教養とは何か?~中学受験、高校受験、大学受験に生きる教養
01 アクション映画を楽しむのにも教養があると違う?
教養とは何か?その問いに答えるのは、難しいといわないとまるで教養が無い人のおうなので、大抵の人が教養とは何か、という問いに答えるのに、ああだこうだと色々四苦八苦言い訳をして話始めるものですが、本記事では、教養とは何か、教養にはまず最低限の知識が必要だと考え、最低限の知識を備えていることを必要条件としてお話ししていきたいと思います。そして、そうした最低限の知識は人生を生きることにおいて重要な役割を果たします。法律や経済の知識が、社会を生きていく上で必要なことはあまり説明しなくても分かるかと思いますが、実は、たとえばアクション映画を見るにしても、教養があるとないでは確実に楽しみ方が異なってき、更にいえば、より豊かな楽しみ方ができるといわれると驚かれる方も多いのではないでしょうか。たとえば、保護者の皆さんなら大抵は知っていて、観たこともあるはずであろう『ダイ・ハード』というブルース・ウィリスが主演のアクション映画があります。え、あれって、ブルース・ウィルスが演じるマッチョな刑事ジョン・マクレーンが悪者をぶちのめす脳みそいらない系の痛快アクション映画じゃないの、といぶかしく思われる方、少なくないと思います。ハリウッド映画の王道エンターテイメントであることは間違えないのですが、こうした一見教養とは無関係そうに見える『ダイ・ハード』ですら教養がないと心底楽しむことはできないのです。
途中までのあらすじはこんな具合です。マンハッタンの5番街でデパートが爆破され、その直後、サイモンと名乗るテトリスとから、ニューヨーク市警に次の犯行予告の電話がかかってきます。主人公のマクレーン刑事が「あること」をしないと、次の標的を爆破するというのです。マクレーンはその日、停職中で二日酔いでしたが、仕方なく「あること」をするためにハーレム(マンハッタンの黒人が多く居住するエリア)に赴きます。その「あること」とはハーレムのど真ん中でで、一人丸腰で、「I hate niggers.(俺は黒人なんか大嫌いだ)」と書かれた看板を掲げて許しが出るまで立っていろ、無事に帰られるかな、というゲームでした。看板を背負っておっかなびっくり佇むマクレーンに、自分の店から偶々見かけた「ズース」という名前のアフリカ系の男がマクレーンに近づいてきて警告します。「すぐに止めないと、とんでもないことになりますよ」と。その直後に、近くをたむろしていたチンピラに見つかって、マクレーンは取り囲まれてしまいます。襲われる最中、ズースはマクレーンを助け、二人タクシーに乗り込み間一髪逃げ込みます。
そのタクシーの中で奇妙な会話がなされます。日本語字幕によるとこういう感じです。「悪かったよ。」「ジュースと呼んだな?」「違うのか?」「ジュースじゃない。俺の名前はズースだ。ギリシア神話に出てくる。ゼウスはたたりの怖い神だぞ。文句あるか?」と。命からがら逃げ押せた直後なので、何で名前の呼び間違えについて議論してしるのでしょうか。しかも、なぜ「ジュース(果汁)」になっているのでしょうか。何も考えず、あるいは何も知らずに映画を観ていると違和感すら感じないかもしれません。
ここでのやり取りをちゃんと訳すと次のようになります。「OK。ヘズース。巻き込んじまって悪かったな。」「どうしてさっきから俺のことをヘズースって呼ぶんだ。プエルト・リコ系に見えるか?」「さっきの奴が、ヘスーズって呼んでたじゃないか」「そうじゃない。あいつは、『ヘイ。ズース』っていっていたんだ。俺の名前はズースだ。」「ズース?」「ずーす。オリンポス山の。アポロンの親父と同じ。俺を怒らすとケツの穴に雷落とすぞ、のズース(ゼウス)だ。文句あるか。」となります。字幕なので、一行とかで読み切れるように、相当情報を切り詰めているわけですね。なので、日本語字幕だけを観ていると、このシーンのやり取りはさっぱり訳分からない代物になってしまうわけです。マクレーンは「ヘイ、ズース」を「ヘズース」と聞き間違えたわけですが、「ヘズース」はJesus(イエス)のスペイン語読みで、これはヒスパニック系では割と良くある名前なのです。そして、ニューヨークでヒスパニックといえば、まずはプエルト・リコ系ということになるわけです。マクレーンが「ヘイ、ズースという呼びかけを「ヘズース」と聞き間違えたのを訂正する際に、ズースが「プエルト・リコ系に見えるか」というのはそういうわけです。見えるわけがないのは、ズースがどう見てもアフリカ系だからです。
さて、このようにきちんと訳して多少事情を説明しましたが、それでもこのシーンの意味は教養がないと意味が分からないシーンになってしまいます。名前を聞き間違え訂正するという、まどろっこしく、アクション映画なのに、そのスピード感をそぐようなやり取りを、なぜわざわざ挿入したのは何故なのか、その理由はちょうど後に続くシーンにあります。
タクシーで警察署に二人が逃げ込むと、サイモンから再び電話がかかってきます。どこかで二人を観ていたサイモンは、マクレーンを助けた黒人を電話口に出せと要求し、こう呼びかけます。「黒いサマリア人だな?」。ズースは「黒で悪いか」と答え、電話は切れてしまいます。これでも何も気にせず通り過ぎてしまっては、やはり先程の下りが意味不明のままです。もし聖書の「よきサマリア人の譬え話」を知っている人は、ああ、そういうことか気が利いているね、と思うことができるかもしれません。『ルカによる福音書』第10章には次のような話があります。
「ある律法の専門家が立ちがあり、イエスを試そうとしていった。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか』イエスが『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』といわれると、彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、想いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分ように愛しなさい』とあります。イエスはいわれた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』といった。イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ行く途中、追い剥ぎに襲われた。追い剥ぎはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たのだが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった、同じようにレビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人をみて憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋につれて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨を二枚取り出し、宿屋の主人に渡していった。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたは、この三人の中で、だれが追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか。律法の専門家はいった。『その人を助けた人です。」そこで、イエスはいわれた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(新共同訳『新約聖書』)
ここで出てくるサマリア人は、この文面だけでは分かりませんが、イエスが生きていた当時は、ユダヤ人から、同じ神を信仰しているはずなのにエルサレムの権威を認めようとしない彼らを差別していました。ヨルダン川西岸地区に住むサマリア人hユダヤ系ではあるが、移民と混血しており、汚れたものとして正統のユダヤ共同体からは排除していたのです。いわば異端の民として扱われていたわけです。しかし、イエスは、にも関わらず、神の教えに従っているの、君らが差別して、劣っている、下等であると見下しているサマリア人だ、と諭しているわけです、イエスにとって、隣人とそうでないものがあらかじめ決まっているわけではありません。人は人を助けることによって、隣人になると考えていたのです。イエスは「誰が強盗に襲われた人を隣人だと思うか」とは聞いていません。「隣人になったと思うか」と聞いているのもそういうわけがあるわけです、
この譬え話を踏まえて、『ダイ・ハード』の映画の話に戻りましょう。タクシーシーンをもう少し深読みしてみると、呼び間違えられているのは、イエス(ヘズース)とゼウス(ズース)です。つまり、異なる宗教の神(正確にはイエスは神の子ですが)の名前です。多神教と一神教の違いでもありますね。刑事マクラーレンがズースを、ヘズースと間違えたのは、もちろん、チンピラの呼びかけ「ヘイ、ズース」を聞き間違えたからですが、同時にズースがまさしくマクラーレンの救い主(イエス)であったからでもあります。マクラーレンは、ズースによって助けられているのですから、
ズースが自分の名前をやっきになって訂正しているときに、俺はお前の神さんとは違う神様の名前を持っている、俺はお前にとっては異教徒だ、隣人じゃないぞと宣言しています。実際、ズースはキリスト教徒ではなさそうです。映画の中盤から、犯人サイモンの要求で、二人は一緒にさまざまな無茶なゲームに付き合わせることになるのですが、あるシーンで、マクラーレンの運転する車でセントラルパーク内を暴走する羽目になります。とんでもない乱暴運転で、怖くなったズースは「カトリックではどうやるんだっけ?」と十字の切り方を尋ね、マクラーレンが「北、南、西、東」と答えます。ズースはキリスト教徒の祈り方を知らないわけです、ちなみに、これは吹き替え版では、「まだ死にたくないぜ」「神様にでも祈ってな」というやりとりになっており、さらに字幕ではズースが「乱暴だぜ」というだけになっており、残念です(そういうわけで、私は映画を見るときは吹き替えを選ばず字幕を選びますし、できればオリジナルの音声にも耳を傾けるようにしています)。
ズースは異教徒、ということを確認して、もうちょっと映画を遡りましょう。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
社会=暗記という常識はもう古い!知識だけでは通用しない社会の問題(麻布中学校の社会の入試問題より)