〔123〕フランス革命(1)ブルボン王政

フランス革命としては、ブルボン王政、国民議会、立法議会、国民公会、ジャコバン派独裁、総裁政府、統領政府、第一帝政と段階を踏む。フランス革命とはフランスで革命が起こり、共和制になったことであり、王権が最も強い国での革命であったため、世界中に影響を与えた。革命の背景としては、フランスの社会構造にあり、革命前の社会体制をアンシャン=レジーム(旧体制)といわれ、三つの身分、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)によって構成されていた。第一身分や第二身分は特権階級とされ、免税特権を持っていたが、第三身分である平民には重税が課せられた。

アンシャン=レジームに対する不満を持っていた第三身分に啓蒙思想が普及し、神や王に対する疑問が生じ、不合理だと考えられるようになった。シェイエスが「第三身分とは何か」という書物を著し、第三身分の権利を主張した。

ルイ14世時代に対外戦争と宮廷の浪費により財政は悪化し、ルイ15世は七年戦争へ介入し、ルイ16世はアメリカ独立戦争へ介入し、国家財政は緊迫した。ルイ16世は、財政を立て直すための改革を行おうと、テュルゴー(重農主義者)やネッケル(銀行家)を登用した。デュルゴーやネッケルは特権身分への課税を図るが、特権身分の反発を受け、議会で議論すべきだとされた。そこで、ルイ16世は170数年ぶりに三部会を1789年に招集した。しかし、第一身分が308名、第二身分は285名、第三身分が621名であったため、三部会の議決方法について頭数か身分ごとの投票か揉める。そこで、第三身分が三部会から離脱し、1789年6月17日に「国民議会」と名乗り、6月20日に「球戯場の誓い(テニスコートの誓い)」を行い、自分たちの憲法を作るまでは解散しないと主張した。

〔124〕フランス革命(2)国民議会

三部会から平民が離脱し出来た国民議会で、中心人物はラ=ファイエットやミラボーなどの立憲君主派が中心であった。国王による国民議会弾圧に対して、民衆は蜂起し、1789年、7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃した。民衆は、封建的特権の廃止宣言し、農奴制や十分の一税、領主裁判権の無償廃止を求めた。ラ=ファイエットが人権宣言を起草し、人権宣言を採択した。自由・平等、主権在民、言論の自由、私有財産の不可侵などを記した。パリの物価が高騰し、パリの女性たちがヴェルサイユ宮殿へ向かい、ルイ16世をパリへ連行した(ヴェルサイユ行進)。

〔125〕フランス革命(3)立法議会

それに対して、ルイ16世が妃マリー=アントワネットの実家であるオーストリアへ逃亡しようとするヴァレンヌ逃亡事件が起きるが、失敗する。これを受けて、王に対するフランス国民の気持ちは失望に変わった。そこで、1791年憲法制定がされる。テニスコートの誓いが達成されたので国民議会は解散し、立法議会へ変わっていく。立法議会内部では対立が生じ、フイヤン派(立憲君主派)とジロンド派(共和派)に分かれた。ジロンド派が実権を握ると王や王妃が殺される危険があるため、王妃マリー=アントワネットの実家のオーストリアが革命を潰しにかかった。ジロンド派内閣は、オーストリアに宣戦布告し、戦争が始まるが、オーストリア・プロイセンの常備軍が当初圧倒する。しかし、フランスの各地から義勇軍が集結した。その際、フランス国家「ラ=マルセイエーズ」が誕生した。国民の王に対する感情は更に悪化し、8月10日事件で、王権を停止し、共和制が開始される。

〔126〕フランス革命(4)国民公会(5)ジャコバン派独裁

議会は、立法議会からフランス初の共和政を担当する国民公会へ変わった。この段階を第一共和政という。革命軍はプロイセンやオーストリアの常備軍に苦戦していたが、1792年9月20日に、ヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン同盟軍に勝利する。その結果、ルイ16世が処刑された。周囲の国王はこの状況に恐れた。そこで、諸国はイギリスの首相ピットの提唱の下に、第1回対仏大同盟を結成される。これにより、フランスでは対抗するため強いリーダーシップを発揮していたジャコバン派へ権力が集中し、ジャコバン派独裁へ移る。ジャコバン派は下層市民(サン=キュロット)や農民の支持を受け、マラーやダントン、ロベスピエールが主導的役割を担った。いつしかロベスピエールが実権を掌握し、ロベスピエールによる恐怖政治が行われる。ロベスピエールは公安委員会と革命裁判所に権力を集中させ、急進的な改革を行った。農奴が領主へ支払っていた封建地代の無償廃止し農奴制をなくし、革命暦を採用、徴兵制を実施し、最高価格令を発布した。しかし、最高価格令は市民層の反感を買った。ロベスピエールは反対派をギロチンへかけて処刑していくが、独裁への不満が高まり、1794年7月テルミドールのクーデタ(テルミドール9日の反動)が起き、ロベスピエールは逮捕され革命広場(コンコルド広場)でギロチンにより処刑された。

〔127〕フランス革命(6)総裁政府

ジャコバン派独裁に対する反省として、常に五人の総裁による話し合いで政治を運営する総裁政府が生まれた。その中で、私有財産の廃止、政府転覆を計画したバブーフの反乱が起きる。そして、第2回対仏大同盟が結成されるが、総裁政府は対応できず、民衆の期待はナポレオンへ集中していく。ナポレオンは、コルシカ島出身で、第1回対仏大同盟でイタリア遠征でオーストリア軍を倒し、引き続きイギリスのインド支配を弱めるためのエジプト遠征で勝利した(その際にロゼッタ=ストーンを発見し、その後、シャンポリオンがヒエログリフを解読した)。その後、1799年、ブリュメール18日のクーデタで、ナポレオンが総裁政府を倒し、統領政府を樹立し、ナポレオンが第一統領となった。外交面では、アミアンの和約でイギリスと講和し、第2回対仏大同盟を崩壊させた。内政面では、私有財産の不可侵や法の前の平等などフランス民法典としてナポレオン法典を制定した。その頃、フランス銀行が設立。ナポレオンは国民投票により皇帝に就任し、第一帝政が始まった。

〔128〕フランス革命(8)第一帝政の時代

ナポレオンによる帝政が始まり、第一帝政が行われるが、諸国は第3回対仏大同盟が結成し、対抗した。ナポレオンは、ネルソン率いるイギリス海軍に大敗する(トラファルガーの海戦)ものの、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、ロシア・オーストリア軍を破った。こうしてナポレオンは1806年にライン同盟を結成し、西南ドイツ諸国をナポレオンの同盟国にし、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅し、ナポレオンは大陸支配を開始した。ティルジット条約でプロイセンに屈辱的条約を結ばせ、プロイセンの領土は半減し、ワルシャワ大公国などが建国された。ナポレオンは大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布し、諸国にイギリスとの通商を禁止させた。しかし、反ナポレオン運動が展開され、スペインの反乱(解放戦争の口火)、プロイセンの改革(シュタインやハルテンベルクが推進)を行い農奴解放、教育・軍制改革を行った。また、独ではフィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」を著す。一方、ロシアは大陸封鎖令を破り、イギリスに穀物を輸出した。それに対し、ナポレオンはモスクワ遠征を開始するが、ナポレオンは大敗北する。更にライプチヒの戦いで、ナポレオンは敗北し、エルバ島に流された。その後、ナポレオンは、エルバ島を脱出し、皇帝へ復位した。しかし、ワーテルローの戦いで、ウェリントン率いるイギリス軍に敗北し、セントヘレナ島へ流され、死去する。

〔129〕ウィーン会議

ヨーロッパに一瞬空白地帯が生まれ、ウィーン会議でナポレオン戦争の戦後処理が行われた。参加者は、オーストリアの外相メッテルニヒ(ウィーン会議の主催者)、フランスはタレーラン、ロシアはアレクサンドル1世であった。フランスのタレーランが会議の基本原則として、正統主義(フランス外相タレーランの提唱)であり、ヨーロッパをフランス革命の状態に戻す、というものであった。しかし、利害が対立し、会議は進まない。これを称して「会議は踊る、されど進まず」と言われた。そのタイミングでナポレオンがエルバ島を脱出し、百日天下が起きた。ウィーン会議での取り決めとしては、ウィーン体制が敷かれ、フランスはブルボン朝のルイ18世(ブルボン朝の復古王政)が復活し、ポーランド王国が創設され、ロシアが王位を兼任した。イギリスはオランダからケープ植民地やセイロン島を獲得した。オランダはオーストリアからベルギーを獲得した。オーストリアはイタリアからヴェネツィアやロンバルディアを獲得。ドイツでは、ドイツ連邦が成立した。ウィーン体制を守るため、神聖同盟(ロシアのアレクサンドル1世が提唱)、四国同盟(イギリス、プロイセン、オーストリアの四カ国)、後にフランスが加わり、五国同盟になった。

〔130〕ウィーン体制の動揺

従来通りの支配を続けたいというウィーン体制であったが、アメリカ独立やフランス革命によって、民衆や民族は自由や独立を求めるようになった。ウィーン体制を揺らがす二つの考えとしては、絶対王政から国民主権の国、つまり国民が自由に政治にできる「自由主義」という考え方が隆盛し、ドイツではブルシェンシャフト運動(学生運動)。イタリアではカルボナリの乱(炭焼党の乱)、ロシアではデカブリストの乱(十二月党の乱)が起きた。もう一つの考え方としては、他国に支配されず、民族が自分の国を持ちたいという国民主義という考え方が隆盛した。国民主義を求める運動としては、ギリシア独立戦争(オスマン帝国に対するギリシアの独立戦争)が起きた。このギリシア独立戦争には詩人バイロンが参戦した。

ウィーン体制の動揺は、ラテンアメリカの諸国の独立に顕著に現れた。ナポレオン戦争やウィーン会議でヨーロッパ諸国のラテンアメリカへのマークが外れ、独立運動が盛んに起こった。まず、トゥサン=ルベルチュールの指導で、初の黒人共和国であるハイチがフランスから独立した。ベネズエラ、コロンビア、ボリビアなど南米の北部は、シモン=ボリバルの指導で次々と独立していった。アルゼンチンやチリなど南米の南部は、サン=マルティンの指導により独立、メキシコもイダルゴの指導により独立した。こうした動きに対して、オーストリアのメッテルニヒが独立に歯止めをかけようとするが、アメリカは、ヨーロッパはアメリカ大陸のことに口を出すなという趣旨のモンロー教書を出し、ラテンアメリカを独立させ商売相手にしたいイギリスは外相カニングの外交により、ラテンアメリカの独立を支援した。独立後のラテンアメリカでは、独立を指導したクリオーリョ(植民地生まれの白人)がその後の支配者となった。

〔131〕七月革命

ウィーン会議で復活したブルボン復古王政(ブルボン朝)では、ルイ18世による王政が復活し、シャルル10世の時、絶対王政を唱えだした。国民は不満を高めるが、その国民の不満をそらすため、アルジェリアに出兵し、フランスの植民地とした。しかし、国民の不満は止まらず、パリ市民が武装蜂起し、七月革命が起き、シャルル10世は国外逃亡した。この七月革命をドラクロワが「民衆を導く自由(の女神)」を描いた。その後成立した政府は、七月王政と言われ、オルレアン家のルイ=フィリップが即位した。しかし、大銀行家や大資本家など優遇したため、「株屋の王」(あだ名は洋梨)と言われ、国民の不満が爆発し、二月革命に移行する。しかし、七月革命の影響でベルギーの独立(オランダからの支配下より独立)、ポーランド、ドイツ、イタリアで反乱が起きた。

〔132〕二月革命と第二共和政

七月王政への不満で二月革命が起き、ルイ=フィリップが亡命し、七月王政が崩壊し、第二共和政へ移った。二月革命の影響で、「諸国民の春(1848年)」が起き、ベルリンやウィーンでは三月革命が起き、メッテルニヒが亡命し、ウィーン体制が実質的に崩壊した。オーストリア支配下の地域、ハンガリーやベーメンやイタリア北部で反乱が起きた。第二共和政では、穏健共和派(貧しいが自分の土地を持つ農民)と社会主義者(労働者)が対立した。社会主義者のルイ=ブランが入閣し、失業者救援のため、国立作業場を建設した。しかし、四月選挙で、社会主義は大敗した。それで六月暴動を起こすが、失敗し、ルイ=ブランは亡命した。こうした対立の中から、ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が大統領に当選し、その後独裁政権を樹立し、第二帝政へ移った。

〔133〕第二帝政、第三共和政

ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオンが皇帝に就任し、ナポレオン3世と称した。農民と労働者、資本家の均衡の上に立った。パリの万国博覧会を開催し、パリの市街を整え、美化した。外征を行い、クリミア戦争でロシアに勝利し、アロー戦争で中国に勝ち、イタリア統一戦争に勝ち、インドシナ出兵に勝った。その勢いでメキシコ遠征を行うが敗北し、信望を失った。プロイセン=フランス戦争で大敗北を喫し、セダンの戦いでは捕虜となり、退位した。ドイツに敗北したフランスは、国民防衛政府を樹立し、ドイツと講和をした。続く臨時政府ではティエールが独と不利な条約を結び国民の不満を買い、史上初の労働者政権であるパリ=コミューンが成立するが、僅か二ヶ月で崩壊した。その後、憲法制定し、第三共和政の基礎を築いたが、不安定な政情であった。

〔134〕19世紀イギリス前半自由主義改革

フランスでは王権がもともと強かったため、人々は革命により自由や権利を求めたのに対して、イギリスではもともと王権が弱く、議会主権が成立しており、人々は改革により自由や権利を求めた。その代わり、労働者と資本家の貧富の差が大きく、対立が激しかった。

宗教面での自由主義改革では、イギリス国教会以外の公職を認めない審査法を廃止し、オコンネルの努力によりカトリック教徒解放法を発布された。

政治面での自由主義改革では。第1回の選挙法改正が行われ、腐敗選挙区の廃止を行った。腐敗選挙区とは、第二次囲い込み運動によって生まれた、選挙区にごく少数の有権者いない選挙区のこと。

経済面での自由主義改革では、東インド会社の貿易独占権を廃止し、コブデン、ブライトらの反穀物法同盟により、穀物法は廃止された。また、航海法も廃止された。

しかし、産業革命の進行により、貧富の差が拡大したため、ラダイト運動(機械打ち壊し運動)や失業した手工業者が工場を襲った。また、チャーティスト運動が起き、男子普通選挙などを求めた「人民憲章」を掲げた労働者階級の政治運動が起こった。初期の社会主義思想は、空想社会主義と言われ、イギリスのロバート=オーウェンが労働者の待遇改善を求め、工場法制定に繋がった。フランスのサン=シモンやフーリエが新しい社会秩序を求め、同じくフランスのルイ=ブランは生産の国家統制を主張し、プルードンが無政府主義を唱えた。科学的社会主義では、マルクスとエンゲルスが共著で1848年に「共産党宣言」を発表、その後、「資本論」を発表した。

〔135〕19世紀イギリス後半ヴィクトリア時代

1837年に僅か18歳でヴィクトリア女王が即位し、繁栄した。世界初の万国博覧会として、1851年にロンドン万国博覧会が開催された。1867年、第2回選挙法改正では都市労働者に選挙権を与え、1884年グラッドストン内閣で第3回選挙法改正では、農業労働者に選挙権を与えた。政権は、二大政党制で運営され、保守党(元のトーリー党)では、ディズレーリ内閣が、スエズ運河を買収し、インド帝国を成立させた(ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる)。自由党(元のホイッグ党)では、グラッドストン内閣の時にエジプトが保護国化され、第3回選挙法改正を行った。アイルランド問題(民族はケルト系、宗教はカトリック)では、イギリスの不在地主によるアイルランド小作人の支配が行われたが、自由主義改革の影響で、オコンネルの1829年カトリック教徒解放法により宗教上の差別が解消した。ヴィクトリア時代には1845年からジャガイモ飢饉(大飢饉)が起き、アメリカへの移民が拡大したため、グラッドストン内閣によりアイルランド土地法が成立された。アイルランド自治法案が提出されるが、否決され、独立運動が激化した。

〔136〕東方問題・クリミア戦争

ロシアは、ボスフォラス海峡及びダーダネルス海峡といった不凍港を手に入れようとオスマン帝国を争う。東方問題とはオスマン帝国支配下の諸民族の独立運動を巡る情勢の変化を指し、南下政策をとるロシアにはボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡を支配する絶好のチャンスであった。

ギリシア独立戦争では、ギリシアを支援し、ギリシアが独立し、海峡の利用権を手にした。エジプト=トルコ戦争では、オスマン帝国を支援し、不凍港獲得を狙ったが、失敗した。その結果、直接戦争を仕掛けて不凍港獲得を狙い、聖地管理権問題を口実に、1853年にロシアのニコライ1世はクリミア戦争を起こした。しかし、イギリスとフランスがオスマン帝国を支援して参戦した。クリミア半島を舞台に激戦化し、ナイチンゲールが登場の背景となった。最終的に、セバストーポリ要塞の攻防戦でロシアが敗北した。1856年にパリ条約(クリミア戦争の講和条約)によって黒海が中立化し、ロシアの南下政策は失敗した。

〔137〕ロシアの改革と露土戦争

クリミア戦争に敗北し、ロシアは遅れを悟り、アレクサンドル2世の改革が行われる。農奴解放令(農奴を解放)を出し、ミール(農奴共同体)に土地を与えたが、実質的には農奴たちはミールに再編成され、納税の義務を負っただけであった。ナロードニキ(人民主義者)たちがヴ=ナロード(人民の中へ)を掲げ、社会主義改革を図るが、失敗(都会に出たインテリゲンツィアたちが中心)。1877年のロシア=トルコ戦争では、ロシアが勝利し、1878年、サン=ステファノ条約で、セルビア、ルーマニア、モンテネグロのオスマン帝国からの独立を認めさせ、ブルガリアの自治も認めさせた。こうしてロシアは同盟国伝いに海に出ることが可能となった。しかし、同年のベルリン会議をビスマルクが開催し、サン=ステファノ条約を破棄させ、ブルガリアの領土を縮小し、ロシアの南下政策をストップさせた。

〔138〕イタリアの統一

イタリアは、北部はオーストリアに支配され、パルマ、ルッカ、モデナ、トスカーナ、教皇領、両シチリア王国、サルデーニャ王国など分裂状態にあった。そこで、「青年イタリア」をマッツィーニが結成し、ローマ共和国を名乗り統一活動を行うが失敗した。

北からサルデーニャ王国が、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもと、首相カヴールが活躍し、フランスにサヴォイア、ニースを割譲し、ナポレオン3世の協力を求め、統一活動を行い、北イタリアを統一した。南は、青年イタリアの出身のガリバルディが、「赤シャツ隊」(千人隊)を組織し、両シチリア王国を占領した。最終的にガリバルディがサルデーニャ王に占領地を献上しイタリアが統一された。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が国王として即位し、ヴェネツィアやローマ教皇領を併合し、ほぼ現在のイタリアとなる。しかし、北部にオーストリアが支配するトリエステや南チロルなど未回収のイタリアとして残り、両国の問題となる。

〔139〕ドイツの統一

これまでのドイツは、大まかにフランク王国〔カール大帝、都はアーヘン〕→東フランク(カロリング朝)→神聖ローマ帝国(オットー1世やハインリヒ4世、フリードリヒ1世)→ドイツ騎士団やハンザ同盟→神聖ローマ帝国(カール1世、カール5世)→プロイセンでは、フリードリリ非=ヴィルヘルム1世、フリードリヒ2世などでオーストリア継承戦争や七年戦争に参戦する)→ライン同盟と至るが、ウィーン会議でドイツ連邦が成立した。フランスの七月革命の影響で、経済学者リストの提唱により、ドイツ関税同盟が生まれた。政治的統一のため、フランクフルト国民議会が起こるが、小ドイツ主義(統一したドイツからオーストリアを外す)と大ドイツ主義(統一したドイツにオーストリアを入れる)が対立した。プロイセン王ヴィルヘルム1世が宰相にビスマルクを任命し、「この問題は鉄と血により解決される」と語り、鉄血政策を行う。プロイセン=オーストリア戦争が起こり、プロイセンがオーストリアを破り、ドイツからオーストリアを除外した。その結果、北ドイツ連邦が成立し、オーストリアを除外した形でのドイツ統一の進行が、盟主プロイセンによって進んだ。その後、フランスに先手を打つようにプロイセン=フランス戦争を起こし、ナポレオン3世を破り、ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国を宣言した。

オーストリアは、プロイセンに敗北した結果求心力を失ったため、ハンガリーに自治を任せるオーストリア=ハンガリー帝国となり二重体制となった。

〔140〕ビスマルク時代

ヴィルヘルム1世はユンカー出身の宰相ビスマルク。帝国の官職はユンカーが独占していた。ビスマルクの内政は、南ドイツのカトリック教徒との文化闘争では妥協し、社会主義的結社は禁止、集会・出版の制限をし、社会主義者鎮圧法案を通し、社会民主党を弾圧した。しかし、弾圧の一方で、災害保険、疾病保険、養老保険などの社会福祉政策は充実させた。

 ビスマルクの外交政策は、フランスからのリベンジに備え、イタリア、オーストリア、ロシアと同盟をして、フランスを孤立化させた。

ヨーロッパに抜きん出た強国が出ないように均衡を図り、三帝同盟(ドイツ、ロシア、オーストリア)、三国同盟(ドイツ、イタリア、オーストリア)を構築した。また、ロシアとは再保障条約を締結した。イギリスは「光栄ある孤立」政策をとっていたため、これらの結果、フランスは完全に孤立していった。

勢力均衡のための会議としては、ロシア=トルコ戦争後のロシア南下政策を阻止するためベルリン会議を起こし、アフリカ分割の際にもベルリン会議を開催した。

〔141〕アメリカの拡大

独立後のアメリカの歩みとしては、第3代大統領ジェファソン大統領の下、民主主義が発展した。ナポレオン戦争中のイギリスに対する通商妨害から、アメリカ=イギリス戦争を開戦した。この結果、アメリカ経済がイギリスから独立した。第5代モンロー大統領は、ヨーロッパとアメリカは相互不干渉とし、ラテンアメリカの独立をアシストするモンロー教書を出し、以後アメリカは外交政策として孤立主義を取った。第7代ジャクソン大統領は西部出身の初の大統領で、アメリカの民主化に努力(ジャクソニアン=デモクラシー)し、ジャクソン派は後の民主党となった。しかし、先住民には厳しい政治を行い、インディアン強制移住法をとり、インディアンをミシシッピ以西に強制移住させた。

アメリカでは、領土拡大はもはや「明白な天命(マニフェスト=デスティニー)」であると考えられ、はじめは13植民地プラスミシシッピ以東のルイジアナ(パリ条約により獲得)であったが、ミシシッピ以西のルイジアナをフランスから買収し、フロリダをスペインから買収した。続き、メキシコから独立したテキサスを併合し、オレゴンをイギリスから獲得、アメリカ=メキシコ戦争でカリフォルニアを獲得した。「西部」開拓によるフロンティア=スピリットが形成された。

〔142〕南北アメリカの対立

アメリカでは、北部は産業の中心が商工業となり、多くの製品を生産していた。そのため、イギリスとはライバル関係にあり、イギリスとの間に高関税を敷き、イギリス製品をブロックする保護貿易を行いたい状況であった。一方、南部は、産業の中心は綿花であり、農業が中心であった。原料を売る側であったので、イギリスを始め世界の国々に商品を販売したかった。できるだけ関税をなくし、綿花をイギリスにもっと売りたいと考えていた(自由貿易)。南部は綿花の生産がメインであるため、単純な労働力として奴隷を必要としていた。北部は、質の高い労働力を求め、奴隷ではなく労働者を欲した。その結果、北部は奴隷制に反対し、南部は奴隷制度存続に傾いていった。北部も南部も西部の州を取り込みたいと考えるようになった。そこで、西部開拓の際、新しく州を設ける際に自由州か奴隷州かを決めていた。そこで、ミズーリ協定(北緯36度30分以北を自由州、以南を奴隷州と定めた)を締結したが、カンザス=ネブラスカ法でミズーリ協定を破棄し、住民に委ねることがあると、抗議をした北部の人々が共和党を組織した。ストウ夫人の「アンクル=トムの小屋」など奴隷制反対を訴えた文学作品などが生まれた。

〔143〕アメリカ南北戦争

北部と南部の争いは、南北戦争を勃発させ、北部はリンカン大統領(共和党)、南部はジェファソン=デヴィスのアメリカ連合国となった。はじめはリー将軍の指揮する南部が優位であったが、西部農民の支持を得るため、ホームステッド法を設立させ、開拓農民に土地所有権を認めた。また、1863年に奴隷解放宣言をし。南部の奴隷たちを味方に付けようとした。結果、ゲティスバーグの戦いで北部が勝ち、南部が降伏した。

 南北戦争後、合衆国憲法上は奴隷制廃止されたが、南部諸州は州法で差別は行い続けた。また、解放された南部の奴隷は、シェアクロッパー(分益小作人)として、元の農場主に経済的に従属していた。しかし、大農場主が没落し、クー=クラックス=クラン(ハン国人秘密結社、KKK)が生まれた。一方、西部の開拓は進み、世界一の小麦生産国となった。また、1869年に大陸横断鉄道が成立した。1890年代にフロンティアは消滅したが、豊富な天然資源を背景に、西部の国内市場は拡大し、世界一の工業国へ進展した。この時代、アメリカでは移民による労働力が増加し、低賃金、重労働となったため、アメリカ労働総同盟(AFL)が結成された。

(144)19世紀欧米の文化

芸術では、ロマン主義、写実主義、自然主義、印象派が生まれた。ロマン主義は、革命の中から生まれた「理想」を絵画や文学で表現した。詩では、ギリシア独立運動に参加したバイロン、絵画ではドラクロアの「民衆を導く自由の女神」「キオス島の虐殺」、音楽では、ショパンやシューベルトが登場した。写実主義は。理想に走りすぎたロマン主義を修正し、ありのままの姿を描こうとし、文学では、スタンダール、バルザックが先駆け、フロベールが確立した。絵画では、クールベがいる。自然主義では、写実主義を推し進め、人間の暗部を描くことが自然だと主張し、絵画ではコローやミレー、文学ではゾラやモーパッサンが生まれた。印象派は、光の描き方を研究し、「雰囲気」や「空気感」を描いた。代表的な人物には、マネやモネ、ルノワールがいる。この流れに逆らうように後期印象派が存在し、ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンが代表される。学問では、哲学では、ベンサムが「細大多数の最大幸福」を唱え、功利主義の祖となり、ヘーゲルはドイツ観念論を大成し、弁証法哲学を確立した。マルサスやリカードはアダム=スミスの流れを組む古典派経済学が成立し、ランケは史実の研究により史実を追求する近代史学の基礎を作った。リストは経済を軸に歴史の発展を唱える歴史学派経済学を唱え、コントは社会の構造を科学の目で追求する実証主義を唱え社会学を進展させた。ダーウィンは進化論を唱え、キリスト教世界に衝撃を与えた。エディソンは様々な発明をし、マイヤー・ヘルムホルツはエネルギー保存の法則と発見した。ファラデーは電気分解、レントゲンはX線、キュリー夫妻はラジウム、パストゥールやコッホは細菌学を生み出した。地理上の発見としては、太平洋やオーストラリアは、オランダのタスマンやイギリスのクック、アフリカはリヴィングストンやスタンリー、北極はピアリ、南極はアムゼン、スコットなどの探検家が活躍した。

〔145〕帝国主義

帝国主義の時代は、第一次産業革命(18C~19Cにかけて石炭と蒸気力を背景に機械で製品を生産)から第二次産業革命(19C後半以降、石油と電力を背景に機械で機械を生産する)に移行したことが背景にある。第二次産業革命以降、沢山のモノが生産され、モノ余りの不景気となった。また、競争に勝つために企業はカルテル(企業連合)やトラスト(企業合同)を形成した。敗北した企業の労働者の一部は移民となり新興国へ流入した。競争に勝った企業は莫大な利益を手に入れるが、更に儲けるために、資本を借入金で用意し、設備投資を加速させた。このように銀行から多くのお金を借り入れるようになると、産業の支配者が銀行となり、金融資本による支配が確立した。また、生産過剰になり、売りつけ先が見当たらなくなると海外に植民地を広げ、商品の販売先を確保しなければならなくなった。また、原料を生産できるところであるほうが良いため、こうした土地を求め、アジアやアフリカに植民地を求める欧米諸国が殺到する帝国主義が生まれた。

〔146〕帝国主義時代のイギリスとフランス

帝国主義時代のイギリスの植民地政策として、白人系植民地には自治領を形成して間接支配を行った。代表例にはカナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アメリカなどがある。非白人系の植民地(インド)では直接支配を行った。こうした帝国主義政策を担ったのが、保守党の党首であるディズレーリ首相であり、スエズ運河の株式買収やインド帝国を成立させた。ジェゼフ=チェンベレン植民相は、南アフリカ戦争(ブール戦争)を主導した。

この時代のイギリスでは、ウェッブ夫妻によるフェビアン協会が母体となり、労働党が成立した。また、1911年にアスキス内閣のもとで、議会法が成立し、下院の優越を規定した。また、アイルランド自治法案が可決されるものの、第一次世界大戦を理由に実施が延期された。国教会信者が多い、北アイルランドは自治に反対し、独立を訴えるアイルランドのシン=フェイン党と対立した。

帝国主義時代のフランスは、第三共和政の時代で、プロイセン=フランス戦争の敗北により、非常に不安定であり、国内に国民の不満が高まっていた。その中で、1889年に、ブーランジュ事件で、右翼によるクーデタが起こるが未遂に終わった。また、ドレフェス事件で、ユダヤ系のドレフェス大尉がドイツのスパイの疑義をかけられたが、文豪ゾラが働きかけ、無罪となったが、ユダヤ人に対する差別問題が表面化した。

帝国主義時代のフランスの内政では、労働総同盟が成立し、サンディカリズムを推進した、1905年にフランス社会党が成立した。

〔147〕列強のアフリカ分割

探検家リヴィングストン(英)が行方不明となり、やスタンリー(米)が捜索すると、アフリカの事情がヨーロッパ列強に詳細に伝わった。ベルリン会議では、コンゴを巡る対立をビスマルクが仲介し、先占権を認めることが決まった(早い者勝ち)。

イギリスは、アフリカ縦断政策をとり、エジプト、スーダンに対しては、ディズレーリ内閣が、スエズ運河の株式買収を仕掛け、ウラービーの反乱を鎮圧し、エジプトを占領。続く、マフディーの反乱を鎮圧し、スーダンを占領。ディズレーリ→ジョゼフ=チェンバレン(植民相)→セシル=ローズ(ケープ植民地首相)により、1899年からの南アフリカ戦争で、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国を併合した。

フランスはアフリカ横断政策をとり、アルジェリアを占領し、チュニジアを保護国化した。ジブチやマダガスカルとの連絡路を確保しようとした。しかし、イギリスの縦断政策とフランスの横断政策が衝突し、1898年にファショダ事件が起きたが、フランスはイギリスに譲歩し、英仏協商が締結され、イギリスのエジプト、フランスのモロッコ領有を相互承認した。ドイツは、カメルーンを領有し、ベルギーはコンゴをレオポルド2世の私有地として領有した。イタリアは、ソマリランドやエリトリアを獲得する一方、エチオピアの領有化は失敗した。アフリカの独立国は、エチオピアとリベリアのみとなった。

〔148〕第一次ロシア革命

第一次ロシア革命は、第一次大戦前の時期であった。ロマノフ朝帝政最後の工程であるニコライ2世が専制政治を継続していた。フランス資本が導入され、資本主義が発達し、代行業が発展、シベリア鉄道が着工された。ロシア社会民主労働党(マルクス主義)が分裂して、レーニンに代表される多数派のボルシェヴィキ(急進派)、プレハーノフらによる少数派のメンシェヴィキ(穏健派)が成立した。また、ナロードニキの流れをくむ社会革命党が成立した。他に立憲君主制を主張する立憲民主党があった。

不凍港が欲しいロシアは東側からの南下を目指すが、1904年に日露戦争が勃発する。しかし、日本に実質的に敗北し窮乏した国民は、1905年1月9日に神父ガポンに率いられた労働者が皇帝へ請願しようと集まったが、コザック兵により虐殺される「血の月曜日」事件が起きた。この事件を契機に、全国で反皇帝運藤が広まり、全国にソヴィエト(評議会)が結成された。そこで、首相ウィッテが起草し、皇帝が独裁を緩め、憲法制定と国会(ドゥーマ)開設も約束した(十月宣言)。しかし、動乱が乗り切るとニコライ2世は反動化し、ツァーリ専制政治を復活させ、首相ストルイピンによる反動政治が始まり、議会解散、革命派の弾圧、ミールの解体を行ったが、1911年キエフの劇場で皇帝の面前でユダヤ人青年に暗殺された。

〔149〕アメリカの帝国主義

アメリカは南北戦争で、植民地争いに出遅れたが、豊富な資源を背景に自国で資本主義が発達史、世界一の工業国へ成長していた。しかし、フロンティアが消滅したため、帝国主義政策を行うようになった。マッキンリー大統領(共和党)が、スペインから独立しようとしたキューバを支援し、アメリカ=スペイン戦争が始まった。勝利したアメリカは、新しく独立したキューバを保護下へ置き、フィリピン、グァムを獲得した(「パリ条約」)。大西洋、中国への進出を狙いハワイを併合した。国務長官ジョン=ヘイにより、門戸開放宣言を行い、中国へ進出しようとした。

セオドア=ローズベルト大統領(共和党)は、革新主義、反トラスト法で行きすぎた独占企業を防止した。カリブ海政策としては、「棍棒外交」といわれる積極外交を行い、パナマ運河を着工した。ウィルソン大統領(民主党)は反トラスト法を教化し、中。下層民に有利な改革を行い、パナマ運河を完成させ、管理権を掌握した。

〔150〕太平洋の分割、ラテンアメリカの従属

オランダのタスマンが、タスマニア諸島を探検し、イギリスのクックがオーストラリアを探検し、イギリスの流刑植民地にし、ニュージーランドのボルネオ北部などニューギニアの一部を領有した。ドイツは南洋諸島、ビスマルク諸島、マリアナ、マーシャル、パラオなどを領有した。アメリカは、アメリカ=スペイン戦争によりフィリピンの領有権を奪取した。また、アギナルドによるスペインからの独立運動が行っていたが、今度はアギナルドによるアメリカへの抵抗を行ったが、アメリカに敗北した。また、アメリカはハワイを領有した。ラテンアメリカ諸国では、シモン=ボリバルがラテンアメリカ諸国の連帯と共同防衛の会議を開催した。アメリカは、パン=アメリカ会議を開催し、アメリカの主導権を強化しようとした。アメリカのカリブ海政策では、マッキンリーによりアメリカ=スペイン戦争でキューバの独立を助けるが、プラット条項により事実上保護国にした。また、セオドア→ウィルソン時代にパナマをコロンビアから独立させつつ、パナマ運河をアメリカが占有した。メキシコは、フレアス大統領がナポレオン3世のメキシコ出兵を撃退し、ディアス大統領が外国資本による近代化を行い、貧富の差が拡大した。それに対して、自由主義者のマデロ、農民指導者のサパタがディアスを追放した(メキシコ革命)。

〔151〕列強の二極化とバルカン危機

ドイツでは、皇帝ヴィルヘルム2世が即位した。即位したヴィルヘルム2世はビスマルクを辞任させ、世界政策を掲げ、帝国主義政策を推進した。パン=ゲルマン主義を唱え、同盟国伝いにベルリン、ビザンチウム、バグダッドを結ぶ3B政策を展開した。イギリスのカイロやケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策と対立した。そして、再保障条約を破棄して、ロシアを敵に回し、露仏同盟を成立させてしまう。イギリスは英露協商、英仏協商を結び、対立が表面化していく。そして、フランスの植民地でモロッコ事件を起こした。ドイツ、イタリア、オーストリアの三国同盟と、イギリス、フランス、ロシアの三国協商(英仏協商相、英露協商、露仏同盟)が対立していった。そのうち、ドイツの取った3B政策とイギリスの3C政策の対立、ドイツのパン=ゲルマン主義(ゲルマン系の民族をドイツの味方とみなし、バグダード鉄道の完成を図る)とロシアのパン=スラヴ主義(スラヴ系民族をロシアの味方とし不凍港の獲得を図る)が対立、またフランスはもともとプロイセン=フランス戦争のリベンジをしたいと考えていた。

ヨーロッパの火薬庫といわれるバルカン半島で、ドイツ側のオーストリアが、ボスニア=ヘルツェゴビナを併合した。ロシアはこれに対抗し、バルカン同盟(ルーマニア、セルビアなど)を結成した。バルカン戦争が起き、バルカン戦争の結果、敵対する国々が交差されるように配置された。その中で、オーストリアの皇太子がセルビアで暗殺された。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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