日本史講義 ヨーロッパ人の来航と織豊政権
ヨーロッパ人の来航
ヨーロッパ人の来航について。今回は、『新もういちど読む山川日本史』より。
日本国内で戦国大名が各地ではげしく戦っていたころ、イスラム教徒によってアジアとの交通をさえぎられていたヨーロッパ人は、アジアに達する新しいもとめて海外に進出した。その先頭にたったのは、新興のスペイン(イスパニア)とポルトガルであった。スペイン人は15世紀末に大西洋を横断してアメリカ大陸に達し、さらに太平洋に出てフィリピン諸島のマニラを根拠地としてアジア貿易に乗り出した。同じころ、ポルトガル人は、アフリカ大陸を回ってインドに達する航路をひらき、中国のマカオを根拠地として明との貿易に従事した。1543(天文12)年、九州の種子島にポルトガル人をのせた1隻の中国船が流れついた。これがヨーロッパ人の日本にきたはじめである。ポルトガル人は、そののち、日本との貿易の利益が大きいことを知って、毎年のように貿易船を九州の諸港に派遣するようになった。ポルトガル人に50年ほど遅れてスペイン人も肥前の平戸に来航し、日本との貿易に参加した。貿易は、肥前の平戸・長崎、豊後の府内(現、大分市)などで行われた。当時の日本人は、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼んだので、この貿易を南蛮貿易という。南蛮人には、鉄砲、火薬、絹布などをもたらし、日本から主に銀や刀剣・海産物などを輸出した。
まあ、この辺のことは、小学校でも習う事なので、皆さん知っていますよね。中国に向かうジャンク船が漂着したんですね。次は鉄砲の伝来についてみてみましょう。
中国船が種子島についたとき、島主の種子島時堯(ときたか)は、ポルトガル人のもっていた鉄砲を買い求めて家臣にその製法を学ばせ(注1)、日本ではじめて鉄砲がつくられた。種子島に伝えられた鉄砲の影響は大きかった。戦国時代の諸大名は、争って鉄砲を求め、それまでの騎馬隊を主力とする戦法は銃を持った歩兵隊を中心とする戦法に切り替わり、家臣団の編成も変化してきた。キリスト教が伝えられたことも、日本の社会と文化に大きな影響をおよぼした。当時、ヨーロッパでは宗教改革がすすみ、勢力の衰えたカトリック教会の側では、教勢を回復するためにアジアなどの新しい地域での布教をこころみていた。そのなかのイエズス会(耶蘇会)創立者の一人フランシスコ=ザビエルは、1549(天文18)年鹿児島にきて以来、2年ほど各地をまわって布教の準備をした。その後、宣教師があいついで来日し、熱心に布教した。キリスト教は日本の従来の思想と対立することも多かったが、宣教師が社会事業や医療活動などにつとめたこともあって、武士や商人・農民などのあいだにひろまり、各地に南蛮寺などとよばれる教会堂やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などが建てられた。キリスト教はおもに西日本に広まったが、信者の多くはまずしい人々で、その数は数十万人にも及んだ。貿易をのぞむ大名も進んで、キリスト教を保護し、なかには洗礼を受けてキリシタン大名と呼ばれるものも現れた。大友義鎮(宗麟)・有馬晴信・大村純忠の3大名は、宣教師ヴァリニャーニのすすめで、1582(天正10)年に少年使節をローマ教皇のもとに送っている(天正遣欧使節)。
注1:種子島家にはポルトガル伝来と伝える銃と八板金兵衛の製作と伝える銃との二挺が伝世されているが、いずれも先込めの火縄銃である。そのため、雨の日には火縄の火が消えるとか、はやくしても1分間に4発ほどしか撃てないとかの欠点があった。しかし、この新兵器は”種子島”という名でたちまち各地に伝えられ、まもなく国内で生産されるようになった。その背景には刀鍛冶の技術があった。彼らはそれまで武士のもとめで刀や槍などをつくっていたが、鉄砲が伝えられると、和泉の堺、紀伊の根来、近江の国友などで刀を鍛錬する技術を応用し、種々の工夫を加えて銃身を製造した。また弾丸となる鉛は国内に鉱山があり、容易に製造できた。
織田信長
織田信長は、尾張国出身で、斯波氏の守護代一族から父の信秀が戦国大名となり、「天下布武」の印章を用いて、全国統一を目指した。1560年に、桶狭間の戦いで、今川義元を破ると、1567年には美濃国を制圧し、稲葉山城を岐阜城と改称し、城下に楽市令を発布。1568年には、足利義昭を奉じて入京。1570年には、姉川の戦いで、浅井長政・朝倉義景の連合軍を破り、1573年には15代将軍足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させた。1574年に長島の一向一揆を平定し、1575年には長篠の戦いで武田勝頼の騎馬隊を破り、1576年に琵琶湖畔に安土城を築城した。その後、1582年に本能寺の変にて、明智光秀により攻められ自害した。
激しい戦国騒乱の中で。室町幕府の支配力はまったく失われ、戦国大名の中には、京都にのぼって、朝廷や幕府の権威を借りて、全国に号令しようとするものが多く現れた。その中で。全国統一の先駆けとなったのは、終わりの織田信長である。信長は、1560年、上京を企てて進撃してきた駿河の今川義元の大軍を尾張の桶狭間の戦いで破り、1568年(永禄11)年には京都に登って足利義昭を将軍に立てた。その後、信長は、比叡山の延暦寺や石山(大阪)の本願寺と戦って寺院勢力をおさえ、1573(天正元)年には、信長の命令に従わなくなった将軍義昭を京都から追放した(室町幕府の滅亡)。ついで、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、さらに1575(天正3)年、甲斐の竹田勝頼を三河の長篠合戦で破った。まもなく信長は、交通上の要地である近江に安土城を築いて全国統一の拠点とし、領国内の経済力を強めるため、城下には多くの商工業者を集め、楽市・楽座の制を推し進めて、商人が自由に営業できるようにした。商業が盛んであった堺を直轄にしたことも、信長の権力を強めるのに役立った。また、通行税を徴収するために各地に設けられていた関所を廃止し、道路を修理するなどしたので、物資の運搬や旅行はひじょうに便利になった。信長は、1582(天正10)年に武田氏を滅ぼした後、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(本能寺の変)。
豊臣秀吉
信長の事業を引き継いだのが、家臣の豊臣秀吉である。信長が本能寺で倒れた時、秀吉は備中の高松城で毛利氏の軍と対戦していたが、ただちに和を結んで軍をかえし、京都の西の山﨑の戦いで明智光秀の軍を破った。ついで翌1583(天正11)年には、信長の重臣であった柴田勝家を近江の賤ケ岳の戦いで破り、信長の後継者の地位を確立した。秀吉は、この年、石山本願寺のあとに壮大な大阪城を築きはじめた。ここは前面に摂津の海をひかえ、淀川によって畿内の各地に通じることができる陸海交通の要地であった。中世に活躍した堺の商人もここに移り、大阪は長く日本経済の中心となった。
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |