徳倫理学とは?

前述の功利主義ほどこの徳倫理学は有名ではないでしょう。しかし、義務論や功利主義よりも起源はさらに古く、古代ギリシアの倫理学に端を発しています。古代ギリシアの倫理学においては、人を「善い人(卓越した人)」にするものは何かということが問われました。当時の思想家たちはその答えをその人の性格的特徴に見出します。性格特徴とは、行為の仕方や感情の持ち方、欲求の持ち方などの傾向のことです。要するに、人格的に賞賛すべき性格特徴が人間の徳(ギリシア語ではアレテ―と呼ばれた)と考えられるようになったわけである。そして、この性格的特徴を、アリストテレスは「状況にふさわし仕方で行為しようと欲し、かつ行為するような定着した傾向」であるとし、それは「習慣づけ」によって習得されるものと考えました。これも非常に現代人にとって分かりやすい考え方であろう。人々は節制なら節制を一度だけではなく何度も繰り返し行うことによって節制ある人となり、勇敢さは、勇敢なことを繰り返して行うことによって勇気ある人になると考えるわけだ。現代でも様々な教育機関における情操教育や道徳教育は、こうしたやり方に近しいのではないだろうか。徳倫理学を唱えるロザリンド・ハーストハウスが『徳倫理学について』で行為の正しさについて次のような基準を提示している。

「ある行為が正しいのは、それが、有徳な行為者がその状況においてふさわしい仕方でふるまうことと一致する場合であり、その場合に限る」(ロザリンド・ハーストハウス『徳倫理学について』)

たとえば、ある生死の境目にいる患者がいて、その当人がまだ生きたいと考えているならば、医師が彼の命を救うことは善いことである。なぜなら、仁徳の徳をもついしであればそのように行為するであろうし、仁愛は他人の善を目指す徳だからである。ハートハウスによれば、行為の善悪は、徳のある人(すぐれた行為者)が同じ状況でその行為を選択するかどうかで決まる。

義務論とは何か?

それでは、カントの取る立場である義務論とはいかなる立場なのだろうか。それを理解するために、話を「走れメロス」に戻そう。さて、一般的には、自らの生命を度外視して、暴君ディオニスとの約束を守り友人の命を救ったメロスの行為は、我々の一般的な道徳観念において道徳的に善い行為だと思われているだろう。少なくとも功利主義的にも、暴君とはいえ王であるディオニスを殺そうとして死刑を言い渡されたメロスが、自分が妹の結婚式をあげるのを手伝い、その代わりに佳き友セリヌンティウスを人質として預けている以上、妹の結婚式を手伝い、セリヌンティウスの命を助けるというのは、効用を増大させている。また、徳倫理学的に考えても、暴君へ甘言をし、その結果死刑を受け入れ、妹の結婚式を手伝い、その身代わりとなっているセリヌンティウスを助けようとしているメロスは善人であろう。これは通常の我々の道徳感覚に近しいものだと思われる。

しかし、カントはこのメロスの行為を善とはとらえない

として一人しかし、カントは先の商人の例のように、そうした常識に疑いを差し込む。本当にメロスの行為は道徳的だったのか、と。これは、言い換えればメロスは、利益のために約束を守ろうとしているのかどうかということを問うているともいえる。たとえば、カント哲学者の中島義道はこうした「メロスの行為」は「全く道徳的価値を有さない」と断言する。むしろ、それは愚行、蛮勇に近いと考えるわけだ。仮にそこまでいわないにしても、メロスの激情によってなされた一種のヒロイズムに過ぎないだろうと考えられるわけだ。確かに、メロスを「単なる自らの生命を度外視して、暴君との約束を守り、友人の命を救った」だけなら、それはカント倫理学上道徳的価値を有するかどうかは極めて怪しいといわざるをえない。

カント哲学的にいえば、仮にメロスが、友情や名誉心あるいは暴君ディオニスを憎む一心で走ったなら、傾向性(感情)に基づく行為であり、全く道徳的価値がない行為である。それはただの利己心に過ぎない。しかも、メロスがこうした個人的欲求から走っていなかったと証明するすべは何もないのである。従って、メロスの行為が道徳的に価値を持つのかは「常に疑わしい」のである。そもそも、メロスが持ち合わせている「死をも恐れぬ勇気」も「絶望的な困難を克服する体力や精神力」も「決めたことを貫き通す意志の強さといった才能や気質」も、カントにいわせれば、それらを仮に凶悪犯が持っていた場合は、極めて悪くなりかねないとまで言っている。

「知性、機知、判断力、あるいは精神の才能と呼ばれているようなもの、また勇気、決断力力、ひとたび意図したことはけっして挫けることのない根気など、気質の特性と呼ばれているものは、多くの意味で善いものであり、望ましいものであることは、疑う余地のないことである。これらは自然の賜物であるが、これらを使用するはずのものはわたしたちの意志であって、この意志の特性が性格と呼ばれる。そして、もしこの意志が善でない場合には、これらの自然の賜物がきわめて悪しきもの、有害なものとなりうるのである。」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

つまり、勇気や体力や精神力というものそれ自体は素晴らしいものであるが、それらを用いる意志に問題がある場合、むしろそれらを欠如しているより有害になり得るということだ。分かりやすい例を挙げれば、11カ国語を操り、様々な武器の扱いになれ、体力はオリンピック選手並、常に冷静で、多数の敵相手にもひるまないパーフェクトな犯罪者、ゴルゴ13が生まれてしまうだけということだ。

このように、カントによれば、道徳的であるか否か、というのは行為それ自体には関係ない(もちろん全く関係というわけじゃないが)。そうではなくて、問題なのは、行為の格率の採用の原理である。簡単に説明しておこう。まず、「格率(行動原理)」というのは、「毎日朝八時に起きよう」であるとか「毎日一時間半トレーニング」しようとか「三ヶ月以内に5キログラム痩せよう」とか、そういう我々の主観的に持っている一定ルールに従った考え方(「心術」とも云う)である。そして、この「格率採用の原理」というのは、こうした「三ヶ月以内に後五㎏痩せよう」っていう格率(自分なりのルール)が義務に基づいて採用されているのか、それとも他の目的、たとえば「格好よくなりたい」とか「ボクシングの試合があるから」という何らかの特定の目的に結びついている限り、カントはそれを道徳的な格率(考え方、ルール)とは認めないわけだ。

仮言命法と定言命法

さて、カントによるとこの格率(行動原理)が道徳的な判断かどうかを区別するには二つの観点でこの格率(行動原理)を捉える必要があるという。

「すべての命法は、なすべしという言葉で表現される。この言葉が示しているのは、主観的な性質のために、理性の客観的な法則によっては必然的に決定されることがない意志と、理性の客観的な法則の関係(すなわち強制)である。(中略)全ての命法は、仮言的に命令するか、定言的に命令する。仮言的な命法は、可能なある行為(を実行すること)が、その行為とは別にわたしたちが意欲すること(あるいはいずれにしても意欲しうること)を実現するための手段として、実践的に必然的なものであることを示す。定言的な命法は、ある行為をほかの目的に(それを実現するための手段として)関係させずに、それ自体として客観的であり、必然的なものであることを示す。(中略)ところでその行為が他のもののための手段として善いだけである場合には、その命法は仮言的である。その行為それ自体として善いものと考えられるときには、その命法は定言的である。この場合には、それ自体として理性に適合し、理性をみずからの原理としている意志にとって、その行為は必然的なものとなる。」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

カント倫理学において、有名な「定言命法」と「仮言命法」の区別というのは、一言でいうと「何故?」という問いを許さない絶対的、無条件的な命令が「定言命法」であり、一方「何故?」という問いが有意味に成立する条件付きの命令が「仮言命法」にあたる。

分かりやすく説明すると、「何でその行為をするの?」という疑問に答えられる行為、言い換えれば、何かのための手段としてその行為を行う場合は仮言命法とされ、理由付けられるのが「仮言命法」であり、その逆にその行為それ自体を目的として、それを行うもの、言い換えれば、理由付けられないのが「定言命法」であると理解しておいてさしあたり問題ない。

そういうわけで、メロスの「私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。」という呟きは「ねばらぬ」と云ってはいるものの「仮言命法」となる。つまり、「殺されるため」「身代わりの友を救うため」「王の奸佞邪知を打ち破る為」という何らかの特定の目的(理由)のために走るわけだからだ。だから、カント倫理学的にはこれは道徳的価値を持たないといえるでしょう。

しかし、この「走らなければならぬ」というのは「善意志の存在証明」及び「正義の実現」という定言的目的を、メロスの超人的な努力によって成し遂げるという構造を、実は「走れメロス」は内包している。しかし、それはこの段階ではまだ明らかになっていない。とはいえ、この段階のメロスはまだ「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」という具合にまだ王城に行き着くことが出来なかったら佳い友達が死ぬので、それを阻止するために走っているという行為それ自体ではなく、王城に行き着くことという目的に縛られているからだ。とはいえ、これはかなり酷な見解だろう。実際、カント倫理学は義務論ともいわれるように、道徳的行為の場合は、仮に結果が伴わなくても、努力如何によっては或る程度の道徳的評価=善意志の存在証明を獲得しうると考えるわけだ。実際、カントは以下のように云っているわけだ。

「善意志は、ただ意欲するだけでよい。すなわち、それ自体で善いのである」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

「たとえ運命がことのほか苛酷であったり、生まれ育った境遇があまりにも貧弱であったりして、善意志があるのに意志の意図したことを貫き通すだけの能力資質に欠けるとしても、言い換えるなら、善意志が精一杯努力したにもかかわらず何事も成し遂げられずに、ただ善意志だけが残るにすぎないとしても(もとより善意志は単なる願望では決してなく、できる限りの手段を尽くすのであるが)、それにも関わらず、善意志はそれだけで宝石のように、自分の価値全部を自分の内に保つものとして光り輝くであろう。役に立つとか立たないとかは、善意志の価値を増減させたりできない」(前掲書)

しかしながら、メロスの置かれている状況は今の段階では少し異なっている。繰り返しになるが、メロスが嘆いているように、メロスは王城に時刻までに間に合わなければ、メロスの努力は水泡に帰するのだ。佳き友は殺され、暴君からは嘲笑され、メロスのあらゆる弁明は単なる言い逃れに過ぎないものとして、メロスの善意志はそもそも存在しなかったものなってしまうわけである。しかし、善意志は証明されるようなものでも証明するようなものでもないし、ましてや他者からの評価に従うものではない。カントが「もとより善意志は単なる願望では決してなく、できる限りの手段を尽くすのであるが」という限定を付け加えていることは忘れてはならないだろう。哲学者の中島義道もいっているが、溺れている子供を眺めながら「助けよう」と心の中で願望を抱いているだけじゃダメなわけです。実際に助けようと水の中に飛び込んではじめて成立するわけです。溺れている子供をじっと見守りながら心の中で「助けたい!頑張れ!」と思っているだけではそれは、単なる願望でしかない。善意志は意志であって、単なる願望ではないわけだ。願望と違い、意志というのは必然的に行為に結びつけられるわけだ。なので、義務論を、いわゆるカント倫理学を世間によくある誤解の一つであるところのマックス・ウェバーがいう所の「心情倫理」(心が清ければそれでOK)と考えるのは誤りである。

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ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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