アナクシマンドロス
アナクシマンドロス(Anaximandros、前610年から前546年)です。このアナクシマンドロスは前回扱ったタレスの弟子でして、彼もまた、その師であるタレスの探求精神を受け継ぎ、第一原理(根本原理)を求めます。ここで実は重要な西洋哲学の問題というか、東洋哲学と大きく違う側面があります。それは、講師を始祖とする儒家や他の記事でも紹介しているインド哲学など様々な東洋思想が基本的には師匠の説を受けついて、それを弟子へ伝えていくというスタンスをとるのに対して、このアナクシマンドロスは真っ先に師匠であるタレスの哲学説に反対しています。これが実は西洋哲学の伝統でして、基本的に弟子は師匠の受け売りをしたりはしません。もちろん、師匠の考えをないがしろにするわけではありませんが、師匠の考えは考えで尊重しつつも、自分なりに思索を深め、新しい思想を導き出そうとしていきます。これは後のイギリスの哲学者J・S・ミルが「なぜ大国中国が欧米列強に植民地にされるようになったのか」という問題に対して、東洋人は批判精神が弱いのに対して、西洋哲学では批判精神が重視されてきたので、常に改革と革新が行われ文化や文明が発展してきたというようなことを述べているのですが、私もミルの見解には強く共感します。先生の受け売りで終わってしまうのでは、進歩や新しいものはいつまで経っても生み出せないでしょう。
「東洋のひとびとも、かつては独創性をもっていたはずだ。はじめから人口が多く、学問が栄え、多くの立派な生活技術が備わったところから出発できたわけではない。それらはすべて自分たちでつくったものだ。そして、彼は当時、世界で最大最強の民族であった。それが今ではどうだ。ほかの民族に支配され、隷属している。(中略)進歩はいつ止まるのか。それは個性をもつ人がいなくなるときである。(中略)中国は停滞してしまった-そして、何千年も停滞したままである。(中略)国民全員を画一化すること、国民全員の思考や行動を同一の原理とルールで登場することに成功した。その結果が、今述べたような(植民地とされてしまった)中国の現状なのである。(中略)近代ヨーロッパにおける世論による統制という方式は、中国人が教育のシステムや政治のシステムによって組織的な形で作っていることを、非組織的な形で行っているものにすぎない。したがって、ひとびとの個性がこうした束縛に抵抗して、自己主張を貫くことができなければ、ヨーロッパは、高貴な祖先と立派なキリスト教を誇っていてお、第二の中国になってしまうであろう。」(J・Sミル『自由論』)
とあるように、人と同じことの意見にみなが同調するとか、あるいは師匠の考えや先人たちの考えをただ受け継いでいくというスタイルは衰退しか招かないのではないか、そして、大切にすべきなのは独創性や変わった個性ではないかと喝破したのが、ミルの卓見でもあります。
ところで、前回もタレスの逸話を紹介しましたが、この当時の知識人は、塔の中に閉じこもって閉鎖的に学問だけをしているような事はなく、実践的な技術者として指導者としても活躍していました。このアナクシマンドロスもご多分に漏れず、地図を制作したり、植民の指揮を執っていたりしました。哲学者という枠にとどまっては居なかったわけですね。そんな彼、アナクシマンドロスは、ミレトス(イオニア)学派特有の反骨の精神に習い、師であるタレスが水を万物の根元であるという言説に対し真っ向から反対します。
ここで、少し哲学という営みそのものの性質についてお話しさせて頂きたいのですが、この批判的精神が哲学の根本的性格の大事な一側面なんですね。一般に、哲学には反省的側面と批判的側面を持つとよくいわれます。反省的側面というのは、たとえば「○○とは何か」という前提や関係をそもそも疑問視して再度考え直すという側面で、たとえば自然科学はもっぱら具体的な自然現象の研究に従事し、そこに潜む法則性の発見を目的としていますが、これに対して哲学は、そうした具体的な研究を行うのではなく、そもそも自然とは何か、あるいは自然は人間にとって何を意味するのかという問いへ至るわけです。つまり、反省の視点が含まれているわけですね。そして、こうした反省的に問うということは同時に人間がそうした対象に対していかなる態度をとるかとるべきか、いかなる関わり方をするかすべきかということを問うことへ繋がります。したがって、哲学とは、様々な対象に対する人間の態度、関わり方に反省の目を向け、そうした対象のもつ人間にとっての意味を根本的に考える学問であるわけです。そして、こうした反省的性格は、必然的に批判的性格を伴います。哲学的反省というのは、我々が常に常識や慣習、あるいは教育を通じて受け入れてきたさまざまな智恵や知識、信念が本当に信頼できるものであるかどうかを徹底的に吟味することです。このような意味での吟味が批判と呼ばれます。ただここで誤解して頂きたくないのは、単なる相手への非難や反論が批判ではないということです。もともと批判という言葉は、分けることを意味しており、正邪を区別し、分けることを意味します。それは先行するあらゆる知識、信念、思想の土台を掘り崩し、それらのよって立つ根拠を問い直すという作業に他なりません。
これを少し仰々しくいうと最近新実在論などで、NHKなどの白熱教室に出演したりして活躍している若干29歳でボン大学の教授になった若き哲学者マルクス・ガブリエルがこう語っていますね。
「シンプルなたとえを出しましょう。人間には思想があります。思想は何に関してもできます。(中略)たとえば、『7』という数字について考えられます。哲学者のバートランド・ラッセルやマーサ・ヌスバウムについても考えられます。私自身の左手について考えられます。過去や未来など、このように多くのことについて考えられます。そして、たった今行ったように、思想についても考えることができるのです。何についてでも良いという思想について考えたからです。私が今行ったのが哲学です。思想が自らのことを考えるのが哲学的行為なのです。哲学者はつねに一つ上のレベルにいます。しかし、もっとも高い位置にあるのが、思想それ自身について考えることです。これが哲学の働きなのです。数学は数、物理学は宇宙、生物学は生態、経済学はたとえば価値の生産など、経済学が研究することについてです。政治学は権力の機構など、これらの分野には対象となるものがあります。しかし、それぞれの分野には対象物があると、その分野自身が認知しているのは哲学以外にないのです。(中略)哲学は数学を理解するツールを与えさえする、数学より一段階上の学問です。ですから、数学が不可欠で便利だと思うなら、哲学はなおさらです。物事の序列の中で哲学はここにあります。現実を最も高いレベルで観察しているのです。」(マルクス・ガブリエル『新時代に生きる「道徳哲学」』)
つまり、物事の土台についてもっとも抽象的でもっとも高いレベルで考えていくのが哲学という営みであるというわけですね。マルクス・ガブリエルの物言いは少し高慢で、角が立つものいいとなっていますが、彼の哲学をもっと顧みて欲しいという思いは、どうしても専門家、分業化、自然科学万能になってしまった現代社会において、改めて知識や信念、ものの考え方の土台を掘り起こす哲学が重要だと必要性を説く気持ちはよくわかります。
さて、話はアナクシマンドロスに戻ります。彼の言うところによれば、師タレスが言うような水は、その他の火・空気・土と言った様なそれぞれが互いに反発し合う性質を持つ元素の一つであり、その一つの元素であるに過ぎない水が万物の根源足りうるわけはないと言う訳です。そして、それらの個別具体的な一つ(元素)を万物の根源として抽出するのではなく、むしろ、それらに共通し合う原理の究明を訴えます。即ち、それらに共通のより根源的な原理がその様な相違し合う自然現象に先立って未分化で無形の状態で存在しているはずであると言う事です。要するに、水や火、空気、土といった諸性質が立ち現れる前の段階のものこそアルケーであると考えたわけですね。
そして、彼は、その根源的な原理として「無限定なもの」と言うものを提示します。この「無限定なもの」(ト・アペイロン=toaperon)と言い、すべての生成が常にそれを源泉として、そこから生じる尽きることのない蓄えであり、満ち溢れる存在の貯蔵庫であって、また、同時に、世界のあらゆる変化の舵取りをする生きた原理と考えれれました。そういう訳で、この「無限定なもの」はすべての生成と消滅に対して、その起源と終極として先立ってあるものであり、それゆえ、それ自体は時間の下にはなく、不滅であり、神的なものでした。
ところで、そういう「無限定なもの」に対して、世の中の事物は、「時の秩序にしたがって相互にその不正を購わなくてはならない」とされます。次の有名な断片をご紹介しましょう。「もろもろの存在するものにとってその生成がそれらから行われるそれらへ、その消滅も必然の定めに従って行われる。なぜなら、もろもろの存在するものは、時の秩序にしたがって、その犯した不正について相互に罰を受け、償いをするからである」と言う断片です。この断片において、アナクシマンドロスは「罰を受け、償いをする」と言う句に、当時の敵対する両氏族間の紛争の裁決を表現するギリシア語を用いています。
この句のいわんとする事は、一切の存在者にとってその存続すること自体が他者への侵犯である事は避けられず、したがって、相互的な対立者としての闘争の結果として、その消滅は、時の秩序にしたがって避けられないと言う事です。そうして、自然あるいは存在は、それ自体この様な不正に対して常に正しい秩序立て直すと言う正義と節度と言う規範を内に含んでいるとされます。つまり、世界の中には、その各部分の間の関係を均衡させ調停する正義の秩序が成立していると言う訳です。現代でいうところの共生や他者との関係などの人間関係論にも繋がってくるような話ですよね。イオニア自然学派というと、どうしても世界の根源、アルケーとして物質的なものを措定したと言われて軽んじられがちなのですが、必ずしも現代人が思い描くような物質ではなかったように思えますよね。ですから物活論などといわれることも多いわけです。
ちなみに、アナクシマンドロスはこのような存在論的な基礎にたって詳細な宇宙生成論と自然誌の理論を展開しています。たとえば、彼は、大地は水のような何らかの基底の上に立っているのではなく、宇宙の中心に浮かび、一方向からの引力に引きずられてどちらかに落ち込むのではなく、反発し合い宙を保っていられるとか、最初の生物は水中から生じ、魚に似たものから人間は生じたと言うような一見、進化論的な意見も述べたりしております。又、テオプラストスやプルタルコスの伝えによると、彼は、現代で言ういわゆるパラレルワールド(まるでブルーノのようですね)を想定しており、無限なものの中に無数の世界があると考えていたようです。このように、彼は天文学的、気象学的、生物学的、民俗学的な観察と理論から世界とその発展の全体像を纏め上げています。
ところで、ここで彼らの歴史観について少しだけ言及しておきたいと思います。ヘブライズムを母胎とするキリスト教が生まれ、「歴史は進歩する」式の考え方が西欧社会を支配的になるまでは、歴史は、輪廻として捉えられていました。このアナクシマンドロスも例外ではなく、すべての万物は、「無限定なもの」から生まれ「無限定なもの」へ帰っていく輪廻観が伺われます。その意味で、前述した、パラレルワールドもあくまでも生成と消滅の輪廻を繰り返す無数の世界の同時的並列ということです。つまり、輪廻が重層的に並列的に存在するという訳です。実は、この辺については学者間でも論争が激しいところですが、私は勝手に両者の折衷説を取らせていただきました。ただし、かの有名なシャトレ哲学史の方では、宇宙は一度にはただ一つだけの解釈の方が採用されていました。また、ト・アペイロンは半ば人格的な存在で、ある種神話的領域のなごりを感じさせる概念でも有ります。その意味で、今道友信著「西洋哲学史」では「無限定者」と訳されていますが、此方の方がより正確な訳と言えましょう。