大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)6~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 後醍醐天皇の理想と現実

南北朝の動乱について記した軍記物語『太平記』の後醍醐天皇に対する評価と書きぶりは、なんとも不可思議です。鎌倉幕府を滅ぼして、朝廷に政治の実権を取り戻した後醍醐天皇は、初めは名君と称えられます。しかし、いざ建武の新政が始まると、専制的な手法に離反が相次ぎ、一転して暗君として描かれます。その評価に一貫性はありません。現行の学校の教科は袖も、特に建武の新政に対しては批判的です。「天皇中心の新政策は、それまで武士の社会に作られていた慣習を無視していたため、多くの武士の不満と抵抗を引き起こした。また、にわかづくりの政治機構と内部の複雑な人間的対立は、政務の停滞や社会の混乱を招いて、人々の信頼を急速に失っていった」と書かれています。

腐りきった鎌倉幕府を倒したまでは良かったが、理想だけが先走りして現実からかけ離れ、政権は3年足らずで空中分解して、南北朝の混乱を招いた。読者諸氏の後醍醐天皇に対するイメージはこういう感じではないでしょうか。しかし、近年では、建武の新政は鎌倉時代からの連続性を認め、続く室町幕府の諸政策に繋がる先進性を評価する向きが見られます。また、鎌倉幕府の倒幕の過程についても、皇位継承を巡る後醍醐天皇の置かれた立場の捉え直しが進んでいます。ですので、次にみる後醍醐天皇の建武の新政に関する大阪大学の問題も、そうした動向を踏まえて出題されたものでしょう。

【問題】

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は自らの理念のもとに「建武の新政」と呼ばれる政治を行ったが、これは数年しか続かなかった。その理由について、鎌倉時代の政治との違いに留意しながら、具体的に述べなさい。(200字程度)

(大阪大学「日本史」2022年)

まず、後醍醐天皇がなぜ倒幕を目指したのか、その理由から考えていきましょう。そこには後醍醐の即位に関わる複雑な事情があります。大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子である後醍醐天皇(尊治親王)が即位したのは、1318年、31歳の時です。院政においては、治天の君である上皇の下で天皇は幼少で即位することを常としてきましたから、30代での即位というのは異例のことでした。それは、後宇多天皇の第一皇子である後二条天皇(邦治親王)が1308年に24歳の若さで亡くなってしまったことによります。そのため、皇位は持明院統の花園天皇に移りました。前の記事で見たとおり、持明院統と大覚寺統の皇位をめぐって争っていた時期ですから、大覚寺統としても次の候補者を立てなければなりません。そこで後醍醐にチャンスが訪れたのです。

しかし、後宇多は将来的に後二条の子孫が皇位を継ぐべきものだと考えていて、後醍醐の即位と同時に後二条の子でもある邦良親王が皇太子として立てられました。後醍醐ははじめ、後宇田の後継者であることを自認し、大覚寺統の結束と維持に努めていました。しかし、子孫に自らの地位を継がせたいと考えるのは人間の性でしょうか。邦良親王が即位せぬまま1326年に亡くなると、皇位継承は大覚寺統の後二条系統と後醍醐の系統には持明院統も加わった三つ巴の様相を呈するようになるのです。

ところで、かつては後醍醐天皇の即位は前の記事で触れた文保の和談(1317)で決定されたと考えられていました。そして、文保の和談では、後醍醐の即位とともに、今後は在位の年数を10年とすること、皇太子は大覚寺統の邦良親王とし、その次は、持明院統から出すことなどが決められ、これにより両統てい立が確立したというのが定説でした。しかし、10年という在位年数は史料的に根拠に乏しく、大覚寺統の天皇と皇太子が続くことを持明院統がよしとするはずがありません。また、皇位に関して「決められない」幕府がこの時に限って決断力を見せたというのにも違和感があります。それ故、近年では「和談」といってもただ幕府の仲介で話し合っただけで、両統で合意に達したわけではなく、持明院統の伏見上皇が亡くなったのに乗じて後宇多天皇の即位と邦良親王の立太子を決めたというのが実情であると考えられています。

後醍醐が皇位を己の子に継がせたいという意志をもったとき、その障害となるのは、明確な態度を示さないまま皇位継承の決定権を握り続ける幕府の存在でした。その意味で、後醍醐が倒幕に向かったのは必然であったといえるでしょう。正直なところ、文保の和談で後醍醐天皇は10年1代限りということが運命づけられていたとするならば、自らの子孫を皇位に継がせるため倒幕を目指すというストーリーはどんなにか描きやすいでしょうか。

持明院統との関係や父である後宇多上皇の思惑など、さまざまな要素が絡み合う中で即位した後醍醐は、後宇多の院政を停止するなど、天皇の権限強化を図るとともに、皇位継承に介入する幕府を倒すことを決意し、正中の変(1324)・元弘の変(1331)と二度にわたり倒幕を企図したものの失敗に終わったーというのが従来の教科書的な説明ですが、話はそう簡単ではありません。まず、兄、後二条天皇の子孫に皇位を継がせようとする父・後宇多に対する反発ということは、かねてから指摘されるところですが、先に少し触れたように、後醍醐には後宇多の後継者という自覚があり、真言密教の庇護者としての側面など多くのものを受け継いでいました。また、生前に自ら定めた後醍醐という識号も平安前期の宇多-醍醐という嫡子継承の構図を、父の後宇多との関係に重ね合わせたのでしょう。院政の停止と天皇親政の開始も、大覚寺統の基盤確立という視点から捉え直されています。

しかも、一回目の統幕計画とされる正中の変は、えん罪であったとの説が有力となりつつあります。そもそも、後醍醐は幕府から無罪判決を受けているのです。従来は幕府が弱腰で後醍醐を断罪できなかったと解釈されていましたが、よく考えると幕府が後醍醐に遠慮する筋合いはどこにもありません。正中の変が起こった1324年は、後宇多が亡くなった年でした。これにより、大覚寺統内でも後醍醐系と後二条系の間でわだかまりが生じます。そして、この機に乗じて持明院統が後二条系と組み、後醍醐が腹心の日野資朝らと開いていた無礼講にかけつけて統幕計画をでっち上げたというのが真相のようです(なお、日野資朝はあいまいな理由で佐渡に配流となっています。完全に無罪とするならば、持明院統と後二条系を処罰せざるを得ないので、真相をうやむやにしたまま幕引きを図ったという説明には説得力があります)。

以上の通り、後醍醐が当初から倒幕の意志を持っていたと考えるのは難しいですが、1330年に世継ぎと考えていた第二皇子の世良親王が早逝し、持明院統の量仁親王への譲位の圧力が高まると、具体的に統幕計画を練り始めたようです。計画は、側近の吉田定房の密告で発覚し、後醍醐は京都を逃れ、笠置山で挙兵しますが、幕府に捕らえられて隠岐に配流となり、代わって量仁親王が光厳天皇として即位しました。しかし、新興勢力である悪党は後醍醐を支持し、楠木正成が千早城で幕府に抵抗する一方、名和長年は後醍醐を隠岐から船上山(鳥取県)に脱出させます。また、幕府から離反する御家人も相次ぎます。結局、足利高氏(後の尊氏)が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻略して、1333年に幕府は滅亡しました。ところで、なぜ御家人は幕府に反旗を翻し、後醍醐についたのでしょうか。それは当時の鎌倉幕府の状況にも関わります。

02 執権政治の本質は合議制にあった

ここで問題文を読み返してみると「鎌倉時代の政治との違いに留意しながら」と条件がつけられていますね。そこで、鎌倉時代の政治体制について整理すると(1)将軍親裁(2)執権政治(3)得宗専制と推移したと捉えられます。まず、幕府成立当初は、草創者である初代将軍源頼朝の決裁によって全てが決められていました。これが(1)将軍親裁です。東国の武士のたち(御家人)は頼朝と共に平氏討伐のために戦ったわけですから、その主従関係は強固です。頼朝が決めたことに従うのは当然でしょう。

後に制定された御成敗式目には「右大将家の御時定め置かるる所」のような文言がたびたび出てきます。頼朝は1190年に上洛した際、後白河法皇から右近衛大将に任官(ほどなく辞官)されていますので、史料で「(先)右大将」など出てくれば頼朝のことです。頼朝が決めた先例は、御成敗式目にも採用され、武家社会で重きが置かれたのです。しかし、1199年に頼朝が亡くなると、若い2代将軍の頼家を補佐すべく、和田義盛・比企能員ら有力御家人と、大江広元・三善義信ら公家出身の官僚の併せて13人による合議体制が取られました。ですが、以前大河ドラマの「鎌倉殿の13人」で描かれたように、それぞれの思惑が絡み合って争いが生じ、そうした中で頼朝の妻である「尼将軍」北条政子の父・北条時政が頼家を廃して3代将軍として実朝を立て、実権を握ります。これが執権の始まりです。時政は晩年失脚しますが、その地位は子の義時から北条氏一族へと引き継がれていくことになります。

承久の乱の後、3代執権となった義時の子、北条泰時は、京都から迎えてきた幼少の藤原(九条)頼経を4代将軍として即位させる(摂家将軍)のに先立って、1225年、執権の補佐役として連署を置いて叔父の時房をこれにつけるとともに、有力御家人等11人を評定衆に選び、重要政務を合議させました。こうして(2)の執権政治が確立します。

それは、幼少の摂家将軍・皇族将軍(6代将軍宗尊親王以降は皇族から将軍を迎えます)の下で、北条氏が執権として実権を握ったということですが、一方で、承久の乱の勝利による全国政権化に対応したものとしても捉えられるでしょう。東国のローカルな政権であれば、将軍親政で十分にやっていけますが、朝幕関係で優位に立ち、西国まで支配を広げるとなると、組織による統治が必要となってきます。そのときに柱になったのが、合議制でした。大事なことは評定衆で話し合って決める。執権政治の本質は合議制だったのです。

03 北条氏の権力が頂点に達したとき、幕府は滅亡へ向かう

しかし、北条氏による権力掌握と、有力御家人による合議制は微妙な均衡によって成り立っていたもので長続きはしませんでした。やがて合議制は形骸化していき、北条氏嫡流(得宗)による専制体制が生じました。これを(3)得宗専制と言います。得宗の名は、2代執権北条義時の法名である徳宗によるものでした。得宗は、東北地方・九州地方を中心に広大な所領(得宗領)を保有しており、得宗家の家人である御内人が管理にあたっていました。5代執権・北条時頼の時代には、1247年に有力御家人の三浦氏一族を滅ぼし(宝治合戦)、1252年には5代将軍藤原頼嗣を廃して、皇族将軍として宗尊親王を迎えるなど、他氏や朝廷に対しても統制を及ぼすようになります。

そして、13世紀後半の二度に渡る蒙古襲来(元寇)を契機に得宗への権力集中が一気に進みました。元のフビライは3度目の日本征討も計画していたので、幕府も警戒態勢を継続していましたが、そうした中で、幕府は西国の非御家人の動員権やこれまで手出しできなかった本所一円地(地頭が置かれず、荘園領主の支配が貫徹していた土地)からの物資調達権を朝廷から獲得します。対外的危機が幕府の支配権を強化させたのです。それは、得宗への権力集中とほぼ同意義でした。8代執権・北条時宗は、西国一帯の守護を北条氏一問で固めます。また、続く9代執権・北条貞時の時代には、1293年に九州地方の統治機関として博多に鎮西探題が置かれ、やはり北条氏一門が送り込まれました。

このようにして、得宗の力は絶大なものとなり、貞時の時代の1285年、内管領(得宗の家政機関の長官を務める御内人の中心人物)である平頼綱が、時宗の外戚にもあたり、得宗に対抗しうる最後の有力御家人であった安達泰盛一族を滅ぼしたこともあって、得宗専制は確立されたとされます。この結果、幕府の公的機関である評定衆は形骸化し、得宗邸で開かれる私的な寄り合いで政務が行われるようになりました。しかし、このようにいわば北条氏一人勝ちの状態になることは、他の御家人にとって喜ばしいものではありませんでした。御家人が主従関係を結んでいるのは将軍であり、北条氏も一人の御家人に過ぎないからです。御内人に至っては御家人ですらありません。また、蒙古襲来後、多くの御家人は恩賞の不足や分割相続による所領の細分化によって困窮化していました。鎌倉時代の武士は、一族で所領を分け合う分割相続によって惣領制と呼ばれる血縁的な結束を保っていましたから、分割相続の困難さはその動揺も生じさせました。

こうして中小の御家人は少ない領地を手放して自ら戦費にあてなけれならず、生活は苦しくなりました。幕府としても、これは看過できないと、御家人の領地の質入れや売買を禁ずる共に、1297(永仁5)年には既に質入りしたり売られたりした御家人の領地を無償でもとの持ち主に返させるという永仁の徳政令を出しましたが、その効果は一時的なものでしかありませんでした。他方、機内周辺では、新興武士が、荘園の年貢の請負や高利貸し活動を行い、流通経済にうまくのって富を蓄えていき、さらに彼らはしばしば成長してきた農民と争い武力を使って荘園を荒らしたので、荘園領主や幕府とも対立するようになり、悪党と呼ばれるようになります。悪党は、その勢力下に御家人を組み込んだり、朝廷や寺院の勢力とも様々に結びついて力を伸ばしていきました。

このような経緯から、得宗から、そして、幕府から、御家人が離れていくのは当然の流れでした。こうして、得宗は権力が頂点に達したその瞬間に滅亡へと向かっていったといえます。後醍醐天皇が倒幕を目指して立ち上がったとき、御家人が後醍醐についたのは、このような鎌倉後期の状況が背景にあったのです。

04 公家と武家、水火の争いにて

以上の通り、後醍醐天皇の倒幕の過程がそうであるように、建武の新政の評価についても、様々な観点から見直しが行われています。ですが、まずは教科書的な説明をしておきましょう。室町幕府の成立を中心に描いた歴史物語『梅松論』には、「今の例は昔の新儀也。朕が新儀は未来の先例たるべし」という後醍醐天皇の言葉が記されています。今先例とされていることも、昔は新しく作られた決まりだった。そのように、私が作る新しいきまりも、未来には先例になるだろうという、後醍醐天皇の意気込みが伝わってきます。

では、後醍醐天皇が目指した政治とはどのようなものだったのでしょうか?それは、公家だけでは無く、武家も、寺社も、更には力を付けつつあった商工業者や悪党も、あらゆる勢力を自らの下に結集させるというものでした。それは鎌倉時代のように朝廷(公家)と幕府(武家)が相並ぶのではなく、両者が一体となった強力な政権を打ち立てると言い換えることもできるでしょう。ですので、後醍醐天皇は、平安時代中期に後醍醐・村上天皇によって行われた「延喜・天暦の治」と呼ばれる天皇親政を理想としましたが、武家政治を廃して、古の公家政治に戻すという考えはありませんでした。その意味で、戦前には建武の「中興」と呼ばれていましたが、建武の「新政」の方が、本来の意味からすると相応しい明証でしょう。

さて、後醍醐天皇が自らに権力を集中させるために用いたのが、綸旨と呼ばれる文書です。公家も武家も最大の関心事は土地所有権の確認でしたが、個別に綸旨を発給して、所領を安堵していきました。綸旨を絶対とすることで、みなを従わせようとしたのです。しかし、それぞれの勢力の利害が対立し、後醍醐に対する不満となって噴出していきます。

まず、公家が求めたのは朝廷政治の復活と、武家に侵略された所領の回復でした。ですが、新政の蓋を開けてみれば、武家からの登用が目立つなど、公家社会の先例は無視され、所領の回復もままなりませんでした。次に、武家が求めたのは、新たな棟梁によって合議制に基づく幕府政治が回復され、それにより所領が安堵されることでした。しかし、綸旨を絶対とする後醍醐の手法は独断的であり、また、武家社会の道理(慣習)を踏みにじるものでした。そもそも公家と武家が一体となって政権を運営するということに無理があったかも知れません。先に引いた「梅松論」には「公家と武家、水火の争いにて元弘3年(1333)も暮れにけり」と記されています。そして、足並みのそろわない建武政権は瓦解するのです。1335年、得宗の末裔である北条時行が鎌倉で起こした反乱(中先代の乱)に乗じて足利高氏が離反します。翌1336年、高氏は入京して持明院統の光明天皇を立てたことで(北朝)、建武の新政は僅か3年で終焉を迎えました。しかし、後醍醐は吉野に移って正当性を主張し続け(南朝)、60年にわたる南北朝の動乱が始まるのです。

山川出版の通常の教科書よりも専門的なことを書いてある『日本史研究』にこう記されています。建武の新政の「原因の第一は、天皇権力の性急な強化に無理が生じたことである。土地の保証は綸旨によるという布告を聞いた人々は、大挙して京都にのぼり、綸旨の発給を求めた。なかには戦乱のどさくさにかこつけて、領地を不当に入手しようとする者もいた。後醍醐天皇個人がいかに有能であったにせよ、人間一人の能力にはおのずと限界がある、天皇の絶対性を標榜する新政の政務はたちまち停滞し、人々の信頼を失っていった。第二に、新政府に参加した人々の立場がまちまでぃで、橋梁して政務にあたれなかったことがあげられる。(中略)第三に、鎌倉幕府を通じて歴史を生み出してきた幕府の存在を否定したことがあげられるだろう。武家の実力が公家を凌駕しているこの時代に、天皇親政の理想をかかげた政策方針そのものが、時流に逆行するものだったのである」と。

解答例です。

後醍醐天皇は、幕府も院政も摂関政治も否定し、自らが発する綸旨を原則として、公武ほかあらゆる勢力を自らの下に結集しようとした。しかし、武士たちが求めていたのは、本領安堵を確実なものとするための新たな棟梁の存在と合議制に基づく幕府政治の回復であり、道理を無視した綸旨による土地所有権の確認に不満を募らせた。また、所領の回復と公家政権の復活を飲んでいた貴族も先例に囚われない後醍醐天皇の手法に反発した。

でしょうか。教科書の内容を踏まえれば以上のような解答例で合格点は貰えると思います。ですが、これえで満足して良いものか。冒頭で述べたとおり、最近の研究では後醍醐天皇像の見直しが進んでいるのです。まず、後醍醐天皇は本当に綸旨を万能のツールとして用いていたのでしょうな。実は、綸旨の発給は、建武政権が発足した当初に集中しています。幕府の滅亡に伴う混乱に対処するために、当面の間、綸旨で個別に対応していただけと受け取ることも出来ます。このように、いわば「綸旨万能主義」に疑いの目を向けると、教科書の次のような記述も引っかかりを覚えるでしょう。

「天皇は、醍醐・村上天皇の親政を理想とし、摂政・関白をおかず、幕府も院政も否定した、また、すべての土地所有権の確認には天皇の綸旨を必要とする趣旨の法令を打ち出して、天皇への権限集中をはかった。しかし、現実には天皇の力だけではおさめきれず、中央には記録書や幕府の引付を受け就いた雑訴決断所などを設置し、諸国には国司と守護を併置した」(『詳説日本史』山川出版)

どこが引っかかるというかと、「しかし、現実には天皇の力だけではおさめきれず」というつなぎの文章です。たしかに、後醍醐が綸旨を万能だと考えたいたのなら、それははなから無理だという話で終わります。しかし、後醍醐が公家・武家を一体化した政治組織を構想していたとするならば、見方は変わってくるでしょう。

鎌倉後期は、社会が大きく言動した時代です。その象徴的な存在が、先述した楠木正成・名和長年など後醍醐について悪党の勢力です。悪党は、既に前記事で説明していますが、現地での支配権を求める新興の武士層のことで、武力を用いて年貢納入を拒否する荘園領主に抵抗したので、支配層からこう呼ばれました。悪党が出現したのは、畿内やその周辺です。農業生産力の向上により有力農民が成長していたこと、荘園領主と承久の乱後に派遣された地頭の力が拮抗し、支配秩序が動揺していたことなどが背景にあります。こうした悪党のような新しい勢力に対して、朝廷だけでも幕府だけでも対処できません。両者を一体化する政権を求めた後醍醐の理想はここにあったのでしょう。さらにいえば、後醍醐の言うとおり、先例・慣習といったこれまでのやり方をアップデートする必要もあったわけです。

一つ例を挙げれば、武家社会の御家人制度です。鎌倉幕府は、将軍が御家人に対して所領支配権を保障し(御恩)、御家人が将軍に対して軍役を負担する(奉公)という主従関係を根幹として成り立っていました。しかし、こうした個人間の関係でやっていけるのは、東国のローカルな政権だったときまでです。承久の乱に勝利して全国政権へと脱皮を遂げる際に、御家人制度も改革する必要がありました。実は、この御家人制度にメスを入れたのは、建武の新政です。個別に軍役を請け負わせるのではなく、政権の官僚として職務を遂行させる。こうした転換は室町幕府に受け継がれました。ですから、室町時代になると「御家人」という用語は用いません。このように見ると、後醍醐天皇の方針は現実に対応した正しいものであったが、あまりに急激すぎて誰もついていけなくなったと捉えてもいいでしょう。

05 南北朝の動乱

鎌倉幕府を倒し、新政府に参加した御家人が、武家政治を望んでいた事は先述しました。このため、新政府は公武諸勢力のさまざまな要求に応じることができずに不満が高ぶっていました。この様子は京都二条近くの賀茂川の河原に立てられた二条河原の落書きに「此比都ニハヤル物」として書き記されています。1335(建武2)年、北条高時の子時行の反乱(中先代の乱)を打つために鎌倉に向かった有力御家人の足利尊氏は、これを機会に武家政治の再興をはかり、新政府に反旗を翻しました。尊氏は、六波羅探題を滅ぼしたところから、諸国の御家人との主従関係を作り始め、新政府のもとでも勢力を増大させていたのです。その翌年、尊氏は京都で持明院統の光明天皇と立てると共に、建武式目を定めて施策方針を示し、1338(暦応元)年には征夷大将軍に任命され、室町幕府(足利政権)を開いて武家政治を再興した。こうして後醍醐天皇の新政治も僅か三年で崩れましたが、後醍醐天皇は大和南部の吉野に逃れて皇位の正当性を主張したので、この後朝廷は吉野の南朝と京都の北朝とに分かれて対立することになります(南北朝時代)。

こうして尊氏が幕府政治を再興したにも関わらず、社会の動揺はおさまらず、南北両朝間の対立は、南朝側の北畠親房らが東国や九州で抗戦を続けたため、長引いた。それに加えて幕府の内部にも対立が起き、尊氏の執事(室町幕府の後の管領)である高師直と尊氏の弟・直義の争いは、ついに観応の擾乱といわれる騒乱にまで発展し、再び全国的な動乱が引き起こされた。それは鎌倉時代の後半に始まる社会の動乱が根深かったことも示している。南北朝の動乱が深まる中で、次第に大きな力を築いてきたのが国ごとに置かれた守護である。幕府は地方の武士を組織するために、守護の根源を強化し、鎌倉幕府が定めた三箇条の権限に加えて、田地を巡る争いの際、実力行動を取り締まる権限や裁判の判決を執行する職権を与えたので、守護はそれらを利用しながら荘園の侵略を繰り返し、地方在住の武士である国人を家臣にして勢力を伸ばした。こうした守護を守護大名という。

尊氏は、1352(文和元)年、半済令を発布し、一国の荘園・公領の年貢の半分を守護に与え、守護はこれを国人に分け与える制度を作った。これによって守護の支配権はさらに強化されたが、尊氏はその傍ら、足利氏一門を諸国の守護に配置し、幕府の体制がためをはかった。大きな力をもった守護大名は、荘園領主から年貢の徴収を請け負う守護請を行ったり、半済を実施したりして、荘園・公領を侵略し、これを国人に分け与えその家臣下を推し進めた。このように荘園・公領を支配下にいれ、家臣団編成を行う守護大名の諸国支配の体制を守護領国制と呼びます。その領国支配に対して、国人たちはしばしば地域的に連合し、国人一揆を起こして対抗したので動乱は長引いたが、やがて守護大名はこれを抑えて、一国の支配を完成させ、大きな勢力を形成していき、応仁の乱を経て、守護大名の勢力争いが続く、後の戦国時代を迎えていきます。

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プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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