〔102〕イタリアルネサンス

 ルネサンスは再生の意味で14C~16Cにイタリアのフィレンツェなどで起こった文化・経済・宗教などすべてが「神」中心だったヨーロッパ中世から「人間らしい視点」や「人間性の尊重」「個性の尊重」などが生まれた。ルネサンスは、人間中心であるとはいえ、支援者が教会や王権であったため、テーマは神が多いうという限界はあった。ルネサンス時代は政治的分裂や抗争が多くあったが、その中で、マキャベリがチェーザレ=ボルジアをモデルとして、「君主論」を著し、宗教や道徳に囚われない政治の手法を説いた。文学では、ダンテが、ラテン語ではなく、イタリアのトスカナ語で叙事詩「神曲」を著した。また、ペトラルカは、ヒトの心情を描く「抒情詩集」を著し、ボッカチオが「デカメロン」で古い権威を風刺し、近代小説の元を築いた。絵画では、ジョットがルネサンス美術の祖とされ、ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」「春」などを描いた。レオナルド=ダ=ヴィンチが「最後の晩餐」や「モナリザ」を描き、遠近法を用いて、写実的に人間を描いた。ミケランジェロは、「最後の審判」や「ダヴィデ」像を制作した。ラファエロは多くの聖母子像を描いた。建築では。ルネサンス様式として、ブルネレスキがサンタ=マリア大聖堂(フィレンツェ)を設計し、ローマでは、ブラマンテやミケランジェロが設計したサン=ピエトロ大聖堂が建設された。

〔103〕諸国のルネサンス

 ネーデルラントでは、16C最大の人文主義者といわれるエラスムスが、1509年に「愚神礼賛」(痴愚神礼賛とも表記)で教会の腐敗を批判した。また、ファン=アイク兄弟が、油絵画法を創始し、フランドル派の祖とされた。ブリューゲルの「農民の踊り」など、農民画家が登場した。

 イギリスでは、チョーサーが「カンタベリ物語」、トマス=モアが1516年に「ユートピア」を書き、理想社会を説く一方、ヘンリ8世を批判した。シェークスピアは、「ハムレット」「マクベス」などの戯曲を書いた。

 ドイツでは、デューラーの「四使徒」やホルバインの絵画が知られ、スペインでは、セルバンテスの「ドン・キホーテ」が書かれ、滅びゆく騎士道を風刺した。

 天文学では、コペルニクスが地動説を唱え、そのほか、ルネサンスには、羅針盤や火砲、活版印刷技術(グーテンベルク)が発明された。

 〔104〕ドイツの宗教改革

 キリスト教のカトリックを批判するプロテスタントといわれる宗派(ルター派、カルヴァン派、イギリス国教会)が生み出され、宗教改革が進んだ。

 神聖ローマ帝国での宗教改革としては、サン=ピエトロ大聖堂の建築費の資金調達のため、フィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したのに対し、ヴィッテンベルク大学のマルティン=ルターが、1517年に「95ヵ条の論題」で批判し、ついで1520年に「キリスト者の自由」で福音主義、信仰義認説、万人司祭主義などの理念を発表した。ルターは信仰義認説を唱え「人は信仰によってのみ義とされる」と考えたが、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が、1521年ヴォルムス帝国議会でルターの追放を決定した。ザクセン選帝侯フリードリヒが、ヴァルトブルク城にルターを匿い、ルターは新約聖書のドイツ語訳に専念した。ルターの影響として、ルターの教えに共感したミュンツァーが農奴制廃止など農民の十二箇条などを掲げ、1524年にドイツ農民戦争を起こした。ルターははじめ、同調していたが、後に弾圧する側に回った。また、ルター派の諸侯が、1531年にシュマルカルデン同盟を結成し、1545年にトリエント公会議を開催し、結束を強め、帝国に抵抗(プロテスト、プロテスタントの語源)し、1546年にシュマルカルデン戦争を起こした。こうした動きに対して、カール5世は、諸侯に領地の宗派をカトリックかルター派かを選択させるアウクスブルクの和議を1555年に締結する。

 〔105〕宗教改革の広がり

 スイスのチューリッヒで、ツヴィングリの改革を起こすが、1531年にカッペルの戦いで戦死し、失敗に終わる。一方、同じスイスのジュネーヴでカルヴァンが1536年に「キリスト教綱要」を発表し、厳格な禁欲主義による神の絶対主権を唱え、ジュネーヴで神権政治を行った。教皇の権威を否定し、長老主義を導入し司祭制度を廃止した。また、思想的には予定説で知られる。予定説とは魂の救済は予め神によって予定されているという考え方です。予定説は営利活動や蓄財を肯定し、後の資本主義の精神を育成した。カルヴァン派は次第に拡大していき、フランスではユグノー、ネーデルラントではゴイセン、スコットランドでは、プレスビテリアン、イングランドでは、ピュータリンと呼ばれるようになった。

 イギリスの宗教改革では、テューダー朝のヘンリ8世が、皇后ガザリン(キャザリン)と離婚し、教皇と対立。それに対し、ヘンリ8世は、1534年に首長法を発布し、イギリス国教会を築いた。離婚後、アンブーリンと結婚したが、これも政争争いで妻を死刑にした。ヘンリ8世は修道院を解散し、土地や財産を没収した。その子、エドワード6世が、1549年に一般祈祷書の制定をし、カルヴァン派的教義に基づいて制定した。次のメアリ1世はスペイン王フェリペ2世と結婚し、カトリックが復活した。その後、エリザベス1世の代に、統一法が発布され。イギリス国教会が確立した。

 〔106〕対抗宗教改革

 ルター派やカルヴァン派に対抗するためにカトリック教会も自己変革運動を行い始めた。カトリック教会は、教皇パウルス3世が、1545年にトリエント公会議を開き、教皇の至上権を再確認。禁書目録、宗教裁判を強化。また、1534年、イエズス会(別名「ジェズイット教団」)が、イグナティウス=ロヨラ、フランシスコ=ザビエルらにより成立した。厳格な規律と組織を整え、ヨーロッパ内外で宣教活動を開始した。特にアジア・ラテンアメリカの布教を熱心に行い、大航海時代の潮流に乗った。その結果。カトリックとプロテスタントの大綱が激化し、オランダ独立戦争、1562年~のユグノー戦争(フランス)、1618年のベーメンの反乱に始まるドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱から始まる三十年戦争(ドイツ)が起こった。その影響で、魔女狩りや宗教裁判が強化させた。

 〔107〕主権国家体制とイタリア戦争

 国内を統一的に支配する主権者が出来て、主権国家が成立する(近代国家の原型)。特に主権国家での「主権者」が「国王」で、絶対的な権力を持つ場合、「絶対主義」といわれる。国王は、官僚と常備軍という二つの体制を整備し、官僚により主権者の命令を国内にいきわたらせた。また、常備軍により、主権者への反抗を防ぎ、他の主権国家と戦った。官僚と常備軍の維持には莫大なお金が必要であり、国王の権威を維持するため、重商主義を採用した。資本家が労働者を雇用し、分業と協業をさせる工場制手工業(マニュファクチュア)や問屋制を促進し、資本主義を芽生えさせた。

主権国家体制が整い始めると、仏王フランソワ1世(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国のカール5世(ハプルブルク家)が、イタリアに干渉しあう、イタリア戦争を起こすが、1559年にカトー=カンブレジ条約が締結されフランスはイタリア攻略を諦める(主権国家形成のきっかけ)。

〔108〕スペインの全盛期

神聖ローマ帝国のカール5世はスペイン王カルロス1世も兼任していたため、挟撃される形となったフランスのフランソワ1世はオスマン帝国と1535年、カピチュレーション(オスマン帝国のスレイマン1世がフランソワ1世に与えた通商特権)を結んだ。ハプスブルク家のイサベルとフェルナンドの子、カルロス1世(ハプスブルク家)は神聖ローマ帝国に選定され、スペイン国王と神聖ローマ帝国を兼任することとなり、カール5世と名乗った。その後、イタリア戦争で、フランス、オスマン帝国と戦った。カール5世の子、フェリペ2世は、1571年レパントの海戦でオスマン帝国海軍(セリム2世)を打ち破り、スペイン海軍は無敵艦隊と言われるようになった。続き、フェリペ2世はポルトガル王位も兼任し、アジア貿易の利権を獲得した。その結果、スペインは「太陽の沈まぬ国」と言われた。対イギリス政策としては、メアリ1世と結婚し、イギリスにカトリックを復活させるが、エリザベス1世と対立し、1588年、アルマダ海戦(海賊ドレークが活躍)で無敵艦隊が敗北した。

全盛期のスペインの躓きは、オランダの独立があった。スペイン国王フェリペ2世は熱心なカトリック教徒であったが、商工業の発達したオランダではゴイセン(カルヴァン派)が多かったため、フェリペ2世がオランダへの圧迫強め、カトリックの強制や重税を課した。それに対し、オランダはオラニエ公ウィレムが1568年に反乱を起こし、オランダ独立戦争が始まった。スペインは。オランダの分裂を促し、北部7州(独立派)が、1579年にユトレヒト同盟を結成し、ネーデルラント連邦共和国の成立を宣言し、南部10州はアラス同盟を結成し、スペインとの戦争中止を決め、スペインにとどまった(のちのベルギー)。しかし、オランダは最終的にスペインに勝ち、1609年に休戦条約が結ばれ、ネーデルラント連邦共和国は事実上独立した(首都はアムステルダム)。

〔109〕イギリスの隆盛と混乱

テューダー朝はヘンリ7世により創始されるが、その子ヘンリ8世が1534年に首長法を発布し、イギリス国王を教会の首長とするイギリス国教会が成立した。次のエドワード6世が、1549年にイギリス国教会の礼拝式の様式を定めた一般祈祷書(カルヴァン派的教義)を作成したが、次代のメアリ1世はカトリックに戻る。その後、跡を継いだエリザベス1世は絶対王政全盛期を迎え、統一法を発布しイギリス国教会を確立する。また、スペインの無敵艦隊を1588年、アルマダ海戦で撃破した。内政面では、この時代に、羊毛生産の拡大を受け、第一次囲い込み運動(地主たちが農民を追い出す)が盛んになったため、毛織物工業を保護し発展させた。これはヘンリ8世のとき、トマス=モアが1516年に「ユートピア」で「羊が人を食う」と批判した。海外政策では、1600年に東インド会社を設立し、アメリカのヴァージニア植民地を開拓した。イギリスの王政の特徴は、地方有力者(ジェントリ)の協力が必要であった。しかし、エリザベス1世がなくなると、テューダー朝が断絶し、スチュアート朝が成立した。スチュアート朝のジェームズ1世はスコットランド王であったため、スコットランドとイギリスの両国を治めた。ジェームズ1世は王権神授説を唱え、専制政治を行う。ジェームズ1世は国教会を強制するが、カルヴァン派(ピューリタン)の不満を買った。次のチャールズ1世も国教会を強制し、フィルマーの唱える王権神授説を強行し、専制政治を行った。議会は、こうした専制政治に抵抗し、1628年にエドワード=コークの提案で権利の請願を制定した。それに対し、チャールズ1世は議会を解散させた。しかし、カルヴァン派(プレスビテリアン)中心にスコットランドの反乱がおき、チャールズ1世は鎮圧の費用を賄うため、王は課税のため、議会を招集するが、議会の反発を買い、短期議会となり、すぐに解散した。そこで、チャールズ1世は長期議会を開催し、13年間の話し合いを行う。その間に議会は、王党派と議会派に分裂し、内乱に発展する。

〔110〕ピューリタン革命

1639年に起きたスコットランドの反乱(長老派が起こした乱)の戦費課税のためにチャールズ1世が短期議会、長期議会を開催する。始めは、チャールズ1世は星室庁裁判所の取り締まり強化し、議会を圧迫した。議会派内部では、長老派(立憲王政)と独立派(共和制)が対立するが、独立派のクロムウェルが鉄騎隊を組織し、長老派を追放した。これが1642年のピューリタン革命となる。1645年にネースビーの戦いで国王軍は敗北した。クロムウェルは共和制の穏健派水平派も弾圧し、最終的に1649年にチャールズ1世を処刑し、イギリスは共和制国家(コモンウェルス)となった。クロムウェルは、アイルランドを征服し、先住民のケルト人の土地を没収し、小作人化し、さらに1651年に航海法を制定し、オランダ商船のイギリスの港への出入りを禁止した。その結果、1652年から英蘭戦争が起きるが、イギリスが勝利した。

〔111〕名誉革命

クロムウェルの死後、1660年にスチュアート朝が復古し、チャールズ2世が専制政治を復活し、カトリックの復活を画策するが、議会の反発を買い、議会は対抗策として公職を国教会信者に限る審査法を制定、さらに人身保護法により国王による国民の不当な逮捕を禁止した。この対立の中から、政党が起こり、トーリー党(国王の権威を重視)とホイッグ党(議会の権利を重視)が成立した。チャールズ2世の弟ジェームズ2世も専制政治を行い、カトリックの復活を画策するが、またも議会の反発を買い、1688年に議会がジェームズ2世を追放し(フランスへ亡命)、名誉革命を起こした。議会は、「権利の宣言」を承認し、オランダからウィリアム3世とメアリ2世を招聘し、即位した。これにより、1689年に「権利の章典」が制定され、立憲君主制が成立した。同年、議会は寛容法を制定し、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認め、和解を図った。これを受け、オランダに亡命していたロックがイギリスに戻り、1690年に「統治二論」を著し、名誉革命の正当性を社会契約説から理論づけた。ウィリアム3世とメアリには子がいなかったので、メアリの妹のアンが女王が即位した。アン女王が没するとスチュアート朝が断絶し、ドイツのハノヴァ―選帝侯であるジョージ1世が国王として迎え入れられた。ジョージ1世はドイツ語しか解せず、そのため、ウォルポール(ホイッグ党内閣)による責任内閣制が確立した。内閣は議会に対して責任を負い、「王は君臨すれども統治せず」と言われた。

〔112〕ユグノー戦争

フランソワ1世(1515~1547)の死後、アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と続くが、国内にカルヴァン派(ユグノー)が広まり、カトリックと対立が深まっていく、シャルル9世の治世時(摂政は母、メディチ家出身のカトリーヌ)に、1562年にユグノー戦争が起き、内戦状態に突入する。1572年に旧教徒のカトリーヌが首謀し、ユグノーを根絶しようとサンバルテルミの虐殺が起き、多数のユグノー貴族が虐殺され、内戦は泥沼化する。ヴァロワ王朝最後のアンリ3世が暗殺され、ブルボン家でユグノー(カルヴァン派)のアンリ4世が即位しブルボン朝に代わった。アンリ4世は、1598年にナントの王令を発布し、自身はカトリックに改宗する一方、国内のユグノーに信仰の自由と市民権を認めた。1610年、アンリ4世が暗殺され、ルイ13世が9歳で即位。宰相はリシュリュー。リシュリューは王権を強化し、三部会を停止し、ユグノーや貴族勢力を抑圧した。新教徒側に立ち、三十年戦争に介入し、ハプスブルク家に対抗する。

〔113〕ルイ14世

続く、ルイ14世は宰相マザランによる政治が行われ、1648年にフロンドの乱が起き、高等法院や貴族の反乱が起こるが、鎮圧。三十年戦争の講和会議に参加し、1648年のウェストファリア条約で、オーストリア・ハプスブルク家からアルザス地方の実質的領有権を獲得した。ルイ14世が親政を行うようになると「太陽王」といわれ、絶対王政の最盛期を迎える。ボシュエの王権神授説を唱え、財務総監にコルベールを登用し、重商主義政策を行い、1664年にフランス東インド会社を再建し、北アメリカミシシッピ川流域に広大な領土を獲得し、ルイジアナと命名した。ヴェルサイユ宮殿の造営(バロック様式の代表)。南ネーデルラント継承戦争やオランダ侵略戦争、1688年のファルツ戦争、オーストリア・イギリス・オランダを相手に1701年、スペイン継承戦争を行う。ルイ14世は自身の孫をスペイン王家に継がせようとした。続く英仏植民地戦争では、アン女王戦争で敗れ、1713年、ユトレヒト条約で、孫のフェリペ5世の即位を承認させるが、戦争で国力が弱体化し、実質的にはイギリスが勝利し、スペインからジブラルタルがイギリスへ、フランスからハドソン湾やニューファンドランドやアカディアイをイギリスへ譲り渡した。ルイ14世の晩年は侵略戦争と宮廷の浪費、ナントの王令を廃止(ユグノーを禁止)した。

次のルイ15世は、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い、1763年パリ条約でカナダとルイジアナを失い、インドでも主権をイギリスに奪われることとなった。ルイ15世の宮廷では、ポンパドゥール婦人が実験を握り、文化の保護も行った。ポンパドゥール夫人は、マリア=テレジアと外交革命を行った。

〔114〕三十年戦争

1555年のアウクスブルクの和議で、約300もの諸侯らがその領邦内の宗派を自由に決められるようになった。神聖ローマ帝国皇帝カール5世の死後、ハプスブルク家のフェルナンド2世は国内のベーメン(ボヘミア)に対し、カトリックの信仰を強要したが、1618年にそれに反対した新教徒がベーメンの反乱を起こすと、ヨーロッパの新旧両国(カトリック側はスペイン、プロテスタント側はデンマークやスウェーデン)が介入して、全ドイツを戦場とする三十年戦争(1618~1648年)が勃発した。当初は、傭兵隊長ヴァレンシュタインがスウェーデン王グスタフ=アドルフやフランス側からは宰相リシュリューの軍勢に対し優勢であったが、戦況は硬直し、1648年ウェストファリア条約で講和する。アウクスブルクの和議の再確認(ルター派やカルヴァン派も公認)、フランスのアルザス地方を獲得するものの、スイス、オランダの独立を承認した。諸侯は完全な主権を認められ、神聖ローマ帝国は有名無実化した。そのため、ウェストファリア条約は神聖ローマ帝国の死亡証明書ともいわれる。

〔115〕プロイセンとオーストリア

三十年戦争以後、神聖ローマ帝国の中から、プロイセンとオーストリアが強大化する。プロイセンは、ホーエンツォレルン家。ブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国(ドイツ騎士団領)が合併し、エルベ川以東を支配し、ユンカーの農民支配が強かった。

フリードリヒ=ヴィルヘルム1世(軍隊王)が軍備増強し、1888年フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「君主は国家第一の僕」と称し、啓蒙専制君主として知られた。フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと親交を結び、サン=スーシ宮殿(ロココ様式の代表)を立てた。

オーストリアでは、ハプスブルク家が支配し、1740年にマリア=テレジアが即位する。彼女の即位が原因となり、1740年~1748年のオーストリア継承戦争が勃発する。オーストリアのマリア=テレジアの即位に対し、フリードリヒ2世が抗議した。プロイセンが勝利し、鉄鉱石と石炭が取れるシュレジエン地方を獲得した。1756年に七年戦争が勃発し、マリア=テレジアがシュレジエンの奪還を図り、オーストリアとフランスが同盟し、外交革命といわれるが、再びプロイセンが勝利する。戦後のオーストリアは、ヨーゼフ2世が啓蒙専制君主として活躍する。1781年に宗教寛容令や農奴解放などの改革を行うが、挫折をする。

啓蒙専制君主(プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世)とは、学問によって立派な人格者となり、国民から尊敬される君主のことであり、国民よりの改革を行う。しかし、絶対的な権力を保持し続けた。

〔116〕ロシアの動き

ロシアでは、元々前5世紀頃、遊牧民族のスキタイが活躍していた。金細工の装飾品などで知られる。その後、東ゴート族をフン族が圧迫して移動してきた。そして、4~6Cにスラヴ人が住み始めた。そして、ノルマン人のリューリクがノヴゴロド国を建国し、その後、スラヴ化し9C頃にキエフ公国が生まれた。キエフ公国のウラディミル1世が、10C頃にギリシア正教に改宗する。その後、チンギス=ハンの孫のバトゥのキプチャク=ハン国の征服せれるが(「タタールのくびき」)、1642年にイヴァン3世がキプチャク=ハン国から自立し、モスクワ大公国を建国し、ツァーリを自称。イヴァン4世(雷帝)の時代に正式にツァーリを用い、コサックの首長イェルマークの協力を受け、シベリアを支配下とする。建築では、ワシーリー聖堂などが作られた。

その後、1613年にミハイル=ロマノフがロマノフ朝を建国する。1670年にトン=コッサクによりステンカ=ラージンの反乱が起きるが、鎮圧する。その後、ピョートル1世(大帝、身長2メートル以上あったと言われている)が、絶対王政の基礎を確立する。西欧化政策をとり、西ヨーロッパ諸国を視察するため、オランダの造船所に密かに弟子入りする。シベリア経営では、清の康熙帝と1689年にネルチンスク条約を結び、国境を画定する。北方戦争ではスウェーデン王12世を破り、バルト海に進出し、新都ペテルブルクを建設する。エカチェリーナ2世は、ドイツから嫁いできた女王であった。ヴォルテールと親交を結び、啓蒙専制君主となった。日本へはラクスマンを派遣した。しかし、プガチョフの乱が起き、鎮圧後は絶対主義が強化される。ポーランドでは、ヤゲヴォ朝が断絶したのに乗じ、ポーランドを分割し、ロシア(エカチェリーナ2世)とオーストリア(ヨーゼフ2世)とプロイセン(フリードリヒ2世)の三国によって分割統治されることとなった。ポーランドでは、コシュ―シコが分割に抵抗するが失敗した。また、武装中立同盟を宣言し、アメリカ独立宣言へ干渉しなかった。1801年に即位したアレクサンドル1世はアウステルリッツの戦いでナポレオンに敗北するが、ナポレオンのロシア遠征には勝利した。

〔1117〕ヨーロッパ諸国の海外進出

アジア進出(16C~)では、ポルトガルとスペインの時代で、ポルトガルはインドのゴア、中国のマカオを拠点とした。スペインはフィリピンのマニラを拠点とした。

17Cになると、オランダ、イギリス、フランスがアジアへ進出した。各国とも東インド会社を設立し、アジア貿易の独占権を持った。

17C後半になると、オランダが、インドネシアを勢力圏とし、バタヴィアを拠点とした。アンボイナ事件でオランダがイギリスを破り、インドネシアからイギリスを締め出した。

 イギリスはインド経営に集中し、インドの植民地化を推進した。拠点としては、マドラス(東岸)、ボンベイ(西岸)、カルカッタ(ガンジス川下流)を置いた。

 フランスは財務総監コルベールの下、インドに進出。拠点はマドラス近郊のポンディシュ

リ、カルカッタ近郊のシャンナゴルに置き、イギリスと軋轢を起こし、七年戦争の裏で、プラッシーの戦いが起き、イギリスとフランスが戦うが、クライヴの活躍でイギリスが勝利し、インドはイギリス領となる。

 アメリカ大陸へ進出したのは、オランダ、イギリス、フランスの三か国であった。オランダは西インド会社を設立し、ニューアムステルダムを建設(後にイギリスが買収しニューヨークとなる)。フランスはルイ14世時代に広大なルイジアナを手に入れた。イギリスは、ヴァージニア植民地、ニューイングランド植民地などを建設した。のちに、これらのイギリスの植民地は「13植民地」と言われるようになる。

 スペイン継承戦争のユトレヒト条約によって、フランスはイギリスにニューファンドランドとハドソン湾、アカディアを譲る。七年戦争の裏で、アメリカで、イギリスとフランスが争いフレンチ=インディアン戦争が起きた。イギリスが勝利し、パリ条約で、ミシシッピ以東のルイジアナをイギリスが獲得した。ミシシッピ以西はスペイン領となった。

 ヨーロッパ諸国の貿易スタイルは、大西洋三角貿易といわれる。アメリカからタバコ、砂糖、綿花、コーヒー、金や銀をヨーロッパに運び、その開拓にアフリカ西部の奴隷をアメリカへ移住させ、労働を強制した。そして、ヨーロッパからアフリカへ武器や雑貨を輸出した。

 〔118〕17~18世紀のヨーロッパ文化

 物理学では、ニュートンが万有引力の法則を発見し、化学では、ラヴォワジェが質量保存の法則を見つけ出した。分類学がリンネによって興され、医学ではジェンナーが種痘法を確立した。哲学では、イギリス経験論がフランシス=ベーコンによって創始され、帰納法で結論に達する考えを示し、大陸合理論では、デカルトが演繹法に基づく考え方を示した。経験論と合理論をカントが統合し、ドイツ観念論が生まれた。グロティウスが国際法を興し、「戦争と平和の法」を著し、ホッブスが国王の専制政治の必要性を説く「リヴァイアサン」を発表した。ロックは、人民の反抗の権利(革命権)を主張し、「統治二論」を発表。ケネーが農業を重視する重農主義の「経済表」、アダム=スミスが、自由主義的な古典派経済学を確立し、「諸国民の富」を表した。啓蒙思想が隆盛し、理性を絶対として旧来の体制を批判し、民衆を無知から解放する思想運動が起きた。ディドロ(仏)、ダランベール(仏)らが「百科全書」を編集し、啓蒙思想を集大成した。ヴォルテール(仏)は、諸国の王との交流を深め、啓蒙思想を広め、そのやりとりを「哲学書簡」で示した。モンテスキュー(仏)は「法の精神」を著し、三権分立を唱えた。ルソー(仏)は、「社会契約論」で平等に基づく、人民主権論を唱えた。

 社会契約説では、自然状態では、ルールがなく、生命・財産の危機や不安を抱えるため、社会が成立しないと考え(ホッブス「万人の万人に対する闘争状態」)、社会に秩序やルール、法が必要だと考えられた。ホッブスは、強大な王権が必要と考え、絶対王政を擁護した。それに対して、ロックは、為政者の権力は必要だが、分散されるべきであり、権力に問題があれば、時に革命をしても良いと考えた。ルソーは、全員でルールを決めて全員でそれに従うのが良いと考えた。

 文学では、古典主義では悲劇作家のコルネイユ(仏)、ラシーヌ(仏)、喜劇作家のモリエール(仏)が活躍した。ピューリタン文学では、ミルトン(英)は「失楽園、バンヤン(英)は「天路歴程」を著した。市民小説では、デフォー(英)が「ロビンソンクルーソー」、スウィフト(英)は「ガリバー旅行記」を著した。ドイツ古典主義では、ゲーテ(独)が「ファウスト」を著した。絵画や建築では、見えないものを具象化する豪華で華麗なバロック様式が生まれた。ルーベンス(フランドル)、ベラスケス(スペイン)、レンブラント(蘭)が登場した。ヴェルサイユ宮殿(ルイ14世)に代表される繊細で優雅なロココ様式が生まれた。ヴァトー(仏)、フラボナール(仏)が絵画を築き、フリードリヒ2世が、サンスーシ宮殿を作った。

 〔119〕産業革命

18世紀後半の三つの変化がある。それは、アメリカ独立、フランス革命、産業革命(イギリス)である。産業革命とは、工場制手工業から工場制機械工業への移り変わりを指す。産業革命が18世紀のイギリスで起きたことには三つの要素がある。一つは、毛織物工業による利潤があり(資金)、二つ目は、植民地戦争に勝利し海外市場を持っていたこと(市場)、そして三つ目は、穀物生産のための第二次囲い込み運動があり、大量の失業者が発生しており、労働者がいた(労働力)ことによる。それまでは三圃制が行われていたが、イギリスでは四輪作法と呼ばれる農業革命が起きていた。具体的には、小麦、かぶ、小麦、クローヴァーを蒔くというノーフォーク農法が発達していた。ノーフォーク農法は、土地が細分化されているより大規模に行う方が効率よく、富裕層が土地を買い占めていたため、もともと土地をもっていた農民たちが失業者となっていた。

 機械の発達は、綿織物工業が発達したことに伴っていた。ジョン=ケイ(英)が飛び杼といわれる織り機を発明した。次に、ハーグリーヴス(英)が、ジェニー紡績機という多軸紡績機を発明した。そして、アークライト(英)が水力紡績機を作り、クロンプトン(英)が、ミュール紡績機を発明した。そして、カートライト(英)が、織り機を改良し、力織機を発明した。一方、ホイットニー(米)は、綿繰り機を発明した。

 機械の発達としては、ニューコメン(英)は初期の蒸気機関を発明した。続く、ワット(英)は、蒸気機関の改良を行った。ダービー親子(英)は、コークス製鉄法を発明し、交通機関としては、トレヴィシックが発明した城機関車を、スティーヴンソン(英)が蒸気機関車を実用化した。ストックトンからダーリントン間で実用化し、マンチャスターとリヴァプール間で営業運転を開始した。フルトン(米)は蒸気船を作り出した。

 〔120〕産業革命の影響

 イギリスは産業革命をいち早く達成し、「世界の工場」といわれる地位へ上り詰め、ベルギー、フランス、ドイツ、アメリカ、日本、ロシアへと波及し、その他の国々(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ)では、産業革命を達成した国に原料を供給し、消費を売りつけられる従属的な地位となった。

資本家は生産手段(機械)を持ち、労働者は生産手段を持たず、資本家から給与を得ていた。こうした工場制機械工業の出現により、家内工業・手工業が没落していった。こうして資本家(産業資本家)が台頭し、大工場経営、社会的地位が向上した。新しい都市として、大工業都市として、マンチェスター(綿織物工業)、バーミンガム(製鉄)が生まれ、大商業都市としてリヴァプール(マンチェスターで作られた商品がリヴァプールから輸出された)が発達した。

このような中、労働者階級(プロレタリアート)が成立し、長時間労働や低賃金、不衛生な環境などで労働が行われ、労働問題・社会問題が発生した。この結果、労働者と資本家の階級対立が発生した。労働組合が誕生し、社会主義思想が生まれた。

〔121〕アメリカ独立戦争

独立前のアメリカは、スペイン継承戦争前はフランスが支配し、ユトレヒト条約、続く、フレンチ=インディアン戦争のおあり条約でイギリスに大部分が渡り、イギリスの北アメリカ植民地であった。ヴァージニア植民地、ニューイングランド植民地(メイフラワー号で植民したピリグリム=ファーザーズ)などあわせて13植民地が存在した。それぞれの植民地では、植民地議会を持ち、互いにバラバラであった。

独立の背景として、本国イギリスの重商主義政策が大きかった。フレンチ=インディアン戦争(ヨーロッパでは、七年戦争)の戦費を、植民地への重税により賄おうとした。税の内容として、砂糖法や印紙法(全ての出版物に対して)を課した。1765年、パトリック=ヘンリが「代表なくして課税なし」と抗議し、更に1773年にボストン茶会事件を起こし、独立戦争が勃発した。1775年、レキシントンの戦いで、初めて衝突した(アメリカ独立戦争1775年~83年)。植民地軍の司令官にはワシントンが就任した。1776年にジェファソンが「独立宣言」を声明し、基本的人権や革命権を認めた。トマス=ペインは「コモン=センス」で独立と共和制を主張し、フランスやスペイン、オランダの参戦を、フランクリンが訴え、更にロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を提唱した。ラ=ファイエット(仏)やコシューシコ(ポーランド)も独立戦争に米側に立って参戦した。1781年、ヨークタウンの戦いで、アメリカ・フランスの連合軍がイギリスに勝ち、植民地軍の決定的な勝利となった。その後、パリ条約でアメリカ合衆国の独立をイギリスは承認し、さらにミシシッピ以東のルイジアナをアメリカに譲った。

アメリカ歴代大統領では、1789年ワシントン、1801年第3代ジェファソンがミシシッピ以西のルイジアナを買収。1809年マディソンは、アメリカ=イギリス戦争では、ヨーロッパで、ナポレオン戦争でイギリスから協力要請を断り、フランスを援護した。

〔122〕合衆国憲法の制定

合衆国憲法を制定するにあたり、憲法制定会議では、共和制の民主主義であり、基本的人権、国民主権をとり、合衆国政府と各州政府の二重政府だが、中央政府(合衆国政府)に大きな権限がある連邦主義を採用、そして、連邦議会、大統領、最高裁判所と三権分立の原則を重視した。憲法を支持したハミルトンらは連邦派と憲法に批判的なジェファソンら反連邦派が対立。初代大統領はワシントンとし、首都はワシントン特別区として建設され、政府が発足した。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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