教育評論家や子育ての専門家が言うことが学術的に間違っている理由
一億総教育評論家時代
よくテレビ番組などを観ていると「子どもに勉強させるためにご褒美で釣ってはいけない」だとか「子どもは褒めて育てるべき」だとか「ゲームは子どもに悪い影響を与える」といった発言が聞こえてくると思います。教育評論家や子育ての専門家といわれるような著名人がそういう発言をするので、聞いている方は、なんとなくそうだよねえ、と賛同してしまうと思います。しかし、これらの言説は本当に正しいのでしょうか?実は、学問には、さまざまな学問があり、少なくともこうした言動や考えについて科学的に有意義なデータを用いて検証している学問があります。それが一般的に行動経済学と呼ばれる学問です。もちろん、行動経済学といっても、それは大きなジャンルなので、細かく、教育経済学であるとか、そういう派生した専門的な学問がありますが、ここでは行動経済学として理解しておきましょう。こうした行動経済学では、大規模なデータを用いて、こうした教育上の指針について検証しています。その結果、先ほどの三つの言動はすべて誤っているといわれてしまうものなのです。
これは私個人の見解や何らかの教育哲学に基づいた意見では無く、経済学、とりわけ行動経済学の世界などで、データを用いて研究された結果、「ご褒美で釣ってもよく」「褒め育てをするのはよくなく」「ゲームをしても悪い影響を与えない」と言われているわけです。ベストセラーとなった『統計学が最強の学問である』の著者である西内啓は、同著の冒頭で、次のように述べています。
不思議なもので、教育という分野に関しては、まったくといっていいほど素人でも自分の意見を述べたがるという現象がしばしばおこる
と。確かに日本では、教育を受けたことがない人がほぼ存在しないといって良いので、教育に一家言あるという人は少なくないでしょう。これは、まさに一億総評論家状態にあるといえるかもしれません。さらに西内氏はこうも指摘しています。
どのような教育がいいのか、という問いへの回答は、教育される本人の特性や能力、環境などさまざまな要因によって左右される(中略)自分が病気になったときに、まず長生きしているだけの老人に長寿の秘訣を聞きに行く人はいないのに、子どもの成績に悩む親が、子どもを全員東大に入れた老婆の体験記を買う、という現象が起こるのは奇妙な事態だと思わないだろうか
もちろん、だからといって「子育てに成功したお母さんの話を聞きたい」という欲求に問題があるというわけではありません。そうではなく、どこかの誰かが子育てに成功したからといって、同じことをしたら自分の子どもも同じように成功するという保証はどこにもないことは知っておかなければならないでしょう。子育てに成功したお母さんの体験談が多くの人に求められる一方で、そうした体験談は、往々にして、数多の研究が示す「子どもの学力にもっとも大きな影響を与える要因」については、ほとんど触れていません。それは、親の年収や学歴です。
文科省の調査によると、親の学歴や所得が高い方が子どもの学力が高いことが示されています。また、「学生生活実態調査」(2012年)によると、東京大学では、親世帯の平均年収は約1000万円となっており、世帯収入が950万円以上の学生の割合が、なんと約57%を占めています。「民間給与実態調査」(2012年)における給与所得者1人あたりの平均年収が408万円、「家計調査」(同)の2人以上勤労者世帯の平均年収が623万円なので、東大生の親の所得がいかに突出して高いか、理解できるでしょう。
子どもを全員東大に入れたなどという話は、とても一般的とはいえないわけです。むしろ、例外中の例外です。しかし、教育という分野においては、そういう例外的な個人の体験談ほど、注目されがちであるようにも思えます。そもそも、特定の個人の成功体験を一般化するということはとても難しいです。ましてや、「例外中の例外」である個人の逸話を一般化することは尚更難しいわけです。それにも関わらず、そうした逸話を闇雲に信じて同じ事をしてしまっては、かえって子どもを成功から遠ざけてしまうのではないでしょうか。教育を考えるときに大切なのは、たった一人の個人の体験記ではありません。個人の体験を大量に観察されることによって見いだされる規則性です。
米国の落ちこぼれ防止法で111回も使われた言葉
また、断片的な個人の経験から、社会全体に関わる政策などの議論をすることも同様に慎重でなければいけません。しかし、教育政策には、多分に権威のある人の自分の経験に基づく発言が反映されるきらいがあります。たとえば、経済財政諮問会議の議事録をみても、教育再生が議論に上がった途端、財務大臣や経済再生担当大臣など、およそ教育の専門家といえない人までもが「私の経験によると」と自分の経験談をもとに、主観的な持論を展開することが少なくありません。
一方、財政政策や経済政策について、文部科学大臣が「私の経験から」と発言する場面はこれまでみられていません。もしそんなことをしたら、当然それは主観的な意見に過ぎないのでは無いか、その根拠は何か、と問われるに違いありません。このように日本では、まだ教育政策に科学的な根拠が必要だという考え方はほとんど浸透していないのです。
一方、米国は2000年代初めには、こうした状態を脱しています。米国は、2001年にブッシュ政権下で成立した「落ちこぼれ防止法(No Chiid Left Behind Act)」が、転換点となりました。この法律の中では、実に111回も用いられている象徴的な言葉があります。それが「科学的な根拠に基づく」というフレーズです。この法律によって、米国の教育政策は大きく舵を切ることを余儀なくされました。
次いで、2002年に「教育科学改革法(Education Science Reform Act)」が制定されたことによって、自治体や教育委員会が国の予算をつけてもらうためには、自分たちの行っている教育政策にどれくらいの効果があるのかという科学的根拠を示さなければならなくなりました。そのため米国では、自治体や教育委員会が、自ら積極的に教育政策の効果を科学的に検証し、そこから得られた知見が、自治体や国など全体の政策に反映されるようになっています。これを「科学的根拠に基づく教育政策」または「エビデンスベーストポリシー」といいます。
端的に言えば、科学的根拠に基づく教育政策とは、「どういう教育が成功する子どもを育てるのか」ということを科学的に明らかにしようとする試みです。このために、経済学者は一体何をしているのでしょうか。まず、「どういう教育が成功する子どもを育てるのか」という決して目に見えないものを数字で示します。経済学者は、「子どもの目がキラキラするようになった」とか「学校が活気にあふれている」などといった、人によって見方が変わってしまう主観的な表現で「教育に効果があった」と言ったりしません。また、自治体や政府の報告書の中によく登場するような「満足しましたか」といった子ども自身に聞いたアンケート調査の集計を「エビデンス」と呼ぶこともありません。あくまでも、客観的な数字をもとに事実を示さなければなりません。
「教育の効果は数字では測れない」ということを言う人もいるかもしれません。もちろん、教育のすべての側面を数字で表せるわけではありませんが、最近の経済学や心理学の貢献によって、さまざまな家庭を起きつつも、教育の効果は数値化が可能になってきています。教育以外の政策では、たとえば、地球温暖化政策も高速道路検察も、それらにどのような効果があったのかを数字で示すことで定着しています。そうしないと、税金を払っている国民の納得を得られないからです。教育も例外ではないでしょう。
経済学者がしようとしているもうひとつのことは、それは「どういう教育が成功する子どもを育てるのか」という問いについて、その原因と結果、すなわち因果関係を明らかにすることです。因果関係という言葉は誤用されていることも多いので、ここで例を示しつつ説明します。文部科学省では、「全国学力・学習状況調査」という学力テストの結果を用いて、子どもの学力と家庭環境にどのような関係が観られるかを分析しています。その分析によると、「親の年収や学歴が低くても学力が高い児童の特徴は、家庭で読書をしていること」だとされています。この結果を受けて、多くのメディアは「子どもに読書をさせることが重要だ」と報道をしています。果たしてこの報道は正しいのでしょうか。
残念ながら正しいとはいえません。この報道には、二つの誤りがあります。第一に、読書と学力の間に因果関係があるように想起させる表現になっていることです。「因果関係」と「相関関係」、どちらも二つの出来事の関係性を示すときに用いられる言葉ですが、決定的に違う点があります。因果関係は、Aという原因によってBという結果が生じたことを意味しています。しかし、相関関係は単にAとBが同時に起こっているということを意味しているに過ぎません。相関関係は二つの出来事のうちどちらかが原因で、どちらかが結果であるかを明らかにするものではないのです。相関関係にあるということは、必ずしも因果関係があることを意味していません。つまり、読書をしているから子どもの学力が高い(因果関係)のではなく、学力の高い子どもが読書をしているに過ぎない(相関関係)可能性があるのです。「読書をする」ことが原因で、「学力が高くなる」という結果がもたらされていることがはっきししないのに、本を買い与えたり、読み聞かせしたりしたら、お金や時間の無駄遣いになってしまうかもしれません。
また、こうした報道には、もう一つ誤りがあります。それは「見せかけの相関」の可能性を検討していないことです。つまり、読書にも学力にも影響するような「第三の要因」があるかもしれないのに、そのことを考慮していないのです。「第三の要因」といして、たとえば、「子どもに対する親の関心の高さ」などが考えられます。子どもに対する関心が高い親は、子どもが勉強するように促すでしょうし、同時に子どもに本を買い与えたりもするでしょう。その「関心の高さ」こそが両方の変化を同時に引き起こしているにもかかわらず、あたかも、読書と学力の間に相関関係があるように見えてしまう。これが「見せかけの相関」です。間違って、見せかけの相関を因果関係と解釈してしまうと誤った判断のもとになります。では因果関係を明らかにするために、経済学者はどのような方法を用いるのでしょうか。
教育で「実験」をする
ここでは経済学では無く、医学でよく用いられる手法を理解することが役立ちます。医療における「治験」という言葉をご存じでしょうか。「治験」とは治療における臨床試験のことを指し、新しく開発された薬に本当に病気を治す効果があるのかを確かめるために行われる実験です。治験に参加する被験者を、新しく開発された薬を投与される人(これを「処置群」または「トリートメントグループ」と呼びます)と、偽薬またはプラセボと呼ばれる実際には効果がない薬を投与される人(これを「対照群」、または「コントロールグループ」と呼びます)にランダムに分けて、一定期間経過を観察した後で、新しく開発された薬を投与された人の症状と、偽薬を投与された人の症状を比較します。前者の治癒率が、後者の治癒率よりも高く、その差が「統計的に有意」であれば、この薬には、因果関係があったといえるでしょう。
この二つのグループの差が統計的に有意であるというのは統計学の用語(注1)で、もう少し平たくいうと、差が統計的に有意であるというのは、処置群と対照群の差が、偶然による誤差の範囲内ではない、何か意味のある差だということです。私たちは、日常生活でもよく「差」という言葉を使いますが、その差が単に偶然による誤差の範囲なのかについてあまり注意を払っていません。しかし、統計的に有意な差があるかどうかを確認することは非常に重要です。たとえば、学校間の学力のばらつきが小さい地域にあるA校とB校との間に5点の平均点の差が出た場合、その差は統計的に有意な「何か意味のある差」かもしれません。しかし、学力のばらつきが大きい地域にあるC校とD校において平均点に10y点の差があったとしても、それは統計的に有意ではない、すなわち単なる偶然による誤差ということもありえるからです。
実験は、本来医学など自然科学でよく用いられる手法でした。しかし、近年では、経済学などの社会科学の分野でも因果関係を明らかにする手法として用いられるようになってきています。誤解を恐れずいれ、経済学者は、教育の分野でもこの「実験」を行っているのです。経済学は「社会科学の女王」と呼ばれ、社会現象のメカニズムを明らかにするときに、できる限り主観的な見方を配して「科学」たろうとしてきた歴史を持ちます。そして、経済学者は時に子育て中の親ですら真剣に悩んでしまうような教育問題に対して答えを出そうと努力と挑戦を続けてきました。どこかの誰かの成功体験や主観に基づく逸話ではなく、科学的根拠に基づく教育を、と経済学者はそう提案しているのです。
子どもをご褒美で釣ってはいけないのか?
「子どもを勉強させるために、ご褒美で釣ってはいけないのか?」
「子どもは褒めて育てるべきなのか?」
「ゲームは、子どもに悪い影響があるの?」
この問いは、子育て中のご両親の多くが悩む問題だと思います。ここで、そんな問題に科学的根拠に基づいて回答していきましょう。「子どもを勉強させるために、ご褒美で釣ってはいけないのか」。これは、子育て中の友人たちからもっとも頻繁に相談を受ける内容です。「にんじんをぶら下げれば勉強するんだったらそれでいいじゃないか」という考え方もあるのかもしれません。しかし、ご褒美で子どもを釣らなければ勉強させられないなんて、親として失格なのではないかと悩まれる親御さんも多いようです。
実は、経済学はこの問いについて、科学的根拠に基づく答えを持っています。そもそも経済学とは「人々が(ご褒美のような)インセンティブにどのように反応するのか」を明らかにしようとする学問なのです。どの家庭でも、親は子どもに勉強させようとあの手この手を尽くします。「今ちゃんと勉強しておくのが、あなたの将来のためなのよ」。後に詳述しますが、おそらく多くの親御さんが口にしたことのあるこの台詞は、台詞自体の効果はともかくとして、内容としては、経済学的にも正しく明らかになっています。子どものころにちゃんと勉強しておくことは、将来の収入を高めることに繋がるのです。
経済学的には「教育の収益率」という概念があり、「1年間追加で教育を受けたことによって、その子どもの将来の収入がどれくらい高くなるのか」を数字で表します。そして、教育投資への収益率は、株や債券など金融資産への投資などと比べても高いものであることが多くの研究で示されています。今ちゃんと勉強しておけば、将来の収入が高くなることは数字で示されているにも関わらず、なぜ子どもたちは目の前にご褒美がなければちゃんと勉強しないのでしょうか。
人間には、どうしても目先の利益が大きく見えてしまう性質があり、それ故に、遠い将来のことなら冷静に考えて賢い選択ができても、近い将来のことだと、たとえ小さくとも、すぐに得られる満足を大切にしてしまうのです。たとえば、半年後の正月に祖父母から5000円のお年玉がもらえると分かっている子がいるとしましょう。その子に「1週間もらうタイミングを遅らせればお年玉は5500円に増えるよ」と伝えると、その子どもは「だったら、1週間我慢して5500円をもらうよ」と答えるわけです。一方、明日の誕生日に祖父母から5000円の小遣いがもらえるということになったとしましょう。その場合、「1週間延期する代わりに小遣いは5500円になるよ」といわれても、すぐに得られる満足を優先し、明日の5000円を選んでしまうということが生じてしまいます。
このように、近い将来の満足を優先する状態は、子どもが勉強するときにも生じて言います。遠い将来のことをきちんちと考えればちゃんと勉強したほうがよいことがわかっているのに、つい勉強せずに楽をするという近い将来の満足を大切にし、その結果「勉強するのは明日からでいいや」と先送りにしてしまうのです。こういう先送り行動は、子どもだけにみられるものであはりません。長い目で見ればダイエットし、禁煙しなければならないことはわかっているのに、つい目先の誘惑に負けてたくさん食べてしまったり、タバコを吸ってしまう、こういう経験は、大人にだって少なくないはずです。人間は、「今」と「将来」を比べると、今目の前にある利益や満足のほうを優先しがちな「選好(個人の「好み」)」を持っており、これを経済学の用語では「時間割引率が高い」という。そして、近い将来の時間割引率のほうが遠い将来の時間割引率よりも高くなることを経済学の用語で「双極割引」といいます。
「目先の利益や満足をつい優先してしまう」ということは、裏を返せば「目の前にご褒美をぶら下げられると、今、勉強することの利益や満足が高まり、それを優先する」ということでもあります。実は、子どもはすぐに得られるご褒美を与える「目の前ににんじん」作戦は、この性質を逆に利用し、子どもを今勉強するように仕向け、勉強することを先送りさせないという戦略なのです。
「テストで良い点を取ればご褒美」と「本を読んだらご褒美」ーどちらが効果的?
「テストで良い点を取ればご褒美を上げます」「本を1冊読んだらご褒美をあげます」。これらのうち子どもの学力を上げる効果を持つのはどちらでしょうか。ご褒美が子どもの出席や学力にどのような因果効果を持つかについて、精力的に研究を行っており、ジョン・ベイツ・クラーク賞の受賞者でもあるハーバード大学のフライヤー教授は、このご褒美の因果効果を明らかにする実験を行っています。これは、米国のシカゴ、ダラス、ヒューストン、ニューヨーク、ワシントンDCの5都市で、実に94億円を使い、約250校、小学2年生から中学3年生まで約3万6千人もの子どもが参加した大規模なものでした。このフライヤー教授の研究を理解するには、子どもの教育成果の分析に持ちいるもっとも標準的な分析枠組みである「教育生産関数」を知っておくと便利です。これは別名「インプット・アウトプットアプローチ」とも呼ばれ、授業時間や宿題などの教育上のインプットが、学力などのアウトプットにどれくらい影響を与えているのかを明らかにしようとするものです。
フライヤー教授が実施した実験は、大きく分けると2種類ありました。一つは、ニューヨークやシカゴで行われたもので、教育生産関数でいうところの「アウトプット」すなわち学力テストや通知表の成績などをよくすることにご褒美を与えるというものです。「テストで良い点を取ればご褒美をあげます」はこちらに該当します。もう一つは、ダラス、ワシントンDCで行われたもので、教育生産関数における「インプット」、すなわち本を読む、宿題を終える、学校にちゃんと出席をする、制服を着るなどのことにご褒美を与えるというものです。「本を1冊読んだらご褒美をあげます」はこちらに該当します。
この2種類の実験のうち、子どもたちの学力を上げる効果があったのはどちらでしょうか。インプットにご褒美を与えると、子どもたちは本を読んだり、宿題をしたりするようになるのでしょうが、必ずしも成績が良くなるとは限りません。一方、アウトプットにご褒美を与えることは、直接成績をよくすることを目標にしているのですから、直感的にはアウトプットにご褒美を与えるほうがうまくいきそうに思えます。しかし、結果は、逆でした。学力テストの効果がよくなったのは、インプットにご褒美を与えられた子どもたちだったのです。
続く
注1:統計的に有意であるとは、結果が偶然ではなく、特定の効果や差が存在することを示す統計的な証拠があることを指します。これは、統計的な検定を通じて得られるp値が特定の閾値(通常は0.05または5%)以下である場合に達成されます。しかし、これは単に結果が偶然よりも起こりやすいということを示しているだけで、その結果が重要または実用的に意味があるとは限りません。統計的な有意性を理解するための一つの例を考えてみましょう。あなたがコインを投げて、表が出る確率が裏が出る確率と同じであるという帰無仮説を立てたとします。次に、このコインを10回投げて、全て表が出たとします。この結果は偶然に起こる可能性がある(2の10乗で1/1024の確率)ですが、それは非常に低い確率です。したがって、あなたはこの結果が統計的に有意であると結論づけ、コインが公正ではないか、あるいは何らかの力が作用していると推測するかもしれません。しかし、統計的な有意性はその解釈に注意が必要です。統計的に有意な結果は、観察された効果が偶然ではなく、実際に存在する可能性が高いことを示していますが、それが必ずしも実用的に重要、または科学的に重要であるとは限りません。例えば、非常に大きなサンプルサイズを持つ研究では、非常に小さな効果でも統計的に有意になる可能性がありますが、その効果は実際の問題に対してほとんど影響を及ぼさないかもしれません。また、統計的な有意性は、ある特定の研究の結果が再現可能であることを保証するものではありません。再現性は、同じ研究が独立して行われた場合に同じ結果が得られる確率を指します。統計的に有意な結果を持つ研究でも、その結果が再現されない場合があります。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |