現代文の記述問題の解き方(2)
01 理由説明問題の解き方
では、二回目は、「理由説明問題」の解き方を、再び東大の同じ問題を使って解説していきましょう。早速、前回の課題文の続きも載せた文章と、それに続く設問を紹介します。
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。
余りにも単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるというのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探求」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。
そこで、過去と同様に知覚できないにも拘らず、われわれがその「実在」を確信して疑わないものを取り上げましょう。それは、ミクロの物理学の対象、すなわち素粒子です。電子や陽子や中性子を見たり、触ったりすることはどんなに優秀な物理学者にもできません。素粒子には質量やエネルギーやスピンはありますが、色も形も味も匂いもないからです。われわれが見ることができるのは、霧箱や泡箱によって捉えられた素粒子の飛跡にすぎません。それらは荷電粒子が通過してできた水滴や泡、すなわちミクロな粒子の運動のマクロな「痕跡」です。その痕跡が素粒子の「実在」を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基礎とする現代物理学理論にほかなりません。その意味では、素粒子の「実在」の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられているということができます。逆に、物理学理論の支えと実験的証拠の裏づけなしに物理学学者が「雷子」なる新粒子の存在を主張したとしても、それが実在するとは誰も考えませんし、だいいち根拠が明示されなければ検証や反証のしようがありません。ですから、素粒子が「実在」することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのであり、それらから独立に存在主張を行うことは意味をなしません。
科学哲学では、このように直接的に観察ができない対象のことを「理論的存在(theoretical entity)」ないしは「理論的構成体(theoretical construct)」と呼んでいます。むろん理論的存在と言っても「理論的虚構」という意味はまったく含まれていないことに注意してください。それは知覚的に観察できないというだけで、れっきとした「存在」であり、少なくとも現在のところ素粒子のような理論的存在の実在性を疑う人はおりません。しかし、その「実在」を確かめるためには、サイクロトロンを始めとする巨大な実験装置と一連の理論的手続きが要求されます。ですから、見聞異臭によって知覚的に観察可能なものだけが「実在」するという狭隘な実証主義は捨て去れねばなりませんが、他方でその「実在」の意味は理論的「探求」の手続きと表裏一体のものであるということにも留意せねばなりません。
以上の話から、物理学に見られるような理論的「探求」の手続きが、「物理的事実」のみならず「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。そもそも「歴史(history)」の原義が「探求」であったことを思い出してください。歴史的事実は過去のものであり、もはや知覚的に見たり聞いたりすることはできませんので、その「実在」を主張するためには、直接間接の証拠が必要とされます。また、歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存じのとおりです。その意味で、歴史的事実を一種の「理論的存在」として特徴づけることは、抵抗感はあるでしょうが、それほど乱暴な議論ではありません。
実際ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で、「社会科学の大部分の対象は、すべてではないにせよ、抽象的対象であり、それらは理論的構成体なのである(ある人々には奇妙に聞こえようが、「戦争」や「軍隊」ですら抽象的概念である。具体的なものは、殺される多くの人々であり、あるいは制服を着た男女等々である)」と述べています。同じことは、当然ながら歴史学にも当てはまります。歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、「フランス革命」や「明治維新」が抽象的概念であり、それらが「知覚」ではなく、「思考」の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。
「理論的存在」と言って、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれの目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へ一歩足を踏み入れることになります。
具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道四号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前九年の役や後三年の役の戦場となった場所です。僕も行ったことがありますが、現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家の戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、言うまでもなく『陸奥話記』や『古今著聞集』をはじめとする文書史料の記述や『前九年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨などの発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークに支えられています。このネットワークから独立に「前九年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作家、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前九年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前九年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。
(野家啓一『歴史を哲学する-七日間の集中講義』による)
設問
(二)「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを『物語り的存在』と呼ぶこともできます」とあるが、「歴史的出来事の存在」はなぜ「物語り的存在」といえるのか、本文全体の論旨を踏まえた上で、100字以上120字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。
東京大学前期試験国語2018
これは、分かりやすい「理由説明問題」ですね。理由説明問題の解き方についてですが、前回お話ししたように、「問われている傍線部の理由となる因果関係を抑えて、傍線部が結果となるべき理由を探し、その理由を論理的に飛躍がないように繋いでいくこと」が必要となってきます。
この際、イメージとしては、傍線部をゴールとするような因果関係を説明することが求められているわけです。つまり、「~だから」という説明の「~」の部分を書くことが求められているわけですね。
そこで、まず最初に重要なのは、どこから因果関係が開始されるのか、その始めとなる部分を決めることが必要となりますが、今回は、本文全体の論旨を踏まえてなので、課題文の最初からということになります。とはいえ、今回のように、どこから理由が書かれているのか悩まなくて良い問題は簡単な問題となるので、また別の機会に違う問題に取り組む際にその点は深く説明したいと思います。
どこから理由部分が始まるのかが分かった上で、次に考えるべきことは、ゴールとなる傍線部に至るまでの因果関係を、数ステップの論理的繋がりで、論理的に飛躍がないように幾つかの段階をきちんと踏まえていかなければなりません。
02 スタートからゴールまでの流れを負っていく
本設問では、課題文全体の趣旨を踏まえて、と書かれているので、まずは第一段落から改めて確認していきましょう。まず、第一段落では、「その体験的過去における『想起』に当たるものが、歴史的過去においては『物語り行為』であるというのが僕の主張」とはっきりと筆者の主張が明示されていますね。
第二段落では、筆者の主張を理解して貰うために、素粒子という具体例が登場します。抽象(筆者の主張)から、具体(主張を裏づけるための、具体例)への動きを抑えましょう。そして、第三段落では、科学哲学における「理論的存在」について紹介され、それが虚構(フィクション)ではないことが改めて確認されます。その上で、第四段落では、「歴史的事実を一種の『理論的存在』として特徴付け、続く第五段落で、ポパーの著書を紹介しながら、「歴史的記述の対象は『もの』ではなく『こと』」であることが確認されます。
その結果、第六段落で、隣接分野である地理学を例に出しながら、「理論的存在」、つまり「『理論』を『物語り』と呼び換え」ます。そして、第七段落では、具体的な例として「前九年の役や後三年の役」を登場させ、その「実在」が、文書史料の記述や絵画資料、あるいは発掘物に関する調査など、「『物語り』のネットワークによって支えられていることを示し、「一定の『物語り』のコンテクストを前提」として「歴史的出来事はいわば『物語り負荷的』な存在」であり、「理論的存在」と異なることがない、とまとめています。そのことを言い換えて、傍線部が登場しているわけです。
後はこれらをまとめるだけです。まとめる際には、前回注意点で伝えたように、対比や類比を表現しつつ、具体例はカットし、傍線部の言葉を極力使わないようにまとめましょう。そうすると、「歴史は知覚できず想起することしかできないが、想起は虚構ではない理論であり、理論は『物語り』として、史料や発掘物の調査など『物語り』のネットワークに支えられ、こうした『物語り』のコンテクストを前提として実在が確信されているといえるから。」ぐらい、がちょうどいいでしょうか。
今回、得点となるポイントは、以下の四点でしょう。
- 過去(歴史的過去、歴史的出来事、歴史学の対象)とは、知覚できず想起することができるだけということ
- 想起とは、理論であり、理論は虚構ではなく、物語りと言い換えられるということ
- 史料や発掘調査とは、物語りのネットワークであるということ
- 歴史的出来事とは、ある一定の物語りのコンテクストを前提しているということ
この四つの論理的階段を飛躍することなく、1つずつ(一段階ずつ)、飛躍が生じないように繋げていくことが必要なわけです。「過去(歴史的出来事)は、物語りである」と答えてしまうと、これは課題文の一行要約としては正解ですが、何故「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり」「物語り的存在」といえるのかと問われた場合、論理の飛躍となってしまいます。歴史的出来事、つまり過去は、想起である。想起とは、理論であり、物語りと言い換えられるが、史料や発掘調査という物語りのネットワークに支えられ、それら一定の物語りのコンテクストを前提として、実在として確証するものだから、歴史的出来事とは理論内在的であり、物語り内在的なのであり、物語り的存在だといえるわけですね。1つずつ、論理の階段を昇っていきましょう。
それでは、ここまで学んできたことを通して、現代文の記述問題の解き方を一旦図式的にまとてめてみましょう。
現代文の記述問題の解き方(3)
現代文の記述問題の解き方(4)
現代文の記述問題の解き方(5)
現代文への偏見
現代文の記述問題の解き方(1)
現代文の記述問題の解き方(2)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |