〔76〕ゲルマン人の大移動

中世ヨーロッパとはローマ帝国滅亡からルネサンスの始まりまでの約1000年間をいう。バルト海沿岸にいたゲルマン人が先住民ケルト人を圧迫し、ライン川から黒海沿岸にかけて進出。この時代の史料としては、カエサルの「ガリア戦記」、タキトゥスの「ゲルマニア」がある。当時のゲルマン人の社会では、重要な問題は民会で決定され、平民と奴隷が区別され、狩猟・牧畜を行っていた。ローマ帝国内に傭兵やコロヌスとして平和に移住していたが、アジア系のフン族がアッティラ王に率いられ、西進し、東ゴート人をのみこみ、西ゴート人を圧迫した。その結果、ゲルマン人が大移動を始めた。西ゴート人(最も早く移動を開始)が西ゴート王国をイベリア半島に建国し、東ゴート人が東ゴート王国をイタリア半島に建国、ヴァンダル人はヴァンダル王国を北アフリカに建国、ブルグント人はブルグント王国をガリア島南部に建国。ランゴバルド人はイタリア北部にランゴバルド王国を建国。アングロ=サクソン人はイングランドにアングロ=サクソン七王国を建国、フランク人はガリア北部にフランク王国を建国。フン族の西進をゲルマン諸民族と西ローマ帝国が、カタラウヌムの戦いで阻止。この混乱の中、西ローマ帝国はゲルマン人のオドアケルにより滅亡。

〔77〕フランク王国

ゲルマン人のうち、北部ガリアに移動したフランク族が建国。メロヴィング朝のクローヴィスがフランク族をまとめ481年に王国の形に整える。クローヴィスはアタナシウス派に改宗し、キリスト教正統派に改宗することで、旧ローマ帝国領内の人々の支持を得た。王に代わり、大臣のトップ「宮宰」が権力を掌握する。宮宰カール=マルテルが、732年、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム教国ウマイヤ朝を倒す。カール=マルテルの子、ピピンがカロリング朝から王位を奪い、751年にカロリング朝を創始する。ピピンはランゴバルドを攻め、ラヴェンナ地方を獲得し、756年にローマ教皇へ寄進し、クーデターの承認を受ける。これが教皇領の始まりとなる。

〔78〕カール大帝

カロリング朝はカール大帝の時、大きく勢力を拡大し、東は、アヴァール族(モンゴル系)を撃退し、南のランゴバルト族を征服、西は後ウマイヤ朝と戦う、北は、ザクセン族を征服した。全国を州に分け、伯に統治させ、巡察使を派遣し、伯を監視させた。カール大帝は文化を保護し、イギリスの神学者アルクィンを招き、カロリング=ルネサンスを起こす。800年に、ローマ教皇レオ3世から皇帝の冠を授かる(西ローマ帝国の復活を意味する)。カール大帝の子の死後、ヴェルダン条約とメルセン条約の二つの条約により、フランク王国は、東フランク、西フランク、イタリアの三カ国に分裂する。

東フランク王国のオットー1世が、955年にアジア系のマジャール族をレヒフェルトの戦いで撃退し、ローマ教皇ヨハネス12世から962年に皇帝の冠を受け、以後は神聖ローマ帝国と名乗り、王は皇帝と呼ばれる(962~1806年)。西フランク王国では、ユーグ=カペーが、987年にカペー朝を開き、以後はフランス王国を名乗る。

〔79〕ノルマン人の移動

スカンディナヴィア、ユトランド半島で商業や海賊行為など略奪行為で生活していたヴァイキング(ノルマン人)が、北フランスにロロが西フランク王から領地を貰い、ノルマンディー公国を成立させ、南イタリア、シチリア島では両シチリア王国を成立、イングランドでは、ゲルマン系のアングロ=サクソン七王国のエドバードが統一し、イングランド王国を建てていたが、ノルマン系のデーン人が侵入。一旦はイングランゴ王国のアルフレッド大王が撃退するものの、クヌートが再び侵入し、デーン朝が成立した。その後、再びノルマン人が侵入し、ノルマンディー公ウィリアムが、1066年、ヘースティングスの戦いで、イギリスを征服し、ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝が成立する(イギリス建国の年とされる)。これをノルマン=コンクエストという。ロシア方面では、リューリクがノヴゴロド国を建国し、後にスラヴ人と混ざり、キエフ公国となる。北欧では、デンマークやスウェデンヤノルウェーの3王国が成立する。

〔80〕スタヴ人の拡大

ゲルマン人の大移動後、スラヴ人は、東ヨーロッパに拡大し、カルパティア山脈を原住に東西南に拡大し、西スラヴ人として西欧文化とローマ・カトリックを受容。東・南スラヴ人はビザンツ文化とギリシア正教を受容した。

西スラヴ人は、カジメシュ大王の下でポーランド王国として繁栄し、その後リトアニアと併合し、リトアニア=ポーランド王国(ヤゲヴ朝)として成立する。チェック人は、ボヘミア辺りにベーメン王国を建国するが、後に神聖ローマ帝国に編入される。

東スラヴ人は、ノルマン系の国家をリューリクがノヴゴロド国として建国したが、次第にスラヴ化していき、キエフ公国となる。最盛期はウラディミル1世で、ギリシア正教に改宗。モンゴル帝国時代に、バトゥがキプチャク=ハン国を建国し(タタールのくびき)、その後モスクワ大公国として、イヴァン3世が、ツァーリと称して、モンゴルの支配から脱し、とイヴァン4世(雷帝)が正式にツァーリと称する。

南スラヴ人では、セルビア人がギリシア正教、クロアティア人やスロヴェニア人はカトリックを受容した。

非スラヴ人としては、ブルガール人やマジャール人がおり、マジャール人はハンガリー王国を作った。

〔81〕キリスト教会の分裂

キリスト教の3大宗派は、ローマ=カトリック、東方正教会(ギリシア正教)、プロテスタント。五本山として、ローマ教会、コンスタンティノープル教会、アレクサンドリア教会、アンティオキア教会、イェレサレム教会の五つがキリスト教の中心となる。その中で、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が力を持ち、主導権を争う。

ローマ教皇のグレゴリウス1世(大教皇)は、ゲルマン布教を行うなどして、教会の基礎固めを行う。その後、ローマ教会はゲルマン布教に聖像を使用することとなり、コンスタンティノープル教会はローマ教会を批判し、ビザンツ皇帝レオン3世は聖像禁止令を出し、ローマ教会に対抗。ローマ教会とコンスタンティノープル教会は完全に分裂し、ローマ教会は、ローマ=カトリックと名乗り、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と名乗ることとなった。ローマ=カトリック教会は、ピピンのクーデタを承認し、代わりにラヴェンナ地方を得て、レオ3世がカール大帝に皇帝の冠を与えるなどして体制強化していく。

〔82〕封建制度

中世ヨーロッパの主従関係の在り方を封建制度といい、土地を媒介とした総務的契約関係を特徴とする。主君は家臣に封土(土地)を与え、家臣は主君に軍役で答える。その関係は双務的契約関係であり、家臣からも、主君からも契約を切ることが出来る。二人の主君に同時に仕えることもできた。

起源は、ローマ帝国で行われた恩貸地制(主君は家臣に土地を与え、家臣は主君に奉仕で応じる。)とゲルマン社会で行われた従士制(主君は家臣に食料などを与え、家臣は主君に軍役で応じる)が混合し、中世ヨーロッパにおける封建制度が成立した。

〔83〕荘園制度

領主は、国王であったり、諸侯であったり、騎士であったり、聖職者であった。封土を荘園として経営し、農民が農奴とされた。荘園は、領主直営地と農民保有地から構成され、領主直営地は収穫の全てを領主に収め(労働地代=賦役)、農民保有地は収穫の何割かを領主に税として納めた。これを生産物地代=貢納という。税は、賦役貢納の他に、死亡税、結婚税、教会に支払う十分の一税などがあった。主君は家臣に土地を渡し、軍役を受けるが、一度主君が土地を与えたら、主君は口出しできず、これを国王に対する不輸不入権(課税権、行政権、裁判権を拒否)といわれた。10世紀以後は三圃制が採用され、土地を、春耕地、休耕地、秋耕地に分け、回していった。

〔84〕教会の権威(カトリック教会)

教会では、教皇-大司教-司教-司祭などの階層性組織(ヒエラルキー)が形成されていったため、教会が領主化していった。また。教会の領主化(国王や貴族からの荘園寄進による)や農民からの十分の一税により、財政と権力が集中した。聖職者売買など教会の腐敗が始まり、ローマ=カトリック教会の世俗化していった。こうした教会の腐敗に対し、修道院による教会の改革運動が行った。代表的な修道院としては、ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カシノに初の修道院として、ベネディクト修道院(6C)を開いた。「祈れ、働け」がモットー。また、クリューニー修道院の運動が勢いづき、教会内部の腐敗追放運動が行った。こうした状況下で、聖職者の任命権を巡り、教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の間で叙任権闘争が生じ、教皇が皇帝を破門した。ハインリヒ4世が教皇に謝罪するため、カノッサ城門前で三日間雪の中で謝罪し破門を解かれた。これをカノッサの屈辱という。王権に対する教皇の優位を決定づけた。後にヴォルムス条約で、司教の教権(儀式を行う権限)は教皇、俗権(領地を治め、徴税する権利)は皇帝が任命するという取り決めがされた。その後、教皇インノケンティウス3世(13C初期)の頃、教皇権は絶頂に達し、自ら「教皇は太陽、皇帝は月」であると言い放った。第4回十字軍を提唱し、イギリス王ジョンを破門し、仏王フィリップ2世を屈服させた。

〔85〕ビザンツ帝国の繁栄

ローマの東西分裂により成立したビザンツ帝国は都をコンスタンティノープル(ビザンティウム)とし、貿易として発展した。独自の文化圏を形成し、ローマの伝統を継承に加え、ギリシア正教を信仰した。皇帝が政治と宗教の権力を握る皇帝教皇主義が取られた。最盛期は、ユスティアヌス帝で、ヴァンダル王国(北アフリカ)と東ゴート王国(イタリア)を征服し、最大領域を達成した。トリボニアヌスにより「ローマ法大全」が編纂された。聖ソフィア聖堂が建設された。中国から養蚕業を導入し、以後ササン朝と抗争し、イスラーム成立の原因となる。ヘラクレイオス1世の時代に、帝国をいくつかの軍管区に分け、司令官を派遣し、統治する軍管区制が採用された。また、農民に土地を与え兵役義務を課す屯田兵制が整備され、中央集権化が図られた。レオン3世は、聖像崇拝論争において、726年に聖像禁止令を出した。これが原因となり、カトリックとギリシア正教の分裂の原因となった(1054年にローマ教会とギリシア正教は互いに破門しあった)。

〔86〕ビザンツ帝国の衰退・ビザンツ文化

ビザンツ帝国は、11世紀にはセルジューク朝が侵入し、西方社会に救援を求め、十字軍のきっかけとなる。また、軍役奉仕を条件に帰属に領地を与えるプロノイア制を導入。第4回十字軍の攻撃の際、コンスタンティノープルを攻略され、ラテン帝国を作られ、一時期滅亡した。その後、復興するも、1453年にオスマン帝国のメフメト2世による攻撃を受け、滅亡する。ビザンツ文化では、ギリシア語を公用語とし、ローマの伝統とギリシア正教の融合が進んだ。建築では、ビザンツ様式の代表としては、聖ソフィア聖堂があげられるが、ドームを複合させることとモザイク壁画が特徴的であった。美術では、イコン美術(聖母子像)が発展。ビザンツ文化の重要な意義としては、ギリシア・ローマの古典文化を保存、継承し、ルネサンスに影響を与えたことである。

〔87〕十字軍

中世ヨーロッパ中盤(11~13世紀)において、キリスト教徒がイスラーム教徒に対して、7回の遠征を行った。民族移動の動揺が収まり、三圃制などの農法の改良により、中世社会が安定化し、人々の関心が外へ向かう余裕が生まれた。ドイツのエルベ川以降の東方植民やレコンキスタが盛んになる。セルジューク朝がイェレサレムを独占し、ビザンツ帝国を圧迫したため、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世が1095年にローマ教皇に支援を要請し、同年、クレルモン宗教会議で、教皇ウルバヌス2世が聖地イェレサレム奪還のため、十字軍の派遣を決定。

第1回十字軍は聖地奪還に成功し、イェレサレム王国を建国。第3回では、アイユーブ朝のサラディンが1187年にヒッティーンの戦いで、イェレサレムを占領したのに対し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)、フランス王フィリップ2世(尊厳王)、イギリス王リチャード1世(獅子心王)が戦うが、失敗。1192年に講和した。その後、第4回は、教皇インノケンティウス3世が提唱するが、ヴェネツィア商人の要求でコンスタンティノープルを攻撃され、1204年にラテン帝国が建国された。第6回、第7回ではフランス王ルイ9世が中心となるが、失敗する。最終的には、1291年に十字軍の拠点アッコンが陥落し、十字軍は終了した。十字軍の影響として、教皇の権威が低下する一方、国王の権威が上昇した。また、ヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団などの宗教騎士団を成立させた。

〔88〕商業の復活

十字軍は結果的に失敗に終わったが、ヒト・モノの交流が盛んになり、商業が発展し、遠隔地交易が行われるようになった。これを商業ルネサンスと呼ぶ。地中海商業圏(北イタリア)の中心都市としては、港町として、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサが発展し、内陸部ではミラノやフィレンツェが発達した。これらの町は、ロンバルディア同盟を結成し、香辛料を扱うアジアとの東方貿易で繁栄した。ロンバルディア同盟は、1176年レニャーノの戦いでフリードリヒ1世の軍を破り、1183年にコンスタンツの和議で皇帝に自治を認めさせた。北ヨーロッパ商業圏(バルト海沿岸)では、中心都市としてリューベックやハンブルグ、ブレーメンがハンザ同盟を結成し、ガン、ブリュージュ、アントウェルペンなどのフランドル地方の都市で生産された毛織物の交易で発展した。アルプス山脈以北のシャンパーニュ地方では、ヨーロッパの南北を繋ぐ内陸都市が隆盛し、定期市が設けられた。そのほか、ヨーロッパ内陸の南ドイツ商業圏(アウクスブルク)も発展した。

〔89〕中世都市の成立と自治と市民たち

 封建領主の領内で都市が発生し、都市は領主が支配しようとするものの、都市は支配に抵抗し、王から特許状を得て自治都市となった。都市は封建領主の領内にありながら、王に直接所属していることとなり、領主の支配を受けなかった。農奴は都市に逃げ込み、1年と1日逃げ切れば、封建領主から自由になれた(12C頃)。そのため、都市の空気は自由にする、といわれた。遠隔地交易、情報共有、価格操作のため、同じ仕事を持つ人々の組合(同業者組合)である商人ギルドが形成された。手工業者による同職ギルド(ツンフト)も結成され、商人ギルドと争うツンフト闘争(13C)が行われたが、次第に協力し合う。同職ギルドの組合員になれるのは親方に限られ、厳しい上下関係があった。こうした経済力の向上により、都市貴族が誕生した。アウグスブルクのフッガー家やフィレンツェのメディチ家などがある。

 〔90〕封建社会の衰亡

十字軍の結果、都市が発達し、農村にも大きな変化が見られた。貨幣経済が浸透し、現物経済が終焉した。貨幣は、保存することができるため(価値の保存)、農奴は余った作物を貨幣に変え、保持することで、貨幣を貯蓄した。そのため、荘園の農民保有地でより働いて、たくさんの生産物を手に入れようと意欲が上がった。封建領主も貨幣によって税を徴収し(貨幣地代)、領主直営地を辞め、全て農民保有地(「純粋荘園」)にすることで、さらに多くの貨幣を手に入れようとした。農奴の中には、多額の貨幣と引き換えに自由になる独立自営農民が登場(イギリスではヨーマンという)。しかし、一度手放した農奴は戻ってこないため、領主の収入は次第に減少するため、領主は「領主直営地」を復活させ、農奴への支配を強化した(封建反動)。しかし、支配を強める領主に対し、農民一揆が増加。代表的なものには、14Cのジャックリーの乱(フランス)や14C末のジョン=ボールが指導したワット=タイラーの乱(イギリス)が有名。「アダムが耕し、イブが紡いだとき、誰が帰属であったか」といわれた。

 〔91〕教皇権の衰退

 十字軍の失敗と教会の世俗化により、教皇権が弱体化し、宗教的情熱が冷却した。その結果、1303年のアナーニ事件や1309年からの教皇のバビロン捕囚、教会大分裂が起きた。アナーニ事件では、教会課税を巡るフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世が対立し、ボニファティウス8世をフランスに連行した。その後、フィリップ4世が、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、以後約70年間フランス王が教皇に干渉を続けた(「教皇のバビロン捕囚」)。その後、ローマにも教皇が立てられ(教会大分裂=大シスマ)、アヴィニョンの教皇とローマの教皇が対立し、権力争いをする教会への批判が増加。教会は異端審問や魔女狩りを行い強硬化するが、教会革新運動として、イギリスのウィクリフ(オックスフォード大学)が、教皇・教会批判をし、聖書の英訳を行い、フス(ベーメン、プラハ大学)がウィクリフの説に共鳴し、教会の世俗化を批判した。そのため、教会はコンスタンツ公会議で教会大分裂を解決(ローマを正統)し、フスを火刑に処分した。しかし、ベーメンでは抗議のフス戦争が1419年に起き、プラハ市民と神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントが争った。

 〔92〕中世のイギリス

 ノルマン朝が断絶し、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世として迎えられ、プランタジネット朝が1154年に成立する。第3回十字軍に参加したリチャード1世(獅子心王)が早世した後、弟のジョン(欠地王)が後を継ぐ。ジョンは、フランス王フィリップ2世にフランス領の大半奪われる。ジョンは、ローマ教皇インノケンティウス3世に屈服。ジョン王は、1215年にマグナ=カルタ(大憲章)を承認し、王の課税権に貴族の承認が必要であるなど制限が加えられた。ヘンリ3世はマグナ=カルタを無視したが、1264年にシモン=ド=モンフォールの乱が起き、封臣会議(上院)と騎士・市民(下院)によるシモン=ド=モンフォールの議会が1265年に開かれる。その後、エドワード1世が、身分制議会の代表となる模範議会を招集した。

 〔93〕中世のフランス

 ユーグ=カペーが開いたカペー朝が成立。第3回十字軍に参加したフィリップ2世(尊厳王)がイギリス王ジョンを破り、フランスの領土回復。南フランスの異端であるアルビジョワ派を討伐(アルビジョワ十字軍)。ルイ9世(聖王)は第6回、第7回十字軍に参加するが、捕虜となり敗れた。アルビジョワ派を根絶し、1254年にモンゴル帝国のカラコルムへ、ルブルックを派遣し、モンゴル帝国第4代のモンケ=ハンに面会した。フィリップ4世(端麗王)は、1302年に三部会を招集し、1303年にアナーニ事件で教皇ボニファティウス8世と争い、その後ローマ教皇クレメンス5世をフランスに連行し、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、1309年~1377年までの68年間教皇がローマを離れる教皇のバビロン捕囚が行われ、教皇権を低下させた。

 〔94〕百年戦争とバラ戦争

 毛織物工業地帯であるフランドル地方(イギリスの羊毛輸入先)を巡る対立やフランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ朝が成立した際に、フランスのフィリップ6世が王に即位したことに対し、イギリスのエドワード3世が王位継承を主張し、百年戦争(1339~1453)が起きる。百年戦争の前半は、エドワード黒太子の活躍により、1346年クレシーの戦い、1356年ポワティエの戦いに勝ち、イギリス側が優勢であったが、後半になると、ジャンヌ=ダルクが国王のシャルル7世を助け、1429年にオルレアンを解放し、戦いの状況は逆転した。イギリスは、カレーを残し、イギリスがフランス全土から撤退。百年戦争中、ペストの大流行(1348年~)やジャックリーの乱(1358年)やワット=タイラーの乱(1381年)が起きている。

 百年戦争終結後、イギリスでは、さらに王位継承争いが生じ、ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)によるバラ戦争(1455~1485年)が起きる。ランカスター家とヨーク家が婚姻し、ヘンリ7世によるテューダー朝が成立する。また、星室庁裁判所で王権に反対する貴族を処罰した。

〔95〕スペインとポルトガル

11C頃、イベリア半島はイスラーム教国によるムラービト朝によってイベリア半島の大半が制圧されていたが、イベリア半島北部からキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が進展し、12C頃、ムワッヒド朝の時代、キリスト教徒の勢力が拡大し、とりわけ、カスティリャ、アラゴン、ポルトガルの勢力が拡大した。カスティリャ女王イサベルとアラゴン大生フェルナンドが結婚し、スペイン王国が成立する。その後、イスラーム教徒最後の拠点グラナダを占領し、ナスル朝を滅ぼして、レコンキスタを完成させる。国内では、貴族勢力を抑え、王権を伸長させ、積極的な海外進出を図る。とりわけ、コロンブスを支援したことで知られる。また、イベリア半島南西部では1143年にポルトガルが成立し、エンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検を行い、ジョアン2世はインド航路の開拓をした。

 〔96〕ドイツ・イタリア・スイス・北欧

 ドイツ方面では、神聖ローマ帝国はローマ支配を試み、イタリア政策を行うが、皇帝権が弱体化し、皇帝の下、多くの領邦(小国家)が所属し、国内は不統一であった。11C頃、東方植民を推進し、エルベ川以東に領域を広げ、ブランデンブルク辺境伯爵、ドイツ騎士団領が成立する(のちのプロイセンのもと)。その後、1256~1273年に大空位時代といわれる事実上皇帝不在の時代が続き、国内が混乱する。カール4世が、1356年に金印勅書(黄金文書)を発布し、皇帝を7人の選帝侯による選挙で選出するようにした。しかし、それによって皇帝の力は益々弱体化し、各地の領邦がそれぞれ中央集権的になり、独立性を高めた。15C以降は、オーストリアのハプルブルク家が、権力世襲するようになり、皇帝の位を独占する。しかし、領邦の独立性が高く、統一性は欠いた。

 イタリアでは、多数の国、諸侯、都市が分立しており、外国の干渉を受けやすい状態であった。神聖ローマ帝国の干渉に対して、それに反対する教皇党(ゲルフ)と肯定する皇帝党(ギベリン)に分かれて党争が起きる。

 スイスでは、オーストリアのハプルブルク家の支配に対し、独立闘争を起こし、事実上独立していたが、最終的には、1648年にウエストファリア条約で正式に独立が承認される。

 北欧、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーによるカルマル同盟が結成され、デンマーク女王マルグレーテの下、同君連合が行われた。

〔97〕西ヨーロッパ中世文化

 神学が中世ヨーロッパの最高の学問であり、哲学や自然科学よりも上位として扱われ「哲学は神学の婢」と呼ばれた。カロリング=ルネサンスの時、アルクィンがカール大帝に招かれる。キリスト教と哲学が融合し、スコラ学が発展した。イギリスのアンセルムスは、信仰は理性に優先すると考え、実在論を唱えた。フランスのアベラールは、理性は信仰に優先するとし、唯名論を唱え、普遍論争が起きた。トマス=アクィナスはアリストテレス哲学と神学を融合させ、信仰と理性の調和を図り、「神学大全」を著し、スコラ哲学を大成させた。ウィリアム=オッカムが唯名論の立場から信仰と理性を区別し、近代科学の発展の基礎を築いた。自然科学では、ロジャー=ベーコンが経験を重視した。大学で、神学、法学、医学+7自由科が教えられ、著名な大学としては、ヨーロッパ最古の大学であるイタリアのボローニャ大学(法学)、同じくイタリアのサレルノ大学(医学)やフランスのパリ大学(神学)、イギリスのオックスフォード大学(神学)、ケンブリッジ大学(神学)が成立した。建築では、重厚で小さな窓、半円状アーチであるイタリアのピサの大聖堂で代表されるロマネスク様式(11C~)や尖頭アーチやステンドグラスのアミアン大聖堂(フランス)やケルン大聖堂(ドイツ)に代表されるゴシック様式(12C~)が隆盛した。文学では、ローランの歌やアーサー王物語などの騎士道文学やニーベルンゲンの歌やエッダ(北欧)の叙事詩を吟遊詩人などが語り継いだ。

 〔98〕大航海時代のはじまり

 大航海時代とはヨーロッパ人による新大陸への航海発見の時代である。地中海時代にマルコ=ポーロの「世界の記述」による刺激や羅針盤の発明により遠洋航海が可能になり、大西洋時代へと移り変わった。香辛料に対する需要や国土回復運動(レコンキスタ)の推進により、キリスト教徒の進出先が大西洋へと変わっていったともいえる。ポルトガルがエンリケ航海王子は、アフリカ西岸の探検を行う。その後、バルトロメウ=ディアスが、1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達。ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに1498年に到達し、1524年にはゴアでインド総督につき、インド航路を開拓した。こうしてポルトガルは香辛料取引により莫大な利益を上げ、都リスボンは繁栄した。ポルトガルの拠点は、インドのゴア、中国のマカオ、マレーのマラッカであった。

 〔99〕アメリカ大陸への到達

 イタリアのジェノヴァ出身のコロンブスが、トスカネリの地球球体説を信じスペイン女王イサベルの援助を受け、1492年に西インド諸島のサンサルバドル島に到達した。コロンブスはアメリカ大陸をインドと誤解し、先住民をインディアンと命名。コロンブス自身は誤解したまま一生を終えた。その後、コロンブスに続き、イタリア人のカブラルがイギリス王ヘンリ7世の命令で北米を探検。インドへの航海中にブラジルに漂着し、ポルトガル領とした。イタリアのアメリゴ=ヴェスプッチが南米沿岸を探検し、「新大陸」と確認し、1507年にドイツ人の地理学者ヴァルトゼーミューラーが作成した地図で新大陸にアメリカの名がつく。スペイン人のバルボアはパナマ地峡を横断し、太平洋を発見した。ポルトガル人のマゼランがスペイン王カルロス1世の命令を受け、アフリカ南端のマゼラン海峡を通過し、フィリピンに到達(カルロス1世の子フェリペ王子の名をつけた)が、そこで戦死し、部下が世界周航を達成。以後、フィリピンのマニラがスペインの拠点となった。

 〔100〕大航海時代の影響

 1494年にトルデシリャス条約で、ポルトガルの勢力範囲がアジア、スペインの勢力範囲が新大陸とされた。但し、カブラルが1500年に到達したブラジルはポルトガル、マゼランは1520年にマゼラン海峡を発見し、さらにヨーロッパ人で初めて太平洋を横断し、1521年にフィリピンに到達し、スペイン領とされた(マゼランはセブ島の首長ラプラプの反撃を受け死亡)。その後、1529年にサラゴサ条約が締結され、日本を通る東経133度の線で植民地分界線が引かれた。スペインによって、コンキスタドールといわれる侵略が行われ、コルテスがメキシコのアステカ王国を1521年に滅ぼし、ピサロがペルーのインカ帝国を1533年に滅ぼした。征服したスペイン人はインディオを酷使し、虐殺した。こうした状況をスペインのドミニコ会宣教師のラス=カサスが、「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」を著し、エンコミエンダ制(インディオに対するキリスト教の教化と保護を条件に植民者に統治を委任すること)の廃止をスペイン王カルロス1世に訴え、批判した。

 大航海時代の影響で、商業の中心が地中海から大西洋へ変わる商業革命や新大陸の銀(ポトシ銀山や有名で、メキシコのアカプルコからガレオン貿易でフィリピンのマニラを通じて中国へもたらされた)が西欧に流入し、価格革命が起きた。結果として、物価が上昇(インフレーション)する一方、銀が多く流入することで、農奴が銀を多く蓄えるようになり、領主層の地位が低下した(価格革命により、固定の貨幣地代を農奴が払いやすくなった)。一方、エルベ川以東の東欧では、現金収入を得るため、領主が輸出用穀物を生産し、西欧諸国に輸出することで、農奴制が強化(再版農奴制)され、この強化に基づく領地の在り方を農場領主制という。また、新大陸から新しい物(タバコ、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト)が流入し、生活革命が起きた。新大陸の銀の生産は、メキシコ、ボリビアのポトシ銀山などであった。

 〔101〕古アメリカ文明

 モンゴロイド系民族が氷河時代にベーリング海から渡米し、トウモロコシを栽培し、中米、南米に文明を築いた。巨石人面遺跡などで知られるオルメカ文明や前2C~6Cにメキシコ高原で繁栄したテオティワカン文明がある。メキシコ高原では、都テノチティトランにピラミッド型神殿や暦法、絵文字を作っていたアステカ王国(15C)がスペインのコルテスにより滅亡した。ユカタン半島の古アメリカ文明では、グアテマラにマヤ文明が発達していた。ピラミッド型神殿、二十進法、暦法、絵文字があったが、スペインにより滅亡。アンデス高地(ペリーやボリビア)では、紀元前にチャビン文化ではトウモロコシが栽培されていた。15Cには、インカ帝国が都クスコとし、マチュピチュなどが存在した。インカ帝国では、太陽崇拝しており、国王は太陽の化身であった。高度な石造技術を持っており、キープといわれる結縄を文字の代わりとしていた。古アメリカ文明の共通の特色としては金、銀、青銅器の使用はあったが、鉄器や車輪(ウマなどの大型家畜)の使用がなかった。

 

文明 ユカタン メキシコ アンデス(ペルー)
文明 マヤ アステカ インカ
  テノチティトラン クスコ
文字 あり あり キープ
滅ぼした国   コルテス ピサロ

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
1 2

3

4 5 6
PAGE TOP
お電話