大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)9~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

01 末期養子が禁じられた理由

歴史の先生はよく「歴史の流れを掴みなさい」という言葉を授業中に話すことが多いかも知れませんが、はたして歴史に流れなどあるのでしょうか。ある意味マルクスの唯物史観のような「物語」が見え隠れするのが、この流れという言葉に隠されています。実際その時代に生きている当事者にとっては「流れ」に身を任せているだけだとしても、後の世から考えればそこには様々な史実が織りなす必然が見いだされることもあります。その必然こそ、先人と同様に流れのままに生きている私たち現代人にとって、その「流れ」を客観視するために、歴史から学ぶべきことでしょう。そこで、こうした歴史的な必然を示す言葉として「仕組み」という言葉が相応しいかもしれません。もちろん、「しくみ」と言ってしまうと構造主義的な物語も見え隠れしてしまいますが、「仕組み」は現代の社会にも通じ学ぶべき価値があるでしょう。次の大阪大学の問題は、末期養子の禁という具体的な決まりを通じて、近世社会の「仕組み」を問います。

【問題】

慶安4(1651)年、幕府は末期養子の禁を緩めた。末期養子の禁の内容と、この緩和措置がなされた政治的・社会的背景について、具体的に述べなさい。(200字程度)

大阪大学「日本史」2019年

02 中世と近世の違い

近世社会の「仕組み」を理解するには、その前の時代の中世社会の「仕組み」との違いに注目する必要があります。教科書は一般的に、織田信長・豊臣秀吉による天下統一をもって近世の始まりとしています(なお終わりは、幕府の開国です)。信長・秀吉の登場によって何がどう変わったのか?まずは、中世社会の「仕組み」を確認しておきましょう。教科書には「こうして院政期には、私的な土地所有が展開して、院や大寺社・武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分散していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まって、中世社会はここに始まった」と書いてあります。

上から押さえつける力が弱まったとき、下から沸きあがる力によって、さまざまな新しい勢力が生まれてきました。それが中世という時代でした。律令のような法秩序で守られるということもなくなりますので、自分の身に降りかかった問題は自分の力で解決するしかありません。自力解決こそが中世社会の基本的な「仕組み」であったわけです。それは、中世には一元的な権力が存在しなかったという事とも関係しています。鎌倉時代は、朝廷と幕府による公武二元支配の状況であり、承久の乱でその力関係が崩れたことが、幕府滅亡の遠因となりました。公家・武家の一体化を目指した後醍醐天皇の建武政権は僅か3年で空中分解し、続く室町幕府も応仁の乱(1467~77)後に権威が失墜して、群雄割拠の戦国時代を迎えます。絶対的な支配者がいない状況ですので、頼るべきは我が身のみだったわけです。

そのような権力が分散した状況を打破すべく、天下統一を目指したのが、織田信長であり、信長の遺志を継いでそれを実現したのが秀吉でした。秀吉は、諸国の平定と並行して、全国の土地の生産力を調査し、石高(米の生産高)で統一的に把握しました(太閤検地)。そして、天下統一を成し遂げた翌1591年、諸大名に対して、国郡別に石高を記録した御前帳と、諸国を描いた国絵図の提出を命じます。こうして全国の支配者である自らの立場と、それに臣従する諸大名という関係を明確にしたのです。

秀吉が一元的な権力を握るということは、全ての決定が秀吉に委ねられる、つまり自力解決が否定されるということも意味しています。秀吉は、大名間で所領紛争が生じている地域に、戦闘の停止と領地確定の秀吉への委任を命じる惣無事令を発しました(なお、最近では、全国一律の命令で無かったとする説が有力であり、惣無事令に言及していない教科書も増えています)。こうしてみると、一元的な権力が現れて、自力解決が否定されたのが近世社会の「仕組み」であるといえるでしょう。

03 大名の所領は将軍からの預かり物

この一元的な支配者の出現という近世社会の「仕組み」を大前提として、江戸時代の支配秩序の骨組みとして築かれたのが、幕藩体制という「仕組み」です。幕藩体制の根幹にあるのは、将軍と大名の封建的主従関係です。土地を媒介した武士間の主従関係を、中世ヨーロッパの大土地所有制度(封建制)になぞらえて、封建的主従関係と言います。鎌倉時代においては、将軍と御家人の関係は、将軍が御恩として所領の支配権を保障し(本領安堵、新恩給与)、御家人が奉公として軍役を負担するという形で、封建的主従関係で結ばれていました。江戸時代の将軍と大名の間でも御恩と奉公による封建的主従関係が成立していたのです。

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、諸大名に対する指揮権の正当性を得ると、秀吉と同様に国絵巻と郷帳(村ごとの石高を記した帳簿)の提出を命じました。全国の領主権を握るのは、将軍であるということです。そして、これをもとに、将軍が大名に対して知行地を与え、大名はそれに見合った軍役を負担するという形で、将軍と大名は封建的主従関係で結ばれたのです(大名知行制)。一元的な支配者である将軍が開いた全国政権を幕府と言います(幕府とはもともと戦地で将軍が幕を張って軍務を行った場所という意味でしたが、源頼朝以来、征夷大将軍に任命された武士の棟梁が開いた全国政権を幕府と呼ぶようになりました)。一方、大名が将軍から与えられた知行地を支配する組織を、藩と言います。つまり、封建的主従関係を結んだ将軍と大名とが、強力な領主権を握って全国を支配していたわけです。このような江戸時代の支配体制の「仕組み」を幕藩体制と言います。

さて、ここで注意してほしいのは、大名が支配する藩は大名自身の所領であるように思えますが、全国の土地所有者はあくまでも将軍であるということです。大名は臣下として主君である将軍から知行権(支配権)を認められているに過ぎないのです。それ故、多くの高校生が使用する山川出版社『日本史用語集』で「大名知行制」の項目を引くと、「太閤検地委以後、大名の領地は、公儀(政府・幕府の意味)と呼ばれる秀吉や徳川将軍家から知行地として一時預かったものとされた」と説明されています。大名の所領は将軍からの一時的な預かり物であるというのが、幕藩体制の根っこにある理念だったのです。

だからこそ、幕府は大名の領地替え(転封)を行うことも可能でした。将軍が大名に与えたのは、知行地そのものではなく、土地の生産力を米の生産高に換算した石高です。ですから、前田家は「加賀百万石」と言ってもその所領が加賀である必要はありません(ちなみに、もう少し正確にいうと約103万石です)。臣従する立場の大名をどこに配置するかは、主君である将軍の自由裁量であったわけです。こうして、17世紀前半には幕府の支配体制の強化のため頻繁に領地替えが行われました。将軍と大名は封建的主従関係で結ばれており、大名の所領は将軍からの一時的な預かり物に過ぎない。この「仕組み」を抑えていると幕府が末期養子の禁を定めていた理由も見えてきます。

04 参勤交代は平時の軍役

問題に入る前に、将軍と大名の封建的主従関係に関連して、もう一つ説明を加えておきましょう。将軍から知行地を与えられた大名は、それに見合った軍役を負担すると言いました。御恩に対する奉公です。しかし、江戸時代には、鎌倉時代のように「いざ鎌倉」と戦に馳せ参じるという場面がありませんでした。江戸幕府が開かれた後も、全国支配の障害として残っていたのが、豊臣氏の勢力でした。秀吉の子・豊臣秀頼は、畿内60万石の大名として大阪城に居を構えていました。そこで、家康は、1614~15年、二度に渡ってこれを攻め(大坂冬の陣、大坂夏の陣)、豊臣氏を滅ぼしました。これにより、応仁の乱から始まった戦国の世は終わりを告げたのです。これを、武器を伏せ収めるという意味で「元和偃武」といいます。

ですので、それ以降、天下泰平の世が訪れた江戸時代に大きな戦乱はなく、大名が武力をもって将軍に奉公する場面もありませんでした。大名には、一定の兵馬の常備が命じられ、江戸城の修築など幕府が実施する土木工事の負担(御手伝い普請)が課せられましたが、御恩に対する奉公として明確に位置づけられるものが必要とされました。

そこで、平時に於ける軍役として制度化されたのが、参勤交代でした。参勤交代は、大名が一年交代で江戸と国元を往復することを義務づけたもので、大名の妻子は江戸への居住が命じられました(証人制度)。戦国時代に大名が反乱を防止するため、家臣に本城への勤仕と人質の差出を義務づけたことに由来するものでしたが、幕府はこれを3代将軍徳川家光による武家諸法度寛永令(1635)で制度化し、幕府体制の根幹に位置づけたのです。1年おきに大名が江戸に参府して将軍に謁見する。それは将軍と大名の封建的主従関係を確認する重要な儀式でした。

次の記事で8代将軍・徳川吉宗の行った享保の改革について扱いますが、享保の改革で行われた政策として、大名に1万石につき100石の米の上納を命じ、その代償として参勤交代の江戸在府期間を半減する、上げ米令(上げ米の制)をご存じの方も多いかと思います。幕府の財政不足を補うための窮余の一策でしたが、その触書には「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」という文言が記されています。主君である将軍が臣下である大名から米を分けて貰うなど、「御恥辱」以外の何者でもありませんでした。また、参勤交代の制度変更は幕藩体制の根幹に関わる問題であり、幕閣からも批判を受けました。それ故、1722年に出された上げ米令は、年貢増徴などにより財政の見通しのついた1731年には廃止されています。

05 跡継ぎの決定は臣下の務め

それでは、参勤交代にも関わる将軍と大名との封建的主従関係を踏まえて、問題について考えていきましょう。末期養子というのは、跡継ぎのいない大名が死の直前に幕府に養子を願い出ることです。幕府成立当初、大名に対して発した根本法典である武家諸法度において、厳しく禁じられていました。武家諸法度は、1615年に大阪の役で豊臣氏の勢力を一掃した後、すでに将軍の座を降りていたものの大御所として実権を握っていた徳川家慶の命で制定されました。起草したのは、臨済宗の禅僧で「黒衣の宰相」と呼ばれ家康のブレーンを務めていた金地院崇伝です。諸大名が京都の伏見城に呼び集められて、家康の子である2代将軍・徳川秀忠によって出されました(元和令)。その出し方じたいが将軍と大名の関係をよく示していますね。その後も将軍の代替わりごとに発せられています。

この武家諸法度において、特に厳しく取り締まれた条項を二つ、史料で示しましょう。まず、「一 諸国ノ居城修補ヲ為スと雖モ、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。」です。これは大名が幕府に無断で居城を修築することを禁じたもので、領国内の居城以外の城をすべて破却することを命じた一国一城令とともに、大名の軍事力を削ぐことを目的としました。もとは秀吉の武将であった福島正則は、1619年、台風で損壊した広島城を無断で修築したかどで改易(領地没収)されています。次に、「一 私ニ婚姻ヲ締フヘカラサル事。」です。戦国時代には政治的な思惑から大名家同士の結婚が行われましたが、幕府のあずかり知らないところで連帯することを警戒して、幕府の許可なく大名家同士で婚姻を結ぶこと(私婚)を禁止しました。

さて、この二つの条項よりもさらに厳しく取り締まれたのが、末期養子の禁でした。初代将軍・徳川家康から3代将軍・家光の間に改易された件数は、関ヶ原の合戦と大阪の役によるものを除くと105ですが、そのうち半数近くの46が継嗣がいないことによるお家断絶だったのです。先に述べたとおり、大名は将軍の臣下であり、大名の所領は将軍からの一時的な預かり物でした。主君である将軍から大切な所領を預かっている以上、相続人を事前に決めて幕府の許可を得ることは臣下として当然の務めでしょう。嗣子がいないのに死ぬ間際まで養子縁組をしていないことは、奉公の怠慢とみなされて改易されたのです。

06 武断政治から文治政治への転換

しかし、不慮の死もあったでしょうし、相続院を事前に決めていないというだけで50弱の改易が生じているという状況も問題でした。江戸や大坂では、改易により主君を失った牢人が増加し、天下泰平の世に満足しないかぶき者の存在と共に政情不安の種となっていました(ちなみに、「かぶき」は「傾く=勝手な振る舞いをする」という動詞に由来し、「歌舞伎」の語源にもなっています)。こうした中で、1651年にカリスマ的な存在であった3代将軍・徳川家光が亡くなり、わずか11歳であった家綱が跡を継ぐことが既定路線となると、兵学者の由井正雪が江戸町中の牢人を集めて幕府転覆を企てます(慶安の変)。計画は事前に発覚して事なきを得ましたが、これを契機に幕府の政治路線は大きく転換されていくことになりました。

初代将軍・家康から3代将軍・家光までの間は、幕府の命令に従わない者は厳しく処分する、武断的な手法がとられました(武断政治)。それは、幕府の創業から確固たる支配基盤を築くまでは必要であったといえるでしょう。しかし、支配体制が出来上がった後となっては、その弊害が目立ち始めました。改易による牢人の増加はその一つです。そこで、幼少の4代将軍・家綱を支える叔父で会津藩主の保科正之を中心に儒教的な徳治主義に基づく文治政治への転換が図られました。忠孝や礼儀といった儒教の徳目を重んじることで、出来上がった秩序を維持していく路線にシフトしたのです。

その一環として、末期養子の禁も緩和されます。死ぬ間際まで跡継ぎを決めていなくとも、将軍の徳により寛大に許す。それは、改易による牢人の増加という現実の問題に対する処方箋でした。当初は、17~50歳の大名に限定されましたが、家綱の弟にあたる5代将軍・綱吉が発した武家諸法度(天和令)では、以下の史料文のとおり幼少および老年の大名にも認められました。「一 養子は同性相応の者を撰ひ、若之無きにおゐては、由緒を正し、存生の内言上致すへし。五拾以上十七以下の輩末期に及び養子致すと雖も、吟味の上之を立つへし。縦、実子と雖も筋目違いたる儀、之を立つへかるさる事。附、殉死の儀、弥制禁せしむる事。」。末期養子の禁の緩和の既定に「附けたり」とされているのは、殉死の禁止です。ここでいう殉死とは、家臣が主君の後を追うことです。戦国の世では、主君のために戦で命を捧げることが家臣の務めであり、それゆえ平時に主君が亡くなれば家臣は後を追うものとされていましたが、これを禁止することで、主君亡き後は跡継ぎに仕えることが求められるようになったのです。それは、主君と家臣の主従関係が、個人的なものから、家臣の家は主君の家に代々仕えるという形で、家と家の関係に移行することを意味しています。これにより家格は固定され、下剋上はあり得ないということになりました。このように文治政治は戦国時代以来の野蛮な風習を一掃しながら、秩序の安定を図っていったのです。解答例いってみましょう。

【解答例】

末期養子とは、跡継ぎのいない大名が死の直前に幕府に養子を願い出ることで、相続人の決定は将軍に臣従し所領を預かる大名の務めと考えられていたので禁止されていた。しかし、改易の主たる原因となり、主君を失った牢人や秩序に従わないかぶき者が町の治安を乱していた。こうした中、将軍家光の死を機に幕府転覆を目論む慶安の変がおこると、幕府は武断政治から文治政治への転換を図り、その一環として末期養子の禁を緩和し改易の増加を防いだ。

末期養子の禁が緩和された後も、大名の監査役である大目付が当主の生存と養子縁組の意思を確認する手続き(版元見届)は行われました。相続人の決定は臣下として当然の務めであるという考えは、将軍と大名の封建主従関係に関わるものだからです。実際に養子が認められずに、改易や減封(領地削減)となった例もあります。しかし、むやみに改易を増やすことは、幕藩体制を維持していく上で、好ましいものではありません。そこで、当主が急死したような場合は「替え玉」を用意したり、幕府への死亡の届出も送らせて、その間に継嗣を決定するというようなことも行われました。たとえば、1860年に桜田門外の変で水戸浪士に殺害された彦根藩主で大老の井伊直弼は即死であったにもかかわらず負傷として遺体は藩邸に引き上げられ、一ヶ月ほど後に死が公表されました。幕府もそれまで大老職を免じていませんでしたから、隠密に事を運ぼうとしたことが分かります。このように幕府がお目こぼしをして不自然な継嗣の決定を黙認するようなこともありました。

07 正徳の政治

5代将軍・綱吉の死後、6代将軍・家宣は、評判の悪かった綱吉の生類憐みの令を廃止し、朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房を信任して、政治の刷新をはかろうとしました(正徳の政治)。家宣は在職3年余りで死去し、その後を就いた7代将軍・家継はまだ満三歳であったため、引き続き新井白石らが幕府政治を担うことになりました。短命・幼児の将軍が続く中、白石は将軍個人の人格よりも将軍職の地位と権威を高めるために、閑院宮家(宮家・親王家は伏見・桂・有栖川の3家しかなかたため、多くの皇子・皇女は出家し門跡寺院に入寺していましたので、幕府は特例として閑院宮家を創設したのです)を創設したり、将軍家継と2歳の皇女との婚姻をまとめたりして、天皇家との結びつきを強めました。また、一目で序列が分かるように衣服の制度を整えるなどし、家格や身分の秩序を重視しました。

朝鮮通信使が家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣されてきた際には、これまで使節への待遇が丁重に過ぎたこととして簡素化し、さらに朝鮮から日本宛のの国書にそれまで将軍のことを「日本国大君殿下」と記していたのを「日本国王」に改めさせ、日本を代表する権力者としての地位を明確にしました。また、白石は、在世問題で金の含有率を下げた元禄小判を改め、以前の慶長小判と同率の正徳小判を鋳造させて、物価の騰貴を抑えようとしました。しかし、再度の貨幣交換はかえって社会の混乱を引き起こしました。また、長崎貿易では、多くの金・銀が海外へ流出したので、これを防ぐ為に1715(正徳5)年に、海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を出して貿易額を制限しました。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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