国立及び難関私大対策世界史特講:イギリス近代史を学ぶ(2)

03 晩婚化のイギリス近世社会

さて、このようにして、晩婚化が進むイギリス近世社会ですが、そのことを言い換えれば、サーヴァントが修行ないし奉公を7年から10年くらいつとめるので、終える頃には、羊一頭くらいは持っているというレベルから、何か商工業をはじめるための営業権を含む市民権を獲得しているレベルまで、さまざまな形で財産や権利を獲得していることにもなります。  徒弟を七年くらい務めると、市民権を得ます。市民権というのは、営業権でもあるので、何らかの商売を行うこともできます。ただし、魚屋の徒弟をしたからといって、魚屋をしなければならないという規程はありませんでした。つまり、何か商売をすることが認められるというような広い営業権であり、言い換えれば、これはイギリス社会において一人前になるということでありました。このように、イギリスでは7年から10年間くらいの修行の期間があり、この間は結婚をしてはいけないことになっているためにm当然晩婚化が進みます。、アフリカなどでは、現在でもとても結婚が早いですが、そういう社会とは違う形がイギリスにはあるわけです。

04 晩婚の社会「15でねえやは嫁にいかないイギリス」

多くの若者が10年間も親元を離れて、別の家のサーヴァントになっていたわけですが、その間、彼らは擬似的な意味で雇い主の子どもとして扱われます。たとえば、サーヴァントが何か罪を犯すと、実家の親が罰せられることはなく、雇い主が社会的に糾弾されるのが普通でした。つまり、サーヴァントとして入った家での一員になっているという特徴があるのです。「政治算術」という、この時台の社会状況を表している統計的な学問があります。この政治算術と呼ばれる大量の史料を読むと、家族の規模は上流階級ほど圧倒的に大きくなっています。下層階級では、家庭の規模は3人~3人半くらい。これは、庶民の家では、子どもがたくさん生まれないということではなくて、たくさん生まれるけれども、みんな少しずつ上の階級にサーヴァントとして入っていき、その家庭の擬似的な一員となっているということです。サーヴァントになると、そこの家族として、勘定されるので、たとえば、国王の家族は宮廷人を全部含めて、数千人規模になります。

貴族は、16世紀ですと、160~170家族くらいしかいませんでしたが、17世紀末ぐらいの政治算術書では、そういう貴族には、一家族40人くらいの人がいたことになっています。これはむろん、夫婦の他に子どもが38人いましたということではなく、使用人がたくさんいて、家族として計算されているのです。庶民の家は、三人もしくは三人半と言いましたが、三人の家族では、三世代家族ということは考えにくいです。夫がいて、妻がいて、子どもが一人いれば三人です。おじいさんとおばあさんも一緒で三世代家族であれば、平均が三人や三人半になることはありません。

一方、子どもは、14歳くらいで実家を離れると住み込んだ先の子どものようなものとして扱われます。相続権などはありませんが、10年間くらい住み込んでいると、われわれの感覚に比べて実の親との関係が薄くなってしまうことが考えられます。家族史の常識として、イギリスでは、こういうライフサイクル・サーヴァントを終えて結婚するというときに、親元に還って親と一緒に住むという形がありません。そういうスタイルがないから、三世代家族がないのです。

結婚しうて新しい家族をつくることができるのは、10年くらい資産を貯めたり、資格を獲得していたりするからです。この形は、現在の日本の高学歴社会によく似ています。つまり、ライフサイクル・サーヴァントというのは、徒弟であれ、お手伝いさんであれ、農業サーヴァントであれmいまでいう学生時代、言い換えれば半人前の修業時代のことです。この期間がかなり長いので、晩婚になる。日本では、学生は結婚できないわけではないですが、社会的に「まだ学生なのに、君は結婚するのか」という抵抗が強く未だ社会に根付いているのも事実でしょう。日本では、確かに戦後、学生結婚はかなり流行りましたが、今そんな多いわけではありませんし、どんどん広がっているという感じもありません。近世のイギリスでも、それと似たような雰囲気があったわけです。

親元に帰らなくても、少しは基盤があるので、生活していける。こうして近世のイギリスは、当時の日本、あるいはアジア、アフリカの国と比べれば、新婚夫婦がスタートするときの経済レベルはかなり高かったもののと思われます。政治算術のデータからも当時のイギリスは、今の低開発国よりは生活の水準が高かったという研究も、だいぶ以前になされたことがあります。早婚の社会では、たとえば、10歳代で結婚をしても生活できませんから、親元に同居することになりますが、イギリスではそうではなかったわけですね。

05 救貧法はなぜ必要になったのかー福祉国家のもと

こうして近世イギリス人の人生を考えると、14歳くらいまでは、日本でいう寺子屋のようなところ読み書きを習ったりすることもありますが、だいたいは家で親の手伝いをしています。そして、14歳くらいになると、余所の家に行って、半分くらい余所の子になってしまう。10年くらい過ごして、結婚して独立する。そして、子どもができ、その子も14歳くらいになったら余所の家にいくということを繰り返します。元の親の家はどうなるかというと、高齢者夫婦だけになるか、むしろ多くの場合は、どちらかが欠けてしまい、独居老人になってしまいます。こうしたことから、イギリスの近世社会には独特の救貧問題が発生します。

17世紀のはじめに、エリザベス救貧法と呼ばれる法律が出されます。この時代から貧困が広がって、救貧法を出さざるをえなかったのです。その原因は、イギリスでhが早期に資本主義が発達したからだとかつては説明されてきました。しかし、資本主義の発達と関係がないというわけではないでしょうが、それが直接の原因ではなく、近世イギリスの家族の構造に問題があったと考えられます。年老いた夫婦は、自分の子どもはどこかに言っていますから、二人とも生きていたとしても生活していけません。だから、農家などではかなり貧しくても、余所からサーヴァントを雇います。もう少ししたの階層からサーヴァントを雇って農業を続けようとするわけです。高齢者の面倒を誰がみるのかという問題が出てきます。日本の伝統社会では、老齢の親の面倒は、子どもが見るべきだと考えられ、実際うまくいっていたのだと思いますが、イギリス社会ではそういうことはありませんでした。高齢者は社会的に面倒を見なければならない。それは教区の責任である、ということになりました。だから、救貧が深刻な問題になったのです。

救貧の研究は、昔は政策や制度自体を対象としていましたが、最近では、救貧の対象がどういう人だったのかということに関心が移りました。こうした研究が示すのは、いま話したような高齢者、そして寡婦が救貧の対象だったということです。伝染病で人がたくさん死んだ時代ですから、夫が死んでしまう、妻が死んでしまう、幼い子どもを残して親が死んでしまうというケースはたくさんあります。いわゆる欠損家族、もちろん、この言い方には、両親のそろった完全なる家族が正常であるという歴史学としては、問題のある価値判断が見え隠れしますが、この欠損家族になる可能性は非常に高かったわけです。両親のどちらかが亡くなっても、当時の社会では、子どもは大変な苦労を強いられます。とくに、幼児を残して、夫に先立たれた寡婦というのは、救貧の対象になっているケースが多くあったそうです。

こうしてみると、近世イギリスの家族やライフサイクルは、単婚核家族で、晩婚の社会となった最近の日本のそれとよく似ていることがわかります。介護の問題が深刻化し、行方不明の高齢者の問題や離婚と再婚で生じる母子家庭の問題や継父による虐待など、そこから発生した問題ともよく似ています。

 

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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