大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)8~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ

01 貴族の文化から民衆の文化へ

文化史を教えることは難しいものです。文化史の理由の一つ目は、10代後半の生徒は仏像や美術作品にあまり興味がありません。いや、はっきりといえば全然興味ありません。読者の皆さんにも歳を重ねてから面白味が分かっていたという方もいらっしゃると思います。そこで、無理にでも授業などでは関心を引こうと手を替え品を替えて面白く話そうとするのですが、返って受けが悪くなるものです。そして、文化史の授業が難しい二つ目の理由は、ある一つの文化が成立した背景には、政治・経済・社会・対外関係といったさまざまな要因が重なっており、それらを総合的に捉えない限り、その文化を本当に理解したとはいえない、ということです。

たとえば、赤ん坊のようなふっくらとした顔立ちの興福寺仏頭を教科書などで見た記憶があると思います。大化の改新では右大臣として中大兄皇子らを支えながらも、後に追われて自死した蘇我倉山田石川麻呂を弔うために造られたものです。もとは山田寺の本尊でしたが、鎌倉幕府成立期の12世紀末に興福寺に奪取され、室町時代の15世紀初めに雷に打たれ頭部だけ残るという数奇な運命を辿ります。頭だけで高さ98.3㎝ありますから、実際はとても大きかったのでしょう。日中戦争が始まった1937年に、興福寺の建築中に台座から発見されました。その若々しい表情は、7世紀後半の中央集権国家建設期に形成された白鳳文化の、清新さという特徴をよく表しており、それは、遣唐使によって伝えられた初唐文化の影響を受けたものでもあります。

このように仏像一つとっても、様々な要素が絡み合っています。それを分かるように説明するのは骨の折れる作業です。その時代の政治・社会の状況や国際情勢などを踏まえて、初めて文化の成り立ちや特徴について理解出来ます。ですが、これを裏返せば、文化史には歴史のエッセンスが凝縮されているといえるでしょう。諸分野を総合して文化の全体像を掴むのは、難しいですが知的好奇心をくすぐる営みです。そこで、次の京都大学の問題を通して、古代から中世にかけての文化史を概観したいと思います。

【問題】

院政期から鎌倉時代にかけての宗教・文化の受容層の広がりについて、具体例をあげて述べよ。(200字以内)

(京都大学「日本史」2023年)

02 漢字が国家形成に果たした役割

日本文化の形成において最も欠かせない要素が、外来文化の受容です。中国への遣使や朝鮮半島への進出、また渡来人の来日を通して伝えられた東アジア(なかんずく中国)の文化が、日本の風土や社会に合うようにアレンジが施され、この国の文化は形成されてきました。弥生時代まで遡れば、稲作の伝来がクニ(小国家)の形成を促し、中国皇帝から与えられた爵位や金属器が支配者の権威となったように、中国文化は日本文化のみならず、国家の形成にも大きな役割を果たしてきました。中でも重要であったのが、漢字です。遣使にあたっては漢字で書かれた上表文や国書が必要とされましたし、国内の統治にも文書の形成が欠かせませんでした。文字は国家形成において重要な意味を持ちます。それは、支配者が「目の届かないところ」にも自らの命令を行き渡らせるということです。中国皇帝が、あの広大な中国の台地を、肉声だけで統治するというのは絶対に無理でしょう。自らの命令を、正確かつ一律に伝えるためには、文字で書かれた文書が必要です。

5世紀以降、支配領域を関東地方から九州地方北部まで広げたヤマト政権においても、事情は同様でした。ワカタケル大王が地方の豪族にプレゼントした稲荷山古墳(埼玉県)出土鉄剣と、江田船山古墳(熊本県)出土鉄刀にも、その由来が刻まれていました。中国から伝わった漢字を身に帯びてる、そのこと自体が、大王の権威付けになっていたのかもしれません。ヤマト政権は、渡来人を史部に組織して、文書の作成に当たらせていました。

時代はくだり、8世紀以降の律令国家においては、文書による統治が徹底されます。律令制下では、地方は国・郡・里(後に郷に改称)に区分され、都から派遣された国司に、任地の豪族から任命された郡司が協力する形で支配が行われましたが、都と国司が拠点とした国府(国衙)、さらに郡司が拠点とした郡家(郡衙)とは、木簡に書かれた文書でやり取りしました。教科書にも「郡家の遺跡からも木簡・墨書土器などの文字資料が出土し、律令制の文書主義に基づき漢字文化が地方にも展開した様子が知られる」と記述されています。墨書土器とは土器の表面に文字や記号が墨書きされたもので、所有者や用途を知る上で、貴重な文字資料です。このように、行政支配に利用される中で、漢字文化は日本社会に定着していったのです。

03 唐風文化の影響かを受けながら、国風文化を成立した

さて、7~9世紀には遣隋使・遣唐使を通じてさまざまな文物が日本に伝わりましたが、もたらされたのは中国のものだけではありません。例えば、厩戸王が建立した法隆寺(斑鳩寺)の金堂や歩廊の柱には、ギリシア由来の、中央部にふくらみをもたらしたエンタシスの技法が見られます。また、奈良時代の聖武天皇の遺愛の品や大仏開眼に関わる品を集めた正倉院宝物には、表面にラクダに乗った人物が描かれた螺鈿紫檀五絃琵琶や鳥の頭の形をしたペルシア風の漆胡瓶のように、シルクロードを通って西方からもたらせたものもあります。古代の日本文化は国際性豊かだったのです。

とはいえ、最も影響を受けたのは中国の文化であり、とりわけ、8世紀末から9世紀前半の平安初期には、国家の威厳を飾るために、唐風文化が積極的に導入されました。それは、令外官の設置や格式の編纂により日本型律令制が完成に向かうのと平行したものです。その先陣を切った嵯峨天皇は、最初の勅撰漢詩文集である『凌雲集』の編纂を命じると共に、平安宮の諸門や建物の名称を唐風に改めたり、宮廷の儀式を唐風のものに改めたりしました。また、嵯峨天皇自身は、空海・橘逸勢と並ぶ唐風の書道の名手(三筆)としても知られています。

その結果、9世紀の平安前期には、唐風に彩られた弘仁・貞観文化が開花しました(弘仁・貞観はそれぞれ嵯峨天皇、清和天皇の元号)。っこの時期には、学問や文芸の発達が国家隆盛の礎になるとする文章経国思想が貴族の間に浸透しています。単に受け入れて鑑賞するだけではなく、自ら漢詩文を作ることが貴族にとって必須の教養となったのです。そして、このような唐風文化に対する造詣の深まりの中から、10~11世紀の平安中期には、国風文化が生み出されます。

こう書くと「国風文化は菅原道真の建議により894年に遣唐使が停止され、唐の影響を受けなくなったことで成立したのではないか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、事情はそう単純ではありません。遣唐使の停止後ほどなく907年に唐は滅亡し、五代十国の興亡をへて、960年に成立した宋が統一しますが、その間にも僧侶が留学を果たすなど私的な交流は活発化しており、また、宋から商人も来日して、彼らがもたらした陶磁器や薬品を貴族たちは「唐物」と呼んで珍重しました。国風文化は中国の文化の影響を受けながら成立したのです。

このような状況を、どのように捉えれば良いのでしょうか。教科書には「それまでに受け入れられた大陸文化を踏まえ。これに日本人の人情・嗜好を加味し、さらに日本の風土にあうように工夫した、優雅で洗練された文化が生まれた」と記述されています。唐風文化(大陸文化)の受容は、模倣から始まります。律令も都城も隋・唐がモデルでしたし、弘仁・貞観文化は言ってみれば「完コピ」を目指すものでした。しかし、真の創造は模倣を超えたところにあります。唐風文化を深く理解し、消化・吸収した上に、国風文化は開花しました。漢字から生み出された仮名文字によって、日本的な細やかな心情や四季の移り変わりを描くことができるようになったのです。

04 「蕃神」としての仏教

漢字と並んで日本文化の形成に大きな影響を与えた外来文化は、仏教です。とりわけ、古代の文化は仏教文化として形成されたといっても過言ではありません。そこで、古代仏教史についても概観しておきましょう。

中国・朝鮮半島を経由して仏教が伝わったのは、6世紀のことです。初めは渡来人によって私的に信仰されていましたが、6世紀半ばには、ヤマト政権と関わりの深かった百済の聖明王から欽明天皇(大王)朝に正式に伝えられます(仏教公伝)。崇仏派の蘇我氏と物部氏との間で政争の具とされましたが(崇仏論争)、やがて病気平癒や戦勝を祈願する「蕃神(あだしくにのかみ)」として受容されていきました。こうして、6世紀末から7世紀初頭には、日本初の仏教文化である飛鳥文化が花開きます。豪族らは、蘇我馬子が建立した飛鳥寺(法興寺・元興寺)をはじめとして、古墳に代わる権威の象徴として競って氏寺を建立しました(終末期にあたる6世紀末から7世紀初頭に前方後円墳の築造が停止されました)。

ところで、仏教は本来、苦しみの原因となる煩悩を滅することを目指します。だとすると、病気平癒を願ったり威勢を誇示しようとしたりするのは、変質のように見えるかもしれません。しかし、仏教は人々の願いを叶えるという形でこの国の風土に根付いたともいえるでしょう。一方で、厩戸王は仏教の本質を理解し、「世間虚仮、唯物昰真(この世のすべてのものは仮初めで虚しく、仏のみが真実である)」という言葉を残しています。こうした点が後生に「聖徳太子」と称された所以ですし、奈良時代になると遣唐使によって経典がもたらされ、教義研究が発達することになります。

8世紀の奈良時代は、相次ぐ政争や疫病の発生により、社会不安が高まっていった時期です。そうした中で、聖武天皇は仏教の力で国家の安泰を図る鎮護国家の思想に基づき、国分寺の建立や大仏(盧舎那仏)の造立を発願しました。豪族らによる仏教(氏族仏教)から朝廷による仏教(国家仏教)へ、主体が移行したのです。しかし、それは仏教が朝廷の厳しい統制下に置かれることも意味します。僧侶は寺院にこもって学問修行に努めることとされ、民衆への布教は禁止されました。こうした締め付けに反発し、民衆への布教を行ったのが行基です。行基は初め朝廷から弾圧を受けましたが、後に大仏造立の事業に弟子たちを率いて協力し、仏教界最高位の大僧正まで上り詰めました。大乗仏教では一切衆生(生きとし生けるもの)の救済を目指す菩薩を理想としますが、行基の生涯はまさに菩薩そのものであったといえるでしょう。

05 民衆に広がる浄土教

平安時代に入ると、はじめ密教、ついで浄土教という中国から伝わった新しい仏教のスタイルが流行しました。9世紀前半の平安初期に、遣唐使で渡った空海や最澄、さらには最澄の弟子である円仁・円珍らによって伝えられたのが密教です。奈良時代の仏教は、経典を読んで仏の教えの理解に努めるもので、これを顕教と言います。これに対して、密教では呪法を用い、宇宙の根本仏である大日如来の言葉(真言)を直接体得することを目指します。大日如来は人知を超えていますので、真言を頭で理解することはできません。そこで、秘密の呪法で直接体得しようとするものです。真言を体得できれば、何しろ大日如来は宇宙の根本仏ですので、この身でそのまま仏となり(即身成仏)、すべての願いを叶えることができます。それ故、密教は栄達などを求める貴族の間で流行するとともに、鎮護国家の役割を果たしました。嵯峨天皇から空海に勅賜された平安京内の東寺(教王護国寺)は密教の根本道場となります。

ついで、摂関政治の時代にあたる10世紀の平安中期に流行したのが浄土教です。浄土とはもちろんあの世のことです。浄土教では、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、阿弥陀仏のはからいにより極楽浄土に往生できると説かれました。密教が現世利益を求めるものであるのに対し、浄土教は来世での利益を求めるものであると対比されます。なぜあの世への往生が求められたのか。そこには、疫病で亡くなった人の亡骸が放置され、盗賊や不審火も横行する平安京内の状況がありました。それは、仏教の説く末法の世(教えのみが残され、悟りも修行も失われた世)そのものでした。平安時代当時、1052年には末法の世に突入すると言われており、こうした中で、現世での希望が失われ、来世での救済が求められたのです。末法の世に突入した翌1053年、藤原頼通が宇治に建立したのが平等院鳳凰堂でした。鳳凰が翼を広げたようなつくりや、前面に清らかな水をたたえた池は、極楽浄土を表現したものでした。このように、貴族らは阿弥陀堂の建立に励みました。

それとともに、聖と呼ばれる僧侶が京の市中で積極的に布教を行ったことにより、民衆にも浸透したことが、浄土教の大きな特徴です。代表的な聖である空也は、無縁の亡骸を火葬しながら浄土の教えを説いて回ったもので、市聖と呼ばれます。また、はじめ比叡山で修行していた源信は、民衆を救おうと決意し、『往生要集』を著して念仏による極楽往生の方法を平易に説きました。こうして、支配層(貴族)から民衆へと仏教の担い手が一気に広がったのです。

06 鎌倉仏教が流行した理由

今、「担い手」という言葉を用いましたが、本問の問題文にも「受容層」とあります。古代仏教の展開からも分かるとおり、文化史においては、どのような階層がその文化を担っているのかということが重要です。ここからは、問われている「院政期から鎌倉時代にかけての宗教・文化の受容層の広がり」に沿って説明していきましょう。

摂関政治の時代に京中の民衆に受容された浄土教は、院政の時代にある11~12世紀の平安後期になると、聖の活動などにより、地方へと波及します。その担い手となったのは、各地で成長を遂げる武士でした。たとえば、平泉(岩手県)の中尊寺金色堂は、奥州藤原氏の力を示しています。こうして、京から地方へ、民衆から武士へと仏教の受容層は広がり、鎌倉仏教の流行の素地が作られていきました。さて、鎌倉仏教には、浄土宗の法然、曹洞宗の道元など、新しい宗派の開祖が次々を現れ、武士や民衆に支持されましたが、このように鎌倉仏教が流行した背景には何があったのでしょうか。教科書を紐解くとこう書いてあります。「仏教では、それまでの祈祷や学問中心のものから、内面的な深まりをもちつつ、庶民など広い階層を対象とする新しい教えへの変化が始まった」と記述されています。注目してほしいのは「内面的な深まり」という言葉です。鎌倉時代は、源平の争乱から始まり、承久の乱、そして二度にわたる蒙古襲来と戦乱続きの時代であり、そうした中で人々は死と背中合わせで生きていました。さらにいえば、戦場に駆り出された武士は、殺されたくなかったら、敵を殺さなくてはなりません。そうした罪の意識をもった武士や、死の不安を偉大だ民衆は心から救いを求めていったのです。

たとえば、『平家物語』に描かれる熊谷直実は、我が子と同い年の平敦盛との一騎打ちに際して、「武芸の家に生まずは、何とてかかる憂き目をばみるべき(武芸の家に生まれなかったなら、どうしてこんな辛い目に遭っただろうか)」と涙ながらに首を取り、戦が終わってすぐに出家しています。このように内面的な救いを求める武士・民衆に対し、鎌倉仏教の開祖たちは、日常生活において実践できる平易な教えを説きました。鎌倉仏教の特徴は、専修・選択・易行の3つの語で表されます。念仏であれ座禅であれ修行方法を選び取り、それに専念する。これならば、武士や民衆も毎日できるでしょう。加えて、鎌倉仏教の開祖たちは、病人の救済や道路の整備などの社会事業にも力を入れました。こうして救いを求める者たちに、適切な手を差し伸べることで、鎌倉仏教は支持を得たのです。

07 現代に繋がる民族文化の形成

仏教の受容層が貴族から武士・民衆に広がったのと同様に、文化の担い手として武士や民衆が台頭します。院政期には、民衆の間で行われていた田楽・猿楽などの芸能に、貴族たちが興味を示しました。田楽は、田植え時に豊作を祈願して行った歌と踊り、猿楽は物真似や軽業を中心とした芸で、能の起源となるものでした。また、後白河上皇は民衆の間で流行していた歌謡である今様を集成して『梁塵秘抄』を編纂させました。貴族が民衆の文化を評価して、貪欲に取り入れようとした姿勢が見受けられます。

鎌倉時代には、帰属の専売特許であった学問や歴史に対する関心を、武士たちが持つようになります。合議によって政務を進めていく上で、そうした素養が必要となったわけです。北条氏一門の金沢実時が和漢の書物を集めて金沢文庫を開くなど、朝廷の儀式や先例を研究する有職故実を武士たちも学びました。また、『平家物語』が琵琶法師の弾き語る平曲で広まると、文字を読めない民衆も文学に親しむようになりました。こうして観ると、鎌倉期から院政期にかけての文化のキーワードは、「交流」であるといえるでしょう。ここからは問題のその先ということになりますが、室町時代には「交流」からさらに「融合」へと進み、現代に繋がる民族文化が形成されていきます。

たとえば、民衆による田楽や猿楽から生まれた能(猿楽能)は、観阿弥・世阿弥親子の手により、3代将軍足利義満の庇護を受けながら、芸術的に洗練されていきました。また、京都の町衆たちの娯楽として行われていた喫茶の風習には、禅の精神が取り入れられ、佗び茶が創始されました(千利休によってその後大成します)。また、侘び茶の影響を受けながら、後述する書院造りの床の間を飾ったのが立花です。立花は仏前に供える供花に由来すると考えられていますが、室町時代に池坊家により、唐物の器に草花を挿し、自然の姿を表現する様式が確立されました。現代において「伝統文化」と呼ばれるさまざまなものが、室町時代に「融合」することから生み出されたことが見て取れるでしょう。さらにいえば、現代の和風住宅の起源とされる書院造が成立したのも室町時代です。書院造は、貴族の寝殿造を母体に、禅の簡素さなどを取り入れながら、質素な武家屋敷の建築様式として誕生しました。慈照寺東求堂の一室である同仁斎は、四畳半の畳に、明障子・付書院・襖などを備え、現代の和室そのものです。このように「融合」によって生まれた文化を、私たちは今も受け継いでいるのです。解答例にいきましょう。

【解答例】

院政期には貴族の間で民衆の文化に対する関心が高まり、後白河上皇が今様を集成して『梁塵秘抄』を編纂する一方、聖による布教で浄土教が地方の武士や豪農に受容され、中尊寺金色堂などの阿弥陀堂建築が各地に造られた。鎌倉時代には、選択・専修・易行を特徴とする鎌倉仏教が、内面的な救いを求める武士や民衆に広がるとともに、武士は貴族の間で行われていた歴史や学問への関心を高め、民衆も平曲などを通じて文学を受容した。

大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)9~中学受験・高校受験・大学受験に役立つ

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【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。

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早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
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