私大や国公立前期試験で8割取るための世界史~大学受験・高校受験・中学受験にも役立つ(4)
第2章 アジア・アメリカの古代文明
2 東南アジアの諸文明
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東南アジアの風土と人々
東南アジアは,インドシナ半島を中心とした大陸部と,多数の島々からなる諸島部にわけられ,民族分布は多様である。大部分が熱帯・亜熱帯気候に属し,香辛料をはじめ資源が豊かで,はやくから海をつうじて外の世界とつながっていた。インドや中国,さらにイスラーム教の影響をうけつつ独自の文明が形成された。諸島部のオーストロネシア語系の人々は,太平洋の島々やアフリカ沿岸にまで広く分布しており,海上移動の活発さを物語っている。一方大陸部では,古来さまざまな民族が移動をくりかえした。
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インド・中国文明の受容と東南アジア世界の形成
インドや中国との交流がさかんになってくると,東南アジアの大陸部では,1世紀末ベトナム南部からメコン川下流域に住んでいたクメール人がインド文化の影響の下、メコン川の下流域に扶南を建国した。この国の外港であったオケオからはローマ金貨やインド製の仏像や漢の銅鏡などが発見されており、当時交易があったことがわかる。この国はしばしば中国に朝貢したが、6世紀中頃に北方に同じクメール人の真臘が起こるとこれに圧倒され、7世紀頃滅んだ。扶南にとってかわった真臘は、8世紀はじめに南の水真臘と北の陸真臘に別れて争い、国力を消耗させて、一時期シュリービジャヤの傘下に入ったが、6世紀にはメコン川中流域にクメール人がカンボジアをたてて扶南をほろぼし,9世紀にジャヤヴァルマン2世が国内を再統一し、アンコール朝を開いてからは強勢となった。
12世紀のアンコール朝のときのスールヤヴァルマン2世とジャヤヴァルマン7世の時代に最盛期となり、スールヤヴァルマン2世によって、12世紀にたてられたアンコール=ワットが建てられ、クメール美術の最高峰と呼ばれる。この寺院は、はじめヒンドゥー教のヴィシュヌ神と国王をまつったものであったが、のちに仏教寺院となった。また、ジュヤヴァルマン7世によって、大都城アンコール=トムが増築された。これらの建築では,ヒンドゥー教・仏教の影響とともに,カンボジア独自の様式が示されている。しかし、13世紀後半に衰退に向かい、14世紀後半にタイのアユタヤ朝に圧迫されて領土を失った。
2世紀末にはベトナム中部にチャム人により後漢の支配から脱してチャンパーが成立し,交易で栄えた。4世紀にインドでグプタ朝が成立して繁栄すると,東南アジア各地に灌漑法などインドの農業技術が伝えられ,農地開発がすすめられるようになった。ちなみに、中国では、この国を林邑(2~8世紀)、環王(8~9世紀)、占城(9~15世紀)と呼んでいる。
モン人は、ミャンマー人やタイ人の南下以前に、ミャンマー南部、タイ中部、西部などに居住し、7~8世紀にチャオプラヤ川下流域にドヴァーラヴァティーを建国した。その後も、ミャンマー南部のタトンやペグーに数王国を建てたが、ミャンマー人やタイ人の諸国に圧迫され、次第に衰えた。なお、モン人の間でスリランカ系の上座部仏教が信仰されていた。
ミャンマー人が南下する以前には、イラワディ川中流域にはチベット=ミャンマー語族のピュー人が勢力を保っていた。それに対し、ミャンマー人は始め南詔に服属していたが、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収し、イラワディ川下流域で,11世紀にパガン朝がおこり,スリランカとの交流により上座部仏教①が伝わると,大陸部の各地に上座部仏教が広まった。13世紀にはタイ人がアンコール朝から自立してスコータイ朝をたて,上座部仏教を信仰した。その後、1351年に南方でアユタヤ朝が起こると、スコータイ朝は次第に圧迫され、1428年にスコータイ朝はアユタヤ朝にとって変わられた。
すでに1世紀にはインド洋で季節風を利用した航海法が知られていたが,4世紀になると,東南アジア周辺の海域でも季節風を利用した航海法が活用されるようになった。7世紀になると,それまで海上交通の難所であったマラッカ海峡をぬけるルートが発達した。これによりいっそう交易が活発化してインドの影響が諸島部にもおよぶようになり,いくつかの王国がスマトラ島やジャワ島に成立した。7世紀なかばにスマトラ島におこったシュリーヴィジャヤ王国は,海上交易に積極的にたずさわり,中国にも朝貢使節を派遣した。唐の僧義浄も来訪し,大乗仏教がさかんな様子をしるしている。ジャワ島では,8世紀にシャイレンドラ朝やマタラム朝(古マタラム王国)がうまれた。シャイレンドラ朝は大乗仏教を奉じ、仏教寺院のボロブドゥールを,マタラム朝(古マタラム王国)はヒンドゥー教寺院のプランバナン遺跡群を建設している。また、マタラム朝は東部ジャワに中心を移し、クディリ朝を起こした。クディリ朝では、影絵芝居のワヤンが生まれた。13世紀に入ると、東部ジャワにシンガサリ朝が起こり、栄えた。この王朝で内紛が起こった後、クルタラージャサによってマジャパヒト朝が創始される。この王朝は、14世紀後半のハヤム=ウルク王の時代に名宰相ガジャ=マダの補佐を得て全盛期を迎え、マレー半島を含むインドンシアの全域を支配したが、王の死後次第に衰えた。この王朝はジャワ島における有力なヒンドゥー王朝として最後のものであった。以後、ジャワ島では、イスラーム教制勢力が支配することになる。
ベトナムは,銅鼓を特徴とする文化が起こり、ドンソン文化と呼ばれる文化が起こった。しかし、前漢の武帝により紀元前111年から交趾・九真・日南の3群が置かれて以来ベトナム人は1000年にわたり中国の支配下にあった。その間に、チェン姉妹の後漢に対する叛乱なども(40年~43年)もあったが、結局失敗に終わった。その後、唐末五代の動乱期にいたり、ベトナム人は念願の独立を果たす。独立直後の、呉・丁・黎(前黎)の3王朝はいずれも短命であったが、10世紀後半に独立し,11世紀初めには黎朝の部将李公蘊(りこううん)が創始した李朝李朝(大越国)が成立した(都タンロン)。李朝は国号を大越と定め、北は宋の侵入軍を破り、南はチャンパーを討って領土を広げた。特に李朝は海上交易の利益をめぐって,隣国のチャンパーと激しく争った。
李朝に代わった陳朝は13世紀後半に3次に渡って、モンゴル軍を撃退し、また前王朝に引き続き、チャンパーと戦い、領土を広げた。ベトナムの地に興亡した李朝・陳朝は中国文化の影響を受け、公用語には感じ漢文を使用し、軍勢・税制・科挙制など多くの制度を導入した。モンゴルと戦った陳朝時代には民族意識も高まり、自国の歴史書『大越史記』も編纂されて、チュノムと呼ばれる民族文字も作られた。
①出家して戒律をまもり,みずからの解脱をめざす仏教の一派。アショーカ王の王子マヒンダによりインドからスリランカに伝えられ,その後東南アジア大陸部の各地に伝わった。
【コラム】
東南アジアの海域世界
東南アジアは熱帯・亜熱帯気候に属する地域が多いが,こうした地域では,低温などの気候に対応して栄養をたくわえるよう進化した穀物は育ちにくかった。一方,香辛料など寒い地方では育たない作物を,他地域の穀物と取引しようと海上交易が発達した。東南アジア,とくに諸島部に生活する人々は「海」を基準に生活を組みたてた。彼らは水中でもくさらない植物のマングローヴで水上に家をたてたり,または移動手段である船に住んだり,船をそのまま陸上にあげたような家をたてた。インドネシアのトラジャ族の住居を代表とする船型の屋根をもつ住居は,1000km以上にわたる広い範囲の海域世界でみることができる。このような船型住居に住む人々は,広い海域世界で活躍したマレー系の人々である。
▼トラジャ族の住居
【地図・図版】
▼7~9世紀ころの東南アジア
【写真キャプション】
▼香辛料
上はクローヴ,下はコショウ。
▼アンコール=ワット
12世紀に王墓として造営されたクメール建築の代表。乾季にそなえて雨季の水をたくわえる人工湖や鉄の生産が,アンコール朝の繁栄をささえた。
▼ダウ船とジャンク船
海上交易にはダウ船やジャンク船がもちいられた。ダウ船は三角帆の木造船で,おもにインド洋でムスリム商人が活用した。ジャンク船は蛇腹式の木造帆船で,中国商人が活用した。
▼ボロブドゥール
ジャワ島中部の石造遺跡。大ストゥーパ(仏塔)で,内部には空間がない。周囲の回廊には,仏教経典の内容をあらわす多数の浮き彫りが刻まれている。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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