日本史講義 執権政治の確立

幕府と朝廷

朝廷では、当初は幕府側に近い九条兼実(くじょうかねざね)が実験を握り、西国中心の政治体制を整えていった。当時、武家に対して、天皇を取り巻く上層の廷臣たちを公家と読んだが、兼実は公家たちの合議を重視した。しかし、まもなく兼実は失脚し、朝廷では後鳥羽天皇の乳母の縁者たちを中心とする天皇側近勢力が力を増した。その後、成人した後鳥羽天皇は、後白河上皇のような強力な支配権の掌握を目指して、源頼朝の意向に反して退位し、院政を開始した。後鳥羽上皇は、若など文化面を興隆させたのを始め、分散していた天皇家の領地をまとめて管轄下に置くなど、政治・経済面でも大きな力を持つようになっていった。そして在京する御家人や西国の守護たちを臣従させ、北面に加えて新たに南面の武士として朝廷の軍事力に組織した。さらに、のちの3代将軍源実朝(さねとも)を厚遇し、その信頼を得た。一方、幕府では頼朝の死後の後継者を巡る問題が深刻であった、1199(正治元)年、跡を継いだ嫡子、源頼家(よりいえ)に御家人たちは服従せず、北条時政や政子らは幕府有力者13人の合議による訴訟の裁判を始めた。この年の末には、頼家に近く、侍所の次官である所司(しょし)にも任命されたことのある有力者、梶原景時(かじわらかげとき)が失脚・滅亡するという事件がおきた。さらに、2代将軍となった頼家(よりいえ)が重病になると、幕府内部では頼家の子に将軍職を継承させず、北条氏が後見をしてきた頼家の弟に継がせようとする動きが強まった。これに反発した頼家は、逆に伊豆に押し込められ、北条氏によって頼家の子と外戚の比企能員(ひきほしかず)ら比家一族は滅ぼされた。

執権の成立

源頼朝の妻北条政子の父、北条時政が初代執権となります。1199年源頼朝が死亡し、子の頼家が家督を継いだ際に、頼家の親裁(しんさい)を制限し、有力御家人13名による合議制を採用。その後、梶原景時を討滅し、頼家が二代将軍となったのち、1203年比企氏の乱ののち、北条時政が大江広元と並び政所別当となり、事実上の執権となります。その後、畠山重忠を討滅し、1205年二代執権北条義時が父、時政を追放し、実権掌握。その後、和田合戦にて侍所別当和田義盛を討滅し、義時が侍所と政所の別当を兼務し、執権の地位を確立します。

こののち、頼家の弟実朝(さねとも)が三代将軍になると、北条時政は将軍補佐の地位に就き、政治の実権を握った。その地位は執権と呼ばれた。しかし、幕府内には謀反の噂がやまず、有力御家人、畠山重忠(しげただ)の一族が滅亡したばかりでなく、時政自身も娘婿、平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に擁立しようとして、子の北条義時(よしとき)や政子の反対にあい、失脚した。執権の地位は北条義時が継ぎ、成長した将軍実朝を政子と共に支えた。実朝は後鳥羽上皇と親しく、上皇の政治を手本と考えたが、それは逆に東国御家人らの強い反発をまねくことになった。御家人のあいだでは、義時に対して1213(建保元)年、侍所別当であった有力御家人、和田義盛(わだよしもり)が挙兵し、和田合戦と呼ばれる鎌倉での激しい戦闘の末に、北条義時は和田氏一族を滅ぼした。その結果、北条氏は、政所別当に加えて侍所別当も兼ねるようになり、執権の地位をいっそう強固なものにし、幕府の実験を握るようになった。頼朝の死後、北条政子は後家として鎌倉内部で大きな力を持っていた。政子は子がいない実朝の後継者として、後鳥羽上皇の皇子を迎える交渉を、上皇側近の上房と進めていた。しかしその矢先、1219(承久元)年に、実朝が頼家の遺児公卿(くぎょう)に鶴岡八幡宮社頭で殺され、源氏の将軍は三代で絶えることとなった。政子らは、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとするが、上皇から拒否され、結局摂関家から九条道家の幼い子息を迎えた。のちの4代将軍藤原頼経(よりつね)で、頼経とその子の2代は摂家将軍と呼ばれる。

承久の乱

後鳥羽上皇は、源実朝への影響力を通じて、鎌倉幕府を動かそうとしていたが、実朝の死は上皇にとって幕府と対立する決定的な機となり、朝廷と幕府との関係は急速に悪化した。ついに1221(承久3)年5月、後鳥羽上皇は院の近臣や幕府に不満を持つ西国を中心とする武家勢力を頼み、義時追討の命令を諸国に発した。しかし、西国武士の大多数は上皇の呼びかけには決起せず、逆に幕府では政子が前面に立って御家人を結集することに成功し、今日に派遣された義時の子、泰時(やすとき)、弟の時房(ときふさ)が率いる大軍は、一ヶ月足らずで上皇側に勝利した。これを承久の乱と呼ぶ。乱後、幕府は上皇側の人々を厳しく罰した。後鳥羽・土御門(つちみかど)、順徳(じゅんとく)の3上皇を配流(はいる)するとともに、後鳥羽上皇の嫡孫(ちゃくそん)仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)を廃し、上皇の兄の系統に当たる後堀河天皇を即位させて、幕府の意向にそう政治をする体制を作った。また、朝廷側に属した人々の所領を没収し、所領の地頭職(じとうしき)を恩賞として東国御家人たちに与えた。その際、新たに置かれた地頭職の権益は、給与が少ない場合や先例となる規程がない場合は、新補率法(しんぽりっぽう)が摘要されたので、そうした地頭は新補地頭と呼ばれた。(新補率法では、田畑11町ごとに1兆の番頭給田が与えられ、その分の年貢はすべて地頭の収入となった。また、地頭は田畑1段ごとに5升の米を加徴米として徴収でき、山野河海の収益は荘園領主や国衙と折半することも定められた)没収した所領の分布は、畿内・西国に広がっており、幕府の支配が全国に及ぶきっかけとなった。そして乱後の1223(貞応2)年には、幕府は諸国の守護を通じて在庁官人に一国の荘園・公領の面積や領主・地頭名を書き出した大田文(おおたぶみ、図田帳(ずでんちょう))の作成を命じ、国衙支配を強化していった。義時は乱後も北条泰時、時房を教徒の六波羅にとどめ、朝廷の監視と教徒の警備にあたらせた。これが六波羅探題のはじまりで、のちには執権につぐ重要な地位となり、北条氏の有力者が任命されて、西国の行政・司法をおこなった。こうして、これまでたがいに独立的であった幕府と朝廷の関係も変化した。朝廷は独自の軍事力を持たず、治安の維持など武力の必要があれば幕府に頼る体制となり、幕府の方は皇位の継承や朝廷政治にも介入するようになった。

執権政治の確立

北条義時の死後、子の泰時が政子の後見で執権となるが、この地執権の地位は泰時の流れに代々伝えられ、これが北条氏嫡流の家(得宗家(とくそうけ))となった。さらに、政子や大江広元(おおえのひろもと)が次々に亡くなると、泰時は執権を中心に御家人たちが集団で幕府を運営していく体制を整え始めた。まず、執権を補佐する連署(れんしょ)を置き、叔父の時房を任命した。さらに1225(嘉禄元)年、北条氏一門を始めとする有力御家人や実務官僚などから選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)をおき、執権・連署が主導する評定衆の会議(評定)を幕府の政策決定を行う最高機関とし、将軍がもつ権限の多くを評定に移した。1232(貞永元)年には、武家独自の最初の法典である御成敗式目(ごぜいばいしきもく、貞永式目)を定めた。式目は、将軍頼朝以来の判例や、道理と呼ばれた従来からの武士たちの監修や道徳を集大成し、幕府が裁判規範として51ヶ条の法に制定したものである。幕府はその後も、式目追加として、多くの条項を必要に応じて加えていった。当時の社会には律令の系譜を引く公家の法律や荘園領主の法律など、適用範囲の異なる複数の法律が併存していた。その中で、式目は本来御家人が関係する幕府の採番のみに適用されるものであった。しかし、しだいに広く社会に流布するようになり、公家法にも大きな影響を与え始めた。このように、御成敗式目は、武家の根本法典として、後世の社会に継承されていった。泰時の後、執権政治を進めたのが北条時頼(ときより)である。時頼も裁判制度を整備し、1249(建長元)年、評定衆を助け裁判の公平・促進をはかるために、引付衆(ひきつけしゅう)をおいた。一方で時頼は、政治の実権を北条嫡流の当主である得宗にしゅうちゅうされるため、独自の力を持ち始めた前将軍藤原頼経を教徒に返し、有力な一族である名越氏を謀反の疑いで失脚させた。さらに1247(宝治(ほうじ)元)年には、将軍派の有力御家人三浦泰村(みうらやすむら)を滅ぼした(宝治合戦)。そして後嵯峨上皇の子、宗尊親王(むねたかしんのう)を迎え、将軍とした。こののち鎌倉幕府では、4代に渡って実権を持たない皇族将軍が続いた。朝廷では、頼経の父、九条道家が幕府の後ろ盾を得て、朝廷の立て直しを図っていたが、頼経の帰京とともに失脚した。ついで院政を開始した後嵯峨上皇は、幕府の要請により、朝廷の政治も有能な廷臣たちからなる評定衆を中心に運営する体制を作った。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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