平安京~万代の都として~大学受験・高校受験・中学受験のための社会特別講義(2)

1 平安京のはじまり

第50代桓武天皇は、延暦3(784)年、山背国の長岡京に遷都します。はじめて大和国を超えた長岡京遷都は桓武天皇にとって大きな決断でした。この背景には、平城京にあった寺院の影響力を排除したいという意図があったといわれています。しかし、それから僅か10年後の延暦13(794)年、桓武天皇は再び遷都を実行します。長岡京から平安京に都を移したのです。これは、長岡京遷都の造営監督を務めた藤原種継の暗殺事件や早良親王がその暗殺事件に関与したとされた事態などを憂慮した結果だといわれています。

従来、都の名前の多くはその場所の地名から採られていましたが、平安京という名前には地名が関係していません。平安京とは「たいらのみやこ」のことであり、文字どおり世の中が平らかであってほしいと願ってつけられたといわれています。これが、その後1000年以上日本の都として続いていった平安京のはじまりです。

2 平安京の外観

平安京は、現在の京都市の中心部にあたる山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設されました。長方形に区画された都城は、東西4.5km、南北5.2kmの広さで、長岡京や平城京とほぼ同じ大きさです(P)。都の北端の中央に、政治を行う大内裏が置かれています。大内裏には、国家の重要儀式を執りおこなう朝堂院(ちょうどういん)、天皇の住居である内裏、公式の宴会場である豊楽院(ぶらくいん)、さらにはその他の官庁が集中していました。まさに平安時代の国家の中枢です。この大内裏の南には朱雀門が置かれ、そこから朱雀大路が都の南端にある正門・羅城門まで通っていました。羅城門の両側には東寺、西寺が左右対称に建っていました。ともに平安京を鎮護する官大寺で、京内にはこれ以外に寺院はありませんでした。桓武天皇が固く禁じたからです。また、朱雀大路の道幅は85メートルもあり、左右には左京・右京(内裏から見て左側が左京、右側が右京)が置かれました。

平安京は、基本的に平城京と同じ形を踏襲して「条坊制」が採用され、整然と町割がされています。「条坊制」というのは、東西方向の道路と南北方向の道路とに囲まれた、一辺40丈(約120m)四方の区画を基本単位の「町」とし、京内全域をくまなく「町」で分割して、その「町」を東西方向に4列並べた帯を「条」、南北方向に4列並べた帯を「坊」と呼ぶところからきています。こうした造りは、隋や唐の長安城に倣うものといわれていますが、長安城にはあった城壁はありませんでした。

桓武天皇は王都の建設にあたり、土地の吉凶禍福を占う「風水」に依拠し、四神相応の地を選定しました。四神とは東西南北の四方を守護する想像上の聖獣のことで、青龍(せいりゅう)(東)、白虎(びゃっこ)(西)、朱雀(すざく)(南)、玄武(げんぶ)(北)がそれです。四神相応の地に必要なものは、これら四神を象徴する山や川や道があることでした。そこで、平安京を見てみると、「東(青龍)流水、鴨川」、「西(白虎)、大道、山陰道」、「南(朱雀)、湖沼、巨椋池」、「北(玄武)、丘陵、船岡山」と、四神に護られた都市であることがわかります。このように、平安京は風水から見て理想的な都市だったことがわかります。

3 平安時代

平安時代初期は、天皇が直接に政治を行う天皇親政の時代でした。この時代には、形骸化した律令制度の再建へ積極的な取り組みがなされ、現実的な政治課題に対して既存の律令制・官制にとらわれず、柔軟な対応を行うために「令外官(律令の令制に規定のない新設の官職)」が置かれました。また、対外的には当時支配外にあった東北地方の蝦夷征服へ向け、坂上田村麻呂が征夷大将軍として対蝦夷戦争に力を尽くしました。その他、文化面では漢文詩集が編纂されるなど、唐風文化が隆盛しました。この唐風が非常に強い文化のことを特に「弘仁・貞観文化」といいます。

平安時代中期になると、藤原氏の摂関政治がはじまります。摂関政治とは、藤原氏が婚姻を通じて天皇家と結びつきながら摂政や関白などになり、主導した政治体制のことです。摂関政治体制はその後、11世紀初頭に藤原道長が、一代で自身の娘を三代の天皇の中宮に出すという「一家立三后(いっかりつさんこう)」を実現し、最盛期を迎えます。有名な「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌は、この祝いの席で歌った即興歌でした。ところで、この藤原摂関体制は、たんに朝廷内の政治権力の掌握のみならず、「荘園」という私有地の集中をも招きました。本来、国家の中枢にいる藤原摂関家は、律令制下の公地公民制を推進すべき立場であったにもかかわらず、荘園の所有によりみずからその制度を崩壊させていくことになります。このことが、やがて武士の発生の原因となり、平氏政権から鎌倉幕府の成立につながり、日本を中世に導く遠因になっていきます。また、この時代にはこれまでの唐風文化を吸収し消化した上で国風文化が花開きました。この時代に、平仮名・片仮名の発明により和歌日記・物語文学が数多く生まれ、官衣束帯(官服の国風化)や寝殿造が登場しました。

そして、平安時代の後期になると、藤原氏から離れ、白河上皇(第72代白河天皇)による院政がはじまり、上皇独自の軍事組織として武家と呼ばれる武芸を職能とする下級貴族が台頭していくことになります。その象徴的な出来事として、12世紀半ばの「保元の乱」が起こります。「保元の乱」は、皇位継承をめぐって第77代後白河天皇と崇徳上皇(第75代崇徳天皇)が対立し、天皇家・摂関家、さらには配下の武士団までもが肉親で二手に分かれて争う血なまぐさい戦いとなりました。その結果、配下の武士団の活躍により天皇側が勝利を得ました。しかし、この「保元の乱」の恩賞に不満を持った源義朝は、清盛が熊野参詣に赴き京都を留守にしている間を狙って、平治元(1159)年に「平治の乱」を起こします。義朝は、平清盛とも親交が深い藤原通憲(信西)を殺害し、一時は後白河上皇を幽閉することに成功しますが、結局は武力に勝る平清盛に平定されてしまいました。

こうして「保元の乱」、「平治の乱」をとおして武士の権力を一手に掌握した平清盛は、武士としてはじめて太政大臣に就任する一方で、中宮に出した娘の徳子(とくこ)と第80代高倉(たかくら)天皇とのあいだにできた皇子を第81代安徳(あんとく)天皇に就け、朝廷の政治権力も手中にしました。さらに治承3(1179)年、清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止させます。ここに名実ともにはじめて武家政権が樹立されました。

しかし、平家の栄華は長くは続かず、先の「平治の乱」では平家に味方し、清盛からの信頼も篤かった源頼政(馬場頼政)が反旗を翻したのを契機に源頼朝ら源氏の一門が挙兵し、最終的には「壇ノ浦の合戦」にて平家は滅亡してしまいます。そして、頼朝により鎌倉幕府が創設され、政治の実権は完全に武士の手に移り、平安時代は終わりを迎えます。

4 平安時代以降の京都

鎌倉幕府の成立以後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、後鳥羽上皇(第82代後鳥羽天皇)が倒幕を試みて、承久3年(1221年)、「承久の乱」を起こします。しかし、後鳥羽上皇側は敗北し、以後朝廷を監視する六波羅探題が京都に設けられることになりました。こうした状況に対し、第96代後醍醐天皇は倒幕を図り「正中の変」を起こしますが、敗北し隠岐に流罪されます。

しかし、その後隠岐から脱出した後醍醐天皇は再び挙兵し、その動きに同調した足利尊氏・新田義貞らと共に「元弘の変」を起こし、ついに鎌倉幕府を倒します。これによって、建武の新政を開始します。だが、それも長くは続きませんでした。足利尊氏が離反し、北朝初代光巌天皇を擁立し、戦いに敗れた後醍醐天皇は吉野に退いてしまいます。その後、足利尊氏は征夷大将軍となり、ここに足利幕府が成立しました。以後、60年にわたり足利側の北朝と後醍醐側の南朝が並立する南北朝対立の時代に入ります。その後、第3代将軍足利義満は、その絶対的な権力を背景に、北朝・南朝を1つにまとめることに成功します。明徳3(1392)年、南朝の第99代後亀山天皇が京都に戻って、北朝の最後の天皇で第100代小松天皇に譲位するという形式をとることで、ついに南北朝の統一が実現したのです。

また、この時代の文化は、武家様・公家様・唐様(からよう)が融合した文化で、北山第にちなんで「北山文化」といいます。文学では『太平記』がこのころ成立し、連歌形式の発祥もこのころです。絵画では水墨画がはやり、義満の庇護した観阿弥・世阿弥親子は猿楽から能を完成させました。とくに世阿弥の著した『風姿花伝』は、能楽の理論書にして日本最古の演劇論ともなっています。

こうして南北朝時代が終わり、室町幕府は隆盛を極めますが、義満の死後徐々に幕府の力は衰退していくことになります。そして、ついに応仁元(1467)年、室町幕府の要職にあった細川家と有力な大名であった山名家の勢力争いが天下を二分する大乱(「応仁の乱」)に発展していきます。この争いにより、京の市中は荒廃し、寺院や仏像をはじめ多くの文化財が焼失してしまいます。この結果、室町幕府の力は著しく衰退し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現していくことになります。

その後、天正元(1573)年、第15代将軍足利義昭の代に、室町幕府は織田信長によって滅ぼされます。本能寺の変にて信長が討たれた後は、秀吉が関白として威勢を振るいます。秀吉は、洛中に散在していた寺院を京極の南北一帯に移動させて寺町とし、洛中防衛のため24kmに及ぶ御土居(京都を囲む土塁)を設けました。これ以後、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになります。秀吉の死後、慶長5(1600)年、上杉討伐に向かっていた徳川家康に対し、突如石田三成を中心に毛利輝元を総大将に据えた西軍が挙兵し、徳川家康率いる東軍と「関ヶ原の合戦」が起こります。信長の入洛から、「関ヶ原の合戦」までの30年間を安土桃山時代といいます。「関ヶ原の合戦」に勝利した家康により江戸幕府が開かれ、以後264年間にわたる長期政権が樹立します。

この江戸時代、京都は比較的平穏に過ぎていきましたが、嘉永6(1853)年6月、 ペリーの浦賀来航によって、再び動乱の時代を迎えることになります。京都は、再び歴史の中心舞台となり、尊皇攘夷の志士が集まり、新撰組と争う騒乱の町と化します。元治元(1864)年、長州藩や土佐藩の尊皇攘夷の志士が集まっていた池田屋に近藤勇率いる新撰組が切り込みました。この池田屋騒動を契機に、長州藩は京へ向け出兵し、禁裏(京都御所)に侵入しようと攻撃を開始します。これを、「蛤御門の変(禁門の変)」といいます。その後、長州・薩摩両藩は手を結び、倒幕運動を展開していきます。その結果、慶応3(1867)年、徳川慶喜は二条城に諸大名を集め、大政奉還を決議し、王政復古の大号令が発せられました。そして、明治元年に江戸は東京と改められ、天皇は東京に行幸され、翌2年事実上の遷都となっていきます。こうして長く続いた都としての京都は終わりを告げますが、悠久の時を超えて寺院や仏像など多くの文化財が残され、日本人の心のふるさとして今も我々を引きつけてやみません。

5 平安仏教

平安遷都の背景の一つには、奈良仏教(南都六宗)の専横と腐敗がありました。第46代孝謙天皇が自身の病気を治した道鏡を寵愛する余り、道鏡が天皇にまでなろうと目論んだのです。結果的には、宇佐八幡宮における神託事件によって和気清麻呂に阻止されて事なきを得ましたが、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教(南都六宗)の影響は、桓武政権にとってもはや放っておくことのできないものでした。そこで、桓武天皇は、遷都の際に奈良仏教の寺院が平安京へ移転するのを禁止します。また、奈良仏教に代わる新しい仏教として、最澄(P)や空海(P)が唐から持ち帰った天台宗や真言宗に注目し、保護しました。

そのため、この二つの宗派をもって平安仏教とするのが一般的です。この平安仏教には、大きく二つの特徴があります。空海は高野山に金剛峯寺を、最澄は比叡山に延暦寺を開きました。つまり、奈良仏教が都市仏教であったのに対し、平安仏教は山岳仏教であったのです。また、平安仏教は奈良仏教にはなかった加持祈祷の儀式を行う密教を持っていました。密教とは、大乗仏教などの顕教に対し、悟りの境地に達したもの以外には知ることのできない秘密仏教という意味です。また、密教の根本の仏は、真理そのものである大日如来です。そして、この密教の宇宙観を図に表したのが曼荼羅です。曼荼羅には、金剛界曼荼羅(P)と胎蔵界曼荼羅(P)の二つがあります。金剛界曼荼羅は9つの区画からなり、上段の中央に宇宙そのものを表現しているとされる大日如来が座っています。また、胎蔵界曼荼羅は全部で12の区画に分かれ、その中心に大日如来が位置しています。この全体が、仏の悟りの境地や世界観などを象徴的に表わしたものとされています。

空海は、遣唐使船に乗って唐に留学し、真言密教を学びました。帰国後、第52代嵯峨天皇の保護の下、紀伊山地の高野山に金剛峯寺を建立し、真言密教の道場とします。真言とは「仏の真実の言葉」という意味で、密教とは「秘密の教え」という意味です。さまざまな修行を通して仏の境地に至ること、すなわち「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」を目的としました。

空海は護国修法として国家との結びつきを強めていきます。その結果、弘仁14(823)年、空海は嵯峨天皇から平安京の二大寺院である東寺・西寺のうち、東寺を与えられます。こうして真言密教は、鎮護国家を支える新しい仏教として深く政治と関係していくことになります。ちなみに、東寺の講堂に安置されている21体の仏像は、曼荼羅の世界を立体的に表したものといわれています。その一つ、不動明王は大日如来の使いとも化身ともいわれ、修行を妨げる悪(煩悩)を炎と剣で滅ぼすといわれています。こうした仏の前で加持祈祷などを行なうのが、修法(しゅほう)と呼ばれる密教の行です。国家や個人の災いを防ぎ、さまざまな幸福をもたらしてくれるものとして、平安時代の貴族たちにもてはやされました。

従来の仏教では、釈迦の教えというのは経典に書いてあるものだけだと考えられていました。これに対して空海は、教えは経典だけでは分からず、修行を通してはじめて分かると考えたのです。修行では、手に印を結び、「真言(「仏の真実の言葉」)」を唱え、心に仏を思い描くことによって仏と一体になることを目指します。この三つの修行のことを密教の世界では、三密といいます。

次に、最澄です。彼は、延暦4(785)年、19歳の時に東大寺で受戒しますが満足できず、比叡山に登って草庵(後の一乗止観院)を構え、天台の経典研究に没頭します。その後、桓武天皇の親任を受け、延暦23(804)年、遣唐使と共に入唐し、一年間学んだ後帰国します。彼は各宗派を幅広く学びますが専門は天台宗でした。そのため最澄自身はあまり密教には詳しくありませんでした。しかし、最澄は天台宗の教義に密教を取り込んでいる以上、密教をもっと深く学ばなければならないと考えるようになりました。そこで、最澄は一時期空海から密教を学びます。しかし、この関係は長くは続かず、天台宗が本格的に密教を取り入れることになるのは、最澄の弟子の時代を待たなければなりませんでした。また、真言宗の密教は東寺からとって「東密」、天台宗の密教は天台からとって「台密」と呼ばれます。

さて、平安中期になると、律令制度が徐々に崩壊していき、世の秩序が乱れるようになります。さらに、仏教が衰えるという予言的な思想が貴族たちの間に広まり、社会的な不安が増大します。「末法」の時代の到来です。末法というのは、仏教の教えがすたれ、世が乱れる時代と考えられていました。日本では永承7(1052)年がその「末法入り」の年に当たり、平安時代中期から貴族たちは大いに恐れおののき、社会の不安が増大していきました。そのため、この時代に浄土信仰が広まっていきます。阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えることで死後、極楽浄土に往生できるよう願ったのです。

不浄の地である現世から離れ、来世の極楽浄土での往生を願う貴族たちは、衆生を救済するという阿弥陀如来を造像発願し、阿弥陀堂を建立していきました。「宇治平等院鳳凰堂」(P)は、その代表的な建築物です。摂関政治の代表的存在である藤原道長の子で、関白として実力を振るった藤原頼通(ふじわらのよりみち)が、父・道長の宇治の別荘を改築して造りました。この阿弥陀堂は、鳳凰をかたどって作られており、左右対称に作られた「翼廊(よくろう)」と後ろに伸びた「尾廊(びろう)」が特徴的です。鳳凰堂は、当時の童謡で「極楽浄土を知りたければ、平等院を見るがいい」とまで謡われたほどで、平安貴族の極楽往生の願いが深く込められていました。

そんな中、新しい宗派が誕生していきます。融通念仏宗や浄土宗です。融通念仏宗は、良忍(りょうにん)が開きました。彼は、幼いときから比叡山で学びましたが、やがて比叡山を去り、京都大原に来迎院を創建し、一人の唱える念仏がたくさんの人びとが唱える念仏と、互いに融けあって往生の機縁(きっかけ)になると説きました。また、浄土宗を開いた法然も、はじめは比叡山で学びますが、ほどなく比叡山を後にして、京都東山の吉水の草庵(後の知恩院)にて自らの教えを広めます。法然は、他力本願を唱えました。誰でも一心不乱に南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に往生できるという教えを説いたのです。これが浄土宗の始まりです。法然の下には、親鸞をはじめ多くの学徒が集まり、またたくまに民衆の間に広まっていきました。

日蓮も比叡山に学んだ僧侶の一人でした。しかし、彼もまた比叡山を後にし、日蓮宗の開基となっていきます。彼は、釈迦に帰依し、「南無妙法蓮華経」を唱えて善行を積むことが救いになる、と説きました。また、個人の救済だけでなく、社会や国家全体の救済を主張したところにも特色があります。その他、臨済宗の栄西や曹洞宗の道元も比叡山で学んだ後、離れていきそれぞれ独自の宗派を築き上げていきました。こうした新宗教を契機に、仏教は貴族たちだけのものではなくなり、民衆全体への広がりを見せ、鎌倉新仏教として隆盛を極めていきます。

6 密教と仏像

密教特有の仏像といえば、大日如来像や明王像です。大日如来は、宇宙の真理を表し、宇宙そのものを表現したものであり、一切のものは大日如来から現れるとされています。大日如来は、毘盧舎那仏と同じ仏で「あまねく照らす」という意味の「ヴァイローチャナ」(「毘盧舎那仏」と訳される)に「大」を意味する「マハー」をつけて「マハー・ヴァイローチャナ」と呼ばれています。これを訳して大日としているのです。この大日如来には「金剛界大日」と「胎蔵大日」の二つがありますが、これは別々のものではなく、この世界を智と理の二つに分けて考え、それぞれの中尊として表現したものです。一切のものは大日如来に胎蔵されるのであり(胎蔵界)、また一切のものは大日如来の堅固な智の顕現でもある(金剛界)といわれています。

また、大日如来は、頭は髪を高く結いあげ、豪華な宝冠を被り、絢爛たる装飾具を身につけています。これは如来の中でも異例の姿で、その他の如来は一切装飾具などはつけていません。これは、その偉大さを表現するため、古代インドの王族の姿を模したものといわれています。

明王は、元来ヒンズー教の神々でしたが、次第に密教に取り入れられていきました。明王とは、真言(仏の真実の言葉)の中の王者のことを指し、「真言(仏の真実の言葉)を身につけた偉大な人」という意味です。明王は、密教における最高神である大日如来が様々の姿に変化したものの一つとされています。また、大日如来の命を受け、教化のしにくい衆生を救済するために怒りの形相、忿怒の姿で現れた仏とされる場合もあります。

明王像は、一般的にいずれも髪を逆立て、炎髪とし、歯をむき出した怒りの面相で表現されます。そして、光背には、燃えさかる火炎が用いられます。こうした表現がとられたのには、二つの理由があり、ひとつは上述したとおり教化し難い衆生を救済するためであり、もう一つは煩悩を打ち砕くためでした。また、多面多目、多臂多足とし、体躯に蛇をまきつけ、虎の皮をまとうなど、奇怪な姿をしているのも特徴です。たとえば、大威徳明王は、六足尊と呼ばれるように、六面六臂六足の珍しい姿です。大同元(806)年、空海が唐から帰国し、初めて正式な密教と共に明王像を日本に持ち込みました。

一般的に密教の仏像は、顔、腕、脚の多い多面多臂の超人間的な姿や半人半獣的の姿をしています。従来、人体に近かった像から変化していったのです。その結果、これまでにない多種多様な仏像が数多く造れられていくことになりました。五大明王(不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉)やヒンズー教の神像に源をもつ十二天などはその代表例です。明王に用いられた鳥獣の姿をした台座や火炎の光背、また眷属像としての童子形など新しいテーマが出現し、さらに、神仏習合思想の発展によって、神像も造られるようになります。

京都の仏像の特徴~大学受験・高校受験・中学受験のための特別講義(3)

武蔵野個別指導塾・武蔵境唯一の完全個別指導型学習塾

武蔵境駅徒歩30秒武蔵野個別指導塾 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾

【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

TOPに戻る

個別指導塾のススメ

小学生コース

中学生コース

高校生コース

浪人生コース

大学院入試コース

社会人コース(TOEIC対策)

英検準1級はコストパフォーマンスが高い

英文法特講(英語から繋げる本物の教養)

東大合格は難しくない

英語を学ぶということ

英文法講座

英検があれば200~20倍楽に早慶・GMRCHに合格できる

現代文には解き方がある

共通テストや国立の記述テストで満点を取る日本史

共通テストで満点を取るための世界史

武蔵境駅徒歩1分武蔵野個別指導塾の特徴

サードステーションの必要性

完全個別指導塾とは何か

中学校の内申点の上げ方の秘訣

学年別指導コース

得する中学受験

小5や小6からでも中学校受験で合格できる

中学受験をはじめるベストなタイミング

高校入試を始めるベストなタイミング

宿題をやる意味とその前提について

社会=暗記という常識はもう古い!知識だけでは通用しない社会の問題(麻布中学校の社会の入試問題より)

算数(数学)の成績が伸びない子の勉強法TOP3

数学が嫌いになる生徒の特徴とその理由

どうしたら我が子に数学を得意になってもらうか?

偏差値が低い生徒が成績を上げる勉強法

99%の人が誤解している国語の勉強法

有名大学に入学するための勉強をすることは時給3万円のバイトをするようなもの

塾選びのありがちな誤解TOP6

中学受験、高校受験、大学受験で逆転合格する勉強法5選(1)

中学受験、高校受験、大学受験で逆転合格する勉強法5選(2)

合格の切り札・入試過去問のNGな取り組み方法TOP10(1)

武蔵境おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

三鷹駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

東小金井おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

多磨駅おすすめの塾・個別指導塾・学習塾

立川の溶岩ホットヨガスタジオのオンザショア

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
PAGE TOP
お電話