私大や国公立前期試験で8割取るための世界史~大学受験・高校受験・中学受験にも役立つ(12)
第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
2 東ヨーロッパ世界の成立
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ビザンツ帝国の繁栄と衰亡
西ヨーロッパがカール大帝のころにようやく一つの世界として自立する一方,東ヨーロッパではビザンツ(東ローマ)帝国がローマ帝国のもう一つの継承者として高い権威を保っていた。西ヨーロッパでは皇帝と教皇という二つの権力がならびたっていたのに対して,ビザンツ皇帝は政治と宗教両面における最高の権力者として専制支配を維持した。
6世紀に即位したユスティニアヌス大帝は,ゲルマン人の王国がたてられていた北アフリカやイタリアを征服し,一時的ながら地中海のほぼ全域にローマ帝国を復活させた。内政においては『ローマ法大全』の編集やハギア=ソフィア聖堂の建立などの事業に力をそそぎ,また中国から養蚕技術をとりいれ,絹織物産業の基礎をきずいた。
しかし大帝の死後,ササン朝やイスラーム勢力の進出,さらにスラヴ人やブルガール人の侵入などをうけて,ビザンツ帝国の領土は縮小していった。7世紀以降,この危機に対処するために統治機構を改め,軍管区制(テマ制)①が導入された。その後,聖像禁止令を出したレオン3世によりたてなおしがはかられ,9世紀から11世紀にかけて一時平和と繁栄をとりもどしたが,11世紀後半にはセルジューク朝の侵入,13世紀前半には第4回十字軍に首都がうばわれるなどの混乱が続き,ついに1453年オスマン帝国にほろぼされた。
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ビザンツ帝国の社会と文化
ビザンツ帝国はゲルマン人の大移動による影響が少なく,古代以来の商業活動はさかんで,貨幣経済も衰退することはなかった。帝国でもちいられた金貨②は,ヨーロッパから西アジアにいたる広い地域で流通し,首都コンスタンティノープル(旧名ビザンティウム)③は,アジアとヨーロッパを結ぶ貿易都市として栄えた。
社会制度では,軍管区制がしかれた時期をのぞいて,農奴を使って経営する大土地所有制がおこなわれていた。しかし11世紀末以降,ビザンツ皇帝は軍役奉仕と引きかえに貴族に領地をあたえるようになり,じょじょに西欧と同じく社会の封建化がすすんでいった。
ビザンツ帝国では7世紀以降公用語はギリシア語がもちいられ,ギリシア正教の強い影響のもと,ギリシアの古典文化をうけついだ独自の文化がうまれた。キリスト教神学やローマ法などがさかんに研究され,ドーム(円屋根)とモザイク壁画を特色とするビザンツ様式の教会がたてられた。聖像禁止令が解除された後にさかんにつくられるようになったイコン美術も,特徴的な装飾芸術である。
ビザンツ文化は,多くのスラヴ人をその文化圏のなかにとりこみ,古代ギリシアの文化遺産をうけついで,イスラーム世界やイタリア=ルネサンスに大きな影響をあたえた。
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スラヴ人の拡大と東ヨーロッパ
カルパティア山脈の北方に住んでいたスラヴ人は,6世紀以降東ヨーロッパ全体に急速に広がった。そのなかで東スラヴ・南スラヴの諸民族の多くはビザンツ文化とギリシア正教,西スラヴ人は西欧文化とローマ=カトリックの影響をうけつつ,自立と建国の道をあゆんでいった。
東スラヴ人(ロシア人・ウクライナ人など)が住むロシアでは,ノルマン人のたてた国々が,先住民と同化してスラヴ化した。そのなかでビザンツ帝国との交流を深めていたキエフ公国は,10世紀末にウラディミル1世がギリシア正教を国教化するなど,ロシアのビザンツ化をすすめた。しかし13世紀にモンゴル人の侵入をうけ,これ以降ロシア諸侯は約240年間その支配に服した④。
15世紀になると水陸の交易路をおさえたモスクワ大公国が発展した。大公イヴァン3世のときに東北ロシアを統一し,1480年にはモンゴル人の支配から脱した。彼は農奴を土地にしばりつけて農奴制を強化するとともに,最後のビザンツ皇帝の姪と結婚し,はじめてツァーリ(皇帝)の称号⑤をもちいた。モスクワはギリシア正教圏の中心の地位を確立し,その孫イヴァン4世によるロシア帝国発展の基礎がつくられた。
一方,バルカン半島に南下した南スラヴ人のなかで最大勢力であったセルビア人は,ビサンツ帝国に服属しギリシア正教に改宗したが,12世紀には独立し,バルカン半島北部を支配する強国に発展した。これに対し,同じ南スラヴ人のクロアティア人・スロヴェニア人は,西方のフランク王国の影響でローマ=カトリックをうけいれた。14世紀末以降,南スラヴ人の大半はオスマン帝国の支配下にはいり,イスラーム教に改宗するものもいた。
西スラヴ人(ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人)は西ヨーロッパの影響をうけてローマ=カトリックに改宗し,ラテン文化圏にはいった。ポーランド人は10世紀ころ建国し,14世紀にその北にいたバルト語系のリトアニアと合体してヤゲウォ(ヤゲロー)朝リトアニア=ポーランド王国をつくった。ここでは貴族による議会が発達し,文芸を保護して東欧の強国として繁栄した。チェック人は10世紀にベーメン(ボヘミア)王国を統一したが,ドイツとの関係が深く,11世紀には神聖ローマ帝国に組み入れられた。
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隣接諸民族の活動
これらスラヴ諸民族と関係をもちながら,東ヨーロッパに侵入したアジア系の遊牧民も自立の道をあゆんだ。ブルガール人は7世紀にバルカン半島北部で建国し,スラヴ化してギリシア正教に改宗した。その後ビザンツ帝国による支配,独立をくりかえしたが,14世紀にオスマン帝国に併合された。一方マジャール人はドナウ川中流のパンノニア平原に移動し,10世紀末ハンガリー王国を建国してローマ=カトリックをうけいれた。王国は15世紀にもっとも繁栄したが,やはり16世紀にはオスマン帝国に国土の大半を占領され,17世紀末以降はハプスブルク家の支配下にはいった。
①帝国をいくつかの軍管区にわけ,司令官に軍事と行政の権限をあたえる制度。
②ソリドゥス金貨とよばれる。ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がつくらせた品質の高い金貨で,アメリカ通貨ドルの略号$はこの金貨に由来する。
③現在はイスタンブルとよばれ,トルコ共和国の最大都市である。
④ロシアではこのキプチャク=ハン国による支配を,「タタール(モンゴル人)のくびき」とよんだ。
⑤ローマ皇帝の称号であった「カエサル」のロシア語の形。のち,イヴァン4世のときに正式の称号となった。
【人物コラム】
▼ユスティニアヌス大帝 482ころ~565
政治家・建築家・法律家として活躍した皇帝を常に支えたのは,皇后のテオドラであった。勝利を意味する「ニカ」という言葉をスローガンとする大規模な反乱がおきたさい,逃亡をはかった皇帝は「皇帝なら皇帝の衣装をまとって死ぬべき」と皇后に叱咤され,ついに鎮定に成功した。
【地図・図版】
▼6世紀なかばのビザンツ帝国の領土
ユスティニアヌス大帝の時代に地中海帝国が復興した。
▼14世紀なかば~15世紀の東ヨーロッパ
リトアニア=ポーランド王国は,現在のウクライナをふくむ広大な領域を支配した。
▼ハギア=ソフィア聖堂とその内部
巨大なドームをもつビザンツ様式の代表的聖堂(トルコ,イスタンブル)。
▼聖母子のイコン
イコンとは,板絵やモザイクなどであらわされたイエスや聖母などの聖像画。この絵画はコンスタンティノープル教会からキエフ大公におくられたとされる「ウラディミルの聖母」。
▼ギリシア正教の修道院(ギリシア,メテオラ修道院)
「孤独にくらす人」を語源とする修道士の瞑想の場にふさわしい景観。
▼キエフのハギア=ソフィア聖堂
キエフ大公により11世紀なかばに創建された。
▼プラハの町並とカレル橋
ベーメン王国の都であったプラハは,ブルタバ川(モルダウ川)が市内を流れ,「百塔の街」とよばれた。
▼ハンガリーの騎馬群像
マジャール人をパンノニア平原にみちびいた7人の部族長があらわされている。ブダペスト。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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