日本史講義 院政の成立

中世の始まり

11世紀末に院政が開始されると、平氏や源氏の武士たちは、印や摂関家に使える中で、地方武士を更に組織し、武力によって新しい政治体制が生まれるまで力を伸ばした。そして、平氏政権が倒された内乱の中から、12世紀末には、源頼朝による最初の本格的な武家政権である鎌倉幕府が生まれた。13世紀後半の蒙古襲来によって、政府は全国政権へと転換を迫られるが、それが達成されたのは、後醍醐天皇による建武の新政と、足利尊氏による新たな室町幕府の草創、そして長い南北朝の内乱を経た後であった。14世紀末、足利義満は公家・武家双方の上に立つ支配者の地位を獲得し、室町幕府は全国的支配権を手にした。

中世を通じて、土地の支配は荘園や公領を単位に行われたが、荘園領主や地頭・百姓の土地に対する権利は重なり合い、様々な紛争が生じた。彼らは、種々関係を始め、種々の縁を通じて自らの権利を守ろうとした。一方、農業技術は大いに発達し、諸産業や流通も興隆して、14世紀後半以降の中世後期には、明や朝鮮との通交や貿易も盛んに行われた。文化の上でも、新たに武家中心の文化が公家文化の影響の元に現れ、更に中世後期には、村や町の人々を担い手とする庶民文化や地方文化と交流し、融合していった。

このように中世後期には、村や町を拠点に互いに結びつきを強めた人々が、政治的にも文化的にも、その存在感を増していった。 15世紀におこった応仁・文明の乱の後は、将軍や有力守護家は分裂し、その権威は失われた。地方では、有力武士たちが中小の武士たち、さらには力を強める村や町の住人たちをも組織して、相争う状態となった。そして16せいきになると、彼らの中から、地域国家とも言える支配領域を形成する戦国大名が生まれてきた。その戦国時代の日本に、ヨーロッパ人がもたらした鉄砲とキリスト教は大きな影響を与え、やがて16世紀末には統一政権が成立する。

後三条天皇と国政改革

後三条天皇と国政の改革について見ていきましょう。後三条天皇は、摂関家を外戚とせず、摂関家にとらわれない人材登用(源師房・大江匡房ら)による親政を行いました。。また、早期に白河天皇に譲位し皇統を摂関家から独立させたことで、摂関政治は終わりを告げます。

1038(治暦4)年、藤原氏を生母としない後三条天皇が即位し、藤原頼道は関白を弟の教通に譲って、宇治に引退した。20年余り皇太子として過ごし、既に壮年だった後三条天皇は、大江匡房らの人材を登用し、後の院政を支える人材を見いだした。天皇がまず取り組んだのは内裏などの造営で、ついで1069(延久元)年に延久の荘園整理令を出した。11世紀半ばに何度か荘園整理令は出されていたが、今回は従来にない徹底した調査を命じ、整理の対象となる新立(しんりつ)荘園以外でも、券契(けんけい、証拠文書)の明らかでない国務の妨げとなるものは停止とした。さらに、その証拠文書の審査を行う為に、中央に記録荘園券契約所(記録所)を設けて、基準に合わない荘園を停止とした。また公定枡である宣旨枡(せんじます)を制定したり、皇室の財政を強化するなど、国政の改革を目指した。国司は、公領を拡大するために荘園整理を求めたが、一方で公認した荘園については、荘園・公領の範囲を画定したうえで、荘公の別なくすべての土地に税(役(やく))を課そうとし、後三条天皇は内裏造営のための臨時雑役である造内裏役を一国平均役として公認した。これは荘園公領制に対応するあたらな税であり、この結果、荘園の領域紛争や税免除が、それまでの国司段階ではなく、中央の陣定や記録所で争われることになった。荘園整理は摂関家領荘園を削減することだけでなく、中央の支配を拡大させることも目的だったのである。

白河院政と鳥羽院政

白河上皇と鳥羽上皇の院政について。上皇(太上天皇)として天皇を後見し、院庁において政治の実権を掌握したことを院政といい、院政を行う上皇を“治天君”といいます。

白河天皇は、後三条天皇から皇位を譲られた後、十数年にわたって親政を行ったが、1086(応徳3)年、にわかに8歳の堀河天皇に譲位すると、条項となって御所(院)に院庁(いんのちょう)を開き、天皇の後見として政治の実権を握って、院政を始めた。院政は、皇位継承権を握って自らの子孫に皇位を伝えるところから始まり、摂関から皇位継承の主導権を奪った。1107(嘉承2)年に堀河天皇が死去すると、白河上皇は本格的な院政を始めた。白河上皇が死去すると、鳥羽上皇が院政を保元の乱直前まで続けた。院長の役人である院司には、中・上貴族や国司層を取り込み、院の御所には北面の武士として武士団を組織した。政治の中心は依然として太政官であったが、公卿の会議を院御所で開き、院の影響が及ぶように指せ、また叙位・除目(じょい・じもく)への介入により人事権を行使した。上皇の即金で院近臣(いんのきんしん)と呼ばれる国司層や后妃・乳母の一族は、上皇の人事権により豊かな国の国司に任じられ、さらに国司の任期延長(延任(えんにん))や再任(重任(ちょうにん))と引き換えに自院や内裏の造営を請け負わせることが行われ(これを成功(じょうごう)という)、院近臣により国司の役職が独占された。彼らは中央政府に税物を貢納しないことが多くなり、国司の制度が変質した。また、公卿や更新も知行君主として国務執行権を与える知行国の制や、の院夜陰が国司の推挙権を持つ院宮分国(いんぐうぶんこく)の制が広まり、公領や院や知行国主などの荘園のようになり、院が貴族を統制するための政治的基盤となった。鳥羽院政期には、院の権威が高まったことにより、院や女院に荘園の寄進が集中し、院政の経済的な基盤となった。院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)によって荘園が立荘され、鳥羽院が娘の八条院暲子(はちじょういんしょうし)に伝えた八条院領と、後白河院が自らの持仏堂に寄進した長講堂領などの天皇家領荘園群が形成された。摂関家も巨大な家領荘園群をつくり、有力寺社でも大規模な荘園群を領有した。特に興福寺(南都)、延暦寺(北嶺(ほくれい))は、独自の武力(僧兵)を組織し、国司の処罰などを求めて神木・神輿(しんよ)を押し立てて強訴(ごうそ)を繰り返し、苦慮した朝廷は武士の力を借りて対応した。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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