日本史講義 古墳とヤマト政権
前方後円墳の体制
古墳とヤマト政権の成り立ちについて見ていきましょう。まずは、初期、ヤマト政権の成立の頃の話です。ヤマト政権というのは、大王を中心とする畿内有力豪族の連合政権。遅くとも4世紀中ごろまでに、九州北部~中部地方を統一したと考えられています。5世紀には畿内の平野部で大王の前方後円墳が巨大化しており、勢力範囲も九州中部~東北の一部まで拡大したと考えられています。
3世紀半頃、近畿や西日本各地に大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳ないし前方後方墳で、竪穴式石室に遺体を長さ数メートルの割竹形木棺に安置する埋葬施設や呪術的な銅鏡の他に武器類をおいた副葬品の組み合わせなど、いずれも共通していて画一的な内容をもっている。こうした共通する墳墓や共同の葬送は、首長間の同盟関係を表し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。出現期の古墳では、墳丘長が200メートルをこえるものは、奈良県桜井市にある箸墓古墳(墳丘長280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などで、大和(ヤマト)、それも奈良盆地東南部のみにみられ、他の地域をはるかにしのぐ規模を持つ。このことは、大和を中心とする近畿地方の勢力が中心となって、政治連合が形成されたことを示し、これをヤマト政権(大和)という。古墳は、遅くとも4世紀中頃までには東北地方中部におよび、大型前方後円墳が多く作られた。これは、東日本までがヤマト政権の連合に組み込まれたことを示している。こうした古墳が営まれた時代を古墳時代と呼び、この時代は前期(3世紀後半~4世紀)、中期(4世紀末~5世紀)、後期(6~7世紀)に区分される。墳形には、円墳、方墳も多いが、大規模で重要な古墳はいずれも前方後円墳である。墳丘上には、埴輪が立て並べられ、表面には葺石がふかれ、周囲には壕がめぐらされたものもある。埋葬では、前期・中期には木棺や石棺を竪穴式石室におさめたり、粘土で覆った粘土かくがつくられるが、近畿の巨大な前方後円墳には、長持形石棺が用いられた。前期古墳の副葬品には、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など大量の鏡や腕輪形石製品、鉄製の武器・農具がみられ、被葬者である首長が実際に農耕儀礼を行いながら、神をまつる司祭者であったという性格を表すいている。各地の首長は、ヤマトの王から鏡の賜与(しよ)や鉄の供給を受けて、ヤマトの王の宗教的権威を認めて服属し、同じ型式の古墳造営を行って、ヤマト政権連合に加わったのである。三角縁神獣鏡の中心は、中国から輸入された物(舶載鏡と呼ぶ)で、一部は魏から卑弥呼に賜与された鏡であると考える。
引き続き、ヤマト政権成立の過程の中期を確認してみましょう。別記事でも紹介していますが、この時期に前方後円墳といわれる大規模な古墳が成立していることから、ヤマト政権が豪族の連合のような形で成立してきたことが分かるわけですね。
中期に入ると、ヤマト政権中枢の巨大な古墳は奈良盆地から河内平野に移る。5世紀の前半から半ばにかけて造営された堺市にある百舌鳥古墳群の大仙陵古墳(仁徳陵)は墳丘の長さが486メートルあり、日本最大の規模を持ち、2~3重の周濠(しゅうごう)をめぐらし、その墓域は80ヘクタールにもおよぶ。また、羽曳野市にある古市古墳群の誉田御廟山古墳(応神陵)は、第2位の規模で420メートルの墳丘長をもち、ともに5世紀のヤマト政権の大王(おおきみ)の墓を考えられる。中期の5世紀は、「巨大古墳の世紀」ともいわれ、岡山市で造山古墳(墳丘長360メートル)は、全国で第4位の規模をもつ。のちの吉備氏へつながる吉備地域の大豪族が大きな力をもち、ヤマト政権の連合において重要な位置を占めていたのだろう。ほかにも、5世紀前半には群馬(上野)、京都北部(丹後)、宮崎(日向)でも巨大な前方後円墳がつくられている。副葬品の中に武器や武具の占める比率が高くなり、馬具も現れ、短甲・冑などの騎馬戦用の武具が増える。これは首長の武人的性格が強まったとともに、朝鮮半島から新たな文化の波がきたことを示している。しかし、5世紀後半から末期にかけて、岡山県や群馬県などの各地域では大規模な前方後円墳の造営はみられなくなり、大王だけが墳丘長200メートルをこえる大前方後円墳の造営を続けている。このことは、この時期にヤマト政権の王である大王の権威が著しく伸長して、ヤマト政権の性格が大きく変化したことを示している。
というように、中期に入り、ヤマト政権は中央集権化し始めていきます。地方に大きな古墳が現れなくなったことにより、ヤマト政権が中央集権化し、権力を中央に集中させていくことが窺い知れますね。
それでは、今度は、倭からお隣の朝鮮半島や中国の情勢を見てみましょう。中国の周辺地域への支配力が弱体化し、朝鮮半島・日本で国家形成の動きが進展し始めます。
280年に中国を統一した晋(西晋:265~316年)は、4世紀に入ると力を弱め、北部につぎつぎと遊牧民が侵入して、五胡十六国時代となった。いったん滅んだ晋は、江南に逃れ、317年、健康(現在の南京)に東晋を再興し、以後、南朝の宋・斉・梁・陳が順に建国された。この晋の南遷は、朝鮮半島に大きな影響を及ぼした。朝鮮半島の3国のうち、北にあった強国の高句麗は、313年に晋の朝鮮半島支配の拠点である楽浪郡と帯方郡を滅ぼし、さらに旧楽浪郡の平壌を拠点とし南下策をとり始めた。一方、朝鮮半島南部では、4世紀中頃に馬韓から百済が、辰韓から新羅が建国し、百済は高句麗の南下を受けて、倭に近づいて同盟を結んだ。そのとき、百済王の世子(せし)から倭王におくられたのが、石上神宮(天理市)に所蔵される七支刀である。倭は、4世紀には朝鮮半島南部の弁韓地域にあった加耶諸国(加羅)と密接な関係をもち、鉄資源を確保した。そこは生産技術を輸入する半島の拠点であり、倭人も集団的に移住していたと考えられる。高句麗は、4世紀後半に南下を続け、広開土王の一代の功業を記した広開土王碑(中国吉林省集安市)には、高句麗が倭に通じた百済を討ち、倭の侵入を受けた新羅を救い、400年と404年に倭群と交戦して勝利を得たことが記されている。鉄や文物の供与を受けていた倭は、加耶や百済の要請で派兵し、軍事援助をしたらしい。高句麗の騎馬軍団との戦いは、倭の人々に騎馬技術を取り入れさせたようで、5世紀には日本の古墳にも馬具の副葬が増加する。また朝鮮半島からは、戦乱を逃れたり、軍事援助の見返りに、多くの人々と技術などが日本列島にもたらされた。5世紀初めが渡来人の第一波で、王仁(わに)・阿知使主(あちのおみ)・弓月君(ゆづきのきみ)(それぞれが西文氏かわちのふみうじ、東漢氏やまとのあやうじ・秦氏はたうじの祖)は、応神天皇の時にトライしたと「記紀(きき:古事記と日本書紀を合わせて表現したもの)は伝えている。5世紀の古墳に皇室の須恵器の副葬が始まるのも、この頃伝わった技術であろう。
313年、高句麗りが楽浪郡を滅ぼして南下します。翌年、帯方郡も滅ぼし三韓を圧迫。4世紀半ば、馬韓から百済、辰韓から新羅が統一国家を形成します。弁韓は加耶〔加羅〕諸国とよばれ、いまだ小国分立の状態が続いています。 『日本書紀』では加耶諸国を任那(みまな)とよび、「日本府」が置かれたとしています。中国吉林省にある好太王〔広開土王〕碑には、辛卯の年(391年)以降、倭が高句麗と交戦し破れたと刻まれています。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |