功利主義とは?

まず、功利主義における考え方は、ジェレミー・ベンサムに端を発する極めて現代人にとっても理解しやすい考え方だ。「最大多数の最大幸福」(ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』)という言葉が倫理や道徳、世界史の教科書に載っていたのを覚えている方もいるかもしれません。ベンサムによれば、正しい行いとは、「効用(utility)」を最大にするものである。効用によって、ベンサムは快楽や幸福を生むすべてのもの、苦痛や苦難を防ぐすべてのものを表した。

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、(中略)すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。(中略)社会の利益という言葉が意味を持つのは次のような場合である。社会とはいわばその成員を構成すると考えられる個々の人々から形成される、擬制的な団体である。それでは、社会の利益とは何であろうか。それは社会を構成している個々の成員の利益の総計に他ならない。」((ベンサム『道徳と立法の諸原理序説』)

この文でも明白なように彼はイギリスの道徳哲学者であり、法制改革者であった。彼は功利主義の原理を確立し、簡潔に直観に訴えかけてくる明確な思想を築きあげた。功利主義とは端的にいうと、それぞれ公平に重みづけされた一人ひとりの利益・幸福を足し合わせた、全体の総量としての「みんな(関係者全員)の利益・幸福」すなわち「効用(功利性、公益)」を最大にすることを目指す立場のことで、それは道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することであった。

ベンサムがこの原理に到達したのは次のような論法だった。我々は快や苦の感覚に支配されている(感覚的人間)。この二つの感覚は我々の君主なのだ(アリストテレスを彷彿させるところもありますね)。それは我々のあらゆる行為を支配し、さらにわれわれが行うべきことを決定する。善悪の基準は「この君主の玉座に結び付けられている」と考える。誰もが快楽を好み、苦痛を嫌いものであろう。たとえ、痛いのが好きなマゾヒズムの方でも一般の人が苦痛に感じる行為が快楽なので、状況は変わらない。功利主義哲学はこの事実を認め、それを道徳生活と政治生活の基本に据えた訳である。効用の最大化は、個人だけではなく、立法者の原理でもあります。どんな政策を制定するかを決めるにあたり、政府は共同体全体の幸福を最大にするため、あらゆる手段をとるべきであり、コミュニティとは結局、ベンサムによればそれを構成する個人の総和からなる「架空の集団」だと喝破する。したがって、市民や立法者は、この政策の利益のすべてを足し合わせ、すべてのコストを差し引いたとき、この政策は他の制作より多くの幸福を生むだろうか、と考えなければならない。

このように効用を最大化すべきだという原理を支持するベンサムの議論は、実に豪胆なもので、効用最大化を拒否する根拠は一切あり得ないとまで彼は断言する。あらゆる道徳的議論は、暗黙の裡に幸福の最大化という考え方に依存せざるを得ず、人々はある種の絶対的で無条件な義務や権利を信じているというわけだ。だが、こうした義務や権利を尊重することが、少なくとも長期的には幸福を最大化すると信じない限り、人々がそうした義務や権利を擁護する根拠はない。ベンサムはこうも書いています。「ある人の効用が原理に戦いを挑もうとするとき、その人は気付かないうちに戦おうとする原理そのものから戦う理由を導き出しているのだ」。道徳についてのあらゆる論争は、正しく理解すれば、快楽の最大化と苦痛の最小化という功利主義原理の適用方法をめぐる対立であり、原理そのものをめぐる対立ではないという主張だ。「人間は地球を動かせるだろうか」とベンサムは問い、「動かせる。だがはじめに足場にする別の地球を見つけなければならない」と答えた。ベンサムにとって道徳をめぐる議論の唯一の足場、唯一の前提、唯一の出発点は効用の原理なのだ。

このようにベンサムに始まる功利主義の立場から道徳を考えると、動機はさして重要ではない。大事なのは人々を最大限幸福にするかどうかであり、その行為によって、何らかの効用(メリット・利点・得・利益)が得られればそれは道徳的に善いとされるわけである。この感覚は現代人にとっても大変理解しやすい考え方だろう。

少し抽象的な話が続いてしまったので、イギリスの哲学者フィリッパ・ルース・フットが1967年に発表した倫理学の思考実験で有名な「トロッコ問題」をサンデルのリメイクしたバージョンに沿った上で例に功利主義の考え方を深く掘り下げてみよう。

まず、あなたが路面電車の運転士で、時速約100㎞で電車を走らせているとする。しかし、ふと前方をみると、五人の作業員が工具を手にして線路のメンテナンスをしながら線路上に立っていた。電車を止めようとするが、ブレーキが故障して効かない。五人の作業員をこのまま撥ねてしまえば確実に全員は死んでしまう。ふと右側へ目をやるとメインの線路を外れる待避線があることに気付いた。しかし、残念ながらそこにも作業員はいたのだ。だが、それは一人だけであった。仮に、今あなたが路面電車を待避線に切り替えれば、一人の作業員は死んでしまうが、五人は助けられることに気付くわけになる。

さて、この時どうすれば良いであろうか?ほとんどの人がこういうのではないだろうか。「待避線に入れ。何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはまし」だと。これは手塚治虫の漫画『どろろ』にも出てくるような話でもあります。漫画やアニメ、映画をみた方がいらっしゃるかもしれませんが、主人公の百鬼丸は、父親に加賀の国を救うために、息子である百鬼丸が鬼神にその肉体の48か所を譲り渡すという約束で加賀の国の平和と繁栄を取引したのですが、このとき父親が言うのは「お前(百鬼丸)一人の命とこの国全体の人間たちの命を比較すれば当然後者を大切にするのは当たり前だろう。」と。

このようにいわれて反論できる人はなかなかいないように思われる。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは正しい行為のように見えるからだ。これが功利主義の考えの要点です。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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