ミレトス学派のまとめ

ミレトス学派が創建されたのは、ギリシア精神がバビロニアやエジプトと接触した事であると言えましょう。イオニア地方でもっとも盛んで活気溢れた商業都市であり、数多の豊かな文化的影響の行き交う(最も顕著な事は、)雑然とした都市、旧クレタの植民地にして逆に無数の植民都市の建設者たるミレトスと言う都市の存在は、その事に関して一役も二役も買ったと言えます。実際、他の地中海のいかなる都市にも彼らミレトス学派が探究した新しい問題に取り組む事はありませんでしたし、また同時に、神を憚らぬ楽天的(陽気な)態度でそれらに取り組む余裕を持っていませんでした。

ミレトス学派は、その成果によってではなく、成し遂げようと試みた事に関して重要な意義があります。それは、ミレトス学派の偉大な三人の、それぞれの役割以上に重要な共通点である神話的思考習慣に対するきっぱりとした訣別です。確かに、神話においても既に様々な自然的存在が初源的な一者に由来すると言う思考は存在していましたが、それを一元論と言う形で明確化し、一者(根源)は系統譜の出発点であると言うよりは、むしろ生成過程における恒久的で内在的な基礎として機能する方向に持っていったのが彼らミレトス学派でした。それは神話に付きまとっている曖昧さを排除し、宗教的な秘法によらなければ解決できない問題を我々の足元にまで引き下げ、世界の現象を神々の気まぐれな働きの結果とせず、世界に内在する普遍的な法則や原因を説明し、存在するものの本質を言い表そうとしたと言えます。

先にも述べました様に、ミレトスは文化的交流の盛んな都市でありました。そして、そこで、多くの国民と交流する事によって、原始的な偏見や迷信が和らげられたと考えられましょう。これら、タレス・アナクシマンドロス・アナクシメネスの様々な思弁は科学的仮説と言え、擬人的に物事を捉えようとする欲求や神々や神話に頼る考え、道徳的観念による不当な侵入は殆ど見られません。従って、彼らをしてヨーロッパ科学の始まりであると指し示したりもします。但し、彼らの探究が近代的な意味での自然科学とは異なる性格であったと言う事は忘れてはなりません。彼らが実験と言う方法を用いなかった様に、彼らの目的は、個別的な知識にあったのではなく、あくまでも、それらを超えた全体としての世界、即ち、存在するものの一般の本質と根源を思弁的に解明する事にあったと言う事です。彼らは、確かに、神話の神々を排除しましたが、他方でそれは万有不変な第一原理を問題とする事によって、しばしば神学的な存在理解に到達していったのです。

それでは、最後に、ミレトス学派の主要見地についてお話しておきたいですが、それには、(1) 客観性、即ち自然を自然として客観的に見ようとした観点(2) 自然の万物には根源となる物質的なものがあると言う観点(3) 根源的なものは絶えず運動し、それ自身の内的根拠を持って万物へと変容する(自己運動)の観点(4) 1の他への変容、言い換えれば、分化の観点(5) 1なる根源に由来する対立物ないし原理によって、多なる万物が生成し、その中の一つとして人間を理解すると言う観点の大体五つが挙げられます。そして、総じてこれらの観点の内に、唯物弁証法的な思惟を垣間見る事が出来ると思われます。そしてこの後、この様な「物活論(hylozoismus:根本物質が生きて動き千変万化する自然学説の事)」を築き挙げたミレトス学派の反立の精神(アルケーを求める態度では先師を模範とするが、結論的には独自の説を提示している)は学派の外でいよいよ活発になっていきます。

クセノパネス

今回からは、比較的断片も多く残っていますのでそれらも可能な限りご紹介していきたいと思います。ちなみに、参考文献は廣川洋一氏の「ソクラテス以前の哲学者」などを用いております。

南イタリアの文化

イオニアの没落は前546年のペルシアによる征服に始まり、前494年のミレトス滅亡を持ってそれは決定的なものとなりました。前六世紀後半以来、ギリシアの知的な領域の中心はマグナ・グラキア(Magna Graecia、大ギリシア)と呼ばれる南イタリアとシケリア(シシリー島)の有力な都市へ移っていきます(と言っても、ミレトス学派の精神は脈々と受け継がれていき、今回取り扱うクセノパネスも、当時の教養の中心を担っていたホメロス的宗教に対して反抗心を持つ一方でミレトス学派に強い影響を受けていきます)これらも、ギリシア本土の諸都市が作った植民都市でありしたが、通例宗教と相互援助の点で母国と多少のつながりを持つのみで殆ど独立した派生都市でした。

(2)クセノパネス(Xenophanes:前570~475年頃)

クセノパネスは、ミレトスの北六十キロメートル程の所にあるコロポン生まれの詩人哲学者です。彼の経歴については今までのミレトス学派の哲学者達とは違い推定の手掛かりが幾らか残っており、百行程の詩行断片が残っています。その断片(注1)から見るに、彼は、25歳の頃、つまり、前546年にコロポンが他のイオニアの諸都市と共にペルシアに占領された際、故郷を離れて、以後南イタリア、特にシケリア島(ザンクレで暮らした。又、エレアの植民に参加し、そこで講義を開いた)を中心として流浪の生活を六十年送ったとされます。記録によると彼は相当長生きしたらしく、現在残されている断片を記したときには齢九十を超えていたとの事です(そのままクセノパネスの詩から計算すると92歳と言う事になります)。

クセノパネスは自らの思索の成果を詩の形式によって表現しました。彼の詩は、エレゲイア詩型のもの六十八行、ホメロスやヘシオドスが用いたものと同じヘクサメトロス詩型と、此れに一部イアンボス詩型を加えた形のものが五十行程現存しています。このうち、前者のエレゲイア詩型以外のものは「シロイ」と呼ばれましたが、シロイは文字通りに「横目」「斜視」を意味するものでして、その内容が諷刺的な性格を持つところからそう呼称されたらしいです。しかし、この「シロイ」の中には、自然学的内容のものも含まれており、クセノパネスの著書である『自然について』に由来するものではないかとも考えられています。

ところで、彼はミレトスから僅か六十キロメートルしか離れていないコロポンの生まれでしたから、(1)でも申しました様にミレトス学派の影響を多大に受けていました。それは、彼の断片(注2)(注3)から見ても容易に伺い知れます。この様に、彼の宇宙生成論や自然学の領域に関してはミレトス学派への賛同が見受けられますが、彼はそれだけで満足はしませんでした。それは、彼がミレトス学派の様に物活論に終始するのではなく、高遠にして純粋な神の観念の確立を目指しました。そこで、先ず彼は、当時の教養の中心的役割を占めていたホメロスやヘシオドスの神々の認識(擬人神観)に対し異を唱え、神々を人間に似せる事は笑止千万であると言い放ち(注4)、それを動物達に絵が画けたのなら、動物達も神々を自分自身と同じ姿に描くであろうと嘲笑い(注5)、その証拠に人種によってそれぞれ祈る神が違うではないかと主張します(注6)。

そして又、それらの神話の中に出てくる下品で粗暴な凡そ高潔なと言う表現から程遠いような神々をとても尊敬できないとして排除し、真の神は情念の支配下にある世界を絶えず駆け巡っている様なホメロス的な多神教の神とは似ても似つかぬものであり、唯一で至高の権能を有した公正、完全、不動の神であると訴えます(注7)。こうして、彼は、ミレトス学派のアルケー探究の精神の持つ永遠性と単一性(但し、運動や変化は否定)を宗教心に当て嵌める事により、古来の信仰をより実り豊かなものへ変貌させる事(神の神秘性と近寄り難さを回復させた)を可能にしました。

この辺りは、一見、われわれが通常抱く一般的な神の観念に似ていますが(特にキリスト教徒が想像する様な)、彼のこの神の観念は、後の哲学者スピノザを思わせる様な汎神論的な神の観念でして、いずれの事物も神であり、万物の総和は、神的な性格を持つ唯一の万有を形成すると言うものであって、単なる詩的想像力の産物による観念ではなく哲学者の観念と言えるものでした(注8)。この事は、後のエレア派の哲学者パルメニデスの存在観念(「汝は在りもしないものを知る事が出来ぬし。それを述べる事も出来ぬ。なぜなら、考えうる事と在りうる事は同じであるからである」)にも多大な影響を与え、その事からクセノパネスはエレア派の先駆とも創始者とも言われたりしています。他に又、プラトンやアリストテレスの神観念へ影響を与えたばかりではなく、この事は、6世紀頃の注釈家シンプリキオスが「クセノパネスは一にして全なる者を神と言った」と伝えられ、いわゆる「一にして全」と言う18世紀から19世紀にかけてのドイツのヤコーピ、レッシング、ヘルダーリンらの思想に多大な影響を与えました。

また、彼は、【注9】の様に、人間的な認識が相対的なものであり、単に思惑や憶測に過ぎないもの(せいぜい蓋然的なものに過ぎない:仮象・現象)として、”真理”や”知識”を持つ神と明確に対比させて、神の英知を称えています。しかし、彼はそれに止まり懐疑論と不可知論に終始するのではなく、更に、【注10】の様に人間による認識はたとえ不完全・不確実だとしても、人間自身の飽くなき探究によって曖昧な知はより聡明な知へと発展していくと考えています。ここに長い間に及んだ放浪生活の辛苦(奴隷として売り出された事もあるらしい)やひたすら着実で真摯な不断の知的努力を続けてきたクセノパネスの姿が現れてきます。

ところで、彼は冒頭の様に、ペルシアの支配を逃れて故郷を捨てたと言われておりますが、実際のところ、彼の伝統的な宗教性を重んじる精神がイオニア人達の物質的で奢侈に耽りがちな性質が絶えられなかったのかもしれません。この様な彼の性格は【注11】の様な所にも現れており、反骨精神旺盛な毒舌家で民衆達をはじめとして統治者達にも得意の毒舌を浴びせ掛けたりもしていました。この様にクセノパネスはソクラテス以前の哲学者の中でも異色の存在(エレア派や多くの哲学者に影響を与えたとは言え徒党や派閥を組まず、孤高の哲学者であった)として活躍していきました。

【注1】

『わが もの思う心をヘラス(ギリシア)の地に

あまねくさわがせてより

はや 六十と七とせ

生まれてよりその時まで 二十五年が此れに加わる

これらについて 間違いなく語る力が私にあるとすれば』

(断片8番)

【注2】

『海は水の源、また風の源。

大いなる海なくしては 雲の中に内部から外に向かって吹き出す

風の力も生じなかっただろうし、

河川の流れも天空の雨水も生じなかっただろう。

大いなる海こそ雲、風、河川の

生みの親。』

(断片30番)

【注3】

『イリス(虹の女神)と人の呼ぶもの、これもまた もとはといえば雲なのだ、

紫に 虹に また黄緑にみえるところの。』

(断片32番)

【注4】

『人間の世で恥とされ 疾しいとされる あらゆるものを、

神々に捧げたのだ、ホメロスとヘシオドスは。

すなわち 盗む事、密通する事、互いに騙し合う事。』

『だが 人間どもは思い込んでいる、神々が生まれたものであり、

自分達と同じ衣服、姿、声を持つと。』

(断片14番)

【注5】

『だがもし 牛や馬、ライオンが手を持っていたら、

あるいはまた 手によって描き、人間同様の作品を作る事が出来たなら、

神々の形姿を描き、彼らそれぞれがもつ形容と

同様な(身体)を作る事だろう。』

(断片15番)

【注6】

『エチオピア人は 自分達の神々が獅子鼻で色黒だといい

トラキア人は 碧眼で髭が赤いと言っている』

(断片16番)【注7】

『一なる神、神々と人間どもの内、最も偉大にして、

その姿においても、心においても、死すべき身の者どもにいささかも似ず。』

(断片23番)

『神は 全体として見、全体として考え、全体として聞く。』

(断片24番)

『神は 苦もなく、精神の思惟の力によって、全てを揺り動かす。』

(断片25番)

『神は 常に同じ所に止まり、いささかも動じない。

時にあちらへ、時にこちらへと赴く事は、神に相応しからず。』

(断片26番)

【注8】

クセノパネスに言わせれば、神が生まれたと言う事は出来ない。何故なら、完全なものは不完全なものから生まれる事は有り得ないからです(何かデカルトみたいですが、笑)。従って、神は創造される事もなく永遠と言う事になります。又、多数の神々が存在しないと言うのは、そうなってしまってはある神々は優れているが、他のある神々は劣っていると言う事に成ってしまい、劣っている神などと言う者は神ではないから有り得ないとし、更に神々が相等すると言う事も神性の主要特性に矛盾するから存しないとしている。そして、彼は結論として、神は、唯一全能にして球状の無限も有限も存しない存在であるとしています。ところで、この球状であると言う事に関してはアリストテレスが「神が球状であると仮定すれば、神に限界を定めるようなものである」と批判されていますが、いわゆる歪曲した四次元空間の様なものを想定すると説明がつき、クセノパネスの宇宙論も優れた見識を持っているものと言えましょう。ちなみに、彼は魚や貝の化石の存在から大地は周期的に大洋に覆われると言う説を考え出したりしていまして自らの経験に基づいた自然科学的な探究精神も旺盛だった様です。

【注9】

『確実な事を見た者は 人間の誰ひとりとしていなかったし、

神々について、また、私の語るかぎりの すべてのことがらについて、

それを知る者は、これから先も誰もいないだろう。

なぜなら、たとえ偶々 この上なく完璧な真実をいいあてたとしても、

しかし、彼自身それを知っているのではない。

すべての人間にとっては ただ 思惑があるのみ。』

(断片34番)

【注10】

『まことに神々は 最初から人間どもには明かしはしなかった、

人間は探究しつつ、時とともに、より善きものを発見していくのだ。』

(断片18番)

【注11】

『オリュンピアはピサの泉のほとり ゼウスの神域で、

誰かが、あるいは脚の速さで、あるいは五種競技で、

あるいは相撲をたたかい、

あるいは苦痛の多い拳闘の技を示して、あるいは

パンクラティオンと人の呼ぶ 恐るべき闘技を戦って勝利を得ると、

その者は 町の人々にとって 此れまで以上に仰ぎ見られる

栄えある存在となり、競技会では人の目に付く名誉の席を獲得し、

国からは公の費用で食事を与えられ、

その者にとっては宝となるべき贈り物を手に入れるだろう。

あるいはまた 馬どもで勝ってさえ、かの者は全てこれらを獲得するであろう

この私に比べて、それに相応しい価値が在る訳では 決してないのに。

われらの智恵は 人間や馬の体力に優るものだから。

ところが これについての世間の評価は言語道断。

優れた智恵より体力を重んずる事は正しい事ではない。

たとえ 人々の内に優れた拳闘家がいても、あるいはまた 誰かが

五種競技で、あるいは相撲で、

あるいは脚の速さで これこそ競技での人間の力技の

なかでも 取り分け重んじられるもの 勝利を得るとしても

その為に、国が以前より一層秩序正しいものに成る事はないだろう。

誰かが ピサの泉のほとりで競技をして勝ったところで。

そんな事が 国の在庫を太らせる訳ではないのだから。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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