現代文の記述問題の解き方(3)
01 現代文の記述問題を解くための公式
現代文の記述問題を解くに当たって、一定の解法についてご紹介してきましたが、それをここではまとめて図式化してみたいと思います。前々回から説明しているように、現代文の記述問題では、内容説明問題と理由説明問題の二つしか存在しません。そして、それを解答するには、ざっくりまとめてしまうと、絶対に守らなければならない八つのルールがあるといえます。今まで、大まかな解き方について説明してきましたが、今回から二回にわたって、それを分かりやすくまとめていきたいと思います。
国語の解説をしていくわけですが、この国語の解き方には、数学の勉強の仕方と類似性があります。具体的にどういう点が似ているかというと、現代文の記述問題を解くにあたって、公理・定理、そして細則の3つで説明すると理解しやすいということがあるからです。とはいえ、いきなり公理だとか定理だとか言われてもピンとこない方も多いかもしれません。そこで、ここで、まずは、数学におけるそれらの言葉の意味を説明していきましょう。
たとえば、数学を勉強する上でまず大切なのは必要な単語の定義を明らかにすることです。しかしいくら単語 A を単語 B で説明しても、ではその単語 B はどういう意味? となってしまいます。そうしてどんどん問うていっても根源的 な何かがあるわけではなく単語同士の関係にすぎず、結局は一人一人が獲得している単語の意味に依存してしまうので、厳密に絶対的な単語の定義をすることは不可能です。これに関しては数学はただルールに基づいた記号の羅列と考える立場もあり、とても興味深い学問体系を形成していますが、ここではその話は置いて、話を先に進めましょう。
まず次の 3 つを見てください。
1.「宇宙の始まりがあるという共通認識で話を進めていこう」
2.「何でも知っていて何でもできる人のことを神っていうんだよ」
3.「日本人は押しに弱いから押せば契約とれるんだ!」
この 3 つの違いが分かりますか? これらは数学の文章を読む上でとても大きな違いがあります。それぞれについて数学ではどのようになるか例を挙げてみます。
1.「 2 つの点が与えられたとき、その 2 点を通るような直線を引くことができることとする」
2.「 1 以外の自然数で 1 とその数しか約数を持たないものを素数という」
3.「素数は無限個存在する」
どうでしょう? なんとなく違いが見えてきましたか? それぞれについて解説していきたいと思います。
02 公理・定義・定理とはなにか
1.公理
「公理(axiom)」とは,最も基本的な仮定、理由なく正しいとされる文章のことで、その集まりを「公理系(axiomatic system)」といいます。上の例の 1.は数学では公理(Axiom)と呼ばれます。公理の意味は理由なく正しいとする文章のことであり、数学は必ず一つ一つ理由があって事実がパンケーキのようにお皿に積み上げられていきます。積み上がったものは正しいと認められている事実で、それを使って新しい事実を積み重ねていく作業をします。
ですが一番下の事実をお皿に載せるときには認められた事実は何も無い状態です。そこで無条件でいくつか事実をおいておく。この無条件で認められた事実が公理です。また公理を一つだけでなくいくつか認めてお話を進めることもあります。このとき、いくつか集まった公理をまとめて公理系といったりして「この公理系を採用して進めようと思う」というような使い方をします。
2.定義
「定義(definition)」の定義は「用語の意味をはっきり述べたもの」といった感じで、その言葉と「=」で結ばれる文章、要はルールのようなものです。これはその言葉を使うと決めた人が勝手に作ったものだから、いくつかの命題、証明で同じ言葉が使われていても、定義が異なることは多々ある。
2.の例は、定義(Definition)と呼ばれるものの例です。先ほどから何度か定義が大切といっていましたが、やっとその定義の定義をすることができます。定義の意味としては次のように捉えておきましょう。
議論を進めるために人が勝手に作った取り決めを記した文章
主に使う言葉を取り決めます。使う言葉を取り決めておかなければ各々が違う世界に迷い込んでいってしまいますよね。そうなると内容について会話することが非常に困難になってしまいます。定義について気をつけたいことは「同じ言葉でも本によって定義が異なる場合がある」ということです。
3.定理
「定理(theorem)」とは証明された真の命題のことです。言い換えるなら、公理や証明済みの定理を用いて証明できる、定義された言葉のみで構成された命題。要はルールに則って発見された新たな事実ですね。これが、最後に 3. です。これが、定理(Theorem)と呼ばれるものです。定理の意味とは、
公理から導き出され、定義された言葉のみで構成された正しいことが証明できる文章
のことです。数学の本で"定理"が出てきたときは、正しいことを、公理と今までに証明された定理を用いて証明しましょう。
さて、数学の話はこれくらいにしておきましょう。
03 国語における定義・公理とはなにか
定義については、上述したように、今回は特にないのですが、あえて一つだけ紹介すれば、
定義:現代文の解答とは、課題文に書かれていることから答えを導き出すものである。
でしょうか。まあ、何度も説明していることなので、今更これについては説明しなくてもよいかもしれませんね。
で、さっそく、大切な公理と定理の説明に入っていきましょう。
現代文の記述問題を解くには、根本的な前提である公理を念頭に置かなければなりません。さて、その公理とは、以下のようなものです。
公理 傍線部と問いかけが、解答を100%規定する。
これは、前に国語とは筆者と回答者あるいは、問題作成者と回答者のコミュニケーションであるといったことがあったかと思いますが、記述問題を作る際に問題製作者が最も気を遣うのは、「答えが一つに決まるかどうか」ということです。答えが複数考えられるような問題というのは、あまり良い問題ではないということになりますし、あいまいな問題として出題者側の力量を疑われるものです。そのため、問題作成者は、「答えを一つに決める」ために、「傍線をどこに引くか」という問題と、「どのような形で問いかけるか」という問題の二つを考えなければなりません。したがって、逆にいえば、記述問題は、「傍線部と問いかけの形式」を正確につかめば、答えの方向が一つに決まるようにできていると言い換えることもできるでしょう。
回答者は、傍線部と問いかけが規定する「正しい解答」を、問題作成者に投げ返すことが、ここでの試験という場面に限った一回限りのコミュニケーションの作法であるわけです。とはいえ、これは、あくまでも書き言葉によるコミュニケーションです。フランス現代思想風にいえば、エクリチュールによるコミュニケーションなわけですね。
それなので、普段の会話(パロール、話し言葉)では、意味が分かりにくいところは何度も聞き返したり、確認したり、言い直したりすることができますが、記述問題では、たった一度の解答のチャンスしかありません。しかも、それは一度答えたら修正不能です。したがって、回答者は、相手に疑問が一切残らないように返球していかなければなりません。これは、過不足なく、答えを書くことが求められていることだといえます。回答者が勝手に話を盛ったり、逆に差し引いたりしてはいけないということです(=「何も足さず、何も引かない」)。くどくどだらだら冗長にせず、それでいて肝心かなめなところを逃すことなく、言葉を尽くす。必要かつ十分にして簡潔な説明が求められているわけです。これは、厳しい言い方をすれば、本文を一度も読んだことのない人でも、説明と解答を読んでその内容を100%理解できるような答案を書かなければならないということです。
具体例を挙げてみましょう。次の文章と設問を読んでください。
次の文章を読んで問いに答えよ。
言って聞かせること、ことばで伝えることが理解できるようになることを教育というなら、教育が始まるのは子どもがことばを使い始める2歳くらいということになります。しかし実は、言葉を話し始める前から、子どもは「教育」によって学んでいる、しかもそれは大人の側では「教育」などと思っていない何気ない行動から「教育」されていることをチブラとゲルゲリーは示しました。
まだ1歳の子どもの目の前に、二つの、どちらも子供にとって魅力的な物を、一つは左側、もう一つは右側に置きます。一人目の実験者がその品物の反対側から子どものほうを向いて、はじめに子どもと目と目を合わせてから、そのうちの一方に視線を向けます。すると子どもは先ほどの視線追従をしてそちらのほうを向きます。次に一人目の実験者はそのままその場を去り、しばらくして二人目の実験者がやってきて、その二つの物を両方見比べ、どっちをとうろうかと迷ったふりをします。すると子どもは、第一の実験者が視線を向けたほうを指さして、こっちを選びなよというしぐさをします。
かわいらしいしぐさではありますが、そんなのはあたりまえだろうとも思うかもしれませんね。ここは準備段階です。次に子どもにとって、好き嫌いにちょっと違いのあるものを左右に置きます。たとえばある子どもは赤い物のほうが青い物よりも好きだとしたら、同じ形をした赤い物と青い物を置くわけです。そして第一の実験者は、やはりはじめに子どもと目を合わせてから、子どもがあまり好きではないほうの色、つまりこの場合は青いほうを見ます。さて、やはり第一の実験者は立ち去り、第二の実験者が来て、先と同じようにどちらをとるか迷ったふりをしたとき、子どもはどちらを指さすでしょうか。自分の好きな赤いほうでしょうか、それとも第一の実験者が見つめた青いほうでしょうか。
子供は、自分の好きな赤いほうではなく、第一の実験者が見て視線追従した青いほうをさす割合のほうが多いのです。これが先に示したように、はじめに第一実験者が、子どもと目を合わせることなかう、一人で勝手に子どもの好きでないほうを見て立ち去るようすを見せた場合は、第二の実験者が来たときに子どもが指さすのは、圧倒的に子ども自身が好きな色でした。
これはおそらく、子どもが第一実験者が視線を使ってわざわざ自分に注意を促して見せたもののほうが「選ばれるべきもの」、個人的好みではなく「客観的に価値のあるもの」とみなして、それを第三者に教えようとしているのだと考えられます。自分自身の好みを相手に伝えるのではなく、自分の好みとは別次元の客観的・普遍的価値基準を、この年齢の子どもは大人のふるまいから察し、そしてそれを他者に伝えようとしているのです。このような大人と子どもの自然なやり取りの中で生じている「教育」の機能を、チブラとゲルゲリーは「ナチュラル・ペダゴジー」つまり「自然の教育」と名付けました。
(安藤寿康『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』)
問一 傍線の箇所に「大人の側では『教育』などと思っていない何気ない行動」とあるが、これはどのような行動を指すのか。本文の内容に即して三十字以内で説明せよ。
東北大学2020年
これに対して以下のような回答を作ったとします。
それは、大人の側では教育と思っていない行動であること
これが良い解答ではないということはすぐにわからなければなりません。第一に、これは内容説明問題ですが、内容説明問題を答えるのに、「それ」という一体何を指しているのかわからない指示語を使っているということ。第二に、内容説明を求められているのに、傍線部の言葉である教育を使っていること。第三に、解答が傍線部とほぼトートロジー(同語反復)になっており、凡そ説明していることにはなっていないことです。
さらに、とりわけ、一番大きな問題は、設問と解答を読んだだけでその内容を100%理解できるような答案になっていないということです。本文を読んでいない人に、これが何の話をしているのかさっぱり伝わりません。どのような行動を指すのかと問われているのに、どのような行動なのかが書かれていません。これでは、採点される資格がないゼロ点の答案となってしまいます。言葉のキャッチボールが成立していないわけですね。
04 内容説明問題の定理
さて、今回の問題は内容説明問題であったわけですが、これには定理が二つあります。
それは、
定理一 傍線部を「説明要素」に分節化する。
というと、
定理二 個々の「説明要素」を説明したうえで、わかりやすく一つにつなぐ。
の二つです。内容説明問題で大事なことは、説明しなければならない要素を見極めることです。その要素が幾つあるのか、一つなのか二つなのか、それともそれ以上に沢山あるのかは、前もってはわかりません。個々の傍線部のそれぞれについて、その場で判断する必要があるわけです。この作業をきちんと経ていない答案は、焦点が定まらないぼやけた解答になってしまいます。
分節化というと、難しく聞こえてしまいますが、ようは「部分ごとに分けること」です。つまり、傍線部を意味のかたまり(=説明要素)で区切っていくということです。設問の例でいえば、下記のようになります。説明要素ごとにスラッシュで区切っていくとこうなるでしょう。
「大人の側では/『教育』などと思っていない/何気ない行動」
この傍線部は三つの説明要素に分けることができるということですね。そして、このように分節化した後は、第二の定理「個々の『説明要素』を説明したうえで、わかりやすく一つにつなぐ」ことが必要になってきます。
分節化した説明要素をもれなく説明し、最終的に一つにつなげれば、解答が出来上がるというわけです。ただ、傍線部を意味(説明要素)で区切っただけで、それを翻訳していけばよいだけではないことには注意しましょう。というのも、ある文章が、Aという説明要素とBという説明要素を逆説の関係でつないでいるのに、Aの説明とBの説明を並列的に並べても傍線部の意味を説明したことにはなりません。
また、「わかりやすく」といくのは、先に公理で述べたように、設問と解答だけを読んで意味が100%にわかるような答案を書くことであり、それは本文を読んだことがない人にも伝わるように、過不足なく必要と思われる要素は補足しなければなりません。たとえば、傍線部が述部であったら、主語(主部)は何か、他動詞なら目的語は何か、ということを明らかにしなければならず、また、ある要素と別の要素がなぜつながるかわからないときは、理由や因果関係を明示する必要があります。ここまでできて初めて、内容説明問題の解答が完成するのです。
上の例題を使って説明すると、
(1)大人の側では、というのは、大人が子どもと(大人の側から関係すること)を意味し→A
(2)『教育』などと思っていない、というのは、自然なやり取りの中でを意味し→B
(3)何気ない行動とは、Bの中で示す視線やふるまいのことを意味しています。→C
このA、B、Cを結びつけ一つの文章に直すと、「大人が子供と自然なやり取りの中で示す視線やふるまい」のことが解答になるわけです。こうなると、言葉のキャッチボールが成立しています。「大人の側では『教育』などと思っていない何気ない行動」とはどのような行動を指すのか、と問われ、「大人が子どもと自然なやり取りの中で示す視線や身のふるまい」であると答えている。これが伝わる解答、つまり点の取れる解答であるわけですね。
現代文の記述問題の解き方(4)
現代文の記述問題の解き方(5)
現代文への偏見
現代文の記述問題の解き方(1)
現代文の記述問題の解き方(2)
現代文の記述問題の解き方(3)
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |