大学受験のためのイギリス史(世界史探求特別講義)「古代のブリテン島」
先史時代のブリテン島
「イギリス」の歴史の始点をどこに求めるかは、様々な意見がある。他方、ブリテン島の始まりは太古には大陸と陸続きであったブリテンが、紀元前8000年から紀元前5000年頃に分離して島となった辞典に求められる。また、ブリテンという名前は紀元前4世紀にギリシア人植民都市マッサリア(現マルセイユ)の航海者が、この島をブレッタニアと呼んだことに由来する。この語がラテン語に転じ、後のローマ人は、この島をブリタンニア、その住民をブリトン人(ブリトニス)と呼んだ。ちなみに、巨石文化の遺跡として有名なストーンヘンジの歴史は、紀元前3000年より前に建造が始まり、約1000年間に渡って暫時建てられたものであり、ブリンタニアの名前が現れるより遙かに古い。
ローマ人が、ブリトン人と呼んだのはどのような人々であったのか。かつては、紀元前6世紀頃からアルプス以北のヨーロッパにはケルト人と呼ばれる人々が広範に居住しており、ブリテン島に住むブリトン人もその一派が来寇したものだとされ、「島のケルト」と呼ばれた。しかし、近年考古学のの成果で、ヨーロッパ全域に分布したケルト人や、その一派としてのブリトン人という説明を疑問視している。少なくとも、イギリスの考古学者たちはギリシア人が「ケルトイ」と呼んだケルト人のブリテン島移住やブリテン島の先住民をケルト人と呼ぶことは否定的であり、論争は今でも続いている。
ローマ人のブリテン島進出
ブリトン人がどのような人々であったにせよ、地中海世界の住民とブリテン島の間には古くから交流があった。特にコーンウォル半島の錫(すず)には、紀元前から地中海世界に輸出されていたことが知られている。記録に残る限り、この島の軍隊を率いて最初に上陸したローマ人は、ローマ共和国末期の最大の政治家であり、軍人のユリウス・カエサルであった。カエサルがガリア征服で名をなしたことが有名であるが、その軍事行動の際に、ブリテン島からブリトン人が渡ってきていることに気づいたカエサルは、ブリテン島への遠征を決意したと言われる。紀元前55年と紀元前54年の2回に渡って行われたカエサルのブリテン島への遠征は、極めて大規模なものであった。しかし、もともとカエサルにブリテン島の恒久的支配の意図はなかったと言われ、一定の軍事的成功の後に遠征軍は撤退し、その後、しばらくローマとブリテン島の直接的な接触は断たれた。
属州ブリタンニア
帝政期に入ったローマには、決してブリテン島と全く関係がなかったわけではない。初代皇帝アウグストゥスは、複数回にわたってブリテン島への遠征を計画したと言われている。三代目皇カリグラは、実際にブリトン人の有力者の招聘を受けて、ブリトン島へ遠征する出発する間際であったといわれる。しかし、紀元後41年にカリグラが暗殺されると、遠征計画は次の皇帝クラウディウスに引き継がれた。
続く
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |