慶應義塾大学の過去問で学ぶ小論文
慶應義塾大学では、国語の試験がなく、代わりに小論文や論述力を問う問題が出題されます。今回は、慶應大学の小論文や論述力を問う問題を通して、小論文作成のためのポイントを抑えていきましょう。
01 論述力
慶應大学の法学部で出題される論述力の問題から取り組んでみましょう。まず、前提としてこの試験では、「広い意味での社会科学・人文科学の領域から読解資料が与えられ、問いに対して論述形式の解答が求められる。試験時間は90分、字数は1000文字以内とする。その目的は受験生の理解、構成、発想、表現などの能力を評価することにある。そこでは、読解資料をどの程度理解しているのか(理解力)、理解に基づく自己の所見をどのように論理的に構成するか(構成力)、論述の中にどのように個性的・独創的発想が盛り込まれているか(発想力)、表現がどの程度正確かつ豊かであるか(表現力)が評価の対象となる」ものです。
【問題】
次の文章を読み、筆者が立憲主義をどのような原則として理解しているのかを明らかにしつつ、それに対するあなたの考えを述べなさい。
公と私の区分は、決して人間の本性にもとづいた自然なものではない。人間の本性からすれば、自分が心から大切だと思う価値観は、それを社会全体に押し及ぼしたいと思うものである。しかし、そうした人間の本性を放置すれば、究極の価値をめぐって「敵」と「友」に分かれる血みどろの争いが発生する。それを防いで、社会全体の利益にかかわる冷静な討議と判断の場を設けようとすれば、人為的に公と私とを区分することが必要となる。
立憲主義的な憲法典で保障されている「人権」のかなりの部分は、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由は、その典型である。
たとえば、社会の多数派が指示する宗教の信者が、自分たちの宗教を支援するために、税金の一部を使うというかたちで政治権力を利用することがありうる。そうした制度は、その宗教を指示 ひとしない人間にとっては、自分たちの財産を強制的に自分の支持しない宗教のために没収されることを意味するだろう。その制度が、当該宗教が正しい宗教であることを根拠としないで、公の場で根拠づけられることは、想像しがたい。
そうした制度を提案する人々は、別の論拠を公の場で持ち出すかもしれない。たとえば、宗教施設が文化財としての意義を持つとか、宗教団体が学校教育に関して重要な役割を果たしているとか。しかし、そうした根拠を持ち出すからには、同じように文化財としての意義をもつ他の宗教施設にも財政支援をすべきだろうし、学校教育にかかわっているからには、他の宗教団体にも財政支援を行うべきことになるだろう。
したがって、文化の保護や教育への助成といった別のもっともらしい根拠を持ち出して、外形上、特定の宗教を支援する財政措置がとられるときは、実際にとられている措置が、持ち出されている根拠と厳密に見合っているか否かを審査しなければならない。目的と手段とが厳密に見合っていなければ、やはり、当該措置の裏側には、特定の宗教を支援しようとする多数派の意図があると言わざるを得ない。そして、そうした措置は、当該宗教を支持しない人々を、その宗教上の信念のゆえに、社会のなかの二級市民として位置づけられていることになる。それは、信教の自由を明らかに侵害する。
憲法学のジャーゴン(専門語)で、違憲審査の場面において「厳格な審査基準」が適用させるべきだとされる一群の問題がある。思想・信条や表現活動に対する政府の規制が行われることがあるが、そうした規制が、思想・信条や表現の「内容にもとづく規制」、つまりどんな思想や表現が提示され、標榜されているかに即して規制をする場合には、裁判所は厳格な審査基準をあてはめて、そうした規制を行うべき真にやむを得ない理由があるかを審査すると同時に、そうした理由付けと、実際に採用されている規制手段とが厳密に見合っているか否かを審査すべきだとされている。
そうした「内容にもとづく規制」は、表向きはもっともらしい理由によって正当化されていても、実際には、特定の思想や表現を抑圧したり、あるいは助長したりするために行われている危険性が高いという想定に基づく審査手法である。表向きのもっともらしい理由と、実際に採用されている規制手段とが充分に見合っていない場合には、実は、そうした規制を設けた政治的多数派は、別の隠された意図を持ってその規制を設けていると推定されることになる。
究極的な価値観のせめぎ合いが社会生活の枠組みを破壊することのないよう、裁判所が公と私の境界線を警備する活動の一環である。
個人が私的な領域でいかに生きるかに干渉しようとする政策も、やはり、公と私の区分を損なうおそれが強い。二〇〇三年六月に、アメリカ連邦最高裁判所は、同性同士の合意に基づく性的交渉を犯罪として処罰するテキサス州法を、プライバシーの権利を侵す違憲の法律と判断した(Lawrence v, Taxas)。
合意した大人の人間の性行動を、それが性道徳に関する社会の多数派の観念に反するからといって、国家権力をもって禁止しようとすることは、人生をいかに生きるべきかは一人ひとりが判断すべきことだろう。公私区分論の大前提に反する。それは、個々人の生き方を自律的に判断する点で、あらゆる人の平等を認める立憲主義の前提と衝突する。
こうした論点を、憲法が明文で認めていない権利、同性同士の性的交渉の自由、を裁判所が新たに創設し、保護することができるか否かという問題として設定し、議論しようとする人々がいる。しかしながら、問題は、同性同士の性的交渉の自由が憲法上保障されているか否かという矮小化されたレベルのものではない・。具体的なあれこれの自由が憲法によって保障されているか否かは、二次的な問題であり、核心的な問題を解決した結果を後から振り返った時、たまたま現れる帰結である。
立憲主義から見たときの本当の問題は、人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を特定の人間に対して比定することが許されるか否かである。そうした能力を特定の人々についてのみ否定することは、彼らは社会生活を共に送る、同等の存在としてみなさいと宣言していることになる。そして、その理由は、彼らが心の底から大切にしている生き方が、社会の他のメンバーにとっては「気持ちが悪い」、あるいは既存の「社会道徳」に反するものと思われるからと言うものである。立憲主義はそうした扱いを許さない。
二〇〇三年の三月、文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会は、教育基本法の見直しを提言し、その中で「国を愛する心」の涵養を、法改正にあたっての原則の一つとして掲げている。この提言が論争を呼ぶのは、それが政党間の対立協調関係と複雑にからみあっているというだけの理由からではない。一つの問題は、「国を愛する心」つまり「愛国心」の内容ははなはだ不分明であるという点にある。
漢字の読み書きや算数の九九の計算法を教える。あるいは世界の主要国の首都の名前を教えるというのは、分かりやすい。テストをして答えを見れば生徒が理解したか否かを見分けることは容易である。これに対して「国を愛する心」が身についたか否かは、どうすれば見分けることができるだろうか。
危ぶまれるのは、国旗や国歌といったシンボルを通して、「国を愛する心」が目に見える態度として現れているか否かが、見分ける方法として用いられるという事態である。「君が代」をココロを込めて歌ったり、「日の丸」の掲揚を見て、ジーンときたりするココロが育つことで「国を愛する心」が身についたのだとすると、単に訓練された犬と同様の反射的態度が身についたというだけのことである。シンボルに対して、犬のように反応する生徒と、そうしない生徒とが現れたとき、両者で成績を異ならせることは何を意味することになるだろうか。
「国を愛する心」という標語で、中央教育審議会が真に目指しているのが、社会公共の利益の実現に力を合わせようとする心なのだとすれば、それを育てるのは、たとえば、身近な環境問題や差別問題をどうすれば解決できるかを、理性的に分析する指導であろう。過去の歴史のゆえに、それへの反感を含めて様々な反応を呼び起こしがちなシンボルを正面に掲げて、それへ示された態度いかんで成績を定めることは、むしろ社会公共の問題に対するそうした冷静な分析をさまたげ、かえって学校の中に、正体のはっきりしないモヤモヤした感情をめぐう亀裂をもたらしかねない。
シンボルはあくまでもシンボルであり、実体の代用品である。日本という社会が、各自の生き方や価値観をそれぞれ大切にし、その反面、社会公共の問題については、各人の人生観や世界観が直接に露出しないような、つまり、異なる人生観や世界観を抱く人にも受け入れられるような議論を通じて、何がみんなのためになるかについて合意を得ようとする冷静な社会であれば、自然と人々は、その社会のシンボルにも敬意を示すようにあるであろう。
国旗や国歌に対する人々の態度は、実際の日本社会に対する人々の態度を鏡のように示しているだけのことである。鏡に映る自分の姿が気に入らないからといって、鏡の像を無理やり加工しようとしても、得られるものは多くないであろう。
公教育の場に於ける「愛国心」教育は、思想・良心の自由を侵害するがゆえに問題だといわれる。もっとも問題なのは、憲法典の文言と教育基本法の文言とが矛盾するか否かという法令同士の関係にはとどまらない。そこで問われているのは、日本という社会の在り方である。
(長谷部恭男『憲法と平和をといなおす』ちくま新書)
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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