日本史講義 推古朝と飛鳥文化
蘇我氏の登場
高句麗・新羅が強大化し、倭の朝鮮半島支配が弱体化していきます。 512年 ヤマト政権が百済に任那四県を割譲したのを皮切りに(大連の大伴金村が主導しています)、527年筑紫国造磐井が、新羅と結びヤマト政権に反乱を起こしました。継体天皇は、大連の物部麁鹿火に命じ鎮圧させます。その後、562年 新羅により加耶諸国が滅亡します。この結果、ヤマト政権は朝鮮半島経営の拠点を失います。その後、蘇我氏の独裁が始まっていきます。蘇我氏は、三つの蔵(蔵・内蔵・大蔵)を管理・独占し、渡来人を組織化します。587年には、蘇我馬子(大臣)が、物部守屋(大連)を滅ほろぼし、蘇我氏の権勢はいよいよ独占的なものになっていきます。 592年に蘇我馬子が、自身の甥でもある崇峻天皇を暗殺し、今度は自身の姪である推古天皇(初の女帝)を擁立します。このあたりは『新日本史』の記述を追いながら確認していきましょう。
6世紀中頃のヤマト政権内では、大連として勢力を保っていた物部氏と、大臣として新たに力を増してきた蘇我氏とが対立してきた。仏教の受容を巡って、渡来人とともに受容する推進する蘇我稲目とそれに反対する廃仏派の物部尾興(もののべのおこし)や中臣氏との争いが起きた。この頃、中央では大夫による合議制が確立して、品部の組織もととのい、政治の中心である朝廷の機構を整備する動きが進んでいた。蘇我氏は東漢氏などの渡来人を掌握して機構整備に積極的に推進し、斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)を管理していたと伝えられるように、朝廷の財政を握り、また先進的な方法で屯倉(みやけ)の経営も行った。中国では、581年におこった隋が、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を統一し、高句麗にも遠征するなど、周辺にも大きな影響を与えた。587年、稲目の子蘇我馬子は、物部守屋(もものべのもりや)を滅ぼして、政権を握り、さらに崇峻天皇と意見が対立すると、592年に暗殺した。こののち、敏達天皇の后推古天皇が即位し、翌年には甥の聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となり、天皇を助けて政治をとった。聖徳太子は、大臣蘇我馬子と協力し、活発な外交と統一的な政治の実現を目指した。
こうして、蘇我馬子と聖徳太子の二人三脚による政治体制が整ったわけですね。聖徳太子の功績は、現代ではかなり疑いの目で見られていますが、それもそのはずで、実力者である蘇我馬子と二十代の聖徳太子では当然力量も異なったでしょう。蘇我馬子が実際に行った良い政治の業績などが、後の世で(蘇我氏は敗れ去るわけですので)、蘇我馬子ではなく、聖徳太子の実績にすり替えられたわけですね。
推古朝では、初め「任那」復興の問題で新羅攻撃を計画していたが、これを中止し、隋の統一による東アジア情勢の変化にともない、倭の五王以来とだえていた冊封関係がなかった中国との国交を開き、中国文化の摂取を目指した。607年には、小野妹子が遣隋使となり、「日出づる処の天子」に始まる酷暑を提出した。それは隋の皇帝煬帝の不興をかったが、翌年に煬帝は返礼の使者裴世清を遣わし、さらにこの使者が帰国するとき、倭は8人の留学生・学問僧を同行させた。また、「隋書」には、これより先の600年にも倭からの使いがきたことを記し、「アメタリシヒコ」と倭王の姓名が記されている。その後、長期の滞在をおえて帰国した留学生や学問僧の知識は、のちの大化改新に始まる国政改革に、大きな役割を果たした。推古朝では、603年に冠位十二階の制を定めた。姓が氏に与えられて世襲をされるものだったのに対し、徳・仁・礼・信・義・智の六つを大小にわけて十二階とした冠位は、才能や功績に応じて個人に与えられるもので、昇進することもできた。のちの位階制度の起源であるが、外交の場でとくに必要だったようで、施行された地域や階層は限られ、中央の豪族が対象だったと考えられる。また、蘇我馬子は十二階の冠はかぶらず、冠を与える側にいたらしい。604年には憲法十七条が制定され、国家の役人としての性格を強めてきた豪族たちに、役人として政務にあたるうえでの心構えを説くとともに、儒教や仏教の思想を説き、天皇に服従することを述べた。さらに聖徳太子は馬子とともに『天皇記』『国記』などの歴史書も編纂した。また、百済僧の観勒(かんろく)が暦法や天文地理の書をもたらし、年月の経過を記録することがこの頃始まった。これらの政策は、これまでの体制を整備し、豪族を官僚として組織し、国家の形を整えることを目指すものであった。
引き続いて、飛鳥文化のまとめをみましょう。
仏教はまず進歩的な蘇我氏や渡来人により信仰され、蘇我馬子によって飛鳥寺(法興寺)が建てられたが、その後に蘇我氏が権力を握ると、聖徳太子や朝廷の保護を受けて広まり、宮のあった飛鳥を中心に最初の本格的な仏教文化がおこった。宮の所在地を冠して。、この文化を飛鳥文化と呼ぶ。聖徳太子が建立した四天王寺や斑鳩寺(法隆寺)をはじめ、諸豪族が政治的結集の場とする氏寺を建てた。建築様式は礎石の上に丹塗の柱をおき、屋根を瓦で葺いたもので、これまでの掘立柱建物とは大きく異なるものであった。聖徳太子は法華経・維摩経・勝鬘経の注釈書である三経義疏(さんぎょうのぎしょ)を表したと伝えられるが、多くの豪族たちは、祖先の冥福を祈ったり、病気回復を祈ったり、仏教を異国の神、呪術の一種として信仰し、寺院は古墳に変わって豪族の権威を表すものとなった。飛鳥文化は、それまでの古墳文化を基礎に、新たに百済や高句麗を経由して伝えられた中国の南北朝文化を導入した物である。現存する法隆寺の西院は、消失したのちに、7世紀後半に再建されたものと考えられるが、南北朝建築の影響を受けた飛鳥建築の特色を残している。また、はじめて瓦が寺院の屋根に用いられたが、百済と高句麗の文化の影響がみられる。仏像彫刻では、金銅像が多く、鞍作鳥(くらつくりのとり)の作といわれる法隆寺金堂釈迦三尊像は、整った厳しい表情で止利様式と呼ばれ、北魏の仏像の様式に共通している。一方、中宮寺や広隆寺の半跏思惟像や法隆寺百済観音像など、柔和で丸みのある木彫像もあり、直接的には朝鮮半島に由来するが、南朝様式といわれる。また絵画や工芸も、高句麗僧の曇徴によって彩色・紙・墨の製法が伝えられ、法隆寺玉虫厨子や中宮寺天寿国繍帳断片にみられるように、発展した。さらに、忍冬唐草文などにみられるような、国際的な文化要素ももった。・
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |