『走れメロス』の物語の構造

『走れメロス』の物語の構造は、一言で言うと、「オールオアナッシング」の「ゼロサムゲーム」になっている。メロスには、勝利と敗北の間に中間地点は存在しないわけで、しかも、この道徳を巡る争い(ゲーム)は、メロスが間に合うかどうかという、それ自体としては道徳的に無記(ニュートラル)な経験的事実(行為の結果、帰結)であるわけだ。『走れメロス』という物語は、カントの義務論とは異なり、功利主義的倫理学のように「結果が全て」というこの基本構造(ルール)に従って、物語が展開していくわけだ。

このように「オールオアナッシング」の「ゼロサムゲーム」において、「走れメロス」という物語は展開していくわけだけども、これが急展開を迎えるのが、このメロスが様々な障碍を克服した後で、その疲労のため、一歩も動けなくなったてしまうところにある。そして、物語の急展開は以下のメロスのモノローグに始まる。

「身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐ふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截たち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺あざむいた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。」

と走ることをメロスは諦めてしまう。だけど、メロスの取り巻く状況というのは、こんな甘っちょろい気休めが絶望を緩和してくれるような生易しい状況ではない。間に合わないことは、メロスの「善意志」(「真紅の心臓」)の非存在を意味し、「利己心(自己愛)の原理」(「王の人間不信」)の勝利を意味するわけだ。

そして、この勝利者である人間は全て利己的で、汚いと考える人間不信の王は、敗者であるメロスのいかなる弁明も笑い飛ばして「利己心」(自己愛)に基づく言い逃れとみなすのは一目瞭然であるわけだね。そのことはメロスもよく判っていた。

「おまえは、稀代(きたい)の不信の人間、まさしく王の思う壺(つぼ)だぞ。(中略)私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。(中略)私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。」

メロスにとって、これほどの屈辱はない。然し、まだこの段階ではメロスはまだ「どん底」には陥っていない。というのも、メロスは未だ自分が光り輝く宝石のごとき「善意志」の所有者であるという自負は失っていないからだ。この「裏切り者」という蔑称はあくまでも他者からの評価に過ぎない。そこで、メロスは善意志を他者に証明する最後の手段として、友人の信頼に殉ずる死を選択する。

「セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。」

しかし、鋭敏なるメロスはこの最後の頼みの綱である友の信頼でさえ、究極的には定かではないということを察するのである。余人同様に親友セリヌンティウスもまた、メロスの善意志を疑いながら死んだかもしれない可能性は否定しえないわけだ。

「いや、それも私の、ひとりよがりか?」

このように気づいたメロスはもはや殉死(自殺)すら出来ない。死んでも生きていても彼は同じ裏切り者なのである。ここにきて、善意志を証明する、言い換えれば友への誠意を示すというメロスの一縷の望みは絶たれた。こうして、善意志を表現する術を失ったメロスはここで、新たな道を選択する。

「ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。」

即ち、メロスは他人の評価に自らを「表面上」一致させつつ生きるという選択肢を見出す。つまり、誰も信じてくれないので、悪徳者であることは否定しないというのである。しかし、これでもまだメロスの善意志は今なお健在である。というのも、他人の評価(名実共に敗者:悪徳者)と自己評定(事実上の敗者:しかし、本当は悪徳者ではない)の間に「乖離=差異」が存在するからである。つまり、メロスは確かに他人から見れば俺は悪徳者かもしれないが、本当は違うという自負はまだ失っていないのである。

諦めてしまうメロス

まだメロスは自負を失っていないという状態で終わったわけだが、メロスはついに決定的な一歩を踏み出すことになる。

「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。」

ついにメロスは開き直ってしまう。ハイデガー用語を使って「頽落」と言ってもよいかもしれないが、「道徳的変節」をメロスは体験するのである。こうなることによって、前回まで保たれていたメロスの自負は無くなり、他者の評価と自己の評価における「乖離=差異」は消滅する。メロスの善意志の存在はあの人間不信の王ではなく、メロス本人によって否定されてしまう。こうしてメロスは自他共に認める完全な敗者であり、一点の曇り無き裏切り者に変じてしまう。道徳的世界解釈(「正義」「愛」「信実」)に対して非道徳的世界解釈(人間世界の定法」)が最終的な勝利を収めた瞬間である。

メロスをこの頽落へと導いたのは、「間に合わないこと」=「善意志の非存在」=「利己心(自己愛)原理の勝利」という、この物語の仕掛け、即ち、デジタル的基本構造(ゲーム構成的ルール)である。間に合えばメロスの勝ち、間に合わなければ暴君ディオニスの勝ちというゲームであるわけだ。ここにきてメロスは間に合わないと云うことが確実になり、メロスのモノローグが始まった時点で、メロスの頽落即ち、善意志の消滅という結末もほぼ確定していたのである。

注意すべきことは、この道徳的な変節=頽落が、メロスが間に合わなかったという道徳的に無記な、つまりニュートラルな経験的事実にその根拠を有するということである。しかも、この事態(敗北)そのものは、少なくともメロス自身にとっては偶発的である。敗北から頽落への移行はゲームの構成的ルールによって必然的であるが、その必然的な移行の起因としての敗北はゲームの外在的要因による偶然の結果なのである。

ゲームチェンジ

それでは、道徳的に中立な偶然的経験的事実からメロスは脱出しうるのであろうか。しかし、こうして単なる事実上の敗者から真の敗者へと頽落してしまったはずのメロスは、間に合わないにも関わらず再び走りだす。ここに『走れメロス』の物語のターニングポイントがある。

「私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。」

このメロスは「殺されるため」「身代わりの友を救うため」「王の奸佞邪知を打ち破るため、一言でいえば、それまでの時刻に間に合うために走っていたメロスとは、もはや同じメロスではない。メロスに何が起こったのか。走る「目的」が変わったのである。あるいはそれが消滅したのである。このとき、ゲームを構成するルールが変わる。ゲームチェンジだ。物語の基本構造を自ら逆転させたのである。それでは、新しくメロスが見出した走る目的とは何か。メロスの態度に根本的な転換が明らかになるのは、親友セリヌンティウスの弟子フィロストラトスと出会う場面である。フィロストラトスは叫ぶ。

「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。(中略)ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

それに対してメロスは答える。次のセリフがこの物語全体のまさにクライマックスである。

「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!フィロストラトス。」

このとき「メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない」。物語の構造が、ゲームのルールが、メロスの中で確実に逆転した瞬間である。時刻までに間に合うこと、友を助け王の奸佞邪智を打ち破る為というメロスの当初の目的、善意志の存在証明及び正義の実現はもはや問題ではない。親友セリヌンティウスの命ですらもはや問題ではない。当初の目的は既に喪失している。元々、走ることは、佳き友を救い、王の奸佞邪智を打ち破る為の目的達成のための単なる手段であったのだから、もはやメロスに走る理由=目的は存在しないはずである。今、メロスに「何故走るのか」と問えば、どのような答えが返ってくるのであろうか。「信じられているから走るのだ」とメロスは言っている。間に合わないことが殆ど確実な状況において、この答えは常軌を逸している。この答えはもはや人を納得させうる合理性を欠いている。従って、フィロストラトスはメロスのこの答えを聞いてこう答える。

「ああ、あなたは気が狂ったか」

フィロストラトスはもはや理性的な説得(「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です」)を断念する。自らの行為の理性による根拠付け(合理性)を拒否したメロスは「ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」のだ。

メロスはもはや何のためにも走っていない。ついに当初の目的は失われた。かけがえのない友の命を助けるため、人間不信の王に信実さを見せしめるため、そうした目的がメロスの走る行為を支えていた。しかし、今や走るための何ら合理的な理由はない。

太宰は、ここにきてメロスに走る理由を何ら与えていない。少なくとも説得的合理的な理由を与えていない。にもかかわらず、メロスは走る。なぜか。メロスにとって当初仮言命法であった「走れ!」が、物語のこのクライマックスにおいて定言命法へと鮮やかに転化したのである。今や走ることに外部のなんら目的も理由もない。

メロスは「走れ!」という絶対的命令(義務)に従って、ひたすら走る。結果がどうなろうが、もはや「問題ではない」。間に合おうが、間に合うまいが、そんなことはどうでもよい。正義が実現されようがされまいが、友が殺されようが、殺されまいが、それすらもどうでもよい。結果に対する顧慮の放棄は、「利己心(自己愛)原理」対「善意志」という対立軸そのものの無視を意味する。今やメロスは善意志の存在証明のために走っているのではない。メロスにとって善意志は端的に存在する。それは定言的(=断言的)に「走れ!」と命令する。そして定言命法=義務の存在は、即ち道徳の存在である。それは、そもそも証明以前の、いわば生の、裸の、しかし、厳然たる「事実」である。

メロスが、懐疑の末に逢着した結論は次の通りである。この物語において定言命法=義務が存在するとすれば、それは「走れ!」という命令以外にありえず、そう命ずる意志こそが善意志であり、道徳的価値の根拠たり得る。だからこそ、この物語のタイトルはまさに「走れメロス」なのだ。

しかし、ここで忘れてはならないのが、間に合わなければメロスは敗者であり、人間不信の王ディオニスの利己心(自己愛)原理が勝利するというメロスを取り巻く外的状況を支配するルール自体には些かの変化もないということである。つまり、メロスによるこの基本構造(構成的ルール)の逆転は、メロス以外の者には及ばず、しかも彼らにとっては不可視である。冒頭で述べたように人間の心の裡は他者には不可視であるわけだ。

とはいえ、厳密にいえば、構造が単に逆転されたのではなく、「二重化」されたといえるであろう。他者の観点においては、メロスのあらゆる行為はゲーム内部的行為として「解釈」される他はない。間に合わないことを知りつつ走ったことですら、道義的責任を免れるためのアリバイ作りとしか思われないのである。まさに、疑いは免れ得ないのだ。

だが、メロスにとって、自らの行為が他者によって、どう解釈されるのかということは、もはや「問題ではない」。メロスにとって善意志は、後付の解釈がどうであれ、端的に存在するのである。ゲーム構成的ルールのメロス的逆転とは従って、ゲーム内的秩序を破壊せずに、その外部へと(半分)脱出することである。メロスはこのゼロサムゲームの中にいながら、このゲームの外へと逃れえているのだ。こうして、メロスが物語のクライマックスで獲得した、ゲームに参加しつつ、参加しないという、きわめてアクロバティックな態度はどこまで維持されうるのか。それを検討する前に、カントの義務思想の根源的二重性について触れておこう。

カントの義務論の根源的二重性

「定言命法=義務」、従って道徳は、行為のあらゆる合理化や解釈が意味を持たない次元においてのみ、端的な、いわば生の事実とでも云うべき仕方で存在する。カントによれば道徳の本質は、自己利益(幸福)を損なおうととにかく従わねばならないという絶対的義務=定言命法である。道徳に従う理由(Why be moral?)のあらゆる外在主義的説明を、内在主義者カントは否定する。功利主義的なアプローチも徳倫理学的なアプローチも一切拒絶されるのだ。結果的に良かったということや優れた性格特徴を持つという外在主義的説明をカントは一切受け入れない。「定言命法=義務」の内在主義的本質として、この絶対性(外部の無さ)、無根拠性、トートロジー性こそが、カント倫理学の肝である。

功利主義を嚆矢とする外在主義的倫理学は、道徳としての道徳。即ち道徳の本質を解明しえない。というのも、そこには、道徳に従った方がよい理由はあっても、道徳に従わなくてはならない理由はない。すべては条件つきの仮言命法であり、定言命法はない。カントの「自分の格率が常に普遍的法則となるように行為せよ」という定言命法の法式も、功利性を暗黙裏に前提していると見なされる。たとえば、リチャード・ヘアによれば、定言命法の諸々の法式に依拠する限りでのカント倫理学は義務の絶対性を認めない功利主義と「両立可能」であり、カントは功利主義者で「ありえた」のである。道徳はこうして跡形もなく、功利性、究極的には「自己利益」に還元される。定言命法の法式に依拠するカント解釈は、カント倫理学の本質的功利主義化を拒否しえないのである。

少し小難しい話になってしまったので、ここでわかりやすい、もう一つ別の物語を考えてみよう。現代の政治哲学者マイケル・サンデルが紹介する歩道橋問題ともいわれる思考実験がある。上述のトロッコ問題=路面電車問題の応用編だ。今度は、あなたは運転士ではなく、線路を見下ろす橋の上に立っている傍観者である。そして、今回は待避線はない。線路上を暴走路面電車が走ってきているのを、あなたは今まさに目撃しているとしよう。路面電車の先には先ほどと同じように五名の作業員がいる。ここでもブレーキは一切効かない。傍観者であるあなたにもブレーキが一向に踏まれることもなく、ものすごい勢いで五名に向かって路面電車が暴走しているのが明白だ。その時、あなたの隣にとても太った巨体の男がいることに気付いた。そして、仮にその男を橋から突き落とせばどうやら路面電車は止まりそうだということが思いつく(というか、止まることが分かっていると仮定しておこう)。当然そうすればその男は死んでしまうであろう(ちなみに、あなたが飛び降りてもあなたの体格では電車は止まらないとする)。

その太った大男を線路上に突き落とすのは果たして正しい行為であろうか。おそらくほとんどのひとがこういうだろう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」と。実際アメリカの進化生物学者マーク・ハウザーが5000人以上が回答したテストでは、「最初の質問に対して89%の人が「許される」と答えたのに対して、2番目の質問に「許される」と回答したのは11%であった。」そうである。

誰かを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、たとえ五人の命を空くためであっても、実に恐ろしい行為に思われている。しかし、だとすると、ここには1つの難問が立ち上がってくる。最初の運転士の話では、(功利主義的アプローチからではあるが)五人を救うために一人を救うことは正しいとされたのに、二つ目の例では正しくないと思われるのはなぜなのだろうか。どちらも五人の命を救うために一人を犠牲にするのはやむを得ないというロジックであったわけだ。仮に数が重要だとすれば、両者はまったく道徳的に変わらない。

もちろん、人を突き落として殺すのは残酷なことだろう。しかし、一人の男を路面電車ではねて殺すのも残酷であることには何ら変わらないだろう。こう反論できるかもしれない。突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用する事に保管らず、彼はただ単にそこに立っていただけで当事者ではない、と。しかし、それをいうのであれば、待避線で働いていた作業員も同じだ。彼らもまた事故にかかわることを選んでいるわけではない。中には、鉄道員は傍観者がとらないリスクを職務上負わされているのだ、という意見もあるかもしれない。しかし、勤務中に自分の命を捨てて他人の命を救うことは彼のジョブディスクリプションには書かれていないだろうし、自分の命を投げ出すかどうかは路上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはない。

となると、ここで両者を分け隔てているのは、犠牲者に与える影響(一命を殺す)ということではなく、決定を下す人の意図・動機にある。しかし、路面電車の運転士であった時のあなたは、自分の意図・動機は一人の作業員を殺す事ではなく、五人の作業員を助けることであったことを忘れてはならない。しかし、太った男についても意図・動機は電車を止めることであり、五人を助けることであることには変わりはない。

このように考えると、カントの内在主義は結局のところ、意図・動機に関わらず、功利主義による功利主義による外在主義的倫理学に還元されえるわけだ。それでは、こうした外在主義的還元からカントのいうような道徳を救い出す恐らく唯一の方途は、定言命法の概念(Begriff)をその法式(Formel)から切り離し両者を峻別することである。カントは命法(義務)概念が法則概念を含むことを前提に、定言命法の概念から分析的にその法式を導出している。この事実が示唆するのは、法則概念から命法概念を独立させることによって、定言命法の概念をその法式から分離するという方途である。無論、カント倫理学の公式的見解によればこの分離は不可能である。定言命法の絶対性はその「合法則性」に基づく。カント倫理学は義務倫理学である以前に法則倫理学である。

しかし、義務概念はやはりその出自を合法則性のみにもつのではない。義務概念の根底には、道徳的な善さの絶対性という内在主義思想がある。道徳的な善さを道徳に内在するよさとみなす内在主義においては、その絶対性は必ずしも合法則性を含意しない。こうした根源的二重性を有する義務=定言命法という思想をカントは合法則性によって洗練し、統一した。洗練さえた義務概念においては支配的なのは法則概念である。

換言しよう。カントにおいて道徳的な善さとは絶対的、無条件的なよさ、純粋に道徳に内在するよさである。カント倫理学はその限りで、徹底した内在主義的倫理学である。道徳的な善さの根拠を、道徳的に無記な原理(ニュートラルな原理)に求めることはできない。ところが、このような純粋内在主義的倫理学は、「行為を客観的に実践的=必然的なもの」として明示し得ず、その欠陥を補うために、カントは法則概念を導入した。

道徳とは法則であり、道徳的な善さは法則に従う善さであるとされる。しかし、法則とは元来道徳的に無記(ニュートラル)であり、カントが道徳に法則を導入した時点で、カント倫理学は一種の外在主義的倫理学へとその性格を一変する。同時に、道徳的な善さの絶対性、無条件性が、その合法則性(客観的普遍的妥当)へと読み替えられる。だが、合法則性を度外視した絶対的命令という概念が有意味であるかぎり、義務概念は、法則概念に還元しえない側面を有するのである。本来的な義務とは、その外部に何ら根拠をもたない義務であり、絶対的な命令である。これこそが、その法式から分離された定言命法という概念であり、その内在主義的本質であろう。

メロスの勝利と善さの崩壊

ところが、注意しなくてはならないのが、こうした絶対的命令=義務は存在するだけであり、解釈が施されると同時にその絶対性は完全に失われる。「解釈」とは何らかの合理的文脈に物事を置き入れること、つまりそれに外在的な理由を与えることであるからである。

定言命法の絶対性を剥奪する解釈ないしは合理化の不可避的な生起は、この物語の大円団においても如実に示される。メロスは奇跡的に約束の時刻に間に合った。ゲームに勝ったのである。暴君ディオニスは云う。

「おまえらは、わしの心に勝ったのだ」。

メロスにとって勝敗の行方など既にどうでもよかったのにも関わらず、彼はまた始めの土俵へと引き戻される。相反する世界解釈の巧拙を競うゲームにおいてメロスは奇跡的に勝ったが、そのゲームそのものをするかどうかという、いわば「メタゲーム」においては敗れざるをえない。

メロスのあの「走れ!」という定言命法は、他者のみならず、メロス自身にとっても、はじめから仮言命法であったと「正しく解釈」し直されてしまう。クライマックスに於ける「決定的な逆転」など、あたかもなかったかのようになってしまう。外在性から一瞬でも抜け出し、もはや何ら理由のなかったメロスの「脱出」はこうして不首尾に終わることになる。つまり、チェス盤は再びひっくり返されたのだ。メロスこの最後の反転は、先の劇的な逆転と異なり、極めてさりげなく行われる。殆ど気づかれることのないこの自然さは、解釈という行為そのものの自明性であろう。ニーチェ的な表現になるが、「生」とは解釈である。非道徳的世界解釈(自己愛原理)と道徳的世界解釈によるヘゲモニー争いは所詮異なる解釈、異なる生の間で争われるゲームでしかない。本当の道徳性はこのゲームの埒外に、単なる事実として存在する。そして、その次元に在る者にとっては、勝敗の帰趨など本来「問題ではないのだ」。

しかし、メロスはその次元に留まることはできなかった。というより、一時たりともそこに留まることが出来ないという仕方で、そういう次元は存在するといえるだろう。解釈を被った定言命法はその絶対性を喪失してしまう。解釈の生起が不可避的であるならば、定言命法の証明はそもそも不可能である。メロスの善意志は物語、生の過程の一瞬に輝く光のようなものである。物語は終わり、解釈が施される。その途端、そこにはもはや絶対性(外部の無さ)、無根拠性、トートロジー性は存在しない。あるのは分かりやすい解釈のみである。従って、カントは以下のように云うのである。

「ただ道徳性の命法で常に忘れてはならないのは、そもそもそうした命法が存在するのかどうかが、いかなる実例によっても、従って経験的には、決着できないことである。むしろ気を付けなければならないのは、表向きでは定言的に見える命法でも、隠れた本音では全て仮言的かも知れない、ということである」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

定言命法に裏付けられていない行為は道徳的価値を持たないが、にもかかわらず、そうした裏付けを獲得しうる行為は存在しない。従って、定言命法及び道徳的行為の存在は、言うなれば端的な奇跡であるといえよう。物語におけるメロスの勝利は、確かに奇跡的ではあるが、それ自体は通俗的な意味での奇跡に過ぎない。この奇跡がもしそれ以上の意味を持つとしたら、本来の奇跡、即ち定言命法たる「走れ!」というその瞬間の存在という奇跡がそれを背後から支えているに他ならない。

「従って、もしかすると今まで世界に全く一つも実例のなかったかもしれない行為が、しかも、すべてを経験に基づかせる人なら実行可能性に強い疑念を抱くような行為が、それにもかかわらず理性によって仮借なく命じられるのである。たとえば、友情に於ける純粋な誠意は、たとえ今まで誠意ある友人が存在したことが全くなかったとしても、だからといって決してどの人間にも要求出来ないというものではない」(『道徳形而上学の基礎づけ』)

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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