宿題をやる意味とその前提について
今回は、宿題をすることの意味についてお話ししたいと思います。というのも、「宿題を課して欲しい」という保護者の皆さんが多いので、多分に私の独断と偏見に基づく、個人的な意見であるということをご理解の上、お話しさせて頂きたいのですが、「宿題をすることの意味」について少しお話しさせていただきたいと思います。
端的に話の大筋の回答を述べたいと思いますが、「宿題は大抵意味がありません」。もちろん、どういう宿題が出てどういう学習態度で宿題に向かうかという前提次第で結果は変わってくるのですが、少なくとも「学力(成績)が低いお子さま」ほど、宿題は逆効果になります。また、最新の教育心理学などの知見から発言させて頂くと、中学生を含む、中学生以下の子供に対する宿題は、有意義であるどころか、害の面が大きいことも分かっています。
宿題というのは、もう少しわかりやすい言葉で言い換えれば「独学をするということ」です。そして、一人で勉強ができる子、独学ができる子は塾は不必要であるどころか、学校さえ不必要です。
もちろん、勉強が好きでたまらないお子さま(当塾では言えば、私の教え子の小学生の女の子一名しか自分から「宿題もっと出して」という生徒さんしかいません)や自分から、世界史の宿題として一日に数年分や、東大や国立大学の記述問題の過去問をできるだけ多く沢山だしてといって、受験期直前に偏差値を一気に20近く上げ、名門女子大がへ進学した生徒さん、または、もともと学力が非常に高く、宿題を出すというより「どの辺をどういうテキストで、どれくらい勉強すればいいのか」と確認してくる生徒さん(私の最近の教え子では京大模試で現役生で全国4位を取った数学の偏差値が80を超えている生徒さん)には、宿題を出す意味はあると思いますが、それ以外の生徒さんには宿題というのは「ただの苦痛」でしかなく、「あまりしたくがなく」さらに「自分ひとりではいくら勉強してもよく分からない内容」を「家で、たった一人で勉強する」ということになります。
とりわけ、授業で理解し切れていない部分について、それを宿題を形式的に出されても、それは殆ど一から学ぶのと大差は無く、「つらい勉強」でしかありません。宿題というのが意味を持つのは、本来であれば、塾の授業や学校で習ってよく理解している単元について、更にその理解の定着と、類題や応用問題に取り組めるよう力を伸ばす場合のみです。
塾の授業や学校の授業でまだ理解できていない単元について宿題を出されてもますます分からなくなってやる気を更に失ってしまったり、最悪「もうこの科目は苦手だ」と苦手意識を持ってしまったり、あるいは、一人で自己勝手流に勉強するので、「間違った解き方」や「間違った理解」をして、無理矢理宿題を進めてしまいます。保護者の皆様が隣で、間違った勉強法や解き方をしていないか、その場でチェックして頂けるなら話は別ですが、そうでもない限りは、塾に来るまで、お子さまは自己流の間違った学習や解き方で宿題を無理矢理こなし、場合によっては、塾の授業でその宿題でやったことをすべて訂正しなければならないなどの間違った解き方を訂正しなければなりません。しかし、一度家庭で身につけてしまった間違えた解き方を訂正し、それを指導し直すのは大変手間がかかるものです。もちろん、宿題で「やっぱりよく分からなかったし、この科目は苦手だ」と思われてしまったケースでは、塾でその科目へのモチベーションを再度上げるのは大変時間がかかります。
そして、本来すべき、授業の内容の理解を進めるための復習や自分で既に分かっている範囲の定着や応用力を養うのではなく、目先の宿題に追われてしまうという悲惨な結果が待っています。なので、これは武蔵野個別指導塾全般で統一したやり方ではないですが、少なくとも私は生徒さんから「宿題出して」とか「どのテキストでいつまでにどれくらい勉強すればいいのか」と質問してくる生徒さん以外には宿題を出しません。もちろん、中2なら中1程度のレベルであるとか、高校生で、数Ⅲを学んでいる生徒さんには数Ⅰ・Ⅱや数学A・Bなど、当然それを理解していなければ取り組めない箇所の復習など、本当に生徒さんが完全に理解していることを更に定着させるための復習としての理解を深める家庭学習はお勧めしております。
そのような自発的な要望で宿題を求められる以外の宿題、例えば「何ページから何ページまで勉強しておきなさい」と宿題を営業ノルマのように出された場合というのは、保護者の皆様がお仕事をされる際に、営業や経理、企画、情報シスなり何らかの部署でお仕事をされる際に、他にもタスクがあるのに急に上司から、無茶振りで目的で必要なのかも詳しく説明されずに「︎月×日まで・・・しといて」と仕事を振られたときと同じように、急に訳も分からず、〆切まで決められて、仕事を課せられて、それにやる気を見せる方というのはレアなケースではないでしょうか。むしろ、課せられた仕事は、「ぶっちゃけ興味がわかないし本当にそれが何の役に立つのか疑問。まったく、こっちも忙しいのに。あの上司は・・・」と思いながら、渋々取り組まれるのではないでしょうか。これはお子様の宿題でも何も変わらないものとしてしか受け止められていないはずです。
私自身、複数の企業で、人事設計などを担当し、色々な人事設計制度を企画してきましたが、会社組織の運営でも、経営学では、古典的にはハーズバーグの二要因理論やマクレガーのX理論・Y理論から比較的新しいロビンズの期待理論、ロック&レイサムの目標設定理論にしても、古来様々なマネジメント理論が、既に上(親や上司、企業経営層)から命令されたことに対して、従業員が黙々と命令をこなすことを期待するのは難しく、仮に命令通りに仕事をしてくれてもモチベーションはただ下がりで、生産性や効率が悪くなることが従来より指摘されております。お金や出世、家族の生活がかかっているような大人を相手にしても、本人の自発性や目標の共有などの深い落とし込みが不可欠だとわかりきっているわけです。最近流行のOKRのような人事設計をしようが、やはり従業員が同じ方向を向いてくれていないと絵に描いた餅にしかなりません。ましてや子供相手にいくらKPIだけを重視してマイクロマネジメントをしても効果がないばかりか、安易に勉強嫌いを大量生産するだけです。
そもそも、宿題とは何なのでしょうか。宿題とは元々「御詩会いかが。宿題御定め候はば一月一次づつにて豚児へ御談じ御極め可被成候」(大田南畝より、山内尚助宛て)と書いてあったことに語源があるそうで、詩を読み上げる会合で、次までにお題を決めておくことを意味していました。前もって課題与えて考えさせる問題という意味でした。特に、詩会などで、前もって出しておく題のことに由来し、もともと即題、席題の反対の概念で、前もって与えておく問題であり、解決されずに残された課題という意味でした。今風に言えば、次話し合うアジェンダを考えておいてぐらいのことですね。
その後、明治以降いわゆる現在使われるような宿題の意味へと変容していきました。しかし、文科省が定めた学習指導要領に宿題なる項目は含まれておらず「家庭学習を視野に入れた指導」・「総合的な学習の時間」の一環として扱われており、指導内容や実態は各学校や各教員の裁量に任せた複雑多岐に渡るものとなっています。改めて宿題とは何か考えてみると、宿題というキーワードは多くの人に馴染みがあるにも関わらず、その学術研究は少なく、明確な定義はなされていません。文科省も宿題というものについて、その教育的意義についても学的にはっきりしていないので、銘記を注意しているわけですね。そのため、教育基本法にも学校教育法にも宿題という言葉は登場しておらず、学習指導要領にも宿題という言葉は登場していません。2017年に告示された小学校学習指導要領の中の記述で、宿題と関連する記述は、「家庭との連携を図りながら児童の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」といった文言に留まっているのみです。
文科省が宿題に踏み込んでいないのにも理由はあり、教育心理学の観点からいっても、お子様が十分に理解している内容に関する宿題は良いですが、理解に至れなかったのに、その単元を宿題に課すと、宿題の内容がよく分からないままであるので、生徒は自分の能力を疑うようになり、勉強に対する自己効力感が損なわれるなどの学問的な研究報告が出ているからです。
また、宿題はしばしば個々の創造性や自発性を抑制します。宿題の解答には、自己表現や独自のアプローチを試みる余地がないため、授業中の講師との会話や問答と異なり模範解答のみを受け入れざるを得ず、これは、生徒が唯一の「正しい」答えを見つけることに集中し、考える力を奪っていきます。
さらに、教育経済学的な見地からは、宿題は家庭の環境に大きく依存します。宿題できる学習環や宿題を一緒に解いてくれる保護者の存在や家庭教師などの存在が豊富な家庭では、保護者や家庭教師が子供の宿題を手伝ったりすることは可能ですが、本来個別指導塾で宿題を一緒に取り組むレベルにある生徒が、そこでまた宿題を課せられるのはある意味自己矛盾的でさえあります。これではスパルタで知られる早稲田アカデミーなどが優しい塾に感じられる偏差値70オーバーで御三家を目指すスーパーエリートが集まるSAPIXやグノーブルなどの集団授業を行う超進学塾が生徒の理解度に関係なく大量の宿題を課し、その補習をまた個別指導塾や家庭教師が生徒と一緒に行うという構造と同じになってしまっているのと同じと言わざるを得ません。
また、文科省が恐れている通り、最新の研究成果では、デューク大学の宿題研究の第一人者であるハリス・クーパーは、「小学生の場合、授業中に勉強する方が学習効果が高く、家庭で余計な勉強をするのは単なる余計な仕事である。中学生になっても、宿題と学業の成功の関係はせいぜいわずかである。高校生になると、宿題は学業にプラスに働くが、それもほどほどになる。一晩に2時間以上が限界だ。それ以上になると、効果は薄れる」という研究報告を発表しています。
日本の教育心理学の最新の実証的な研究でも、宿題が学力向上へ繋がるのは、授業の意味理解と宿題を頑張ればいいと言うような努力量といった側面ではなく、質的な取り組み、つまり生徒本人が宿題を行う際に間違えた箇所から学びや気づき、考え方のポイントなどを率先して記述するなどの質的に高い水準を保っている場合に有意義である、と東京大学大学院の太田絵梨子らは結論づけています(太田絵梨子ら「宿題中の失敗活用が学業成績に及ぼす影響」)。
一言でいえば、(単元への理解なしにただ)宿題を課すことは百害あって一利なし、と教育心理学の世界では常識となっているわけです。
たとえば、わかりやすい例として、少し数学の話をしてみましょう。例によって、数学アレルギーの方は読み飛ばしてください(しかし、その一方で、ご自身が数学アレルギーであるならご想像も容易かと思いますが、数学アレルギーの方が無理矢理数学の話を聞かされるのが苦痛なのように、数学が苦手なお子さまにとってはそれ以上の負担であることもご理解ください)。皆さんは、生徒40名のクラスの中に、誰でも良いから同じ誕生日の人同士が存在する確率がどれくらいかご存じでしょうか。意外な結果と有名な問題なので、私は小学生くらいの頃、このことを知り驚いたことを今でも思い出せます。確率としては89%です。模試のA判定のような確率で、同じ誕生日の人が1クラス40名の中にはほぼ1組はいるわけですね。
これを式で示めすと、仮にn人の集まりで特定の人がたとえば同じ誕生日の人がいる確率をPnとします。数字を入れないとわかりにくいので、数字を入れれば、nが二人であるとき(つまり、2人しかいないとき)は、1/365です。次に、nがであるとすると、ある人の誕生日が、また違うということは、ある人の誕生日が○月×日であるとき、2人目も、3人目も誕生日が○月×日ではない確率というのは、1-364/365×363/365ですよね。1から引くのは、余事象(ある場合以外の事象という意味)を考えて、この場合はある人とある人の誕生日が同じじゃない(バラバラであるという確率を出して、それを100%である1から引いているわけですね。2人目が違うのは、1-364/365です。つまり、1/365ということですね。まあ、これはそのまま直感に当てはまると思います。
これと同じ理屈で3人目を考えると、3人目の誕生日が、1人目とも2人目とも異なる確率は、1-364/365×363/365と、分子が一つ減るのも分かるともいます。これを続けていくと、1-364/365×363/365×362/365・・・と、式をまとめて書くとこうなります。 1-となります。「!」というびっくりマークは、階乗(かいじょう)と読み、単に、365×364×363×362と365から順に一つずつ減らした数を1になるまで掛けるという意味です。これの数式のnに先ほどの40を入れて計算すると、0.8912・・・となります。https://www.wolframalpha.com/というサイトで数値を入れれば計算してくれます。
では、この話を聞いて、きちんと考え方(階乗ということと余事象を引けば良いということ)を理解せずに、次のような問題を出されたらどうでしょうか。男2人、女3人の5人が1列に並ぶとき、男2人が隣り合わない並び方は何通りありますか?と。すぐに答えられる方は、理解している方です。答えは、5!である5×4×3×2×1=120通りから男2人が並び合う並び方2P2×4P4=2×1×4×3×2×1=48通りを引けば良いので、120-48=72通りとなります。あとは、このように余事象を使って求める類題を解いてね、といって宿題を課すのは、(そもそもここまで投げやりな宿題の出し方は酷いですが)、良くないと言うことは直感的に理解できると思います。
要するに、単元に関するきちとした理解が先で在り、大事であって、それを飛ばして、ただ演習問題や宿題を課すのは、上のような例をやっているのと同じということです。なので、宿題以前に、当該分野の理解がまず大事になっているということですね。
少々固めの話が続いてしまったので、以下に私の個人的な体験談に過ぎず、学問的精密さや再現性のないお話であることを前提に敢えてお話しさせて頂けば、私自身「宿題」をするような学習をしたことは、小学、中学、高校と一度もしたことがありませんでした。それでも小学校でも中学校でも学年一位でした。ただ、課題物も出さないどころか、学校の授業態度が悪かったので、成績は学年トップでしたが、内申点はほぼオール1に近い内申点でした(しっかり覚えていないのですが、定期試験の点数が高い五科目に関しては制度上1がつけれず、5あるいは4がついてしまったこともあったかもしれません)。
さらに、進学して高校では、学校の授業を受けるのをサボるような素行の悪い生徒となっていたので、学校の成績ですら学年最下位でした(330人中330位)。ただし、模試の結果だけは高く、大体国立文系で平均偏差値75以上はとっていましたし、最高記録では河合塾の全国統一記述模試で全国3位を取ったことがありました。しかし、塾や予備校にも全く行っておりませんでした。
そもそも受験をゲームのように考えており、受験勉強を舐めていた私は、東大も合格間違いないといわれていた(模試の判定での話に過ぎませんが)のですが、試験日前に徹夜で祝勝会と称して飲み会をするなどして、試験中に居眠りしてしまい東大に落ちてしまいました。その後、なんとか滑り止めの早稲田大学に合格したものの、もちろん浪人して頑張ろうなどという意欲はなく、そのまま早稲田大学へ進学しました。
こう聞くと「お前は舐めているし、そもそも単に受験というゲームが得意だっただけじゃないか」と思われるかもしれません。確かに、そういう面もあったでしょう。しかし、塾にも予備校にも学校の授業すら受けない私が何故そこまで模試に強く、受験に強かったのでしょうか。さすがにIQテストでもありませんし、何も勉強せずに受験や模試に強いわけはないです。
それは、単純な理由があります。私は、独学していたわけです。学校の勉強は嫌いだったのの、ましてや学校の宿題など論外だったものの、参考書などで勉強することは好きだったからです。いや、参考書程度では満足できず、世界史など、必要も無いのに、世界史用語集を暗唱できるようになるのはもちろん、歴史学の基本書など読み漁っていましたし、マルク・ブロックの『歴史のための弁明』を読んだり歴史学とはそもそも何かを学んだりしていました。数学の教科書は放り投げていましたが、ライプニッツの『モナドロジー』などを読み、ニュートンVSライプニッツの微分積分論争に興味を持って数学を学んだり、ヴィトゲンシュタインの『論理理哲学論考』を読み、フレーゲやラッセルの記号論理学を勉強していました。また、J・S・ミルの『自由論』が語った「一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。」と言葉に感銘を受け、原書で読んで読もうと、悪文で有名なミルの原書を英語で読んでいました。また、私の世代では大変流行った構造主義やポストモダンを解説した浅田彰の『構造と力』や、東京大学26代総長で悪文・難文で知られる蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』や『表層批評宣言』を読み耽り、模試や学校で出てくる現代文の問題など幼稚に見えたものです。
このように私個人としては「勉強をしている」という感覚はまるでありませんでした。小学校6年生くらいに読んだ哲学者ニーチェに衝撃を受けて以来、「学校の授業では嘘ばかり教えられる」と思いこみ、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』で書かれた名言、「Von allem Geschriebenen liebe ich nur Das, was Einer mit seinem Blute schreibt.」(すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。)を座右の銘(NHK100分で名著でずっとサブタイトルに書かれていた名言ですね)とし、天才たちが死ぬ気で書いた「哲学書や専門書には少なくとももっと本当のことが書いて」あると考え、「学校教育で、金太郎飴のように大量生産される一労働者として有能になるよう国家に調教されるのではなく、自分で考える力を養い、嘘や欺瞞、常識を疑ってやるんだ」という、今で言えば社会に対する反抗心で独学をしておりました。
以前のコラムでお話ししたように、私は転勤族でよくイジメに遭ったり、悪目立ちする生徒でしたので、学校で何か問題が起きると、たとえば、学校花瓶が割れていたという事件があると私がしたわけではなくても「宮川君が悪戯したに違いない」と学校の優等生集団や私のことを快く思っていないちょっとスクールカーストの上位集団や今で言えば不良と言われるような悪ガキなど(以前お話ししたように格闘技で強くなり、喧嘩で、いわゆる学校の顔役みたいな生徒も喧嘩でたたきのめしていたので)、そういう人たちが、あることないことを学校の先生が吹き込まれて、いつのまにか「やってもいないことなのに、『すべて宮川くんがやった』ことだ」ということとされてしまい、私がソクラテスの弁明よろしく、いくら子どもとは思えないような立派な(?)弁論を行っても、「また、宮川君は変な哲学書ばかり読んで理屈ばっかりは強いからな」とただの詭弁を弄するソフィストと思われ、学校の教師からは「言い訳するな」と厳しく指導され、それに腹が立った私は学校の先生にひどく反抗したものです。
そのたびに私は学校教育や学校の勉強が嫌いになり、完全に独学モードに入っていきました。もちろん、授業態度は悪い、問題行動は多い、何か学校で問題が起きると大抵犯人は私になるので、当然学校での内申点は最悪です。しかし、模試や入試だけでは強いという状況が発生したわけです。
少し私の個人的話が長くなりました。申し訳ありません。ただここで伝えたかったのは、私のような反抗的な生徒で、変な動機でも持っていない限り、「独学」という道はかなり険しい道です。保護者の皆さんも含めて、ニーチェやJ・Sミルの原書をドイツ語や英語で読んだり、初期アナール学派の泰斗マルク・ブロックを読んだり、微分積分を興味本位で学んだり、記号論理学や数学基礎論を学んだり、息抜きに浅田彰の『構造と力』や蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』や『表層批評宣言』を率先して読む気力が沸く方はかなり少数派だと思います。少なくとも私は人生では、同じような生徒は大学院博士課程時代の友人で1人くらいしかいませんでした。
逆にいえば、私くらいの社会へ対する不信感とそれを乗り越えようとするニーチェで言うところの精神の3段階における第2段階である獅子の段階(未熟な段階ですが)に立って、周囲にかみつくという異様に攻撃的で、反抗的なお子さまでもない限り、独学は、殆ど不可能ではないかと思います(少なくともイジメを受けて、悩んでいる気も弱く体力も無い子どもに向かって「なんでお前はいじめられるの?いじめっ子なんてぶん殴ってやればいいのに」と無茶苦茶をお子さまに求めているようなものです)、それほど、独学という道は険しいですし、独学ができる生徒さんなら、塾はおろか、学校も不要です。
話を戻しますが、宿題、というのは、以下の前提をクリアしいなければ、ただの独学になってしまます。
■学校の授業・塾の授業で習ったことで、大枠を理解し終えていること
これなしには、基礎が身につかないまま、次々と新しい単元を学んでしまうことになり、どれも浅い理解、定着していないあやふやな記憶のまま、宿題を行ったその二三日は覚えていても長期記憶として残らず、数ヶ月後には、すっかり忘れてしまっています。それで学校の定期試験まで記憶を溜まっていられれば学校の定期試験くらいは乗り切れるかもしれませんが、模試や入試では全く歯が立たないということが起きてしまいます。より悪い状況でいば、定期試験が始まる頃には、一ヶ月前に学んだことはもう忘れてしまっており、定期試験という極めて限定され、出題範囲が狭い試験ですら、対応できなくなってしまいます。
なので、大量の宿題を出されて消化不良を起こし、理解もできていない事項の宿題をただ作業として取り組むことは成績低下の原因になるどころか、勉強自体がいやになり、勉強に向かう姿勢も悪くなり、集中力は落ち、理解は表面的になり、学力はどんどん下がっていきます。その結果、学び直しが必要な単元がどんどん増えていき、「もうそんな量、勉強できないよ」という結果になり、勉強をしなくなる、少なくとも、勉強をするのではなく、ノルマとして与えられた範囲の宿題の空白を機械的に埋めていく(場合によっては模範解答を書き写すだけ)ということになり、勉強がまったくできなくなっていくという悪循環が起きてしまいます。
そういうわけで、宿題はもちろん、「学校の授業・塾の授業で習ったことで、大枠を理解し終えていること」が大前提である上、ただ闇雲に大量にやればいいというわけではなく、理解したことを更に深め、定着するために、授業や自分で理解し得たことについて、少しずつで良いので、しっかり毎日欠かさず、たとえ短時間でもいいので基礎的な事項を復習していくということが重要になるわけです。くどいようですが、何といっても、宿題の前に大事なのは、宿題に出されるような内容の「理解」です。
とりわけ、個別指導塾に来られている生徒さんの多くは、学校の授業や進学塾と比べてかなり進度も遅く、授業の進め方もゆっくりな授業についていくのが精一杯なお子さんが多いわけです。そんな生徒さんに、学校でも出さないような(そもそも最近は学校の宿題も多くなりがちで、それをこなすだけでもかなり大変です)宿題が塾から大量に出されてしまうと、モチベーションが下がるだけではなく、もはや勉強ではなく(勉強とは、わからないことを理解し、知らなかったことを知り、それを定着させることです)、ただ白地に文字を埋めるだけの作業に化してしまいかねないわけです。
これはもちろん、多分に私の私見に立った特殊な意見です。保護者各位にこうした考えに同意をして欲しいということはでございません。ただ宿題に対する見方として、こういう見方もあるとだけ頭の片隅に入れていただければ幸いです(もちろん、保護者の方のご要望があれば、当然効果的で最適な宿題を課させて頂きますが、先ほどの前提をクリアしている生徒さんあるいはそれを目的にした必要最小限以上の宿題については別途ご相談させてください)。
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【監修者】 |
宮川涼 |
プロフィール |
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。