認めるカピチュレーション(同盟)を結ぶ(治外法権を認める)。その後、レパントの海戦でスペインを中心とするキリスト教連合艦隊に敗北。その後、第二次ウィーン包囲を敗北し、衰退した。

オスマン帝国では、統治はスルタン(君主)がイスラーム法に基づいて行い、ミレット制によりキリスト教やユダヤ教の共同体を作らせ、自治と信仰の自由を認めた。割り当ての土地からの徴税権を持つティマール(騎士)やキリスト教の子弟をイスラーム教に改宗させ、スルタンの親衛隊イェニチェリを創設した。

〔71〕イスラーム世界のまとめ

  イベリア 北アフリカ エジプト アラブ イラン 中央アジア アフガニスタン・ インド
7世紀 前半       ムハンマド        
7世紀 中半   正統カリフ時代 アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリー    
7世紀 後半 ウマイヤ朝、都、ダマスカス、ムアーウィア建国、税の不平等  
8世紀 後ウマイヤ朝、都、コルドバ   アブド=アッラフマーン3世(カリフ) アッバース朝、都バグダード、アブー=アルアッバース建国、ハラージュによる税の平等化  
10世紀 ファーティマ朝 シーア派   カリフ アッバース朝   カリフ ブワイフ朝 シーア派 イクター制 サーマーン朝中央初 カラハン朝 トルコ初  
11世紀 ムラービト朝、都マラケシュ、ベルベル人 ガーナ王国遠征 セルジューク朝 トゥグリル=ベク 十字軍始まる スルタンの称号   ガズナ朝 トルコ系
12世紀 ムワッヒド朝、都、マラケシュ、ベルベル人 アイユーブ朝 都はカイロ、サラディンが第3回十字軍 セルジューク朝 ホラズム朝 チンギス=ハンにより滅亡 (西遼) ゴール朝
13世紀 ナスル朝、都グラナダ、 アルハンブラ宮殿 スペインにより滅亡 マムルーク朝 トルコ人奴隷 イル=ハン国 フラグ建国 ガザン=ハンがイスラームを国教化 (チャガタイ=ハン国) 奴隷王朝、都デリー、マムルークが建国
15世紀 オスマン帝国 オスマン1世 ムラト1世 バヤジット1世 メフメト1世 ティムール朝、都サマルカンド、ティムールが建国、アンカラの戦い   デリー=スルタン王朝
16世紀   セリム1世 スレイマン1世   サファヴィー朝、イスマイール1世、アッバース1世、都イスファハーン   ムガル帝国 バーブル アクバル

〔72〕東南アジアのイスラーム化

カンボジアでは、扶南(1C)、真臘(6C)、アンコール(12C)と続くが15世紀以降衰退する。ベトナムは、北は李朝(11C)、陳朝(13C)、黎朝(15C)、阮朝と続き、南は、林邑(2C)、環王(8C)、占城(10C)と続くが、黎朝の時代にチャンパー(占城)を征服し、ベトナムを支配、西山朝は阮氏3兄弟の蜂起(西山党の乱)があるが、一時的にベトナムを支配、阮福暎(嘉隆帝)がフランス人宣教師ピニョーの支援で西山朝を倒し、阮朝を建国、後にフランスの保護国へ。ラオスは15世紀にランサン王国、ビルマは16世紀にピュー(8C)、パガン(11C)、トゥングー朝(16C)がタイのアユタヤ朝を攻撃し、18世紀のコンバウン朝はタイのアユタヤ朝を滅ぼした。タイは、ドヴァーラビティー(7C)、スコータイ(13C)朝はタイ人により建国され、上座部仏教を国教化した。ラーマカルヘーン王が最盛期の王。14世紀には、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、港市国家として海洋貿易で栄える。日本との貿易もされ、各地に日本町が形成された。しかし、ビルマのコンバウン朝により滅亡した。18世紀のラタナコーシン朝は、現在のタイ王室まで続く。

諸島部では、イスラーム化が信仰し、8世紀以降ダウ船を用いたムスリム商人が活発な海上交易を行い、マレー・スマトラでは、7世紀にシュリーヴィジャヤ、14世紀にマラッカ王国が成立し、イスラーム教に改宗する。これが東南アジアのイスラーム化の始まりとされる。15世紀のアチェ王国はスマトラ島北部に成立したイスラーム教国。ジャワでは、シャイレンドラ(8C)、クディリ、シンガサリ、マジャパヒト、マタラムが続く。10世紀のクディリ朝では、影絵芝居のワヤンを生み出した。このワヤンはマハーバーラタやラーマーヤナの影響を受けるなど、ヒンドゥー教の影響が強い。13世紀シンガサリ朝はヒンドゥー教国、14世紀のマジャパヒト王国もヒンドゥー教国。16世紀は、マタラム王国。

〔73〕アフリカのイスラーム化

紀元前ナイル川上流にクシュ王国が起きる。前600年頃アッシリアに攻められ後退し、都をメロエに移し、メロエ王国と言われる。350年にアクスム王国がメロエ王国を滅ぼし、キリスト教を国教にした。アフリカ北部では、ウマイヤ朝→後ウマイヤ朝→ムラービト朝、ムワッヒド朝、ナスル朝とイスラーム国家が続く。アフリカ南部では、トンブクトゥが中心都市として栄え、ガーナ王国が金を算出し繁栄するが、ムラービト朝に征服され、イスラーム化が進行する。マリ王国では、マンサ=ムーサ王のもと繁栄し、イブン=バットゥータが訪れた。その後、ソンガイ王国が成立する。

アフリカ東部の海岸地域では、マリンディ、モンハザ、ザンジバル、キルワ(イブン=バットゥータが訪れた)などの港町にムスリム商人が来航し、イスラーム化が進む。アラビア語の影響を受けたスワヒリ語を使用。南アフリカでは、大巨石遺跡のジンバブエが繁栄し、モノモタパ王国が成立する。

〔74〕イスラームの社会と文化

都市では、モスク(礼拝堂)、マドラサ(学院)、スーク(バザール、市場)が栄え、マドラサでは、ウラマー(知識人)がアラビア語、コーラン、シャリーア(イスラーム法)を教えた。財産を寄付するフクフ(寄付、喜捨)を下にモスクやマドラサの運営費が賄われた。形式的な進行を廃し、神との合一を図るスーフィズム(イスラーム神秘主義)が流行。このスーフィズムが貿易路に沿って、アフリカ、中国、インド、東南アジア方面に広がり、イスラーム信仰の広がりに寄与した。

イスラームでは、アラブ人固有の学問としてコーランの解釈、イスラームの歴史が研究され、神学ではガザーリーがスンナ派神学と神秘主義の統合を図った。歴史学では、ラシード=ウッディーンが「集史」を著し、イブン=ハルドゥーンが「世界史序説」を著した。

外来の学問としては、ギリシアやインドの影響を受け、数学ではアラビア数字が生まれ、十進法やゼロの概念などがフワーリズミーによって代数学や三角法など生まれた。医学では、イブン=シーナーの「医学典範」やイブン=ルシェドの「医学大全」が生まれた、また、アリストテレス哲学の研究が進み、イブン=シーナーやイブン=ルシェドが研究した。その他の文化面では、各地の説話の集大成の「千夜一夜物語」が生まれ、ウマル=ハイヤームの「ルバイヤート(四行詩集)」や旅行記のモロッコ出身のイブン=バットゥータが「三大陸周遊記」を著した。アラベスク模様や細密画(ミニアチュール)、ナスル朝のアルハンブラ宮殿や各地にモスク建築としてドームやミナレットを建てた。

〔75〕陸と海のネットワーク

ユーラシア大陸を東西に結ぶルートとして、「草原の道」「オアシスの道」「海の道」がある。草原の道は、南ロシアからモンゴル、中国東北部(北京)を結ぶ。騎馬遊牧民であるスキタイや匈奴、鮮卑、突厥、ウイグルなどの民族が活動した。オアシスの道は、地中海からイラン高原、トルキスタン、中国西部(長安)を結び、いわゆる「絹の道(シルクロード)」として知られ、イランの文化や仏教、ギリシアの影響などが中国へ伝わった。アレクサンドロス大王の東方遠征や大月氏国の同盟を命ぜられた前漢の張騫、後漢の甘英が活躍氏や。また、サマルカンドを中心とするソグディアナ地方を拠点としたソグド商人(イラン系)による中継貿易が行われた。海の道は東シナ海やインド洋で、1世紀以降季節風を利用し、交易が行われた。「エリュトゥラー海案内記」などがある。8世紀以降、唐の時代は、広州や泉州にムスリム商人が渡来する。宋や元の時代には、ジャンク船による陶磁器輸出がされ、海の道は陶磁の道とも呼ばれた。インド洋では、ムスリム商人による交易がダウ船を用いられ盛んに行われた。マラッカ王国やカイロ(アイユーブ朝やマムルーク朝の首都)のカーリミー商人の活躍により繁栄した。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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