共通テストで満点をとるための世界史講義 世界史講義⑦ イタリアルネサンスからユグノー戦争

〔102〕イタリアルネサンス

ルネサンスは再生の意味で14C~16Cにイタリアのフィレンツェなどで起こった文化・経済・宗教などすべてが「神」中心だったヨーロッパ中世から「人間らしい視点」や「人間性の尊重」「個性の尊重」などが生まれた。ルネサンスは、人間中心であるとはいえ、支援者が教会や王権であったため、テーマは神が多いうという限界はあった。ルネサンス時代は政治的分裂や抗争が多くあったが、その中で、マキャベリがチェーザレ=ボルジアをモデルとして、「君主論」を著し、宗教や道徳に囚われない政治の手法を説いた。文学では、ダンテが、ラテン語ではなく、イタリアのトスカナ語で叙事詩「神曲」を著した。また、ペトラルカは、ヒトの心情を描く「抒情詩集」を著し、ボッカチオが「デカメロン」で古い権威を風刺し、近代小説の元を築いた。絵画では、ジョットがルネサンス美術の祖とされ、ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」「春」などを描いた。レオナルド=ダ=ヴィンチが「最後の晩餐」や「モナリザ」を描き、遠近法を用いて、写実的に人間を描いた。ミケランジェロは、「最後の審判」や「ダヴィデ」像を制作した。ラファエロは多くの聖母子像を描いた。建築では。ルネサンス様式として、ブルネレスキがサンタ=マリア大聖堂(フィレンツェ)を設計し、ローマでは、ブラマンテやミケランジェロが設計したサン=ピエトロ大聖堂が建設された。

〔103〕諸国のルネサンス

ネーデルラントでは、16C最大の人文主義者といわれるエラスムスが、1509年に「愚神礼賛」(痴愚神礼賛とも表記)で教会の腐敗を批判した。また、ファン=アイク兄弟が、油絵画法を創始し、フランドル派の祖とされた。ブリューゲルの「農民の踊り」など、農民画家が登場した。

イギリスでは、チョーサーが「カンタベリ物語」、トマス=モアが1516年に「ユートピア」を書き、理想社会を説く一方、ヘンリ8世を批判した。シェークスピアは、「ハムレット」「マクベス」などの戯曲を書いた。

ドイツでは、デューラーの「四使徒」やホルバインの絵画が知られ、スペインでは、セルバンテスの「ドン・キホーテ」が書かれ、滅びゆく騎士道を風刺した。

天文学では、コペルニクスが地動説を唱え、そのほか、ルネサンスには、羅針盤や火砲、活版印刷技術(グーテンベルク)が発明された。

〔104〕ドイツの宗教改革

キリスト教のカトリックを批判するプロテスタントといわれる宗派(ルター派、カルヴァン派、イギリス国教会)が生み出され、宗教改革が進んだ。

神聖ローマ帝国での宗教改革としては、サン=ピエトロ大聖堂の建築費の資金調達のため、フィレンツェのメディチ家出身のローマ教皇レオ10世が贖宥状(免罪符)を販売したのに対し、ヴィッテンベルク大学のマルティン=ルターが、1517年に「95ヵ条の論題」で批判し、ついで1520年に「キリスト者の自由」で福音主義、信仰義認説、万人司祭主義などの理念を発表した。ルターは信仰義認説を唱え「人は信仰によってのみ義とされる」と考えたが、神聖ローマ帝国皇帝カール5世が、1521年ヴォルムス帝国議会でルターの追放を決定した。ザクセン選帝侯フリードリヒが、ヴァルトブルク城にルターを匿い、ルターは新約聖書のドイツ語訳に専念した。ルターの影響として、ルターの教えに共感したミュンツァーが農奴制廃止など農民の十二箇条などを掲げ、1524年にドイツ農民戦争を起こした。ルターははじめ、同調していたが、後に弾圧する側に回った。また、ルター派の諸侯が、1531年にシュマルカルデン同盟を結成し、1545年にトリエント公会議を開催し、結束を強め、帝国に抵抗(プロテスト、プロテスタントの語源)し、1546年にシュマルカルデン戦争を起こした。こうした動きに対して、カール5世は、諸侯に領地の宗派をカトリックかルター派かを選択させるアウクスブルクの和議を1555年に締結する。

〔105〕宗教改革の広がり

スイスのチューリッヒで、ツヴィングリの改革を起こすが、1531年にカッペルの戦いで戦死し、失敗に終わる。一方、同じスイスのジュネーヴでカルヴァンが1536年に「キリスト教綱要」を発表し、厳格な禁欲主義による神の絶対主権を唱え、ジュネーヴで神権政治を行った。教皇の権威を否定し、長老主義を導入し司祭制度を廃止した。また、思想的には予定説で知られる。予定説とは魂の救済は予め神によって予定されているという考え方です。予定説は営利活動や蓄財を肯定し、後の資本主義の精神を育成した。カルヴァン派は次第に拡大していき、フランスではユグノー、ネーデルラントではゴイセン、スコットランドでは、プレスビテリアン、イングランドでは、ピュータリンと呼ばれるようになった。

イギリスの宗教改革では、テューダー朝のヘンリ8世が、皇后ガザリン(キャザリン)と離婚し、教皇と対立。それに対し、ヘンリ8世は、1534年に首長法を発布し、イギリス国教会を築いた。離婚後、アンブーリンと結婚したが、これも政争争いで妻を死刑にした。ヘンリ8世は修道院を解散し、土地や財産を没収した。その子、エドワード6世が、1549年に一般祈祷書の制定をし、カルヴァン派的教義に基づいて制定した。次のメアリ1世はスペイン王フェリペ2世と結婚し、カトリックが復活した。その後、エリザベス1世の代に、統一法が発布され。イギリス国教会が確立した。

〔106〕対抗宗教改革

ルター派やカルヴァン派に対抗するためにカトリック教会も自己変革運動を行い始めた。カトリック教会は、教皇パウルス3世が、1545年にトリエント公会議を開き、教皇の至上権を再確認。禁書目録、宗教裁判を強化。また、1534年、イエズス会(別名「ジェズイット教団」)が、イグナティウス=ロヨラ、フランシスコ=ザビエルらにより成立した。厳格な規律と組織を整え、ヨーロッパ内外で宣教活動を開始した。特にアジア・ラテンアメリカの布教を熱心に行い、大航海時代の潮流に乗った。その結果。カトリックとプロテスタントの大綱が激化し、オランダ独立戦争、1562年~のユグノー戦争(フランス)、1618年のベーメンの反乱に始まるドイツのキリスト教新旧両派の宗教内乱から始まる三十年戦争(ドイツ)が起こった。その影響で、魔女狩りや宗教裁判が強化させた。

〔107〕主権国家体制とイタリア戦争

国内を統一的に支配する主権者が出来て、主権国家が成立する(近代国家の原型)。特に主権国家での「主権者」が「国王」で、絶対的な権力を持つ場合、「絶対主義」といわれる。国王は、官僚と常備軍という二つの体制を整備し、官僚により主権者の命令を国内にいきわたらせた。また、常備軍により、主権者への反抗を防ぎ、他の主権国家と戦った。官僚と常備軍の維持には莫大なお金が必要であり、国王の権威を維持するため、重商主義を採用した。資本家が労働者を雇用し、分業と協業をさせる工場制手工業(マニュファクチュア)や問屋制を促進し、資本主義を芽生えさせた。

主権国家体制が整い始めると、仏王フランソワ1世(ヴァロワ家)と神聖ローマ帝国のカール5世(ハプルブルク家)が、イタリアに干渉しあう、イタリア戦争を起こすが、1559年にカトー=カンブレジ条約が締結されフランスはイタリア攻略を諦める(主権国家形成のきっかけ)。

〔108〕スペインの全盛期

神聖ローマ帝国のカール5世はスペイン王カルロス1世も兼任していたため、挟撃される形となったフランスのフランソワ1世はオスマン帝国と1535年、カピチュレーション(オスマン帝国のスレイマン1世がフランソワ1世に与えた通商特権)を結んだ。ハプスブルク家のイサベルとフェルナンドの子、カルロス1世(ハプスブルク家)は神聖ローマ帝国に選定され、スペイン国王と神聖ローマ帝国を兼任することとなり、カール5世と名乗った。その後、イタリア戦争で、フランス、オスマン帝国と戦った。カール5世の子、フェリペ2世は、1571年レパントの海戦でオスマン帝国海軍(セリム2世)を打ち破り、スペイン海軍は無敵艦隊と言われるようになった。続き、フェリペ2世はポルトガル王位も兼任し、アジア貿易の利権を獲得した。その結果、スペインは「太陽の沈まぬ国」と言われた。対イギリス政策としては、メアリ1世と結婚し、イギリスにカトリックを復活させるが、エリザベス1世と対立し、1588年、アルマダ海戦(海賊ドレークが活躍)で無敵艦隊が敗北した。

全盛期のスペインの躓きは、オランダの独立があった。スペイン国王フェリペ2世は熱心なカトリック教徒であったが、商工業の発達したオランダではゴイセン(カルヴァン派)が多かったため、フェリペ2世がオランダへの圧迫強め、カトリックの強制や重税を課した。それに対し、オランダはオラニエ公ウィレムが1568年に反乱を起こし、オランダ独立戦争が始まった。スペインは。オランダの分裂を促し、北部7州(独立派)が、1579年にユトレヒト同盟を結成し、ネーデルラント連邦共和国の成立を宣言し、南部10州はアラス同盟を結成し、スペインとの戦争中止を決め、スペインにとどまった(のちのベルギー)。しかし、オランダは最終的にスペインに勝ち、1609年に休戦条約が結ばれ、ネーデルラント連邦共和国は事実上独立した(首都はアムステルダム)。

〔109〕イギリスの隆盛と混乱

テューダー朝はヘンリ7世により創始されるが、その子ヘンリ8世が1534年に首長法を発布し、イギリス国王を教会の首長とするイギリス国教会が成立した。次のエドワード6世が、1549年にイギリス国教会の礼拝式の様式を定めた一般祈祷書(カルヴァン派的教義)を作成したが、次代のメアリ1世はカトリックに戻る。その後、跡を継いだエリザベス1世は絶対王政全盛期を迎え、統一法を発布しイギリス国教会を確立する。また、スペインの無敵艦隊を1588年、アルマダ海戦で撃破した。内政面では、この時代に、羊毛生産の拡大を受け、第一次囲い込み運動(地主たちが農民を追い出す)が盛んになったため、毛織物工業を保護し発展させた。これはヘンリ8世のとき、トマス=モアが1516年に「ユートピア」で「羊が人を食う」と批判した。海外政策では、1600年に東インド会社を設立し、アメリカのヴァージニア植民地を開拓した。イギリスの王政の特徴は、地方有力者(ジェントリ)の協力が必要であった。しかし、エリザベス1世がなくなると、テューダー朝が断絶し、スチュアート朝が成立した。スチュアート朝のジェームズ1世はスコットランド王であったため、スコットランドとイギリスの両国を治めた。ジェームズ1世は王権神授説を唱え、専制政治を行う。ジェームズ1世は国教会を強制するが、カルヴァン派(ピューリタン)の不満を買った。次のチャールズ1世も国教会を強制し、フィルマーの唱える王権神授説を強行し、専制政治を行った。議会は、こうした専制政治に抵抗し、1628年にエドワード=コークの提案で権利の請願を制定した。それに対し、チャールズ1世は議会を解散させた。しかし、カルヴァン派(プレスビテリアン)中心にスコットランドの反乱がおき、チャールズ1世は鎮圧の費用を賄うため、王は課税のため、議会を招集するが、議会の反発を買い、短期議会となり、すぐに解散した。そこで、チャールズ1世は長期議会を開催し、13年間の話し合いを行う。その間に議会は、王党派と議会派に分裂し、内乱に発展する。

〔110〕ピューリタン革命

1639年に起きたスコットランドの反乱(長老派が起こした乱)の戦費課税のためにチャールズ1世が短期議会、長期議会を開催する。始めは、チャールズ1世は星室庁裁判所の取り締まり強化し、議会を圧迫した。議会派内部では、長老派(立憲王政)と独立派(共和制)が対立するが、独立派のクロムウェルが鉄騎隊を組織し、長老派を追放した。これが1642年のピューリタン革命となる。1645年にネースビーの戦いで国王軍は敗北した。クロムウェルは共和制の穏健派水平派も弾圧し、最終的に1649年にチャールズ1世を処刑し、イギリスは共和制国家(コモンウェルス)となった。クロムウェルは、アイルランドを征服し、先住民のケルト人の土地を没収し、小作人化し、さらに1651年に航海法を制定し、オランダ商船のイギリスの港への出入りを禁止した。その結果、1652年から英蘭戦争が起きるが、イギリスが勝利した。

〔111〕名誉革命

クロムウェルの死後、1660年にスチュアート朝が復古し、チャールズ2世が専制政治を復活し、カトリックの復活を画策するが、議会の反発を買い、議会は対抗策として公職を国教会信者に限る審査法を制定、さらに人身保護法により国王による国民の不当な逮捕を禁止した。この対立の中から、政党が起こり、トーリー党(国王の権威を重視)とホイッグ党(議会の権利を重視)が成立した。チャールズ2世の弟ジェームズ2世も専制政治を行い、カトリックの復活を画策するが、またも議会の反発を買い、1688年に議会がジェームズ2世を追放し(フランスへ亡命)、名誉革命を起こした。議会は、「権利の宣言」を承認し、オランダからウィリアム3世とメアリ2世を招聘し、即位した。これにより、1689年に「権利の章典」が制定され、立憲君主制が成立した。同年、議会は寛容法を制定し、非国教会のプロテスタントの信仰の自由を認め、和解を図った。これを受け、オランダに亡命していたロックがイギリスに戻り、1690年に「統治二論」を著し、名誉革命の正当性を社会契約説から理論づけた。ウィリアム3世とメアリには子がいなかったので、メアリの妹のアンが女王が即位した。アン女王が没するとスチュアート朝が断絶し、ドイツのハノヴァ―選帝侯であるジョージ1世が国王として迎え入れられた。ジョージ1世はドイツ語しか解せず、そのため、ウォルポール(ホイッグ党内閣)による責任内閣制が確立した。内閣は議会に対して責任を負い、「王は君臨すれども統治せず」と言われた。

〔112〕ユグノー戦争

フランソワ1世(1515~1547)の死後、アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世と続くが、国内にカルヴァン派(ユグノー)が広まり、カトリックと対立が深まっていく、シャルル9世の治世時(摂政は母、メディチ家出身のカトリーヌ)に、1562年にユグノー戦争が起き、内戦状態に突入する。1572年に旧教徒のカトリーヌが首謀し、ユグノーを根絶しようとサンバルテルミの虐殺が起き、多数のユグノー貴族が虐殺され、内戦は泥沼化する。ヴァロワ王朝最後のアンリ3世が暗殺され、ブルボン家でユグノー(カルヴァン派)のアンリ4世が即位しブルボン朝に代わった。アンリ4世は、1598年にナントの王令を発布し、自身はカトリックに改宗する一方、国内のユグノーに信仰の自由と市民権を認めた。1610年、アンリ4世が暗殺され、ルイ13世が9歳で即位。宰相はリシュリュー。リシュリューは王権を強化し、三部会を停止し、ユグノーや貴族勢力を抑圧した。新教徒側に立ち、三十年戦争に介入し、ハプスブルク家に対抗する。

(続き)
世界史講義⑧ ルイ14世からアメリカ独立戦争

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プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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