日本史講義 倭の小国と邪馬台国
01-7 日本史講義 倭の小国と邪馬台国
『新日本史』をひもときましょう。
弥生人は、集落の近くに共同墓地をつくって死者を葬ったが(中略)、九州北部では甕棺墓、中国地方では箱式石棺墓、近畿地方では木棺墓が主流をなし、東日本では死者の骨を土器に詰める再葬墓もみられ、地方によりさまざまな形があった。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿から各地に広まり、後期になると、西日本を中心にかなり大規模な墳丘を持つ墓が出現する。このことは各地に有力な支配者が現れたことを示している。地域を代表する大規模な環濠集落も現われ、奈良県唐古・鍵遺跡や大阪府池上曽根遺跡、佐賀県吉野ケ里遺跡などには、広大な範囲を環濠でかこんでいる。こうした強大な集落は、周辺の集落を結合して「クニ(小国)」と呼ばれる政治的なまとまりを成立させていったのであろう。このころから、日本列島の状況が中国側の記録に「倭」として残るようになる。『漢書』地理志によれば、前漢時代には倭の社会は百余りの小国にわかれ、朝鮮半島におかれた楽浪郡に定期的に死者を送っていたという。九州北部の弥生時代中期の甕棺墓にはさまざまな宝器を副葬したものがあり、楽浪郡に使者を送った小国の支配者の墓と考えられる。『後漢書』東夷伝には、57(建武中元2)年に倭の奴国の王の使者が後漢の都洛陽におもむき印綬を受け、107(永初元)年にも、倭の別の国の王が生口(編注:奴隷のこと)160人を安帝に献上したことが記され、弥生時代後期にあたる1世紀の倭の小国に王が現れたことがわかる。 奴国は福岡平野にあった小国と考えられ、その領域である志賀島から後漢の光武帝から奴国王が授かったとされる金印が発見されている。福岡県春日市にある弥生時代中期の須玖岡本遺跡の甕棺墓には、30面もの前漢鏡や銅剣・銅矛・ガラス壁がおさめられていて、奴国の王の墓と推定されている。小国の王たちは先進的な文物を手に入れるため、また倭内部での地位を高めるため、中国に朝貢していたことがわかる。中国大陸では、220年に後漢が滅んで、魏・呉・蜀が並び立つ三国時代を迎えた。この時代の歴史書である『魏書』東夷伝倭人条には、3世紀の倭の情勢が詳しく記されている。
早速、『漢書』地理志と『後漢書』東夷伝を確認してみましょう。これは資料がそのまんまテストに出ることも多いので、資料の文字ごと覚えてしまうのがポイントです。別に対して長くもなく、大体の内容は覚えられるはずです。
『漢書』地理志 夫れ楽浪郡海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。 『後漢書』東夷伝 建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王師升(すいしょう)等、生口百六十人を献じ、謁見を願ふ。桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし。
このように文字の記録として初めて日本の歴史が中国の史書に書かれているのです。この頃、残念ながら、日本には倭国という中国から着けられた蔑称(チビの国という意味ですね)としての国名しかなく、そもそも文字で書物に何か記されているということがなかったわけですね(正確には、仮名文字があったようですが、漢字や本格的な資料というのはこの時期にはまだ生まれていません)。
倭では、2世紀の終わりころに大きな騒乱がおこり、何年もおさまらなかった(倭国大乱)。そこで、国々は共同で邪馬台国の卑弥呼を立てて女王としたところ、ようやく乱はおさまり、邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。239年、卑弥呼は魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と、五尺刀2口、銅鏡100面などをおくられた。卑弥呼は「鬼道に事(つか)え」たと記され、巫女(シャーマン)として神の意を聞く能力を持ち、祭政一致の宗教的権威でもあり、「男弟(だんてい)」が実際の政治をとったという。この邪馬台国連合には、大人(だいじん)と下戸の身分差や刑罰・税の制もあり、九州北部の伊都国に一大率(いちだいそつ)という役人をおくなど、統治組織もある程度ととのっていた。卑弥呼は狗奴国と争ったが、248年頃に死去し、直径100歩(140メートルあまり)の冢(つか)をつくった。その後、男王を立てたが国中が服従せず、卑弥呼の一族の女の壱与(いよ)を立てて、国中はようやくおさまった。266年には、前年に魏を滅ぼした西晋に倭王が遣使したが、これ以降、150年ほど中国史書に倭の記述はみえなくなる。邪馬台国の所在地には、大和を考える近畿説と、九州北部を想定する説とがある。所在地について容易に結論は出ないが、古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とする「ヤマト政権」に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。邪馬台国の中心部とされる候補地の一つに、纏向遺跡(まきむくいせき)がある。この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域だったと考えられる。この地には帆立貝型の独特な古墳がみられる。これが前方後円墳に先行し、山陰地方の四隅突出型墳丘墓、吉備地方の楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)などの弥生時代後期の大型墳丘墓や、吉備地方中心に墳丘に立てられる特殊壺・特殊器台など、各地域の文化の特徴を継承している。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |