共通テスト現代文や倫理に生かせる西洋哲学史(1)

序文

西洋哲学史について書いてみようと思ったのはまだ早稲田大学の学部生だった頃でした。早稲田大学に限らず大学には非常勤講師という非常に安い給料(大体、月給十五万円くらい)で働く先生が多く、西洋哲学史の講義は大学の教授が行う場合もありますが、たいていの場合教授職につかれている偉い先生というのは、カント哲学だとかハイデガー哲学だとかはたまた存在についてなどの専門分野についての講義をされることが多く、西洋哲学史などというある種何でも屋さんのような講義は非常勤講師が担当することが多かったものでした。非常勤講師というのは生活を苦にしていますので、、建設現場で働きながら大学で西洋哲学史を教えているという先生がよく見受けられ、中には寿司屋でバイトしているというユニークな先生もいらっしゃったものです。現代ではポスドク問題などで、大学の博士課程を終えたものの定職に就けず半ばニートやフリーターのようになっている方が問題視されていますが、それでも数少ない講師の枠にありつき、お金のためではなく、学生に知識を伝えたいという思いの先生は多かったと思います。私自身は、アカデミックの世界へ進むのは、アカデミックの世界特有の事情(結局文系の研究職というのは人間関係や学内政治だったりするわけですね)で嫌気が差し、途中で断念しましたが、早稲田大学の学生の非公式の集いの中で哲学史を教えたり、時には政治や思想について激論を交わすなどという経験をさせてもらいました。

しかし、哲学というのは、どうも敷居が高い学問のように思われがちで、なかなか哲学を学んでみようと思う方は少ないと思います。確かに、カント哲学を学ぼうとカントの『純粋理性批判』を読もうとするとのっけから「超越論的~」と「超越的~」はまったく違うものであるなどと書かれているのを読むと一体何がどう違うんじゃい、と呆気に取られてしまうかもしれません。私自身哲学科の学生であった頃は、「アプリオリな総合命題は~」などと調子に乗って偉そうに講釈を垂れていたものです。しかし、哲学というものを単に衒学的(この言葉自体も難しい言葉ですね、笑。意味としては、学問があることをひけらかすさま。ペダンチックという意味になります。といって、ペダンチックなどといってもまた訳の分からないカタカナ用語が出てきてしまって大変恐縮ではありますが)に振り回すのは非常に勿体ないことだと思っています。哲学とは、ものすごく平たくいうと常識や慣習、伝統や社会のルール、親の言うこと、学校の教師が教えることなどを単に鵜呑みにするのではなく、それを吟味し、批判的に検証していくことです。批判的という言葉は日本語で言うとどうしても他者を非難したり、ああ言えばこういう、のように矢鱈目鱈に文句をいうことと誤解されてしまいますが、ドイツ語で言うと「Kritik」と訳され、物事を吟味し分けていくということを意味しています。なので、他人が言うことを鵜呑みにするのではなく、一旦括弧に置き、その中身をしっかりと検討し、正邪を分けていくという吟味であり、また自己吟味を意味しています。

今の世の中Googleで検索すると何でも正解が出てくる世の中です。もはや昔のように丸暗記の知識はあまり役立ちません。確かに、Googleが登場する以前は知識人というと多くの知識を持った人という印象が強かったかもしれません。もちろん、知識人とは単なる知識を多くも乗っている人ではないということは以前から指摘されていたことではありますが、それでも知識を多く持っていることの優位性は合ったかと思います。しかし、現代になり、もはや知識の多寡はあまり意味を持たなくなってしまったと思います。このことを教育者の藤原和博氏は「成長社会から成熟社会へ変わった」と表現し、「みんな一緒からそれぞれ一人一人の社会」へ変化すると共に、人々の価値観が多様化し、社会が複雑化し変化するスピードも速くなった時代には、かつての模範解答を迅速に導きだすような情報処理能力は重視されず、自分の頭で知識、技術、経験を組み合わせてその時々の状況で最も納得できる解を導き出す情報編集力が求められる時代だと話しています。私もこの考え方には非常に納得がいくもので、正直人に物を訊かれたときなどは「いあや、それググってよ。自分で調べた方が速いし、多分私がいうより正しいよ」と答える一方、単なる答えではなく、「○○さんと上手くいかないんだが、どうしたらいいんだろう?」「家庭でパートナーと喧嘩ばかりになってしまうが何が問題なのだろう?」と訊かれる場合には真摯に対応しなければならないと思っています。実際こうした問いには正解はないからです。もちろん、私も私なりの意見を相手に伝えますが、それは何か正解のようなものを押しつけているのではなく、私のなりの経験や知識、立場に立った上での話し合いです。

しかし、現代で求められているのはこうした話し合いが出来る人間ではないでしょうか。実際、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で、科学文明の進展によるアップグレードしてホモサピエンスからホモデウスになることを予告しつつも、「意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私を知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?」と危機感を呈し、その後、『21Lessons』にて「ITとバイオテクノロジーが融合することで、間もなく何十億もの人が雇用市場から排除され」ると危惧したように、AIやITが進む現代にこそ単なる知識の寄せ集めではない教養や考える力が大変大事になってくると思います。また、Googleなどの検索は確かに大変便利なものではありますが、検索アルゴリズムに自分の嗜好や趣味を読み取られて、フィルタリングをかけられたり、エコーチェンバーと言われるような閉鎖的な言論空間へ追いやってしまうマイナス面も大きいと思います。そこで、リベラルアーツの重要さはいうまでもなく、その基幹をなす哲学の果たす役割は少なくないものがあるのではないかと考えています。もちろん、本書は西洋哲学史の本であり、いわば誰それが何々ということを言っていると言った知識の寄せ集めという面もあります。しかし、カントの例を話しましたときのように「超越論的」と言われてしまってフリーズしないための、下準備をまかなえると思っておりますし、単なる知識の多寡を競うのではなく、様々な哲学者たちの見解に目を通し耳を傾けることで、より総合的な判断や物の見方が出来るようなることを後押しできればと思って書いております。もちろん、私が書いてあることも当然正解ではないので、疑ってください。「あ、こいつ何を馬鹿なことを言っているんだろう」とケチをつけてください。もちろん、頭ごなしな否定はしないで頂きたいですが、本書をきっかけに皆様が何か新しく思うことや考えることができるようになれれば幸いです。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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