ピュタゴラス
さて、次に取り上げるのが、アナクシメネスとは同時代でミレトスの直ぐ側にあるサモス島に生れたピュタゴラス(Pythagoras、前570頃~不明)です。彼はまずエジプトに遊学し、その後南イタリアで宗教結社を組織します(独特の教義と生活上の戒律を持ち、教団員にのみ秘教的に伝授された。直ぐ後に説明するオルフェウス教の影響を受け、「肉体(ソーマ)=牢獄(セーマ)」説を唱え、魂の浄化を目的とする禁欲的実践を行った。但し、その戒律には、「豆を食べるな」とか「白い雄鳥にはさわるな」とか、下らないものが多いです。まあ、下らないと唾棄してしまうのも余り良い姿勢ではないかもしれませんが。ちなみに、ピュタゴラスは鳩の豆が大嫌いだったらしいとのことです)。これが、ピュタゴラス学派になります。ところで、ピュタゴラスその人の思想についてはピュタゴラス自身何も書き残しておらず、またせっかく作った教団もあっさり潰されてしまうので、よく解かりません。しかも、彼本人についてかろうじて残っている言説も彼の生涯に関するかなり嘘臭い伝説的な記述(アポロン神の生まれ変わりであるとか、瞬間移動できたとかそういう類)ばかりです。その意味で、ピュタゴラス自身の思想とその後に発展したピュタゴラス学派の教説というのはなかなか区別がつきません。
ところで、このピュタゴラスの作った宗教結社は、オルフェウス教の影響を強く受けています。オルフェウス教というのは、古代ギリシアにおいて宇宙と人間の生成について独特の教義を持ち、特に一般庶民の間に流行した宗教のことです。オルフェウス教は、神話的人物であるホメロス以前に活躍したといわれる詩人オルフェウス(亡くなった妻エウリュディケを追い求めて冥界にまで赴き、決して後ろを振り向かないという約束でハデスの元から妻を引き連れるが、後一歩のところで後ろを振り向いてしまい妻を永久に失ってしまう伝説で有名)を開祖とし、文書としての形式を備えた聖典を持つ当時ではかなり異質な宗教でした。
オルフェウス教では、ガイア(水と大地)やクロノス(時間の意味、老いを知らない)といった神たちによって説明される宇宙生成説やディオニュソス(別名バッコス、半神半身の神。豊穣とブドウ酒の神とされ、その崇拝は集団的興奮のうちに恍惚境に入る祭儀を伴った)やティタン神による人間の生誕説などが唱えられました。特に、ディオニュソスは重要視され、俗化されたオルフェウス教徒の間ではオルフェウスはディオニュソスの生まれ変わりとされるほど重要な位置を占めました(民間の野蛮なディオニュソス信仰を宗教にまで高めた)。また、オルフェウス教では肉体を牢獄として悪しきものと捉え、善きものである霊魂は輪廻するとされています。そこから、人間は現世で善行をつむことによって浄化され、来世は影のような生存ではなく、浄福な生活が約束されると考えられ、そのためには動物の環殺、肉食の禁止などの具体的な日常の規制が設けられていました。
話をピュタゴラスに戻しましょう。さて、ピュタゴラスはこのようなオルフェウス教を更に発展させて、肉体の感覚で認識されるものは虚構であり、霊魂の直観で認識するものこそが真理であると考えました(肉体と霊魂については少し後で詳しく説明します)。そして、ピュタゴラスは、世界全体を構成している不変のものを今までの哲学者達のように何らかの元素に求めるのではなく、世界の形式的構造に求め、それを「数」であると考えました。そして、全ての数は「一」に基づき、これは数に先立ち、その中から数を成立させる統一性の絶対的な原理とされています(この辺その後登場するプロティノスが思い出されます)。そうして、この「一」から諸々の数が二元論的(たとえば、奇数と偶数、右と左、男と女、明と暗など)に構成されていきます。これは同時にピュタゴラスの倫理学でもあり、偶数で象徴される「無限定なもの」という悪の原理と奇数によって象徴される「限定するもの」という善の原理となります。
他に、ピュタゴラスは「調和的な秩序」(コスモス)を重視し、それを音楽的な音程の比例関係において表わしています。つまり、琴の弦の長さによって音程が定まってくるという事実(八度の音程は弦の長さで二対一、五度は三対一、四度は四対三など)を持ってして、この世に数的な比例関係が成り立っていることを証明しようとしたのです。そして、上記で紹介した三つの基本和音の比例数と、それらの原理である「一」とはピュタゴラス主義者にとって聖なる図形である三角形を形成します。それは、原理である「一」を頂点とし、二対一、三対二、四対三という三つの比例に従って、二つ、三つ、そして底辺の四つという風に下に向けて点が配置された合計十個(ちなみに、十はピュタゴラス主義者にとって「完全」を意味する。他に、三は「男」、二は「女」、それが合わさって出来る五は「結婚」という具合に数にはそれぞれ意味があった)の点からなる正三角形です。そして、その間の空間は「無限定なもの」もしくは「空気」というように考えられました。
こうした数と調和の理論はまたピュタゴラスの人間論にも繋がっています。まず、人間の魂、つまりプネウマ(気息)は世界の中を吹き渡っている神的な魂であり、不滅のものであると考えられます。しかし、魂はその不完全さゆえにその二元論的な対立原理である肉体に閉じ込められ、その間は世界の気息と一つになるまで転生輪廻を重ね肉体と感覚から浄化されねばならないと考えられました。そして、世界秩序の哲学的な観照と禁欲的な日々の実践はこの浄化のための道であり、調和的な秩序と一致することによってついには魂の浄化が果たされるわけです。
ヘラクレイトス
次は、フォールゾクラティカー達の中でも次回紹介するエレア学派の祖パルメニデスと共に特に後世に人気の高い(巷で噂されるような哲学者のイメージの元になっている人物でもあります)エフェソスの哲学者ヘラクレイトス(Herakleitos、前540頃~480頃)を扱います。彼は王族の生まれで、エフェソスの建設者アンドロクロス王の後裔として王位後継者(といっても殆どただの名誉職)であったのですが、あっさりと弟に王位を譲り自分は民衆を軽蔑し、ブラタモリではありませんが、一人でプラプラしていたそうです。特に、彼の民衆蔑視(政治的には反民主制論者であった)は有名で、ある時法律の制定を依頼された時など、その頼みを退けアルテミスの神殿へ行って子供と遊んでいました。そして、後を追ってきた市民たちが呆れ顔で彼のことを眺めていると「なんで驚いているんだ、あほうども、おまえたちといっしょに市政を見るより、子供たちと遊んだほうがよっぽどましじゃないか」といったほどだそうです。また、彼は謎めいた逆説的な箴言を好み、そのためによく「闇の人(スコテイノス)」とも呼ばれたりしています。もっとも、こういう逸話についてはそのうちそれらを纏めたものを別途特集しますのでそちらを参考にしてください。まあ、とても自由な人だったのでしょうね。
彼はよく高校の世界史や倫理などの教科書では「万物流転(パンタ・レイ)」の標語や三日前に行った河と今日の河は違う河であるというような逸話(「同じ河に二度入ることはできない」というまさに鴨長明のような話ですね。ただし、この言葉はヘラクレイトス自身の言葉ではなく後世勝手に作られたに過ぎないそうです)などで紹介され、どうも単に流動的な世界観を訴えただけのように書かれておりますが、彼が重視したのは不変の根本法則たる「ロゴス」(注1)でした(断片1、断片2、断片50)。また、彼に寄ればロゴス、つまり真理とその認識へ至るためのキーポイントは外的な対象にあるのではなく、言葉によって己自身に振り返り(断片107、101)、自ら問い、自ら考えることによって、自分の生と心(魂)を見詰めることのなかにありました(断片113、断片115、断片116、断片45)。
さて、彼が云うようなロゴスとはどのようなものなのでしょうか。それは、端的に云えばあらゆる対立関係のなかに隠された秩序というようなものでした。我々の感覚には世界は対立しあうもの、たとえば生と死、昼と夜、夏と冬、戦争と平和(注2)、飽食と飢餓のようなものに溢れています。しかし、彼はこうした対立関係のなかに一つの秩序(拮抗関係、調和)を見るわけです(断片8、断片10、断片51、断片67)。そして、双方は全体から見れば互いに促進し合い均衡するものであることになる。ここで、注意すべきことは、彼は何も世界を二元論的に解釈して一方を善、他方を悪というように優劣を付けるようなことは考えていないということだ(断片102)。そして、彼はこのことを火(ないし電光)に喩えている(断片30、断片67)。すなわち、ちょうど火が自らを焼き滅ぼしつつ、常に新たに生起していく中で同一のものとして自己を保っていく様である。
このように世界の統一をなすものは、一つの(物質的な)元素のような堅固で静的な存在ではなく、対立と堪えざる変化という構造自体であり(断片31)、我々の生に見出される恒常的な闘争と融和は、あらゆる現象と存在にとっての普遍的な弁証法的な根本原理なのである(断片76、断片36、断片53、断片80)。つまり、彼は流動的な生の中に一貫した筋(ロゴス)を見出したのである。そうして、人間は自らの理性(言葉)のうち神的なロゴス(この考え方は後に登場するストア学派にも通じる)を分かち持つものであるが故に、あらゆる対立関係の中に隠された(「自然は隠れている」と言う言葉でも有名なようにヘラクレイトスは秩序を隠されているものとして考えた、断片93)秩序(ロゴス)を見出しうるのである。
以上の様に、ヘラクレイトスは諸々に対立し合う多性のなかに統一を、部分的なもののなかに包括的な真理を、あるいは逆に同一性のなかに躍動に満ちた緊張関係が成立していることを魂であり生命でもある自らのうちにあるロゴスを自らを探究すること(思惟、思考すること)によって明らかにした。繰り返しになるが、彼は感覚的な現象の相対性・流動性ばかりを訴えたのではなく、己を超えた万人に共通なロゴスに真理をも訴えたのである(断片2、断片10、断片30)。最後に、人間の魂や自己自身の探究を重視した彼の学説は彼独特の倫理学にも繋がっているということも忘れてはならないだろう(断片117、断片43、断片110、断片118、断片119、断片85、断片25、断片24、断片136、断片96)。次はパルメニデスとエレア学派を扱います。
原典引用
「私にではなく かのロゴスそのものに耳を傾けるなら、万物が一なることを認めるのが賢いありかたである」(断片50)
「言葉を解さぬ魂を持つ場合は、目も耳も人間にとって悪しき証人である」(断片107)
「私は、自分自身を探究した」(断片101)
「魂には、自己を増大させるロゴスがそなわっている」(断片115)
「自己を認識すること、そして思慮を健全に保つことは、すべての人間に許されていることなのだ」(断片116)
「君は 道行くことによっては ついに魂の終端を見出すことはできないだろう、いかに君があらゆる道にそって旅をしようとも。それは それほど深いロゴスをもっているのだ」(断片45)
「デルポイで神託をくだす主なる神は、あらわに語ることも隠すこともせず、ただしるしを見せる」(断片93)
※デルポイで神託を下すのはロクシアス(ひねくれ者)の渾名を持つアポロン神のことです。この断片はアポロン神のお告げを解釈する上でよく参考にされる有名な断片で、後世ソフォクレスの『オイディプス王』の解釈などの説明において使われたりもしています。かくゆう私も好きな言葉です。私はちょっと訳は違うのですが、こういうふうにいつも云っています。「表わしもせず、隠しもせず、ただほのめかす」と。
「思考の健全さこそ最大の能力でありお、知恵である。それはすなわち物の本性に従って理解しながら、真実を語り行うことなのだ」(断片112)」
「思考はすべてのものにとって共通のものとしてある」(断片113)
「大人がひとたび酔えば、年端もゆかぬ子供に、連れていってもらうことになる、よろけながら、自分がどこへ行くのか知らぬままに。魂を湿らせたからだ」(断片117)
「乾いた魂は この上なく賢く、この上なくすぐれたもの」(断片118)
「博学は真の智を教えはしない。そうでなかったら、ヘシオドスにもピュタゴラスにも、さらにクセノパネスやヘカタイオスにも教えたであろうから」(断片40)
「万人にとって同一のものたるこの宇宙秩序(コスモス)は、いかなる神も人も造ったものではけっしてない。それはつねにあったし、今もあり、これからもあるだろう。それは常久に生きる火であり、一定の分だけ燃え、一定の分だけ消える」(断片30)
「火が転化し、まず海となり、海が転化して、半分は(電光を伴う)竜巻となる。地は液化して海となるが、計量すれば、それが他になる前にあったのと同じ比率となる」(断片31)
「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」(断片76)
「魂にとって水となることは死であり、水にとって土となることは死である。しかし土からは水が生まれ、自らは魂が生まれる」(断片36)
「真実はこの通りのものとしてあるにもかかわらず、人間どもがそのロゴスを理解するにいたっていないことは つねのことである。彼らがそれを聞く以前も、ひとたびこれを聞いた後にも。なぜなら、すべてはこのロゴスに従って生じているにもかかわらず、人々はそれに実地にであったことがないもののごとくである」(断片1)
「それゆえ、共通なるものに従わなければならない。しかるに、かのロゴスは共通なるものであるにもかかわらず、大多数の人間は自分だけの(私的な)智をもつかのように暮らすのだ」(断片2)
「一緒に結びついているもの。それは全体と全体ならぬもの。寄せ集められたものと分け離されたもの。調子の合ったものと合わないもの。万物から一が、一から万物が生ずる」(断片10)
「反対するものが協調し、異なる(音)から最も美しい音調(ハルモニエ)が生まれる」(断片8)
「人々は理解しないのだ、いかにして、拡散するものが自己のうちに凝縮しているかを。互いに逆方向に引き合うことでの調和というものがある、弓や竪琴の例にみるように」(断片51)
「神とはすなわち 昼夜、冬夏、戦争平和、飽食飢餓。神はさまざまに姿をかえる。ちょうど火が香をくべられると、香のそれぞれの持ち味によって(さまざまの名)で呼ばれるように」(断片67)
「人間の運命は その人がらがつくるもの」(断片119)
「欲情と闘うことは難しい。というのも、欲情は何であれ己の欲するところのものを、魂(生命)を賭して購うものだから」(断片85)
「暴虐を消すことは、火災を消すこと以上に心すべきこと」(断片43)
「人間にとって何であれ望む通りになるということは、よいことではない」(断片110)
「大いなる死は 大いなる分け前に与る」(断片25)
「戦死者は 神も人も敬う」(断片24)
「戦死者の魂は病死者のそれよりもいっそう浄らかである」(断片136)
「(魂の去った後の死体は)糞尿よりも もっと棄てられるべきもの」(断片96)
「神の求めるままに、彼ら(魂)は立ち上がり、生者と死者とを注意深く見守る番人となる」(断片63)
「死んだ人間どもを待ち受けているのは、予想もせず思いもかけないようなことがら」(断片27)
「病気は健康を、飢餓は飽食を、疲労は休息をそれぞれ嬉しいもの、いとしいものにする」(断片111)
「神にとっては、すべてが美しく、善く、正しい。しかし人間は、あるものを不正とみ、他のものを正しいと考えたのだ」(断片102)
「戦いは万物の父であり、万物の王である」(断片53)
「人は知らねばならぬ、戦いは共通のものであること、そして、争いが正義であり、万物は争いと必然によって生成するのだということを」(断片80)
注1:言葉、根拠、比例、理(法)、議論、言表、計算、尺度、理由など様々に訳される多様な意味をもったギリシア語。この語の動詞に当たる語は「legein」であり「話す、語る」を意味し、これに対応するラテン語の「legere」ドイツ語の「lesen」はともに「読む」を意味するが、この三つの動詞に共通の基本的意味は「集める」である。もし「集める」ことが乱雑な集積を意味せず、秩序ある取りまとめ、すなわち「統一」を意味するとすれば、そういう意味にしたがってロゴスという語を使用した最初の哲学者はヘラクレイトスである。彼にあってはロゴスとは逆方向に働く二つの力を統一して一本の琴の弦にする理法であり、あるいは昼と夜とを一つに結合する理法のことであった。要するに相対立するものを結合し万物を統一する理法がロゴスなのである。その後、ストア学派によってこのロゴス概念は継承され発展した。同学派の祖キプロスのゼノンによれば「共通なる普遍の法、それこそまさに正しきロゴス(orthos logos)」なのであるが、それはあまねく万物にゆきわたるもの、すなわち存在するものいっさいの秩序の主なるゼウスと同一なるものであった。また、新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭に「初めに言(ことば、ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあるのも有名であり、このようなロゴスを神と同一視する態度は、後のイエスをロゴスと考えるキリスト教思想にも関連してくる。(参考文献『世界大百科辞典』)