現代文の記述問題の解き方(4)
01 理由説明問題の定理
それでは、前回の記事に収まりきらなかったので、引き続き現代文の記述問題の解き方の定理について解説していきましょう。内容説明問題の定理については前回説明し終えたので、今度は、理由説明問題の定理について説明していきます。理由説明問題とは、傍線部自体を説明することが求められる内容説明問題と違い、傍線部をゴール(結果)とする因果関係の説明が求められています。なので、その定理とは、
定理一 スタート(S)とゴール(G)を決める。
というのと、
定理二 スタート(S)とゴール(G)の間を「論理的ステップ」でつなぐ。
という二つの定理があります。少しわかりづらいかもしれないので、説明を続けますね。まず、定理一ですが、理由説明問題では、「~だから」という流れにおける「~」の部分を書くことが求められているので、「~」「だから」「傍線部(これこれ)」となるという因果関係をつなぎ合わせる必要があり、どこから「~」といえるのか、スタート(S)地点を見定める必要があります。つまり、どこから因果関係が開始されるのか、を決めることが必要なわけです。
そして、「スタート(S)ならば、ゴール(G)、あるいは、SはGというというときの、SとGの因果関係、Sが原因で、Gが結果となるということを説明する必要があります。また、理由説明問題の場合は、「ゴール(G)」は必ず傍線部に含まれていますが、スタート(S)は傍線部内にある場合とない場合とがあることに注意してください。
02 京大の過去問から理由説明問題を紐解く
それでは過去問を通して確認していこう。今回は、どこの大学の問題か出典をぼかさず、初めからどこの大学の問題か小タイトルに載せてある通り、京都大学の過去問を取り扱います。京大は東大と比較して記述で答える量が大体倍くらいあります。なので、受験生にとっては、「こんな長い解答など作れない」と投げ出されがちです。しかし、定理を判ったうえで、ポイントを抑えれば、だれでもシステマティックに答えてしまうというよい例として取り扱いたいと思います。
次の文を読んで、後の問いに答えよ。
例えば戦争に関してだけれど、体験をそれがあったままに語りえる人はまれだ。意識して潤色しなくても、自然に武勇談になってしまうことが多い。武勇談につきもののフィクションはいく種類かあるだろうが、その一例は、自分は臆病ではなかった、むしろ勇敢だったと証明するためのものだ。或ることを証明するためにフィクションが必要というのは逆説めくけれども、そういう場合が多い。自分に都合のいい事実だけを語り、都合が悪いことは黙っているというのも一種のフィクションであろう。
このことは戦争に限らず、すべての体験談にあてはまる。つまり言葉で事実を美化する。だから、言葉とは便利なもの、といわれるわけだ。しかし、よく考えれば逆で、言葉とは不便なもの、といわなければならない。なぜなら、言葉は体験の真実を隠してしまうからだ。霧みたいなもので、本人に対してさえ、真実のありかを判らなくしてしまう。なぜ言葉はこのように否定的に働くのだろう。それは、語る人が他人の納得を得ようとして、話の客観化に心を砕くからだ。つまり、彼の心を占めているのはリアリズムの感覚だ。ところで、彼がリアリズムの衣の下で本当にいわんとしていることは、自分は勇敢だったということだとすれば、多くの場合、それは真実に反する。
非真実をいかに本当らしく語るか、ということが彼の本能的な性向だ。したがって、真実を知ろうとする人は、言葉の分厚い層の奥を見きわめようとする。その人の意は言葉を次々と剝ぎ取っていくことに注がれる。或いは、言葉の霧を透明化することに注がれる。つまり、これを高度のリアリズム精神といえよう。
井原西鶴の作品について、いわゆるキー・ワードに当たる言葉は何であろうか、と考えたことがある。それは読む人によってさまざまだろうが、私には、<真実よりつらきことはなし>という一句であるように思える。冒頭の例でいうなら、自分は勇敢だと証明しようとする人に、君は実は勇敢ではない、と気付かせることだ。西鶴らしい直言だ。勇敢だと思う、思わせようと努める心の奥に、臆病なのではないかと危惧を抱いている。臆病であることは隠さなければならない。それと今一つ、それにこだわっている自分も見抜かれたくない。
しかし、たとえ見抜かれてしまったとしても、彼にも反論の根拠はある。自分を見透かした人間にとっても、その人自身の<真実>はこの上なくつらい。その人間も自分の弱点のつらさを知っているからこそ、相手の弱点を識別できる、と反論し得る。この間の事情をユーモアをもって語ったのは、ツルゲーネフだ。彼はいう。他人を有効に罵りたければ、自分の欠点を相手のこととして並べ立てればいい。つまり、人間にはこうした共有の過敏な粘膜がある。
ここまで、私が体験談について書いて来た。それは好ましく写真に撮られたいという望みに似ている。自分の好ましい姿を、写真の<真>によって保証されたいのだ。しかし願望が混っている以上、結果は全てが真とはいえない。この場合願望とは、人間に共有な過敏な粘膜を、それぞれに包み隠したい意思といえよう。ここで小説について触れると、こうした人間の弱点が、いわゆるリアリズム小説の第一の着眼点なのだ。筆がこの部分に相わたらなければ、小説の迫力は沸かない。
つまり<あばく>ということなのだが、それでは、人間はなぜ自分たちの弱点について書き、また、それを読むのだろうか。その積極的意義は見当たらない。人間研究をしたいからだ、といっても充分な答えにはならない。きれいごとの答えではあるが、本当ではない。せいぜい、小説を書いたり読んだりするのが面白いからだ、としかいえない。さまざまな性質の違いはあるにせよ、小説とは興味本位のものなのだ。
更に、人間が人間に対して抱くこの種の興味が、いかに矛盾しているかを衝いた人がいる。それはアウグスチヌスで、彼がいうには、劇を見る人は他者をあわれむことを欲しているが、自分はあわれであることは欲しない。アウグスチヌスがいいたいのは、人間は本来あわれであるのに、その事実を自認しようとしないで、劇を見たりして、他人の運命をあわれることなどを望んでいるということだ。ここに彼の実存主義があり、まことに鋭敏な洞察だ。劇が多くの人の心をとらえることはだれも知っているが、それは酔うためであって、あわれな自己を直視するのを避けるためだという。或いは、劇が存在するのは、観客の自己認識の甘さによりかかっているというわけだ。アウグスチヌスのこの冷厳な見方には、反論の余地はない。彼がこうした認識に至る前、劇や物語に耽溺し、いうまでもなく一流の鑑賞者だったことを思うと、なお更だ。
トルストイの思想が、これにはなはだ似ているということは、知る人も多いだろう。彼はあの大部の傑作を成した後に、また新しい世界に踏み込んで行った。そして、考えて行くにつれ、自分の小説を含め、往時読まれていた大部分の小説を否定せざるを得なくなった。この思想と彼が築き上げた近代小説とは、互いに矛盾したままで併存し、現代に残ってしまったわけで、例えていうなら、小説という山脈の中心は空洞で、暗闇に寒々と風が吹き抜けている観がある。その後の小説家たちは、この事態を放置したままで、小説を書き続けているのだ。勿論私も、こうした人々の中の一個のチンピラに過ぎないわけだけれど、以上のアウグスチヌスとトルストイの思想は心に懸っていて、時々灰色の雲のように心を去来している。
だれも子供の頃には、見聞きするものすべてが量り知れない意味を孕んでいるように思っている。その一つとして、人間の世界に好奇心をはせ、大人たちの話に耳を澄ます。その秘密をときほぐし、実態を知らせてくれるものは、彼らの体験談だと思うわけだ。しかし、体験談は真実をあきらかに示すというよりも、しばしば真実を覆ってしまうものだということを、彼は知る。その結果、体験談の語り直しが行われた。それが小説であったといえよう。つまり、体験談からは現れてこない人間の真実に気付いて、これをあらわにする方法を考えた。それがリアリズムの小説であり、かつては、真実は小説でなければ語りえないという信念さえあった。
成果はあったといえよう。リアリズム小説は、人生の分厚い雑多な層を透視するレントゲン光線のような役割を果たした。しかし、その結果もたらされたのは、<人生はひとつの崩壊の過程に過ぎない>という結論めいたことだったトルストイが反省し、苦しんだことは、リアリズムがもたらせたこのような決定論であった。この開拓者にはリアリズムの行き着いた場所があきたらなかった。更にその先に、果て知れない地域が拡がっていたわけだ。
人の世はそれ自体が譬え話のようなもので、意味を隠し持っている。これは大勢の人間の思い込みであって、それをあきらかにしたいという意思は捨てきれない。この場合、人生の外貌を形づくっている大きな要素は、人の口から出る言葉・言葉だ。体験談もまた、永遠に雑草のようにはこびって、地球を覆っている。
リアリズムの小説は、それへの優れた考察であり、解釈であったが、この生の言葉の原野に較べれば、庭園のようなものであったことはいうまでもない。
これからも、或る種の人々は言葉・言葉にいどみ続けるであろうが、その場合、鍵になるのは、体験談と告白という二つの観念の識別、把握のし方であるように、私には思える。
(小川国夫「体験と告白」)
問一 傍線部について、このような信念が失われたのはなぜか、説明せよ。
京都大学2020年、改題
理由説明問題の典型例です。「かつては、真実は小説でなければ語りえないという信念さえあった。」のが、どうして失われてしまったのか。その理由を訊いているわけですね。リアリズム小説の手法が担った役割を抑え、その限界を推測する必要があるわけです。「~だから」と答えるためには、「かつては、真実は小説でなければ語りえないという信念さえあった。」のが、「~だから」「このような信念が失われた」という形で説明しなければなりません。課題文においては、「秘密をときほぐし、実態を知らせてくれるものは、彼らの体験談だと思」ってきたが、しかし「体験談は真実をあきらかに示すというよりも、しばしば真実を覆ってしまうものだということ」を知り、その結果「体験談の語り直しが行われた」わけです。そして、それが「小説であった」。これを筆者は、要約して「つまり、体験談からは現れてこない人間の真実に気付いて、これをあらわにする方法」を考えたのが、「リアリズム小説」であったわけです。
このリアリズム小説の方法は、「成果」はあり、「人生の分厚い雑多な層を透視するレントゲン光線のような役割を果たし」ました。しかし、その結果もたらされたのは、「<人生はひとつの崩壊の過程に過ぎない>という結論めいた」ものであり、「リアリズムの行き着いた場所があきたら」ず、その先には「果て知れない地域が拡がっていた」。「人の世はそれ自体が譬え話のようなもので、意味を隠し持っている」というのは「大勢の人間の思い込み」であり、それを「あきらかにしたいという意思は捨てきれない」が、「リアリズム小説は、それへの優れた考察」であったものの、「生の言葉の原野に較べれば、庭園のようなもの」に過ぎなかったわけです。
03 理由説明問題では、スタート(S)とゴール(G)の過程を論理ステップを意識しなが繋げる
これをまとめてみましょう。ただし、これらをまとめる際には、論理ステップを着実に一歩一歩踏んでいかなければなりません。
(1)小説は、体験談からは現れてこない人間の真実をあらわにする方法であった
(2)しかし、その方法の行き着く先には果て知れない領域が拡がっており、生の言葉の原野に較べればごく一部しか捉えきれないものだったから
(3)「真実は小説でなければ語りえないという信念」は「失われた」
というようにまとめられると思います。(3)は書く必要がありませんが、(1)であったが、(2)であったから、(3)となったと説明できればいいわけです。これを端的に(2)だけ書いて、例えば「小説はごく一部しか捉えきれないものだったから」と答えてしまうと、飛躍が生じてしまいます。さすがに×とはならないものの、全体の半分くらいの部分点しかもらえないでしょう。というのも、かつてはあったものは、今はなくなったという因果関係を説明しなければならないのですから。かつては(1)であったものが、実は(2)であったから、このような信念は失われてしまったという論理ステップをしっかりと追っていかなければいけないわけです。
つまり、「小説は、かつて体験談からは現れてこない人間の真実をあらわす方法であったが、生の現実(言語)に較べればごく一部しか捉えきれないものだったから」、その方法への信念は失われてしまったというわけです。
模範解答としては、課題文の抜き出しをそのままつなぎ合わせるのは、少し拙いので、同じ内容の言葉に言い換えて、「体験談の虚偽を暴き、真実を知ろうとするリアリズム小説は、その考察の対象である膨大な言葉そのものに較べれば、卑小な試みに過ぎないことが明らかになったから」ぐらい、でよいのではないでしょうか。
本文の書き抜きでは少し拙いと書きましたが、この視点も重要で、前にも書きましたが、内容説明問題及び理由説明問題のどちらの定理にも以下のような細則を守らなければいけません。
それは、
細則一 比喩や具体例、本文の文脈に依存し、文脈抜きには表現できない言葉は用いない。
細則二 本文中のある部分をそのまま長々と解答として書き写すことや同じ内容を何度も繰り返してはいけない
という細則です。確かに、現代文は、「課題文に書いてあるとおりに答える」というのが大事な鉄則ではあるものの、「課題文から書き抜きなさい」や「課題文の言葉を用いて説明しなさい」という条件でもない限りは、同じ意味の言葉に適切に言い換える必要があります。よく模範解答などを見ると、出版社によって解答が異なっていたり、「そんな文章は、おもいつかなかったよ!」ということがあるかもしれません。しかし、ここで大事なのは、論理的な構造、文章を構成している要素(ポイント)はどれも同じなのです。ただ、その構造やポイントを抑えて、どれだけ的確に言い換えられているかが大切なわけです。
現代文の記述問題の解き方(5)
現代文への偏見
現代文の記述問題の解き方(1)
現代文の記述問題の解き方(2)
現代文の記述問題の解き方(3)
現代文の記述問題の解き方(4)
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |