大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)4~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 「院政」から始まる中世

中世は院政から政治が展開していきます。早速、大学入試の過去問を見てみましょう。

【問題】

次の資料は、914年、醍醐天皇が臣下の意見を求めたときに、三善清行が当時の政治の欠点を指摘し、12箇条にわたって改善策を述べたうちの1条である。これを読んで、下記の設問に答えよ。

一、諸国に勅して見口の数に随いて口分田を授けんと請うこと

右、臣伏して諸国の計帳を見るに、戴するところの百姓、大半以上は、これ無身の者なり。ここに国司ひとえに計帳に随いて口分田を宛て給い、即ち正税を班ち給いて、調庸を徴納す。ここにその身ある者は、わずかに件の田を耕作し、すこぶる租調を進る。その身なき者は、戸口一人、私に件の田をうり、かつて自ら耕さず。租税調庸に至りて、ついに輸納の心なし。(中略)牧宰空しく無用の田籍を懐き、富豪いよいよあわせ兼ねたる地利をおさむ。ただ公損の深きのみにあらず、また吏治の妨げとなる。

設問

三善清行は、「国家財政が悪影響を受け、国司の地方政治が妨げられている」と指摘している。国司の職務の妨げとなるどのような事態が起きているのか、さらにどのような「百姓」の動きがこの事態を引き起こしたのかについて、100字以内で説明せよ。

(東京大学「日本史」1996年)

本問では、国司の職務が妨げられる事態とその原因となった「百姓」の動きについて、史料文を読み取った上でまとめることが求められていますが、その背景にあるのは、8世紀の奈良時代にすでに生じ、9世紀の平安時代になると深刻化した班田制の後退です。班田制(班田収授法)とは、6歳以上の男女に口分田を班給する制度です。6年おきに戸籍を作成し、登録された民衆(公民・班田農民)に対して、良民男子は2段、助詞はその3分の2、賤民(律令制には良民と賤民という身分の区分がありました)は3分の1が一律に班給されました。班田制の目的は、豪族による土地の私有化の防止と、なんといっても徴税対象の確保でした。班田農民には租庸調を中心にさまざまな税が課せられました。

しかし、班田制は、導入したての8世紀の段階で、早くもほころびを見せ始めていました。班田制は、唐の均田制にならったものでしたが、日本の国土は山がちで狭く、中国のような広大な土地がなかったからです。また、墾田を掌握する制度もなかったため、口分田が不足するのも時間の問題でした。そこで、三世一身法や墾田永年私財法が出されたわけです。

なお、これらの一連の土地政策は、かつては土地の私有化の進行という方向で説明されていましたが、現在では班田制の不備を補い、墾田の掌握を可能にしたものと評価されています。それゆえ、教科書にも「この法(墾田永年私財法)は政府の掌握する電池を墾田にまで拡大することにより土地支配の強化をはかる積極的な政策であった」と記述されるようになりました。

ただし、墾田制の問題点はそれだけではありません。第一に、戸籍作成や班田が困難であるということ。自動車もインターネットもない時代に6年に1度、全国の民衆を調べ上げ、土地を区画し、口分田を班給するという至難の業であったということは想像に難くないでしょう。加えて、税負担の加重による班田農民の浮浪・逃亡です。浮浪人に対して、もともとは本籍地に連れ戻す方針でしたが、後に浮浪先で掌握する方針に変更されます。それだけ浮浪人が跡を絶たなかったということです。

そこで、平安初期の桓武天皇の時期には班田を6年1班から12年1班に改めたり、国司の下で労役にあたる雑徭を年間60日から30日に半減させたりするなどの政策が実施されます。班田農民の負担を軽減し、班田の励行を図るという実情に即した形での変革が行われたのです。しかし、9世紀の平安前期には、30年・50年と班田が行われなくなる地域も現れました。律令国家の上から押さえつけるというやり方では班田制を維持できなくなってきたのです。

02 富豪の輩の成長

班田制が行われていれば、均等に口分田が班給されるわけですから、民衆に経済的な格差は生じません。土地の公有化という点で、社会主義的な制度であったといえるでしょう。しかし、それが行われなくなるということは、自由競争の世界になることを意味します。貧しい農民は、重い税負担に耐えられず、浮浪・逃亡する。一方、豊かな農民は、荒れた土地を開墾して勢力を勢力を広げる。班田制が機能しなくなった平安時代は、格差が拡大した時代でもあったわけです。

この時期に成長した有力農民を「富豪の輩」といいます。上から押さえつける力が弱まったとき、下から沸きあがる力として生じてきたのが富豪の輩でした。富豪の輩は、私営田や私出挙(貸付)を通して周辺の農民や浮浪人を支配下におき、さらに都の院宮王臣家(特権的な皇族や貴族)に土地を寄進して、徴税を逃れようとしました。そこに、浮浪・逃亡や偽籍が重なったことから、税収は悪化し、国家財政は悪化を深めていきます。、こうした状況下において、10世紀初めに改革に乗り出したのが、その親政を「延喜の治」とも称される醍醐天皇です。醍醐天皇は902年に、班田を命じると共に、延喜の荘園整理令を発して、違法な土地所有や富豪の輩と院宮王臣家との結託を禁止しました。税収の回復のため、班田制の再建を図ったのです。しかし、結局、この902年を最後に班田を命じる記録が残されていないことが、醍醐天皇の改革が失敗に終わったことを物語っています。富豪の輩の活動を縛ることはもはや困難でした。

03 実態とかけ離れた戸籍

問題の史料文は、文章博士(歴史学の教官)や式部大輔(式部省の次官)などを歴任し、『延喜格式』の編纂にも携わった三善清行が、914年に醍醐天皇の求めに応じて提出した意見書で、12箇条あることから「意見封事十二箇条」と呼ばれます。914年といえば、醍醐天皇が902年に班田を命じた12年後です。桓武天皇によって、12年(1紀1班)に改められていたので、次の班田を行う年にあたっていました。そこで、改革の進捗具合や現状について意見を求めたのでしょう。清行は、備中介(現在の岡山県西部の国司の次官)として赴任した経験から、地方社会の実情についてのよく知っていました。たとえば、「意見封書十二箇条」の別の箇所では、備中国の邇摩郷について述べています。

この地名は、7世紀半ばに斉明天皇が百済復興のため朝鮮へ兵を送ろうとした差異、この地で2万の兵を得たという話に由来するものでした。しかし、9世紀に清行が備中介として赴任したときには、老丁(61~65歳の男子)が2名、正丁(21~60歳)が4名、中男(17~20歳の男子)が3名しかいませんでした。それほどにまで地方は衰退していたのです。

こうした状況も踏まえて、問題の史料文で、清行が述べていることを読み取っていきましょう。清行は冒頭で「見口の数(実在する数)」に従って口分田を班給すべきだと意見しています。こんな当たり前のことをいうは、戸籍が実態を伴っていなかったと推測できるでしょう。たしかに、清行は続いて、「臣伏して諸国の計帳を見るに、戴するところの百姓、大半以上は、これ無身の者なり」と述べています。計帳(唐調の賦課台帳)に記載されている者の大半は「無身の者(実在しない者)」だというのです。

どうしてこのような状態が生じたのでしょうか?1つめの理由は、浮浪・逃亡です。逃げてしまっては現地にいません。そして、2つめの理由は偽籍の横行です。律令税制では、土地の面積に応じて課せられる祖を除いて、庸調に加えて労役や兵役は正丁を中心とする男子に課せられました。そこで、徴税を逃れるために男性を女性と偽って戸籍を記載したのです。醍醐天皇が班田を命じた902年に作成された阿波国(現在の徳島県)の戸籍では、記載された435人のうち、男性は59人のみで、女性は376人でした。また、百歳を超える女性も多数見られました。女性と偽り、また亡くなった者も登録して、口分田をもらうだけもらって税は納めない、ということです。戸籍は実態から完全にかけ離れていました。

そのような戸籍で、国司がまともに徴税できるわけがありません。史料文を続けて読んでみましょう。僅かながら実在する者(その身ある者)は口分田を耕作して租税を納めます。しかし、実在しない者(その身なき者)の土地は、戸口の一人が勝手にその耕作を他人に委ねているといいます。これが先程述べた富豪の輩による私営田経営です。そして、実在しないのを良いことに祖調庸も納めません。こうして、国司は(牧宰)は役立たずの帳簿を懐くのみで、富豪の輩は利を得るという状況が生じました。たしかに「国家財政が悪影響を受け(公損の深き)」、「国司の地方政治が妨げられて(吏治の妨げ)」います。国司は上から押さえつける力として戸籍を造って班田農民を支配しようとします。しかし、上から押さえつける力が弱まったとき、実態を反映した戸籍の作成が困難になりました。そうした中で「下からわき上がる力」として現れたのが、富豪の輩でした。そして、富豪の輩の活動によって国司は職務を遂行できなくなっていたのです。

解答例としては、

10世紀には作業が煩瑣なことから各地で増籍・班田が困難になり、徴税を逃れるために偽籍が横行するなど、戸籍は実態とかけ離れていった。こうした中で、貧富の差が拡大し、有力農民は私出挙を通して周辺の農民を取り込み、経営する私営田を院宮王臣家に寄進して保護を求め、国司は徴税を妨げられ国家財政は悪化した。

03 崩れ去る中央集権体制

いくら三善清行が実在する人数に従って徴税をすべきだと意見したところで、実態に即した戸籍を造る力が国司(律令国家)にないのですから、どうしようもありません。醍醐天皇の改革は、失敗に終わることで、班田制を立て直し、計帳に基づいて租税を取り立てることがもはや不可能であることがかえって明らかになったのです。そこで、律令制における従来のシステムを改める抜本的な改革が行われることになります。その柱となったのが、国司制度改革と税制改革です。

まず、国司制度改革では、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、一国の支配を一任することにしました。要は、ノルマの分だけ税を集めてきてくれ、その代わり、権限を与えるから好きにしても良い、ということです。これを「国司の徴税請負人化」と言います。その結果、国司でも最上級の者(多くの国では守、皇族が守である国では介)に権限が集中し、受領と呼ばれるようになりました。ノルマさえ達成すれば好きにして良いというのは、私腹を肥やしても良いということです。そこで強欲に収奪を行う受領が現れます。『今昔物語』に、谷族に落ちても平茸を採ってきたというエピソードと共に「受領ハ倒ルル所ニ土ヲ掴メ」という言葉が記された信濃国守・藤原信忠などが知られています。また、国司は美味しいポストになったため、私財を用いて得ようとする風潮も生じました。賄賂を贈る相手は、官吏の任免権を握る摂関家です。

次に税制改革では、全国的な土地調査によって公田の面積を確定した上で、それをもとに国司が富豪の輩に公田を割り当てて、その面積に応じて、官物・臨時雑役などを課すことにしました。人は勝手に移動しますが、土地はまさに不動産であり、動かないので、掌握は戸籍の作成よりも難しくありませんでした。国司が富豪の輩に割り当てる際の、公田を区分する単位を「名(田)」といい、名(田)を請け負わせる体制で「負名体制」と言います。

本来、国司は律令に基づいて職務を遂行する官吏でした。また、租庸調を中心とする税も律令に基づいて課せられるものでした。しかし、もはや戸籍・計帳を作成して班田農民をがんじがらめの支配することはできません。そこで、そのような上から押さえつけるチカラで支配する方法を断念したのが、この一連の改革と捉えることができるでしょう。ところで、上から押さえつける力はなぜ弱まったのでしょうか。

古代の前半には対外的危機に備えて律令に基づく中央集権国家の建設が目指されました。これを裏返せば、対外的危機が去れば、中央集権体制をとる必要もなくなるということです。8世紀半ばには唐の国内で大規模な反論(安史の乱)が起こり、唐の脅威は薄れつつありました。これを受け、軍事体制においても、辺境を除いて徴兵に基づく軍団兵士制が廃止され、郡司の子弟を中心とする健児の制が採用されました。ここに税収の減少による財政の悪化が重なります。中央集権体制というのは非常にコストのかかる支配体制です。そこで、対外的な危機も緩和されたり、無理してがんじがらめに支配することもないということで、中央集権体制はなし崩しになっていったというのは古代後半の流れであったわけです。

04 上皇の存在が中世を造る

中央集権体制がなし崩し的になり、上から押さえつける力が弱まったところに、下から沸きあがる力として現れたのが富豪の輩です。富豪の輩は、国司から名(田)を請け負うだけでなく、山林原野を切り開く開発領主に成長していきます。そして、徴税を逃れるために、所領を都の権門勢家に寄進する一方(寄進系荘園の成立です)、勢力の維持・拡大を図るべく一族で小武士団を形成しました。こうして、荘園や武士といった中世社会に不可欠な要素が用意されるのです。

ところで、古代と中世の時代区分について「古代=貴族の時代/中世=武士の時代」という認識で、中世は鎌倉幕府の成立(あるいはその前の平氏政権の成立)から始まると教わってきた方が多いかも知れません。しかし、現行の教科書では、中世は院政から始まっているのです。それは、中世という時代の捉え方にも関わります。現行の教科書では次のように記述されています。「こうして院政期には、私的な土地所有が展開して、院や大寺社・武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分散していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まって、中世社会はここに始まった」と。中央主権体制が弱まり、様々な存在は登場してくるわけですから多様性のある社会になります。そして、上から押さえつける力が弱まるということで、各自は自由に振り舞えるとともに、勢力を伸ばすのも衰退するのも自分次第ということになります。その意味で、中世は実力社会であったといえるでしょう。

そのような観点から、摂関政治から院政への移行について考えてみましょう。摂関政治は、あくまでも律令に基づく太政官の組織に依拠した統治システムであり、それゆえ何事も先例通りに行うことが重視されました。しかし、それでは開発領主や武士といった新しく生み出された新しい勢力に対処することができません。これに対して、院政では、上皇が法や慣例にとらわれない立場から専制的に実権をふるいました。広く権力が分散し、実力社会に移行する中で、既存の枠組みにとらわれない新たな秩序の建設者として求められたのが上皇の存在であったわけです。

そして、先例にとらわれない上皇だからこそ、武士を登用することができました。それは裏返せば、実力社会において上皇も武士のような実力で問題を解決できる者を必要としたということです。そうした上皇と結びつくことで台頭したのが桓武平氏です。桓武平氏から平清盛が現れ、後白河院政下で武士として初めて太政大臣になって実権を握りました(平氏政権の成立)。このようにして上皇の存在が中世の扉を開いたのです。

05 院政の始まり

1068(治暦4)年、時の摂関家を外戚としない後三条天皇が即位しました。天皇の父は後朱雀天皇、母は三条天皇の皇女で禎子内親王です。即位の際には、密教儀礼にのとった即位灌頂という儀式が行われ、これは鎌倉時代後期になると恒例化していきます。こうして、関白藤原頼通の娘が皇子を産まなかったことを背景に、後三条天皇は、親政を行い、自らの強い意志で国政の改革を推進していきました。側近には、有職故実書『江家次第』やその日記『江家』の著者としても知られる大江匡房ら学識に優れた人物を登用し、摂関家の所領の整理などに励みました。

特に、天皇は荘園の増加が公領(国衙領)を圧迫していると考え、1069(延久元)年には延久の荘園整理令を出し、徹底的な荘園の整理を進めていきました。これまでの醍醐天皇の902(延喜2)年の延喜の荘園整理令や、1045(寛徳2)年にも新たに成立した荘園を停止するなどした寛徳の荘園整理令がありましたが、いずれも整理令の実施は国司に委ねられていたため不徹底に終わっていました。

そこで、後三条天皇は、中央に記録荘園券契所(記録所)を設け、荘園の所有者から提出された証拠書類(券契)と国司の封国とを併せて審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど、基準に合わない荘園を停止しました。また、1072(延久4)年には、容積を測量するための枡の大きさを一定にしました。これは宣旨枡といわれ、枡の基準とした太閤検地まで用いられました。

荘園整理の例として、石清水八幡宮では、所有する荘園34箇所のうち、13箇所が整理の対象となるなど、延久の荘園整理令はかなりの成果を上げ、貴族や寺社の支配する荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になり、貴族や寺社は支配する荘園の整備に勤しむようになっていきました。一方で、国司の支配下にある公領で力を伸ばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を群・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を受け負わせるような対応策をとりました。また、田所・税所などの国衙の行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮のもとで、在庁官人が実務を担当しました。

在庁官人や郡司らは、公領を自らの領地のように管理したり、荘園領主に寄進したりしたため、かつての律令制のもとで国・郡・里の上下の区分で構成されていた一国の編成は、荘・郡・郷などが並立する荘園と公領で構成された荘園公領制と呼ばれる土地領有体制に変化していきました。この整備された荘園や公領では、耕地の大部分は名とされ、田堵など有力な農民に割り当てられ、田堵らは名の請負人としての立場から権利を次第に強めて名主と呼ばれました。名主は、名の一部を隷属農民に、また他の一部を作人と呼ばれる農民などに耕作させ、加地子を徴収し、その上で、主に米・絹布などで納める年貢や年貢以外の糸・炭・野菜など手工業製品や特産物を納入する公事(このような山野河海の特産物などを貢納することを万雑公事といいます)、そして労役を奉仕する夫役(ぶやく)などを領主に納め、農民の中心となっていきました。

後三条天皇の跡を継いだのは、その子である白河天皇です。1072(延久4)年に即位した白河天皇も父に習って親政を行いましたが、1086(応徳3)年には、幼少の堀河天皇に位を譲ると、自らは上皇(太上天皇の略称)となり、天皇を後見しながら比較的自由な立場で政治の実権を握り、直系子孫に皇位を継承させ「治天の君」として白河院政と呼ばれる時期を作りました。この時期の状況を伝える根本史料としては藤原宗忠による『中右記』があります。

ちなみに、院とは、もともと上皇の住居を意味し、院御所とも呼ばれていましたが、のちに上皇自身をさすようになりました。女院というのは、上皇と同じような待遇を与えられた天皇の后妃や娘を指すものとして用いられます。また、院庁というのは、院(女院)の家政機関で、その職員は院司と呼ばれました。

更に、白河上皇は院の権力を強化するために国司(受領)たちを支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士を組織し、源平の武士を側近にしていきました。そして、1107(嘉承2)年に堀河天皇が父よりも先になくなると、本格的な院政を開始し、この院政では院庁から下される文書の院庁下文や院の命令を伝える院宣が国政一般に次第に効力を持つようになりました。院政は当初、自分の子孫の系統に皇位を継承させるところから始まったのですが、法や慣例に拘らずに院が政治の実権を専制的に行使するようになり、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年余りも続きました。そのため摂関家は、院と結びつくことで勢力の衰退を盛り返そうと努めました。

06 保元・平治の乱

これまでみてきたように、公家社会では、摂関政治という政治形態から院政という新たな政治形態が登場してきたわけですが、こうした中で朝廷と院の関係は必ずしも円満だったというわけではありませんでした。両者の確執は、さらに摂関家藤原氏の内部抗争、武家の源平両氏の対立も巻き込んだ1156(保元元)年の保元の乱という形で表面化します。まず、武家の棟梁としての源氏が、前九年合戦で戦功を立て、後三年合戦の平定では自ら私財を投じて協力した武士に恩賞を与えたことにより、東国に勢力を広げていきました。そして、東国の武士団の中には、源義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えたため、朝廷は慌てて寄進を禁止したほどでした。

しかし、源義家のあと、源氏は一族の内紛が原因で勢力が衰えていき、これに変わって院と結んで発展していったのが、桓武平氏のうちでも平将門の乱を制圧した平貞盛の子平維衡から始まる伊勢・伊賀を地盤とする伊勢平氏でした。中でも平正盛は、瀬戸内海の海賊平定などで、白河・鳥羽上皇の信任を得て、昇殿を許される殿上人となって貴族の仲間入りをし、武士としても院近臣として重く用いられ、鳥羽院領であった肥前国神埼荘の管理も任せられるようになっていきました。その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子、平清盛でした。

1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、かねてより皇位継承を巡って鳥羽法皇と対立していた崇徳上皇は、摂関家の継承を目指して兄の関白藤原忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結んで、源為義・平忠正らの武士を集めました。これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いでいた後白河天皇は、忠通や近臣の藤原通憲(信西)の進言により、平清盛や為義の子源義朝らの武士を動員し、上皇方を攻撃して破ったのです。この乱が保元の乱と呼ばれるもので、その結果歯医者となった崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑されました。こうした院政の混乱ぶりやこの乱以後の武家の進出について『愚管抄』の著者である慈円は「武者の世」になったと表しています。

保元の乱ののち、今度は、院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治元)年に平治の乱が起こります。これは保元の乱で、勝利した後白河側の源平両氏が対立したもので、院政を始めた後白河上皇の近臣間でも対立が起こり、ついには清盛と結ぶ道憲に反感を抱いた近臣の一人藤原信頼が、源義朝と結んで兵を挙げ、道憲を自殺に追い込んだ事件です。しかし、武力に勝る清盛によって信頼や義朝は滅ぼされ、義朝の子、頼朝は伊豆に流されてしまいます。これが平治の乱のあらましです。この二つの乱に動員された兵士の数は僅かなものでしたが、貴族社会内部の争いに武士の実力で解決されることが明らかになり、武家の棟梁としての清盛の地位は急速に高まっていったのです(太政大臣就任)。

さて、平氏が全盛期を迎えた背景には、各地の武士団の成長と、それらの武士団を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命して、畿内・西国一帯の武士を平氏が家人としていったことに成功したことがあります。さらに、平氏一門は海賊や山賊などの追討使に任じられたり、受領となったりして、東国にも勢力を伸ばしました。一方で清盛は院近臣の立場を利用し、その娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れて、その子安徳天皇が即位すると外戚として権勢を誇りました。また、経済的基盤としても数多くの知行国と500余りの荘園を所有するなど、その政権の基盤は著しく摂関家に似たものがありました。清盛は京都の六波羅に邸宅を構えたので、その政権を六波羅政権と呼びます。この点から観ると、平氏政権は武家政権といっても従来の貴族的な側面が強かったといえるでしょう。

平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れていました。すでに11世紀後半以降、日本と高麗・宋との間で商船の往来が活発化し、12世紀に宋が北方の女真族の立てた金に圧迫されて南に移ってからは(南宋)、宋との通商はさらに盛んに行われるようになりました。清盛は、摂津の大輪田泊(神戸市)を修築し、瀬戸内海から九州の博多に至る国々や良港を獲得し、瀬戸内海航路の安全を確保して宋証人の畿内への招来を勧め、貿易を推進しました。

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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