日本史講義 律令国家の構造と平城京の造営
律令の成立
天武天皇が編纂して着した律令は、飛鳥浄御原令22巻となり、持統天皇により689年に施行された。これにもとづいて、翌年つくられた庚寅年籍は人民を統一的に支配する基礎となり、以後6年ごとに戸籍をつくり、班田を行う制度が確立した。飛鳥浄御原令を基礎として、文武天皇の701(大宝元)年に刑部親王・藤原不比等らによって大宝律令がつくられ、国家の仕組みが整った。さらに藤原不比等が養老律令をつくった。大宝律令は、唐の永徽律令を手本にしたもので、刑法に当たる律は唐律をほぼ写したものであるが、行政法や民衆の統治を定めた令については、日本の実情に適合するよう、大幅に改変されている。天皇をめぐっては、規定を削除している部分が多く、また中央の氏や地方の国造制の影響などがみられ、古くからの氏族性的要素も色濃く残っている。
藤原京と「日本」
持統天皇は、中国の都城を模した広大な藤原京を飛鳥の北方の地に営んだ。都城は、天皇の住居や官衙・倉庫・儀式をおこなう空間からなる宮と、官僚や一般の人々の宅地が配される京の部分からなり、官僚制の成立と都城の整備は不可分であった。藤原京は、中国的に条坊制(碁盤目状の道路)をもつ最初の都城で、東西約2.1キロメートル、南北約3.2キロメートルとされているが、より広い東西南北約5.2キロメートルの正方形であったとする説も有力である。京内には、大官大寺や薬師寺などの官位の大寺院が建立された。702(大宝2)年に約30年ぶりに派遣された遣唐使は、唐の役人に対して「日本」国の使者であるとこたえ、倭の国名を改めている。おそらく飛鳥浄御原令、あるいは大宝律令において「日本」という国号を公式に定め、この時、はじめて中国に対して表明したのであろう。国号を改めることで、7世紀後半の緊張した対唐関係の清算をはかったと思われる。「日本」は推古朝が「日出づる処」と同じ意味であり、太陽神アマテラスの子孫、「日の御子」として天皇が位置づけられたことも関係が深いと考えられている。
官僚制の仕組み
中央政府の機構では、政治を統括する太政官と並んで、神々の祭祀をつかさどる神祇官がおかれた。国政は、左大臣・右大臣・大納言(のちに中納言と参議がもうけられる)からなり太政官の公卿の合議によって運営された。これは大夫(まえつきみ)の合議を継承したもので、8世紀初めには中央の有力氏族から一人ずつ公卿が出ていた。太政官のもとには、唐の尚書省の六部を模して、中務省・式部省・民部省などの八省がもうけられ、行政を分担した。また、宮城の警備や取締まりに当たる衛門府など、五衛府の武官も設けられた。八省以下の多くの官庁や地方官司(かんし)には、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官がおかれ、各官職には対応する位階が定められ(官位相当の制)、官人にはおのおのの位階が与えられた。官人には、位階に応じて封戸や田地・禄などが与えられ、三位以上の上級貴族は大きな特権をもったが、五位以上と六位以下では大きな差があった。五位以上の官人は貴族と呼ばれ、大化改新以前の「まえつきみ」と呼ばれた有力氏族が占め、天皇と密接な関係をもって奉仕した。五位以上の子(三位以上は孫も)は、一定の年齢になれば自動的に一定の位階が与えられて出仕することができ(蔭位の制)、ほぼ親と同じ位階にまで昇進できるようになっていた。地位や財力は世襲され、五位の位階は一種の身分としての意味を持った。刑罰としては、唐の制度にならい、笞・杖・徒・流・死(ち・じょう・ず・る・し)の五刑が定められた。位階を持つ官人は位階の簒奪などによって実刑を免除される換刑が認められ、上級官人はその親族を含めて特別の保護を受けたが、国家や天皇に対する謀反や尊属に対する不孝などの八虐はとくに重罪とされた。
畿内と畿外
全国は畿内(大和・河内・摂津・山背・のちに和泉)と七道の行政区にわけられ、国・郡・里(のちに郷と改称)がおかれ、地方官として国司・郡司が任じられた。国司は中央の官人が一定の任期(6年、のち4年)で派遣されたが、郡司はもとの国造などの在地の豪族が任命された。郡司は、国司に対しては従属させられたが、地位は世襲され、多くの田地の保有も認められ、郡司のもつ伝統的な支配力に依存して、律令制の人民支配は可能になっていた。国には、中央の都城を小さくした国府が設けられ、中心には儀礼空間としての国庁(国衙)が設けられ、ここで国司が政務を行った。一方、郡には郡家(郡衙)が設けられ、田租を蓄える正倉がおかれた。中央と国府との緊急連絡や文書による行政を進めるためには、都を中心に道路(駅路)が整備され、約16キロメートルごとに駅家(うまや)を設ける駅制が敷かれ、駅戸を設けた。駅制は郡家におかれた伝馬とあわせて、官人の公用に用いられた。天皇の即位に当たっては、畿外の郡がユキ・スキとなって新天皇に新穀をたてまつる大嘗祭がおこなわれた。毎年の神祇祭祀としては、念頭に豊作を祈る祈年祭があり、神祇官が掌握する全国の神社に対して神へのささげものである幣帛(へいはく)を配った。収穫感謝祭である相嘗祭・新嘗祭や6月・12月の月次際では、畿内の神社のみを対象として幣帛を配った。律令国家は、畿内に本拠をおく有力氏族が、天皇のもとに集結して連合し、畿外の地方豪族を服従させて、天皇の支配を強力にした国歌体制であるといえる。
人民の支配
地方の支配は、人民を戸籍・計帳に登録し、25人くらいからなる戸に編成して戸主を定め、さらに50戸ずつの里に組織することで行われた。計帳は徴税台帳で、毎年戸主に戸内の内訳などを記した手実を提出させ、それをもとに郡・国単位で集計して中央に進上し、その年の調・庸収入を示した。戸籍は6年ごとに作成される人民の登録台帳で、身分制の基本となったほか、これにもとづいて6歳以上の男女に口分田が与えられ、6年ごとに収公された(班田収授法)。中国の均田制では、世襲される永業田と口分田の二種があり、丁一人あたりの合計100畝は実際に班田される額ではなく、目標であり、限度額であった。しかし、日本の収授法による男性2段(1段=約11.9アール、女性はその3分の2)という口分田の額は、条里制を施行して現在耕作でっきる田地(熟田)を実際に支給する面積で、人民の生活を保障する側面が大きかった。官人身分のものには、位階・官職に応じて位田・職田(しきでん)などが支給され、これらの田地を収穫の5分の1の地子を支払って賃租する農民も多かった。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |