第一講 人間とは何か?
01 人間性の特質と人間の心理
まず、最初に、倫理の教科書の冒頭に載っている「人間とは何か?」というテーマを学んでいきましょう。しかし、「人間とは何か?」というのは、かなり大上段なテーマで、この問いに答え続けているのが哲学の歩みであり、その理解の仕方は日々刷新され、歴史上もどれが正解というような統一的見解はありません。定まった答えなどないので、歴史上もっとも有名な「人間とは何か?」の問いに答えているパスカルの言葉をまず冒頭で紹介しましょう。ちなみに、これは教科書では載っていないので、試験対策という意味ではあまり役に立たないので、教養として心にとどめておくことにしましょう。
人間は一本の葦(あし)に過ぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すのには十分だ。しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。宇宙はそんなことは何も知らない。
こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。
パスカル『パンセ』
「人間は考える葦である」というゆう有名なキャッチフレーズと共に知られる箇所ですね。そして、この考えることのうちに、人間の尊厳があり、よく考えるように努めること、そこに道徳の原理がある、というのは、倫理を学ぶスタートに相応しい言葉ではないでしょうか。
02 代表的な「人間とは何か?」への回答例
「人間とは何か?」の回答に正解はないと言いました。しかし、正解はないので、なんともいえませんね、では、学びようがありません。もちろん、パスカルが言ったように「よく考えるように努める」ことは大切ですが、何の足場もないまま徒に空想に耽っても得るものがないばかりか、非常に自己満足的な見解に陥ってしまう危険があります。そこで、歴史を紐解き、先人たちの智惠に耳を傾けてみましょう。
そこで、歴史の中で考えられてきた「人間とは何か?」の回答として、代表的な定義を倫理の教科書で載っているものを中心に幾つか紹介していきましょう。
(1)ポリス的動物
これは、紀元前4C頃のギリシアの哲学者アリストテレスの定義です。アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」としてその著『政治学』で規定しています。人間は一人で生きているのではなく、「両親や子どもや妻、一般に親しい人たちや市民とともに生を送っている」からであり「人間はその自然本性において国家(ポリス)を形成する」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)で説明されています。こうした人間観は、日本の哲学者でいえば和辻哲郎が、人間とは「ジンカン」であり、「間柄」としての存在であると指摘していることにも似ていますね。
「よ」とは人生であり、世界であり、人間社会であり、歴史的に変遷するものである。
「なか」は空間的にも意味の上でも中、内、を意味すると共に、inという言葉の有せざる意味、即ち「交り」「なからひ」「間柄」を意味する。
「男女のなか」「なかが悪い」等。即ち人と人との間に中間があるといふことは、人の孤立を意味せずして、両者の交渉関係を意味する。
そこで「世の中」とは、世のなか、うちといふのみではなく、「世に於ける人と人とのなか」を意味する。だから、「世をまだ知らず」といふのが恋を意味する如く、「世の中をまだ思ひ知らぬ」といふ用法もある。言海(注:昔の国語辞典)は、「世上の時勢人情などの総称」と註してゐる。仏語の「世間」「人間」と同義であり、この「間」がなかに当るのである。複雑なる交渉関係に於てある人生の社会的歴史的なDasein(注:ドイツの哲学者ハイデガーの用語で、人間を意味している単語、通常「現存在」と訳される)が「世の中」である。
「人間」といふ言葉は本来この「よのなか」を意味するのであつて、孤立した個々の人を意味するのでない。文字通り「ジンカン」である。「人のあひだ」である。
和辻哲郎『和辻哲郎全集別巻2』
もっとも有名な和辻の『人間の学としての倫理学』で少し難しい表現ですが、下記のように記されています。高校生や中学生が読んでも「さっぱりわからん」ということになりかねそうですが、原著に触れておきましょう。そして、今は分からなくても、大学に入ってから、一体どういう文脈、どういう考えでこのようなことを言っているのか考えてみましょう。
しからば人間存在の学は人間存在をすべて観念的なるものの地盤たるとともにまた自然的なる有の地盤たるものとして把捉しなくてはならない。かくのごとき存在において人間は、個として現れつつ全体を実現する。その個は主体的存在から抽離することによって肉体となり得るような、従って肉体に対する主観的自我となり得るような個であり、その全体はかくのごとき個の共同態として、その主体的存在から抽離するときに、客観的な形成物としての社会となり、従ってまた主観的自我の間の相互作用となり得るような全体である。が、主体的存在としてはそれはあくまでも実践的行為であって、いまだ有でもなければ意識でもない。このような存在は、個であることを通じて全となるという運動においてまさに存在なのであり、従ってかかる運動の生起する地盤は絶対空である。すなわち絶対的否定である。絶対的否定が己れを否定して個となりさらに個を否定して全体に還るという運動そのものが、人間の主体的な存在なのである。ところで一切の人間共同態を可能ならしめているものは、まさにこの運動に他ならない。それは一般に間柄を作るためのふるまい方として、行為連関そのものを貫いている。それがまさに倫理である。だから人間存在のなかにはすでに倫理があり、人間共同態の中にはすでに倫理が実現せられている。
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』
なんだかアリストテレスより和辻哲郎の話になってしまった感もありますが、そういう脱線が本記事らしさだと思うので、この調子でいきましょう。
(2)ホモ・サピエンス
では、次に代表的な人間観ですが、それは、スウェーデンの植物学者リンネの「ホモ・サピエンス」という定義です。この言葉は、先のアリストテレスの定義より有名ですね。というか、人間の定義として歴史上一番有名ではないでしょうか。リンネというのは、これまでに知られていた動植物についての情報を整理して分類表を作り、その著作『自然の体系』(Systema Naturae、1735年)において、生物分類を体系化し、それぞれの種の特徴を記述し、類似する生物との相違点を記したことにより、近代的分類学を創始した分類学の父です。リンネは、主著『自然の体系』で、人間に対して与えた学名が、「ホモ・サピエンス(Homo sapiens, 英知人)」でした。Homo は名詞「人」、sapiens は形容詞「知恵のある」の意であり、日本語では「知恵ある人」「叡知人」とも訳されます。
(3)ホモ・ファベル
次に取り上げるのが、フランスの哲学者ベルクソンの定義です。それは、「ホモ=ファーベル」というものでした。
人類を規定するのに、歴史時代および先史時代を通じて人間と知性の不変の特徴とみなされるものにのみ厳密に限るならば、おそらくわれわれは、ホモ・サピエンス(知性人)と言わないで、ホモ・ファベル(工作人)と言うことであろう。要するに、知性とは、その根原的な歩みと思われる点から考察するならば、人為的なものをつくる能力、とくに道具をつくるための道具をつくる能力であり、またかかる製作を無限に変化させる能力である。
ベルクソン『創造的進化』
と記されています。日本語では「工作人」と訳されますが、要するに「道具を作る」のが「人間」だということですね。もちろん、人間以外だって道具を作るじゃないか、という指摘もあるでしょう。実際、近年の動物行動学では、チンパンジーやゴリラ、オラウータンなどが、蟻の巣から蟻の子を、蜂の巣から蜂蜜を木の枝を「道具」にして上手に採取することや二枚の石を使って固い木の実を器用に割って食べている情景を報告しています。
ベルクソンも、動物の中にも一種の道具を製作する事例があることに言及していますが、彼はその創造的進化論において、動物の制作活動と人間の創造活動を質的に隔てる決定的境界線として、①自己形成の創造活動、②自己の創造活動の反省、③創造活動における他者との協調、などを述べています。人間は他の動物とは異なり、自身が他者からどう見られるかを常に意識しており、それぞれの民族の文化に随って自身の身体を隠し、自らが理想とする姿のイメージに近づくように衣服の素材や模様や色彩などを選択する、その点において、人間と動物は決定的に異なるというわけです。
(4)ホモ・ルーデンス
4つ目に倫理の教科書で取り上げられているのは、オランダの歴史家ホイジンガの「人間はホモ・ルーデンス(遊戯人)」であるという定義です。ホイジンガの議論をその著『ホモルーデンス』からかいつまんでみましょう。まず、人間の文化は遊びの中で発達してきたと指摘しています。
人間文化は遊びのなかにおいて、遊びとして発生し、展開してきた。(中略)(中略)
ホイジンガ『ホモルーデンス』
この「遊び」という概念が重要で、「遊び」という概念には、「食べ物を取るため」だとか「獲物を仕留めるため」という「~のため」という道具的理性を超えるものがあるというのです。
遊びのなかでは、生活維持のための直接的な必要をこえて、生活行為にある意味を添えるものが『作用し』ているのである。
ホイジンガ『ホモルーデンス』
このように、遊びというのは、
遊びは、ものを表現するという理想、共同生活をするという理想を満足させるものである。それは、食物摂取、交合、自己保存という純生物学的過程よりも高い領域のなかにある。
ホイジンガ『ホモルーデンス』
のであり、生物学的な目的以上に高次元のもの、つまり、
人間の遊びは、すべてそこに何かの意味があったり、何かのお祭になっていたりするやや高級な形式に属している。それは祝祭、祭祀の領域──聖なる領域──に属している。
ホイジンガ『ホモルーデンス』
わけです。読者の高校生、中学生の諸君以上に小学生の子どもにこそ理解して貰えそうな定義ですよね。子どもが、何か遊ぶときに、「~ため」という目的はないのではないでしょうか。
もちろん、年を経てくると、だんだんと「時間を潰すため」であったり、「ストレス解消のため」であったり、何かのために「遊ぶ」ということになってきがちではあります。「大人の休日倶楽部」というJR東日本のサービスがありますが、こうなってくると、もはや労働の再生産のための最低限の余暇、としかいえないものになってくるかもしれません。フーコーの『性の歴史Ⅰ 知への意志』から言葉を借りれば「労働力に自らの再生産を許す、最小限に留められた快楽」(フーコー、前掲書)というのは、「働いて」あるいは「勉強して」疲れたので、また再び「働いたり」「勉強したり」するための体力や気力を養うためのい「余暇」「遊び」というわけですね。何故か、フランス現代思想にまで話が進んでいますが、「息抜き」「労働あるいは勉学のための休暇、遊び」というのは、もはやもともとの意味から逸脱しているのではないか、というわけです。こうした指摘は、現代思想の源流であるマルクスによっていち早く指摘されています。
真実の経済〔die wirlliche Ökonomie〕―節約〔Ersparung〕―は労働時間の節約(生産費用の最小限と最小限の縮減))にある。だが、この節約は生産力の発展と一致している。だからそれは、享受を断念することでは決してなく、生産のための力〔power〕、能力を発展させること、だからまた享受の能力をもその手段をも発展させることである。享受の能力は享受のための条件、したがって享受の第1の手段であり、またこの能力は個人の素質〔Anlage〕の発展であり、生産力である。労働時間の節約は、自由な時間の増大、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの発展はそれ自身がこれまた最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本の生産とみなすことが出来る。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。……労働は、フリエが望んでいるのとは違って、遊びとはなりえないが、そのフリエが、分配ではなくて生産様式それ自体をより高度の形態のなかに止揚することこそ究極の目的だ、と明言したことは、どこまでも彼の偉大な功績である。余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある、自由な時間は、もちろんその持ち手を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであって、それからは彼の直接的生産過程にも、このような新たな主体として入っていくのである。この直接的生産過程こそ、成長中の人間については訓育(Disciplin)であると同時に、成長した人間については、練磨(Ausübung)であり、実験科学であり、物質的には創造的で、かつ自己を対象化する科学であって、この成長した人間の頭脳のなかに、社会の蓄積された知識が存在するのである。この両者にとって、労働が農業でのように実際に手を下すこと〔praktisches Handanlegen〕と自由な運動を必要とするかぎりでは、労働は同時に体育〔exercise〕でもある。
マルクス『経済学批判要項』
また、明らかに倫理のテストとは関係の無い話をしましたが、お父さんお母さんが「あー休みが欲しいよ」とつぶやいたとき、さりげなくこう聞いてみましょう。「その休みって何のために欲しいの?」と。
(5)ホモ・シンボリクス
そして、教科書的に最後に紹介されているのが、人間とは「ホモ・シンボリクス」であるといいう、ドイツの哲学者カッシーラーの定義でしょう。これは、人間とは言語などの象徴を介して世界を抽象的に理解する存在であるという考え方ですね。
動物は実際的想像および知性をもっているのに対し、人間のみが新しい形式のもの―シンボル的想像およびシンボル的知性―を発展させたということができる。(中略)シンボリズムがないならば、人間の生活は、プラトンの有名な比喩における洞窟中の囚人の如くであろう。人間の生活は生物学的必要と実験的関心の枠のうちに限定されるであろう。そして、宗教、芸術、哲学、科学により、各方面から人間にひらかれている「理想界」への道路を見出し得ないであろう。
カッシーラ『人間』
というわけです。象徴(シンボル)によって生きるということこそ、人間の人間たる由縁であり、それこそが人間の社会と文化とを未来に向かって開いていく希望なのだ、という風にカッシーラーは考えるわけです。しかし、シンボルとは何か。このシンボルについて深く考え進めた哲学者が、アメリカの哲学者ランガーです。彼はシンボルについてこう説明しています。
どんなに狭い範囲での言語であるにせよ、またどんなに原始的な言語であるにせよ、ともかくも真の言語の光に照らされてこそ、真の思考が可能になる。彼女(ヘレン・ケラー)の場合、w-a-t-e-rという語が必ずしも水が要るとか、水を持ってきて欲しいというサインではなく、この物質のことを述べたり、考えたり、思い出しうるための名前であるということを発見して、はじめて真の思考が可能となったのである。(中略)普通のサインの機能には、三個の必要欠くべからざる項、すなわち、主観、サインおよび表象がある。最もありふれた種類のシンボル機能である表示作用は、四個の項、すなわち、主観、シンボル、表象および対象を必要とする。…表示作用とは、名前がこの名前をもつ対象に対してもっている複雑な関係である。しかし、名前またはシンボルと、これと連合した表象とのいっそう直接的な関係をどのように呼んだらよいであろうか。それは伝統的な名前である含蓄作用(connotation)と言う語で呼ぶことにする。語の含蓄(内包)とは、その語が運ぶ表象である。語の表示する対象が存在もせず、期待もされない場合でも、語の含蓄(内包)がシンボルに残っているために、われわれは対象に対して全然あからさまに反応することなく、その対象について考えることができるのである。
ランガー『シンボルの哲学』
つまり、シンボルには、語の含蓄=語の運ぶ表象がある。これがシンボルに残っているから、対象が存在しないような時や物事についても考えることができると、そうランガーは考えるわけですね。
とまあ、一口に人間とは何か、といっても様々な見方があるわけですね。ここで挙げたのは、あくまでも代表例であって、その他にも百人百様の定義がされています。比較的有名なものとして、ホモ・レリギオースス(宗教人)、ホモ・エコノミクス(経済人)、ホモ・ロークエンス)(言葉を操る人)、裸の猿、などがあります。
大分話が長くなりましたが、この説明、教科書や参考書などで、大体一ページくらいでまとめられています。「え!?」と思わないでください。教科書というのはそういうものです。そこで、最後に、試験のためにまとめておきましょう。
03 人間とは何か?
人間性の特質
ポリス的動物ーアリストテレス
ホモ・サピエンスーリンネ
ホモ・ファベルーベルクソン
ホモ・ルーデンスーホイジンガ
ホモ・シンボリクスーカッシーラー
はい、六行でまとめられましたね。共通テスト対策としてはこれでOKです。
また、こうした倫理の知識は、たとえば慶應大学の小論文対策や総合選抜型入試の対策にも使えます。その例として、慶應義塾大学の法学部の過去問を使って解説している次の記事もご覧くださいませ。
⇒高校の公共を通して英検、国語、小論文の基礎知識を蓄える(1)
【おまけ】
末尾に、哲学の始まりのイオニア自然哲学の紹介もしておきます。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |