『走れメロス』とカントの倫理学の核心ダイジェスト版

メロドラマあるいはヒロイズムとしての『走れメロス』

『走れメロス』は太宰治の作品の中でも国語の教科書に採用されるなど非常に有名な作品であるが、どうも一般的には安っぽいメロドラマ、あるいは偽善的で浅はかなヒロイズムのように受け取られることが多い。「メロスが約束を守る物語」として読めることはもちろん、メロス以外の人物 に注目して、「ディオニスが改心する物語」、「 セリヌンティウスが待ち続ける物語」など物語世界を重層的に捉えることはできるが、この物語は最終的には「友情」「信頼」「愛と誠実さ」といった主題にまとめられてしまうのが、教科書的な読み方だろう。いわゆる道徳教育の一環として利用されてしまうだけの陳腐な物語にされてしまうわけだ。

確かに、それは一面で、読者に対して感動を与える一方、何か道徳のお題目を唱えているだけの教条的な作品と受け止められているのではないだろうか。しかし、一部の読者の中には、この物語に若干の違和感を覚える方もいるだろう。なぜメロスは走るのだろうか。「私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。」とまで言い切るのだろうか。殺されるために走る、というのはもはや尋常ではないだろう。ここには、一般の世間的な道徳観念や単なるヒロイズム以上の何かが隠されているであろうという違和感を覚えずにはいられないのである。そこで、この違和感にカント倫理学を通して一つの解決を提案していきたいと思われる。

『走れメロス』にひそむ違和感とカント倫理学

この「走れメロス」は確かに間違いなく道徳的な行いを描いている話であろうが、倫理学では「本当に道徳的な行為は実在するのか(Whay be moral?)」という問題がある。実は、カントにとって、この問いへの確実な解答は不可能である。

「純粋な義務に基づいて行為するという心構えが存在することを確実に示す実例をあげることができないという訴えであるとか、多くの行為が実際に義務が命じていることに適っているとしても、それがそもそも義務に基づいて行われたものかどうか、すなわち道徳的な価値があるものかどうかは、つねに疑問が残る」(『道徳形而上学の基礎付け』)

このようにカントは道徳的な行為が実在するのかについて懐疑的である。そして、それは懐疑的であるばかりか、不可視であるとさえ断言する。

「実際に、義務に適っているようにみえる行動原理が、道徳的な根拠だけによって、そして義務の観念だけに基づいているという事例を、経験によってただの一つでも完全に証明するのは、まったく不可能である。」

というのも、カントの人間観は実に怜悧でもある。

「義務という理念はたんに表向きのものであって、自己愛がひそかな原動力となっていなかったと、確実に結論することはできないものである。この自己愛こそが、意志をもともと規定していた原因であるのに、自分を偽ってもっと高尚な動因を考え出して、自分を甘やかしたがるのである。(中略)どれほど厳しく吟味したところで、ひそかな動機の背後にあるものを完全に明らかにすることはできない。というのも、道徳的な価値が問われるとき重要なのは、人々の目に見える行為そのものではなく、人々には見えない行為の内的な原理だからである。」

つまり、カントはどのように道徳的な行為、それがたとえば身を挺して赤の他人を助けるというような大きな自己犠牲であっても、それは単に「その人を助ければお礼が貰えるだろう」だとか「ここでいいところを見せておけば周囲から賞賛されるだろう」というような自己愛が潜んでいるかもしれないと指摘しているわけだ。人は他人の心を読み取るような、たとえばSF小説などに出てくるテレパシーのようなことができない以上、そしてそれを前提にすることができない以上、最終的に一体その人がどのような動機でその行ったのかは知りようがないからだ。

このことについてもっと分かりやすく、カントは正直な商人の例を挙げて、この問題をもう少し具体的に説明している。

「たとえば商人が買い物に慣れていない客に、高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務に適った行為である。売買がさかんに行われているところでは、たとえ抜け目のない商人でも、高い値段で商品を売りつけたりせず、すべての人に定価で販売するものである。そして子供でも他のすべての人と同じように、この商人の店で安心して買い物ができるのである。」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

このように正直の振る舞う商人は顧客に安心をさせる。しかし、これが果たして道徳的な行為なのかが問題だ。というのも、正直に振る舞うのは、一見損に見えるときがあっても、常に正直に振る舞うことで、最終的には周囲(顧客)から信頼を得てお金が儲かるようになることを目指しているわけで、ここには損得の話しか問題になっていないということだ。ぼったくりをする、嘘をつくという商人は、最初は儲けることができるかもしれないが、それは決して長続きはしないであろう。ここでカントが問題にしているのは、営利目的で正直に振る舞っている商人が、果たして道徳的に善いといわれるのかどうか、という問題を提起しているのだ。

ここまで説明を聞いて、「この商人は道徳的に正しい」という人はあまりいないのではないだろいうか。実際カントは、この商人は道徳的に善いわけではない、と答える。確かに、この商人は、道徳的にみて正直であるという善さを備えているように見える。嘘つき騙したりせずに正直に商売をすることは社会慣習上当然良いことではある。しかし、カントはそれだけでは道徳的に善いとはいえないというのだ。それは、その動機が不純であると、カントは考えるのである。つまり、この正直者の商人は確かに道徳的にみて正しいことを結果的に行っているように見えるが、その目的・動機が「商売で儲けたい」という点にあることが問題なのである。商人は儲けたいという利己的な動機の下、結果的に正直に振る舞っているかも知れないが、それは道徳の問題ではなくて、いうなれば商売の秘訣のようなものに過ぎず、決してこれは道徳的に評価できるものではないとカントは考えるわけだ。実際カントはこういっている。

「客は商人から誠実な扱いをうけるわけである。しかしだからといって、この商人が義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをしたとはとうてい考えることができない。商人がこのような義務に適ったふるまいをしたのは、自分の利益を重んじたからである。(中略)商人の行為は義務からでも、直接の心の傾きからでもなく、利己的な意図だけから行われたものだと考えることができる」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

とはいえ、ここで一つの疑問が生じるだろう。何故、目的・動機が道徳的な判断の基準になるのだろうか、という疑問である。一般に道徳について考える際には三つのアプローチがある。それは、(1)功利主義(2)義務論(3)徳倫理学の三つである。それぞれ詳細に説明していくことはできないが、ここで簡単にまとめてみよう。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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