〔152〕第一次世界大戦

セルビア人がオーストリア皇太子を射殺したサライェヴォ事件が起きた結果、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、それに対し、ロシアはセルビアを支援した。すると、瞬く間に各国が参戦し、同盟国(ドイツ側)では、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア、協商国では、イギリス、ロシア、フランス、日本、イタリアが参戦した。機関銃が登場したことで、塹壕戦となった。西部戦線では、マルヌの戦い、ヴェルダンの戦い、ソンムの戦いが起き、東部戦線では、タンネンベルクの戦いでドイツが圧勝する。しかし、海戦となるとイギリスが制海権を握っており、ドイツを海上封鎖した。次第にドイツの物資が不足しだし、国家の総力を尽くした総力戦となる。新兵器としては、航空機、毒ガス、戦車、潜水艦が生まれた。ドイツは物資不足から、無制限潜水艦作戦が行った。これによって、アメリカの船が攻撃され、アメリカも参戦することとなった。ドイツは次第に劣勢になる一方、ロシアはブレスト=リトフスク条約で戦争から降り、ドイツでもキール軍港で水兵が暴動を起こし、全国で暴動が広がり(ドイツ革命)、ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命し、ドイツは敗戦した。

(153)ロシア革命

ロシア革命では、世界ではじめての社会主義による国家(ソヴィエト連邦)が成立した。2回の革命によってロマノフ朝が倒れ、第一次世界大戦を降りたことになった。社会主義では、生産手段を国有化し、給与を分配しようとする考え方である。第一次世界大戦が長期化し、国民生活が窮乏し、首都ペトログラード(ペテルブルク)でデモやストライキが全国化していった。労働者兵士のソヴィエト(評議会)が組織され、皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝が滅亡し、政権は臨時政府に引き継がれる三月革命(ロシア暦二月革命)が起きた。

臨時政府(資本家中心)は戦争を維持する方針をとった。しかし、兵士、農民、労働者による各ソヴィエトが自治を始め、国家単位のソヴィエトが成立しつつあり、二重権力状態が生じた。亡命先のスイスから帰国したレーニンが、四月テーゼを発表し、「すべての権力をソヴィエトへ」「戦争の即時停止」を訴えた。新首相ケレンスキーが戦争継続を主張するが、ボルシェヴィキ中心のレーニン、トロツキーが蜂起し、臨時政府を倒し、権力を握った。これを十一月革命(ロシア暦十月革命)という。こうしてソヴィエト政権が樹立し、全ロシア・ソヴィエト会議が開催された。会議では、平和に関する布告として即時講和(ブレスト=リトフスク条約)でドイツと単独講和で戦争から降りた。また、地主の土地を無償で没収する土地に関する布告を行った。

〔154〕ソヴィエト政権

ソヴィエト政権の政策としては、ブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和し、ボリシェヴィキを共産党と改称し、一党独裁を始めた。首都をペテログラードからモスクワに移し、コミテルン(第3インターナショナル)を創設し、世界中で革命を起こし、社会主義国家を増やそうとする組織(世界革命論)を整備した。これに対し、周囲の国によるロシア革命潰しとして、対ソ干渉戦争が行った。ソヴィエト政権は対抗策として、赤軍を組織し、チェカ(非常委員会)を組織し、反革命派を逮捕した。ソヴィエトは戦時共産主義をとり、農作物を強制的に徴収し、物資は配給制にした。この結果、生産が混乱、低下し、多数の餓死者が出た。そこで、ソヴィエト政権は、新経済政策(NEP)を行い、戦時共産主義を解除し、市場経済の一部復活を認めた(農作物の自由販売、企業の私的営業を認めた)。その結果、富農、資本家階級が復活した。このタイミングで、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し、ロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシの四つのソヴィエト共和国が連合した。

〔155〕ヴェルサイユ体制と国際連盟の成立

第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議がヴェルサイユ宮殿(鏡の間)で行われた。そのため、ヴェルサイユ体制(第一次大戦後の国際秩序)という。出席者はアメリカはウォルソン、イギリスは、ロイド=ジョージ、フランスはクレマンソー-などであった。ウィルソン大統領の14ヵ条が会議の基本原則となった。秘密外交の廃止、軍備縮小、ヨーロッパ諸国民の民族自決(その民族が自らの国を持つように)、国際平和機関の設立が含まれた。ヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)では、ドイツの全植民地の放棄、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、ラインラントの非武装、巨額の賠償金(1320億金マルク)、巨額の賠償金は減額されるものの、2010年10月4日まで返済に時間がかかった。他の敗戦国との講和では、サン=ジェルマン条約(対オーストリア)、トリアノン条約(対ハンガリー)、ヌイイ条約(対ブルガリア)、セーヴル条約(対オスマン帝国)などが締結され、敗戦国は領土が縮小された。オーストリア・ロシア領だった国々が民族自決の原則により新興国家が独立した。フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィアなどが成立した。

世界の恒久平和を目的とする国際連盟が本部をスイスのジェネーヴとして成立した。組織は、総会、理事会、国際労働機関、国際司法裁判所などが設置された。国際連盟は、アメリカが不参加(上院の反対により不参加)、ドイツやソ連の除外などの矛盾があった。また、全会一致主義を取っていたため、一致することが極めて困難であった。さらに、武力は持たなかった。

〔156〕国際協調の進展

米大統領ハーディングの提案で、ワシントン会議が開催された。会議では、海軍軍縮条約(主力艦の保有比率を英5、米5、日3、仏、1.67、伊1.67)とされた。四カ国条約では、太平洋地域は現状維持とされ、日米英仏が締結し、日英同盟が解消された。九カ国条約(イギリス、イタリア、ポルトガル、中国、アメリカ、ベルギー、フランス、日本、オランダ)では、中国の主権尊重、現状維持が約束された。ワシントン体制では、アジア太平洋の秩序維持が目的とされていた。国際協調の進展としては、ロカルノ条約で、ドイツと西欧諸国の現状維持、相互保障とラインラントの現状維持が約束された。その翌年、ドイツが国際連盟に加入した。また、アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相のブリアンにより、不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)が提唱され、国際紛争解決の手段として戦争を否定した。ロンドン会議では、補助艦の保有比率を英10、米10、日7に軍縮された。

〔157〕西欧諸国の停滞

第一次世界大戦後、イギリスはアメリカに莫大な借金を抱え。経済的に困難な時代となった。その間、第4回選挙法改正で、男21歳、女30歳からの選挙権が与えられ、女性に参政権を与え、第5回選挙法改正で、21歳異様のすべての男女に選挙権を与えた。また、マクドナルド首相が初の労働党内閣を組閣。アイルランド問題では、アイルランド自治法延期に抗議し、シン=フェイン党の反乱(イースターの蜂起)が起き、アイルランド自由国が成立した(この段階では、イギリスの自治領)。しかし、その後エールと改称し、事実上の独立を果たした。

フランスはドイツの賠償金の不払いを理由に、ベルギーと共にルール占領を実行した。しかし、フランスの外相ブリアンはロカルノ条約を締結し、沈静化した。

ドイツでは、戦後の混乱に乗じ、ローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトらの指導で、社会主義革命を図るスパルタクス団の活動が起きるが失敗した。1919年にヴァイマル憲法(ワイマール憲法)が制定された(初代大統領はエーベルト)。しかし、フランス、ベルギーのルール占領により、猛烈なインフレーション(物価が1.2兆倍)が発生した。それに対し、シュトレーゼマン内閣が英リツし、新紙幣レンテンマルクを発行し、インフレーションを克服した。また、アメリカ合衆国は、ドイツに対し、ドーズ案(アメリカ資本による経済復興)とヤング案(賠償額の減額1/4)を提示した。

〔158〕アメリカの繁栄と世界恐慌

大戦中、連合国に物資、戦債を提供し、債務国から債権国へ展望した。また、民主主義が進展し(女性参政権)、共和党政権下(ハーティング、クーリッジ、フーヴァー)で繁栄していく。文化面では、フォードT型、大衆娯楽(コカコーラやジャズ)などが生まれた。保守的傾向としては、禁酒法・移民法(日本を含むアジア系移民の禁止)が成立した。

しかし、1929年10月24日に「暗黒の木曜日」が起き、世界恐慌が訪れる。工業製品の生産過剰、農業不況などから、ウォール街で株価が暴落し、空前の恐慌となった。フーヴァー大統領は、フーヴァー=モラトリアムで、資本主義の自然回復力を主張し、戦債支払いの一時停止を決めたが、効果がなかった。そこで、フランクリン=ローズヴェルト大統領(民主党)による「新規まき直し」政策としてニューディール政策が行われ、農業の生産統制を行う農業調整法(AAA)や産業の生産統制を行う全国産業振興法(NIRA)を施行し、作りすぎを抑えた。また、労働者の団結権と団体交渉権を認めるワグナー法を発布した。之に基づき、産業別組織会議(CIO)が成立し、労働組合が出来た。更に、公共投資による地域開発を行うため、テネシー川流域開発公社(TVA)を設立させた。対外政策としては、善隣外交(ソ連の承認、キューバのプラット条項外し)を行った。

〔159〕ブロック経済と社会主義

世界恐慌への対応で、植民地を保有した国や社会主義国など「持てる国」と植民地が少なく対応出来なかった国である「持たざる国」へと別れた。イギリスでは、第二字幕ドナルド内閣(労働党)が失業保険削減などを行ったが、党首を降ろされた。その後、マクドナルド挙国一致内閣が生まれ、自治領の地位向上、イギリス連邦を成立させるウェストミンスター憲章、スターリング=ブロック(ポンド=ブロック)の形成をオタワ連邦会議で決定した。こうした一連の動きを、ブロック経済(自国と植民地で自給自足を図り、海外の経済的影響を避ける)という。フランスもフラン=ブロックを形成し、仏ソ相互援助条約を締結。また、反ファシズムの人民戦線内閣である社会主義よりのブルム内閣が組閣された。

ソ連では、スターリン体制が確立し、反対派の粛清、個人崇拝の強化が行われた。ソ連では、五カ年計画による計画経済を実施しており、世界恐慌の影響を受けなかった。スターリン憲法を制定し、人民戦線戦術で拡大するファシズムに対抗した。

第一次世界大戦後、後発資本主義国であるイタリアやドイツでは恐慌の対応策がない「持たざる国」であったため、国家、民族の全体に国民が従属する全体主義や露骨な侵略を行うための軍備拡張や独裁政治、軍国主義が隆盛した。

イタリアでは恐慌前からファシズムが進展しており、領土拡大の実現がならず、ヴェルサイユ体制への不満が高まっていた。政党ではファシスト党が党首ムッソリーニの下、社会の広い層から支持され、ローマ進軍を行い、首相となり、政権を握った。ファウメ併合を行い、アルバニアを保護国化した。また、ラテラノ条約で、ヴァチカン市国の独立を承認し、ローマ教皇と和解した。

ドイツでは恐慌の影響が直撃した。それに対し、ナチ党が成立し、ドイツ民族の優秀性を強調し、ヴェルサイユ条約の破棄を主張した。ヒトラーはミュンヘン一揆でクーデタによる権力奪取を図るものの失敗し、投獄される。獄中で「我が闘争」の著作を開始し、合法的に権力を得ることに成功した。共産党を弾圧し(国会議事堂放火事件)や全権委任法(立法権を政府に集中)を成立させ、一党独裁を実現し、ナチ党以外の政党、労働組合の解散を命じた。こうして、ヒトラーは総統に就任した。軍事行動を開始し、ザール地方併合、再軍備宣言、ラインラント侵入を行い、ロカルノ条約を破棄した。

〔161〕枢軸の形成・スペイン内戦

恐慌後、イタリアはエチオピアへ侵攻し、併合した。スペイン内戦でスペインが国内で革命、王政が廃止されると、人民戦線内閣が成立(社会主義より反ファシズム)した。それに対し、旧王党派や地主層から支持されたフランコ将軍が反乱を起こした。イギリスやフランスは不干渉であったが、ドイツやイタリアはフランコを援助した。それに対し、ソ連や義勇軍(ヘミングウェイやオーウェルなどの作家たち)は人民戦線内閣を援助した。だが、フランコが勝利し、ドイツとイタリアが接近した。

ベルリン=ローマ枢軸が形成された後、日独防共協定の締結され、その後、三国防共協定に拡大し、日独伊の三国同盟が成立して、三国枢軸が形成された。

〔162〕ナチス=ドイツの侵略と開戦

ドイツはオーストリアを併合し、チェコスロヴァキアを圧迫し、ズデーテン地方の割譲を要求した。英・仏は宥和政策をとり、ミュンヘン会談(英、ネヴィル=チェンバレン、仏、ダラディエ、イタリア、ドイツ)で、ドイツの領土割譲を容認した。ドイツは、チョコスロヴァキアを解体し、チェコを併合、スロヴァキアを保護国化した。また、狙いをポーランドに定め、独ソ不可侵条約を締結した。ドイツのポーランド侵攻が開始(ソ連もポーランド侵攻を開始)し、ポーランドを分割。英や仏はドイツに宣戦布告した(第二次世界大戦のはじまり)。ソ連はポーランド分割後、フィンランドに宣戦し、バルト3国を併合。ドイツは、電撃戦を行い、瞬く間にパリを占領し、南フランスにペタン元帥のヴィシー政府を立てた(ドイツの従属国家)。幸福を拒否したド=ゴール将軍はロンドンに亡命し、自由フランス政府が立てられた。フランス国内で土ド=ゴールのラジオ放送を聞いた人々の間でレジスタンス運動(対独抵抗運藤)が始まった。イギリスでは、チャーチル内閣が成立し、ドイツ軍の上陸を阻止した。

〔163〕独ソ戦と太平洋戦争

ドイツはバルカン半島へ進出するが、それが原因で独ソ関係が悪化した(日本は日ソ中立条約を締結)。その後、ドイツがソ連へ侵入し独ソ戦が開始された。ドイツのヨーロッパ支配では、人種主義政策を強制し、ユダヤ人をアウシュヴィッツなどの強制収容所で大量殺害した。各地でレジスタンスやパルチザンが組織され、ドイツの支配に抵抗する運動が起きる。

日本は、日中戦争が長期化し、南方進出へ切り替え、フランス領インドシナ北部に侵入した。日独伊三国同盟を結成し、日ソ中立条約で北方の安全を確保した。その結果、アメリカ、イギリス、中国、オランダ(ABCDライン)の経済封鎖を受けた。このABCDラインを打ち破るため、日本は真珠湾攻撃を開始し、太平洋戦争が始まった。日本は、「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、東南アジアを占領した。植民地から解放するとの名目で、強引な占領政策を行った。ミッドウェー海戦後日本が劣勢となる。

〔164〕第二次世界大戦の終結

連合国軍の主要会談としては、戦争遂行と戦後処理を話し合う会談が幾つか行われた。まず、大西洋会談(米、ローズヴェルト、英、チャーチル)では、大西洋憲章を発表し、戦後の世界構想を話し合った。カイロ会談(米、ローズヴェルト、英、チャーチル、中、蔣介石)では、カイロ宣言で対日処理方針を決定、テヘラン会談(米、ローズヴェルト、英、チャーチル、ソ、スターリン)では、ノルマンディー上陸作戦の決定をした。ヤルタ会談(米、ローズヴェルト、英、チャーチル、ソ、スターリン)では、ヤルタ宣言が出され、ドイツの無条件降伏が要求され、秘密条項として、ソ連の対日参戦が決定した。ポツダム会談(米、トルーマン、英、アトリー、ソ、スターリン)ではポツダム宣言が決定し、日本の無条件降伏が決定した。

独ソ戦で、ドイツはスターリングラードの戦いで敗北した。イタリアはムッソリーニが失脚し、降伏。パリは解放され、ドイツは無条件降伏し、ヒトラーは自殺した。日本は、サイパンを失い、本土空襲を受けることとなった。沖縄上陸が行われ、広島、長崎に原爆が投下された。ソ連はヤルタ協定に基づき、ソ連が対日参戦をした。日本は、ポツダム宣言を受託し、無条件降伏した。

 〔165〕イギリスの三角貿易(清朝の動揺とヨーロッパの進出)

 乾隆帝末期、白蓮教徒の乱が起きた。イギリスは清の貿易政策(貿易港を広州一港に限定し、公行に貿易を独占させる)のため、銀が多く流出していた。この貿易体制を片貿易という。イギリスは自由貿易を要求し、マカートニー、アマーストを派遣し、清の皇帝に要請するが、失敗した。これに対し、イギリスはインドでアヘンを生産し、中国に密輸し、三角貿易が成立した。

 〔166〕アヘン戦争と南京条約

 イギリスの三角貿易によって、清はアヘン禍と銀の流出が問題となった。特命の欽差大臣林則徐を派遣し、広州でアヘンを没収し、廃棄した。この結果、イギリスとアヘン戦争が勃発した。しかし、清は完敗し、南京条約を締結した。南京条約では、公行の廃止と香港島をイギリスに割譲された。また、上海、寧波(にんぽー)、福州、厦門、広州の五つの港が開港された。更に、イギリスは五港通商章程、虎門塞追加条約を追加し、南京条約を不平等条約化し、領事裁判権(治外法権)、関税自主権喪失を締結した。その上、アメリカと望厦(ぼうか)条約、フランスと黄埔(こうほ)条約を締結した。

 〔167〕アロー戦争と北京条約

 上海、寧波、福州、厦門、広州の五つを開港したが、北京近くの天津は開港されなかったため、アヘン戦争の南京条約ではヨーロッパ諸国の利益は不十分だと考えたイギリスは、第二次アヘン戦争(アロー戦争)が起きることとなる。広州の港で、アロー号事件が起きた。中国人がイギリスに偽装したアロー号のイギリス国旗を清朝政府が破棄したのを口実に、イギリスとフランスが、アロー戦争を開戦した。天津条約で一旦休戦するものの、帰国する英仏を相手に清が再び開戦したが、連合軍により北京が占領され円明園が破壊された。その結果、北京条約で、天津など11港を開港させ、外国公使の北京駐在及びキリスト教の布教自由を認めさせ、九龍半島南部をイギリスに割譲することとなり、アヘン貿易が公認された。清は、ここにきて始めて清は、総理各国事務衙門(外交事務官庁)を設置した。

 ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフが清への圧迫を強化し、アイグン条約を締結し、黒竜江以北をロシア領にした。さらに北京条約ではウスリー川以北の沿海州をロシアは割譲され、ウラジヴォストークと建設した。こうして、ロシアは、その前のネルチンスク条約やキャフタ条約に付け加えて国境を増やした。イリ条約では中央アジア国境が確定された。

 〔168〕太平天国の乱と用務運動

 清朝打倒を掲げた農民反乱として太平天国の乱が起きた。三角貿易で銀が手に入りにくくなり、地丁銀制の下、銀で税を払っていた民主は困窮した。洪秀全が、キリスト教結社拝上帝会を組織し、「太平天国」を建国し、首都を天京(南京と改称)とし、反乱を起こした。太平天国は、「滅満興漢」を唱え、満州族の清を滅ぼし、漢民族の国を建てよう考えた。辮髪を禁止し、纏足を禁止した。天頂田畝制度を施行し、土地を均等に分配した。この反乱に対し、曾国藩が郷勇(漢人による義勇軍)を率い湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(淮勇)を組織し、平定しようと活躍した。アメリカのウォードやイギリスのゴードンによる洋式軍など外国人も活躍した(常勝軍)。太平天国の乱の後、同治の中興といわれる一時的な安定が得られ、洋務運動(近代化運動)が起きた。洋務運動では、曾国藩や李鴻章、左宗棠が中心となり、四大工場を建設した。洋務運動では、「中体西用」が基本姿勢とされ、旧体制(皇帝独裁の清王朝)を維持しながら西洋の技術だけを導入したいと考えた。しかし、改革が半端になり、失敗し、結果的には日清戦争に敗北した。

 〔169〕日清戦争

 日本では、ペリー来航後、日米和親条約、日米修好通商条約で開国し、明治維新が起き、大政奉還し、明治時代へと移り変わっていた。大日本帝国憲法を発布し、樺太・千島交換条約(対ロシア)、台湾出兵、琉球領有し、朝鮮半島へ進出した。朝鮮では、1875年の江華島事件をきっかけに日朝修好条規(不平等条約)を締結した。李氏朝鮮末期では、壬午(じんご)軍乱が起き、改革派の閔氏(王の妻、閔妃を中心)に対する保守派の大院君らがクーデタを起こした。李氏朝鮮は、閔氏は親日派から新新派に転向し、清に助けを乞うが、失敗した。甲申政変が起き、親清派の閔氏ら事大党に対する親日派の金玉均ら独立党がクーデタを起こすものの失敗するものの、この二つの事件の結果、日清両国が朝鮮半島内に存在することとなったが、天津条約にて、日清両国の朝鮮からの撤兵と以後の出兵の相互通告を締結した。朝鮮で、全琫準(ぜんほうじゅん)が、1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)を起きた。朝鮮は自力で鎮圧できず、清へ助けを求め、清が朝鮮に出兵すると日本も出兵し、1894年、日清戦争が勃発した。日本が勝利し、下関条約で、朝鮮の独立(宗主国である清との切断)をさせ、朝鮮は大韓帝国となり、遼東半島が日本へ割譲され、賠償金を支払わされた。

 〔170〕中国分割の危機

 清が日本に敗北したことで眠れる獅子と恐れられた清は太った豚と列強からみなされ、列強の中国分割が加速した。ロシアがドイツとフランスを誘い、三国干渉を実行し、清は見返りとしてロシアに東清鉄道の敷設権を与えることとなった。

 中国における列強の租借地と勢力範囲としては、イギリスは、威海衛、九龍半島、長江流域、フランスは広州港及び周辺、ドイツは膠州湾(山東半島)、ロシアは遼東半島南部(後に日露戦争で日本へ)を支配し、中国北部を勢力下においた。アメリカ合衆国は、南北戦争のため、遅れて進出し、国務長官ジョン=ヘイによる門戸解放宣言で、門戸開放、機会均等、領土保全を訴え、経済的進出を求めた。

 〔171〕変法運動と義和団の乱

 日本の明治維新にならった近代化改革を求め、変法運動が起きた。皇帝独裁をも改める政治体制の改革が起きた。日清戦争の敗北を機に、洋務運動の在り方が見直され、康有為、梁啓超らと光緒帝が戊戌(ぼじゅつ)の変法が推進された。皇帝独裁を辞め、立憲君主制の樹立を狙ったが、皇帝の周囲は反発し、西太后を中心とした保守派が、戊戌の政変を起こし、光緒帝を幽閉した。その中で、中国では北京条約後のキリスト教の布教公認に対する反キリスト教運動である仇教運動(きゅうきょううんどう)や日清戦争後の列強の中国進出に対する排外運動が下になり、「扶清滅洋」を唱える反キリスト教、排外主義の民衆蜂起である義和団の乱が1900年に起きた。清朝は、義和団の乱を利用し、列強に宣戦布告をした。しかし、列強八カ国の共同出兵により北京を占領された。その後、北京議定書では、中国の半植民地化や巨額の賠償金、外国軍隊の北京駐屯が認められた。

〔172〕辛亥革命

 清朝は、科挙の廃止、憲法大綱の制定をするが、時既に遅く、孫文がハワイで興中会を結成し、東京で中国同盟会を結成し、三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を唱え、1911年、辛亥革命が起きることとなる。清朝が外国から借金をするため私鉄を強引に国有化したのに対し、民族資本らが四川暴動を起こし、四川暴動が飛び火し、武昌蜂起が起き、辛亥革命が勃発し、孫文を臨時大統領となり、中華民国が建国された。清は、中華民国を潰すため、袁世凱を派遣したが、孫文は、袁世凱に臨時大統領就任と引き換えに、逆に清を攻撃し、清は滅亡した(清の最後の皇帝は宣統帝、溥儀)。以後、独裁を図る袁世凱と孫文が結成した国民党が対立したが、袁世凱が死に、軍閥が争う不安定な状況に陥った。

 〔173〕文学革命

 第一次世界大戦により欧米が戦争状態になり、中国に対する列強のマークが外れるが、代わりに日本が二十一ヵ条の要求を突きつけた。陳独秀が「新青年」を刊行し、儒教道徳を批判したり、胡適が白話(口語文学)を提唱し、白話運動が起きた。白話運動により、魯迅が「狂人日記」や「阿Q正伝」を記し、李大釗(りたいちょう)がマルクス主義運動の先駆を担った。この李大釗と陳独秀が結び、社会主義運動が起こった。第一次戦争終結後、パリ講和会議では日本の二十一ヵ条の要求が承認されたため、1919年に「五・四運動」が起き、反日デモが始まり、五・三○運動が起き社会主義運動に刺激を与えた。

 〔174〕第一次国共合作と分離

 孫文により中国国民党(民主主義政党)が成立する一方、陳独秀、李大釗が中国共産党(社会主義政党)を組織した。中国北部の軍閥たちを相手に、国民党が「連ソ、容共、扶助工農」を掲げ、共産党と手を組み、第一次国共合作が成立し、広州国民政府が樹立した。国民党によるこの政府は、軍閥を倒すため、総司令を蒋介石とし、北伐(第一次北伐)を開始した。しかし、蒋介石が突然共産党員を虐殺する上海クーデタが生じ国共分離する。その後の国民党は南京国民政府を樹立し浙江財閥と手を組む(米英の支援)。そして、第二次北伐(国民党単独)で、軍閥を倒し、中国を再統一し、北伐が完成した。この北伐の中で、日本と提携していた奉天軍閥の張作霖が日本軍に爆殺された。中国共産党は、瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立し、農村中心に徐々に勢力を拡大していく。

〔175〕満州事変、第二次国共合作

柳条湖事件をきっかけに、1931年、中国の東北部の支配を狙い満州事変を起こし、東北地方の大半を支配し、満州国を建国する(執政、溥儀)。国連のリットン調査団は、日本の軍事行動を批判。一方国民党と共産党の争いはなかなか決着がつかず、国民党の攻撃をかわすため共産党は長征を行い、本拠地を瑞金から延安に移した。共産党は国民党の攻撃を受けながらも、八・一宣言を発し、蒋介石率いる国民党に対し、内戦停戦と民族統一戦線の結成を提案する。その結果、張学良が、蒋介石に対し、停戦を呼びかけるが、蒋介石が応じず、西安事件を起こし、張学良が西安で蒋介石を幽閉し、内戦停止と抗日を説得した。その結果、第二次国共合作(抗日民族統一戦線の結成)が成立した(共産党は周恩来)。こうして、1937年の盧溝橋事件をきっかけに、全面的な日中戦争が始まる。日本軍は南京を占領するが、中国は首都を重慶に移して抗戦(米英ソの支援)。日本は南京に汪兆銘の親日政府を樹立した。日中戦争は、その後第二次世界大戦まで引き続き、第二次世界大戦に日本は敗北し、中国が勝利した。

〔176〕中華人民共和国

日本が撤退した後(日中戦争の勝利)、中国では再び、共産党と国民党が対立を深め、国共内戦が再開する。争いは、共産党が勝利し、蒋介石は台湾に逃亡し、中華民国政府を樹立した。中国では、主席毛沢東、首相周恩来として、中華人民共和国が成立した。中国は、中ソ友好同盟相互援助条約を締結し、ソ連と同盟し、社会主義国側に加わった。

毛沢東は、1958年から大躍進運動を推進し、第二次五カ年計画を行い、人民公社を設立により農業の集団化などを図るが、失敗し、経済が混乱した。それに対し、劉少奇が国家主席になり、計画経済を見直す。それに怒った毛沢東は、1966年からプロレタリア文化大革命を起こし、劉少奇、鄧小平を修正主義者として批判し、紅衛兵が党幹部や知識人を攻撃した。中国は社会的混乱、経済・文化活動が停滞する。文化大革命は、毛沢東が死ぬ1976年まで続いた。毛沢東が死ぬと、文化大革命推進はである江青ら四人組は逮捕され、鄧小平体制が築かれ、改革開放路線へ転換する。経済は資本主義経済に転換するが、政治は自由化せず、学生や労働者の民主化運動は弾圧された(「天安門事件」)。また、香港が返還された。鄧小平の後、江沢民政権、胡錦濤政権、習近平政権は鄧小平の路線を引き継ぎ、脅威的な経済成長を遂げた。

〔177〕朝鮮の王朝

朝鮮史は、衛氏朝鮮を衛満が建国することから始まる。しかし、前漢の武帝により滅亡。前漢の武帝は、朝鮮に4郡を設置(現在の平壌付近に楽浪郡が中心)した。中国の三国時代には、朝鮮半島北部に高句麗が楽浪郡を滅ぼし、独立する。高句麗の最盛期の王は広開土王。半島南部では、三韓に小国家郡(東に辰韓、西に馬韓、南に弁韓)が形成された。辰韓地域を新羅が統一し、馬韓地域を百済が統一、弁韓地域は不統一の状態で「加羅諸国」と呼ばれ、後に新羅が併合した。この時代を三国時代といい、高句麗、新羅、百済が並立した。

この三国時代を新羅が唐と同盟を組み、百済と高句麗を破り、半島を統一する。都は、慶州。新羅では骨品制という身分制度が採用され、氏族的身分制度によって統治された。仏教を保護し、仏国寺を建立した。しかし、新羅の半島統一は主に南部中心であり、北部では、大祚栄が靺鞨人を率い渤海を建国し、長安をモデルに上京竜泉府を都とした。後に、渤海は契丹により滅亡する。その後、王建が、新羅を破り、都を開城として、高麗を建国する。高麗版大蔵経を作成し、仏教文化が栄え、世界最古と言われる金属活字や、高麗青磁が生まれた。

(以下、制作中)

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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