ソクラテス

ソクラテス(ソークラテース、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs)は、BC470年頃~BC399年まで生きた哲学者です。ソクラテスは通称四聖といわれ、釈迦、孔子、キリストと並び称される賢人として数えられております。このことから、ソクラテスは倫理の教科書にも登場しますし、一般に膾炙された人物ではありますが、実は非常に謎の人であります。というのも、ソクラテスは後世に一冊の書物も残さなかったからです。その上、古代ギリシア時代においても彼は謎めいた人物であったこともあり、彼の哲学上の主張というのは読み取るのが非常に困難な哲学者でもあります。中には、ソクラテスについて確かに言えるのは、彼がBC399年に刑死したという事実くらいでそのほかはフィクションに過ぎないという説もあるくらいです。しかし、これは極端な説として、一般的には、ソクラテスの弟子であるプラトンの初期の対話編『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ゴルギアス』『メノン』などを典拠に彼の哲学上の主張を読み取ることが一般です。

ソクラテスの弟子は大勢おり、当然師匠であるソクラテスの刑死というのは非常に弟子たちにインパクトを与えたので、クセノフォンという弟子による『ソクラテスの弁明』というプラトンと同名の著作もあり、そのどちらを第一次資料とするか文献学界においても議論されることはあったのですが、クセノフォンの描くソクラテスはどう解釈してもあまり面白みに欠け、かなり道徳的俗物であることから、プラトンの初期の対話編を持って第一次資料とすることが定着しております。他にも、アテナイの喜劇詩人として世界史にも登場するアリストファネスやプラトンの弟子であり、ソクラテスにとって孫弟子にあたるアリストテレスなどの資料にもソクラテスは登場しており、プラトンの対話編と共に補助資料として検討されることがあります。とはいえ、アリストファネスはソクラテスを描くというよりは、当時のソフィスト全般(ソフィストとは賢くする人という意味ですが、後世の使われ方からご存じのように詭弁家ともいわれます)を批判するのに、ソクラテスをもってその代表者(もちろん、ソクラテスをソフィストに数え上げるのは誤解であると思いますが)としてソクラテスをこき下ろしているのであって、あまり文献的に有意義であるとは考えられておりません。

少し前置きが長くなってしまいましたが、ソクラテスについてはこのような問題があるとことをまずは把握しておく必要があると思われますので、触れさせていただきました。というのも、これを知らずに「ソクラテスが~と言っている」とか、「ソクラテスによると~だ」とまるでソクラテスが著作でも残してそれを解釈しているかのように誤解してしまう方も多いので、その誤解をまずは解かなければならないと思い指摘しておきました。

ソクラテスは、アテナイの石工の父ソプロニスコスと産婆の母ファイナレーテの子として生まれました。ソクラテスの生年は分かっておらず、刑死の時70歳であったと言われていることから、BC470年あるいはBC469年の生まれと推定されています。若い頃、ソクラテスはペロポネソス戦争へ三度従軍し、歴戦の猛者であったと言われています。ソクラテスの生きた時代はアテナイの民主制は相当腐食し始めており、「正義とは、強者が弱者を支配し、弱者よりも多くをもつことだ」(プラトン『ゴルギアス』)と宣言して憚らない者(プラトンの対話編に登場する新進気鋭の政治家のカリクレス)が登場する時代でした。そんな時代の中、ソクラテスは、政治家になるわけでもなく、学者となるわけでもなく、いつごろかは分かりませんが、アテナイの青年たちを呼び止めて「善とはなにか?」「正義とはなにか?」「勇気とはなにか?」といった問題について対話を挑みかけるソクラテスの姿がアゴラ(古代ギリシャ語: Ἀγορά、Agorá)でみられるようになります。このアゴラでソクラテスが活躍したということは非常に意義深いものでして、今風にいうとセミパブリックな場所でソクラテスは活躍したということです。アゴラというのは、政治的な公共空間でもなく、経済的な私的空間でもない半公共的な施設である公園のことを意味します。都市の麓にあるアゴラには、多くの人々が集まり、商取引をしたり議論に興じたりする開かれた世界でした。ソクラテスは、そこで年少でも年長でも、外国人でも町の人でも金持ちでも貧乏人でも構わず一人一人と対話を繰り広げました。この一対一の対話活動というのは、非常に意義深いもので、一人が多くの人へ向けて説得を試みる議会や法定、劇場といった公的空間においては、そこに参加する人は自由に登壇して言葉を発する平等は保たれたとしても、現実的には説得力があるか否か、大勢の前で話す勇気があるか否かなどの能力差が歴然と出てしまいますし、説得力の欠く意見というのは受け入れられないでしょう。その点、一対一の対話であれば、もちろん、臆することは多少あるにしても、大分障壁が取り除かれた状態であったわけです。ソクラテスはこのようなセミパブリックな空間で、青年たちより絶大な支持と評判を得ました。

そんな折、ソクラテスの友人の一人カレイフォンが、ギリシア最古の神託所の一つであるデルフォイへ赴き、そこで祭られている神アポロンから「ソクラテスより知恵ある者はいない」という神託を授かります。これを聞いたソクラテスは非常に驚き、いぶかしみ、神の言葉を謎の言葉として受け止めます。デルフォイの神託はオイディプス王しかり、謎めいたお告げをいう所でも有名なので、ソクラテスはその真意を測りかねます。そもそも、ソクラテス自身は、自分のことを知者ではないと自覚していたので、神託の言葉を額面のまま受け取ることが出来なかったのです。ここでソクラテスは、「私は知者なのか、知者ではないのか」という自己のアイデンティティを巡る戦いへと導かれるのです。こうしてソクラテスは知恵があると世間一般に認められているような著名な政治家や詩人、工芸家などを訪ね、自分が最高の知者であるのかどうかを問いただそうとしたわけです。彼らは自らを識者として辞任している人たちでしたので、彼らなら善や美といった大切な事柄について知っているだろうと考えたわけですね。しかし、現実には、違いました。政治家はポリスのための善である国益を口にし、詩人は美しい詩句を紡ぎだす一方、その詩句がなぜ美しいのかを説明することができず、自分のドクサ(δόξα:doxa:考え)に矛盾した結論を露呈する始末でした。そこで、ソクラテスは「私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。」(プラトン『ソクラテスの弁明』)というような見解に至る様になりました。これが伝統的には「無知の知」と呼ばれてきたものの内容ですね。倫理や世界史の教科書などにはいまだに「無知の知」と書かれているでしょう。実際哲学史の本などを参照しても少し古い本だと「無知の知」と載っているかもしれません。しかし、この言い方ではソクラテスの真意を取り逃がしてしまうと最近の研究では指摘されています。ソクラテスは「知らないと思っている」と語ったので、「知らないことを知っている」といったわけではありません。知らないというこを知っているという知者ではソクラテスは無く、知を愛し求める者である「フィロソフォスφιλόσοφος:phirosophos)であり、知者ではないとソクラテスは散々繰り返し述べている通り、ソクラテスは知らないということを知っている知者ではありません。そうではなく、ソクラテスは何かについての知恵を持っているわけではなく、「知らないと思っている」だけなのですから、最近では「不知の自覚」と訳されたりします。これがソクラテスの「無知の知」が誤解であるという理由です。無知というのは、知らないことを知っていると勘違いすることであり、それはソクラテスが批判した当時の知者たちの有様のことでした。ソクラテスはそうした知らないことを知っていると思い込んでいる人たちのことを「無知」といい、自身を知らないことを知らないと思っている(無知ではなく、不知)の自覚を持っていたと言われる所以です。

この「不知の自覚」をもってソクラテスは自らの教育的使命を自覚し、ドクサ(この場合は、憶測に基づいた見識、略して臆見という)を破壊し、善や正義や勇気といった知識(エピステーメー)を得ようと人々を導こうと活動し始めたわけです。しかし、この議論は、先述したとおり「不知の自覚」に基づくものですから、善とはなにか、正義とはなにか、勇気とはなにか、という答えを直ちに導き出すものではありませんでした。その方法は、エレンコス(論駁的対話)と呼ばれる相手の言論の吟味と論駁を含んだ対話です。その分かりやすい例を指し示しましょう。「正義とは、強者が弱者を支配し、弱者よりも多くをもつことだ」(プラトン『ゴルギアス』)と言い放ったカリクレスとのソクラテスの対話です。

ソクラテス「飢えているということだが、それは快いことかね、それとも苦しいことかね、どちらだと君は言おうとしていたのかね。ぼくの訊いているのは、飢えていることそのことなのだよ。」

カリクレス「それはもちろん、苦しいことだ。しかし、飢えているときに食べるのは、快いことだと言っているのだ。」

ソクラテス「わかったとも。しかしとにかく、飢えていることはそのことは、苦しいのだね。そうではないのか。」

カリクレス「そうだ。」

ソクラテス「では、渇いていることも、そうではないのか。」

カリクレス「それは大いにそうだ。」

ソクラテス「それでは、もっと多くの例について訪ねて行くことにしようか。それとも、一般に欠乏や欲望は、どれもみな苦しいものであることを、君は認めてくれるね。」

カリクレス「認めるから、もう訊かないでくれ。」

ソクラテス「では、その点はそれでよいことにしよう。ところでしかし、渇いているときに飲むのは快いことであると、こう君は主張しているのだね、そうではないのか。」

カリクレス「そう、それを主張しているのだ。」

ソクラテス「それでは、君の言っているその言葉の中で、『渇いているときに』というのは、むろん、苦痛を感じているときに、ということではないのか。」

カリクレス「そうだ。」

ソクラテス「他方また、『飲む』というのは、欠乏を充たすことであって、そして、それが快楽なのだね?」

カリクレス「そう。」

ソクラテス「それでは、飲むという面において、ひとは快い思いをしているのだと、こう君は言おうとしているのではないかね。」

カリクレス「たしかに。」

ソクラテス「ところでそれは、渇いているときに、なのだね?」

カリクレス「それは認めよう。」

ソクラテス「だからつまり、苦痛を感じているときに、なのだね?」

カリクレス「そうだ。」

ソクラテス「そうすると、こういう結論になるのだが、君はそれに気づいているかしら?つまり君が、『渇いているときに飲む』と言う場合には、それは苦痛を感じていながら同時に快い思いをしているのだ、と言っていることになるのだが。」

(プラトン『ゴルギアス』)

これを、通称ソクラテス的対話法、時にはソクラテスメソッドと言われたり、昔の倫理の教科書では産婆術なども言われていたりしますね。要するに、相手の議論を自己矛盾したアポリア(行き詰まり)に追い込むことで相手の主張を却下するという対話法ですね。ソクラテスは相手の対話をすすめながら、じぶんは答えません。解答をソクラテス自身も知らないからです。このことは、ソクラテス的なアイロニーともいわれますね。これはもちろん、ソクラテスにおいては、知らないことを知っていると思っているというドクサを吟味し、不知への自覚を促し、知恵を求めよう、働きかけるものでしたが、相手の理屈を反駁するだけの屁理屈のようにも一見思われてしまい、当然、こうした議論によって不知の自覚を促された相手は大変不愉快になります。その結果、ソクラテスは大いに敵を作ることになってしまいます。こうしてソクラテスは「若者たちを堕落させ、かつポリスが信じる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを信ずるがゆえに」(プラトン『ソクラテスの弁明』)という内容でメレトスという若者に告発を受けます(そのバックには、政治家アニュトスがおりました)。その結果は、有罪280票、無罪220票となり、ソクラテスは有罪となりました。当時のアテナイは10の部族からそれぞれ五十名ずつが選ばれた五百名からなる評議会によって裁かれていたのです。しかし、当時のアテナイでは、適当な罪科を当人から申し出て認められれば、死刑は免れるのが慣行となっていました。それに対し、ソクラテスは銀1ムナの支払いが出来ると提案をします。当時の銀1ムナの価値というのは、熟練職人の百日分の日当程度だと言われています。これは、現代の貨幣感覚で言うと、45~60万円ぐらいのものでしょうか。ソクラテスはそもそも死を恐れていませんでした。

「世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大でもっとも評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら思慮や真理や、魂というものができるだけ善くなるようにと配慮せず、考慮もしないとは」(プラトン『ソクラテスの弁明』)

と語ったように、お金や名誉よりも「魂への配慮」を大切にしていました。また、ソクラテスは哲学することを死の練習であると考えてもいました。こうした考えでソクラテスは自分の罰金を決めているわけなので、半ば喧嘩上等といいますが、当然、銀1ムナという対価では、死刑の対価としては安すぎると考えるは現代人でも同様でしょう。そこで、プラトンらが30ムナの支払いをすると修正をするよう申し出て変えますが、それでも2000万円ぐらいの金額でしょうか。死刑の対価としてはまだまだ足りないように現代人でも思われると思います。当然評議員たちは当惑し、怒りを覚えます。その結果、360対140票の大差で死刑が確定します。こうして、最終的に量刑を決める裁判でもソクラテスは死刑判決を受け、毒人参の杯を仰ぎ、刑死します。しかし、こうして「魂への配慮」を大切にしたソクラテスの考えは弟子のプラトンに引き継がれ、その思想は西洋思想史に大きく影響を与えるイデア論へと結晶していきます。

小ソクラテス学派

ソクラテスの思想を芯に継承し、発展させたのは先述の通り、プラトンでした。しかし、クセノファネスの例からも変わる様に、ソクラテスの周辺には、ソクラテスに帰依し、ソクラテスの思想をそれぞれの方向に置いて発展させていった人々もいました。彼らは哲学史上、小ソクラテス学派といわれ、アンティステネスとキュニコス派、アリスティッポスとキュレネ派、エウクレイデスとメガラ派、パイドンとエリス・エレトリア派がありました。

プラトンの壮大な思想を見てみる前に、彼らの思想を簡単に抑えておきましょう。最近の哲学史の本などでは悲しいかな小ソクラテス学派は割愛されることが多いので、本稿では敢えてかれらに多少なりともスポットライトを浴びせたいと思っています。

a)キュニコス派

まず、最初にキュニコス派ですが、この派の由来は、諸説あるものの、「犬の生活(キュニコス・ビオス)」から取られたという説が有力です。この派を作ったアンティステネスは、BC445年~BC365年に生きた人物で、ソクラテスの徳をもっぱら行為において追求し、徳を求める極端な求道的な生活を実践した人物として知れています。

彼は、「欲することなきは、神のわざ。欲する事と最小にとどむるのは神のわざにもっとも近し」という主張をしており、「快楽に屈せんよりはむしろ狂気を」とまでいったとされるほど、人生において求めるべきはただ徳のみであって、徳以外のもの全ては徳の獲得に役立つ限りにおいて意味を有するものでしかありませんでした。徳の獲得に役立つところのないものは、他の面からどれほど価値があるものだとしても、それは「どうでもいいもの(アディーアポラ)」であり、ましてや徳の道に反するが如きは、断固として退けなければならないと考えていました。快楽は精神を軟弱にし、徳に反する方向に導くが故に当然排斥されるべきものだと考えたのです。ここにはソクラテスの肉体の蔑視の思想が受け告げられていると思ってよいでしょう。

また、彼らは、こうした禁欲主義から、最終的には家、家族、財産など、通常の市民生活を送るのに必要とされるすべてのものを捨てて乞食のような生活、そうまさに犬の様な生き方をしました。ここから彼の学派がキュニコス学派と呼ばれるようになったというのは先述の通りです。彼は一枚のマントを二重にして着用し、ずた袋を肩から掛け、手に杖をもって乞食層のように歩き回った最初の人と言われています。このことによって、空らは世俗的関心から、精神の独立性を維持しようと考えていたのです。また、徳に至るまでは、「ソクラテス的強さ」、何者にも動じない堅忍の意志の強さを培養するために、自らにまとわりつく、不評や艱難辛苦をむしろよきものであるとみなし、労苦の意味を積極的にといています。また、徳はそれのみで幸福足るものであって、徳は自らの他に何物も必要しないとしました。このようにアンティステネスは徳の自足性を強調し、賢者、有徳の人は自足せる人でした。

アンティステネスは、後述するプラトンのイデア論に対するアンチテーゼと位置付けられています。個人的にも彼はプラトンと尊大な奴だ、と嫌っていたようで、そのイデア論に反対しました。それは彼が抽象的な普遍の存在を認めず、具体的な個物の存在から認めなかったことにも起因しています。アンティステネスによれば、存在するものは、手で持ってつかむことのできる個々の事物のみであって、その普遍的な類であるイデアといったものは存在しません。「おおプラトンよ、私は馬を見るが、馬性なるものは見ない」と彼は言ったとされています。それに対してプラトンは、「それは君が目を持っていても理性を持っていないからだ」と答えたと伝えられています。このように普遍の存在が認められないとなると、当然普遍の表現である抽象的概念も認められません。このようにして言葉は、個々の事物に一対一の関係で対応する固有の言葉のみ可能であって、命題は全て同語反復としてしか成立しないことを主張しました。「人間は善である」とはいえず、「人間は人間である」「善は善である」といったトートロジーでしか語りえないということです。主語(個物)を述語(普遍)のもとに包摂することは普遍の存在が認められない以上、不可能なものとされました。ここから彼は矛盾したことを言ったり、虚偽を語る可能性も否定するようになったと言われています。いわば唯物論的な存在思想の走りであったともいえます。

彼の一派に属するディオゲネスは、BC412年頃~BC323年まで活躍した哲学者で、彼は哲学史だけではなく、プルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』で紹介されているように、世界最大の帝国をわずか十数年で築きあげた偉大な王の中の王ともいわれるアレクサンドロス大王との逸話でも有名です。どういう逸話かというと、アレクサンドロス代行が自らの下に優秀な人材を集めていたのですが、集めた賢人たちの中にディオゲネスがいないことに大王は気付きます。そこで、大王はディオゲネスと是非会いたいと思い、わざわざコリントスのシノペにいるディオゲネスの元に参ります。ディオゲネスに会いに行くとちょうど彼は日向ぼっこを楽しんでいました。早速アレクサンドロス大王は「余がアレクサンドロス大王である」と名乗ります。すると、ディオゲネスは「わしが犬であるディオゲネスだ」と応じます。アレクサンドロス大王は、彼に「何なりと望みのものを申してみよ」と問うたのですが、ディオゲネスは、大王に日光を遮られていたので「どうかわたしを日陰におかないでください。大王がそこにいると日が当たりませんので、ちょっとだけよけて貰えませんか」と回答します。そのやり取りを受けたアレクサンドロス大王は、大いに驚き「お前は余が恐ろしくないのか?」と詰問します。すると、ディオゲネスは「一体お前は何者だ?善人か?悪人か?」と問うのです。アレクサンドロス大王は「むろん、善人である」と答えると、ディオゲネスは「それなら誰が善人を恐れようか」と返したそうです。こうしたディオゲネスの超然とした様子をみたアレクサンドロス大王は「余がもしアレクサンドロスではなければ、私はディオゲネスになりたい」とまで帰路でこぼしたそうです。このエピソードは先に述べたと落ち、プルタルコスの『英雄伝』とディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』に記載されているものではあるものの、真偽のほどはわかりません。しかし、彼らの思想をよく表現しているエピソードでしょう。また、彼は師と同じくイデアを否定し、何事にも動じない心をもつことを最善とする一方、住居も年も国家も無関係に宇宙のいたるところを住処とするあり方を意味する「コスモポリタン」を最初に用いた人物とも言われています。

b)キュレネ派

アリスティッポスは、BC435年~BC355年頃の人で、ソクラテスの「善く生きよ」という言葉を「快く生きよ」という意味に理解し、そこから極端な快楽主義を唱えた人物として知られています。ソクラテスの「善く生きよ」というのは、有徳に生きることを意味すると同時に「快く生きる」こと、即ち幸福に生きることをも意味していました。アリスティッポスは、後者の面を捉えて、快を人生の目的としたのです。

アリスティッポスは、その快楽主義をプロタゴラス風の主観主義的な認識論によって根拠づけており、彼は感覚(パトス)と我々の外にあって我々を触発する物自体とを区別します。感覚だけが我々に現れているのであり、外にある物自体は確かに感覚の原因であろうが、それ自身は我々の表象ではなく、ここからアリスティッポスは我々が知るのは我々自身の主観的な感覚に過ぎないと結論しました。我々は、内に生じた感覚を知覚するだけであって、その原因を知覚できないというわけです。そして、感覚とはすべて主観的、個人的であり、自己の感覚と他人のそれとが一致しているのかどうかは確かめることができません。たとえ名前が等しくてもその対象が同じであるとは限らないからです。同時に感覚が物の真の姿を伝えているかどうかも確かめられません。当の感覚以外のどのような認識根拠も我々は有していないからで、我々は自己の主観的な感覚を知っているのに過ぎないとされました。

アリスティッポスは、このような認識論的主観主義から倫理的主観主義を帰結しています。感覚だけが認識において我々の知るところであるならば、行為においてもただ感覚しか基準となり得るものを我々は有しておらず、感覚以外の基準があるとしても我々にはそれを知りえないのであるから、行為の基準とすることはできないからです。そして、感覚が教えるのは快か苦かそのいずれでもないかのどれかであり、それゆえ、アリスティッポスは、快を善、苦を悪としました。こうして快が求められるべき唯一の善となり、彼は快を人生の目的としたのです。他方、苦は避けられるべき悪でした。また、感覚は、運動において成立すると彼は考え、快をなめらかな運動、苦をざらざらした運動、そのいずれでもない状態を無運動としました。

快は、快という一点においては精神的な快も肉体的な快も異なるところはなく、快である限り、いかなる由来のものであれ、全て善であり、強度はあればあるほど望ましいものと考えられました。そこから彼は精神的な快よりもむしろ肉体的な快、感覚的な快を優先させました。それは肉体的な快の方が強烈で明確だからです。また、感覚とは現在的なものであり、過去の思い出や未来への希望からくる幸福感は快として劣っているとも考えました。アリスティッポスは「幸福」よりも、現在この瞬間における個々の肉体的、感情的な快を目的としました。こうした刹那主義的な快楽主義思想ではギリシア思想上に置いても最も極端なもので、ある意味現代人にも通じるような前衛的な思想でした。

しかし、アリスティッポスは、ソクラテスの学徒であり、識見の意味も説いています。しかし、それは識見そのものというよりは、それがもたらす利益のゆえでした。一般に賢者は快楽に満ちた楽しい人生を送り、愚か者は苦しい人生を送ると考えられました。アリスティッポス自身、どのような境遇にあっても人生を最大限楽しむ術を得た人だったそうです。彼は抗議に対しいて授業料をとり、娼婦と同衾し、王侯の元に侍っても恥じませんでした。娼婦と交っているといって非難した人に対して、アリスティッポスは要は快楽に身を染めないことではなく、快楽に負けないことが大事だと説いたそうです。

c)メガラ派

キュニコス派とキュレネ派はソクラテス哲学の倫理的側面を取り上げ、それぞれの方向に極端化していきました。これに対してメガラ派は、ソクラテス哲学の対話術が有している論理的、論争的要素を論争のための論争の術、今でいう所のディベートの術のようなところまで先鋭化させました。メガラ派の創始者はエウクレイデス(BC450年頃~BC380年頃)です。エウクレイデスは、ソクラテスの観念論から出発します。ソクラテスのエレンコスとは、事物の本質規定(定義)を目指すものでした。ところで、定義は全て類的、概念的性格を有しています。たとえば、人間の定義はこの個体としての人間のみ該当する特殊なものであってはならず、すべての人間に該当する普遍的、人間一般という類、即ち人間の概念でなければなりません。対話においては使用される言葉が全て概念的本性を有しています。ソクラテスの対話術は、真理は個物にではなく、その類である概念にあることを暗黙の裡に語っていました。それゆえ、エウクレイデスもプラトンと共に、真理は個々の感性的な個物にあるのではなく、それらの概念にあると考えました。

ところで、概念は個物に対して類的統一をなすものです。個物は多でありますが、概念は一であります。概念はこのように統一の方向を志向するのです。エウクレイデスは、この統一の方向をさらに進み、類的統一を究極的な一者にまで統一させました。彼はこの一者をエレア派の一者と同一視します。パルメニデスが「存在」という一者のみの存在を認め、他の全てを否定したようにエウクレイデスも世界には一者しか存在しないと考えます。そして、この一者こそソクラテスのいう善にほからなないと考えました。エウクレイデスによれば、世界には善と呼ばれる一者しか存在しないのであって、それ以外のものはことごとくその存在が否定されなければならず、即ち善は一であると共に全体であり、常に自己同一しており、消滅することも運動することもありません。このようにエウクレイデスは、善のみを認め、他の一切を否定しました。しかし、彼らの議論は次第に積極的な目的を見失っていき、やがて相手を遣り込めることだけを目的とした論争のための論争術、争術論へと変わっていきます。

d)エリス・エレトリア派

エリス・エレトリア派のパイドンは生没年不明の人です。プラトンの対話編でソクラテスの刑死の間際の魂についての議論を取り扱った『パイドン』に登場する人物でもあります。彼はソクラテスの愛弟子として知られる人でしたが、後年、セネカが「徳を得る唯一の方法は良き人々の社会に入り浸ることである」というパイドンの格言を残している程度で、その派の教説がどのようなものであったかという詳細は分かっておりません。ただ、メガラ派と同じような思想傾向を有していたとされています。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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