現代文には解き方がある

01 現代文にセンスや読書量の多寡は関係しない

塾や予備校で現代文を教える際に、生徒たちに「現代文には解き方がある」と宣言すると、たいてい多くの生徒から怪訝な顔をされます。現代文というのは、どうしても「センス」やら「感性(センスの日本語訳ですが…苦笑)」、「才能(これも類義語です…)」があるかどうかが問題であるのではないかと思われていたり、保護者の方でも「読書量が大切」であるとか「教養や知識が必要」だと思われてしまう科目です。

もちろん、保護者の方がいられるように現代文というより国語という問題では、「漢字」の知識の多寡が問われたり、「文学史」や「諺」、「故事成句」・「熟語」といった完全に知識の有無を推し量る問題や「国文法」や「敬語」など体系立てた知識を問われることもあります。とりわけ、中学校受験で挑戦する「国語」や高校受験などでは、こうした知識問題に対する配点というのは、馬鹿にできるものではありません。

実際、私も国語の読解が苦手な生徒には、現代文の解き方を伝える一方、即点数を挙げるお手軽な方法として、漢字や故事成句、四文字熟語などを覚えてもらい、知識問題で得点を稼ぐことを薦める場合もあります。しかし、仮に中受(中学校受験を教育業界では、こう略して称することが多いです)や高校受験であったとしても、国語の配点のうち八割ぐらいは読解問題にあります。

その八割を得点することを放棄するというのは、もはや国語という科目を捨てるに等しいと言わざるを得ません。また、国語を解く力というのは、決して「国語」という一科目に限るものではなく、日本語で問題が作成され、日本語で問いが設定される以上(最近、英語の問題で、慶應大学など一部の大学では、設問も英語であったりしますが、それでも日本語の文章を英訳する問題が残されています)、全科目に通底しているといえます。

しかし、日本語など母語であるし、特に普段私たちは日本語の文法を意識して会話することも、文章を書くこともあまりありません。なので、日本語で書かれた文章を読み、日本語ないしは日本語で書かれた選択肢を選別するという国語の読解の解答過程には、何も際立ったルールも解き方もないのではないかと思い込んでしまいます。しかし、実は、現代文には「明確なルール」があり、それは幾つかあるものの、第一講では、最低限三つのルールがあるということを理解しておく必要があるということを、これらから説明していきましょう。

02 現代文の大前提

本当にそうでしょうか?まず、すべての国語、とりわけ現代文に共通するルールを説明しましょう。それは、

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

というものです。「なんだ。当たり前のことじゃないか。」「そんなことわかりきっているよ。」「どこがルールなの?」といぶかしく思われてしまうかもしれません。しかし、これは大事なルールです。この文章が意味していることは、よく考えると、意外と奥深いものがあるのです。それは、「次の文章」に書いてあることを、書いてあるそのままに答えなさい、ということを意味しているということです。「ん?いみわからないぞ」と思われた方、次の例題を解いてみましょう。

例題 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

ロシアはウクライナから攻撃を受けています。ロシアは現在戦争で大きな被害を受けているのです。

問 この文の内容と一致するものを、次の選択肢から一つ選べ。

(1)ロシアは、ウクライナに侵攻している。

(2)ウクライナは、ロシアから攻撃を受け、大きな被害を受けている。

(3)ロシアは、ウクライナと戦争をしている。

これはかなり意地悪な問題です。国文学者である石原千秋が指摘していることですが、おそらく上記のような非倫理的な文章や問題はおそらく現代の日本の受験の国語の問題には絶対出題されることはありません。こうした日本の教育事情における問題の傾向と解き方については石原千秋の著作に依拠しつついつか紹介したいと思いますが、現代文の大事なルールを理解するための、かなり確信犯的な問題なので、今回はお見逃しください。

で、この問題の正解はどれでしょうか?正解は、(1)でしょうか?少なくとも、私が報道で見聞きしている情報では、(1)は正しいように思えます。いやいや、ウクライナに対する国際的な支援などを凝るよすると、(2)が正しいでしょうか。違います。(1)も(2)も正解ではありません。正解は、(3)です。「え!?」と思ってしまった方こそ、気を付けてください。

現代文という科目では、事実(あるいは確からしいと思われるもの)が正解になるわけではありません。少なくとも「社会」(「世界史」や「日本史」、「地理」「現代社会」「政治経済」など)では、(現段階において)事実あるいはある一定の手続きを経て確からしいとされているものが正解となります。もちろん、歴史解釈が変わって、「黄河文明」が「中国文明」に変わったり、民法改正で成年が二十歳から十八歳に変わるなど、事実(あるいは解釈)が変われば、正解も変わります。

それに対して、現代文では、事実(あるいは一定の手続きを経た確からしいとされること)と合うものが正解なのではなく、課題文(「次の文章」と呼ばれている文章のこと)と合うものが正解となる科目なのです。そうです。現代文とは、

文章に書いてある通りに答える

のが、大前提なのです。ですから、事実とは合致していても、(1)や(2)は課題文と合っていないので、不正解となりますし、また、現代文は自分の意見を答える科目でもないので、仮に自分の心情的には「ウクライナの人々が可哀そう」と思っていても、(1)や(2)という自分の心情に合致している選択肢を選んでも不正解となってしまうのです。要するに、自分の主張や意見ではなく、筆者の主張を読め、というわけですね(下記の附則も参照のこと)

附則:個々で少し注意すべきなのは、筆者の主張を読め、というのは、作者の思惑や意図を読むと言うことではないということです。ロラン・バルトの「作者の死」という概念があります。バルトにとって、課題文でもある「文章」を「テクスト」と呼び「テキストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュール(書き言葉)が結びつき、異議をともないあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」(バルト『物語の構造分析』)とあるように、物語を筆者の主張通りに読み取ることなんてナンセンスだと説いているわけですね。要するに、筆者の主張と作品は乖離しているのであり、あくまでもそこに書かれていること、それに課題文は長い文章の一部分を切り抜いて書かれていることであるので、作者の主張とは本来そぐわないことも正解となり得るということを留意しておきましょう。

03 現代文の第1のルール

課題文を読む、当たり前のことではありますが、これが現代文の第1のルールです。このことを今のような悪意ある問題ではなく、違う課題文で確認してみましょう。

例題2 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

 私たちは死へむかって走り寄りはしない。生誕という破局からも、なんとか目をそむけていようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒のありさまだ。死を恐れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにしかすぎない。

 たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末にこそあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」とブッダはいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。

問 この文章の内容と一致するものを、次の選択肢から一つ選べ。

(1)生きていくのは苦しいが、生きていくことが大切だ。

(2)仏陀は、紀元前4~紀元前6世紀に誕生した。

(3)生まれてしまったことは事件であり、災厄だ。

(出口裕弘訳、E・M・シオラン『生誕の災厄』)

ここでも文章に書いてあるままに答えましょう。まず、文章では、「生まれることの捉え方」が説明されています。その説明にあった選択肢を選べばいいのです。

(1)には、一般論というか、常識的な見解が書かれていますが、これは現代文の最大のルールである文章に書いてある通りに答えるというルールに従えば、不正解です。(2)はどうでしょうか?(2)は、世界史的には事実であり、諸説はあるものの、生年の幅があるとはいえ、正しいことをいっています。しかし、これは文章には書いていないことであり、文章に書いてあるとおりに答えるという前提に反しており、不正解です。正解は、(3)となります。課題文に説明されてある通りで、これが現代文という科目では「正しい」とされることになるのです。

今回の課題文もおそらく現代文で出題されることはまずないであろうという、通称「最強のペシミスト」と評されているルーマニアの哲学者シオランの文章です。

若い人たちに教えてやるべきことはただの一事、生に期待するものは何ひとつとしてない、少々譲ってもほとんど何ひとつない、ということに尽きる。各人に引きあてたあらゆる見込み違いを列挙して、<失望表>を作製し、これを学校に掲示するというのは理想だ。

シオラン、前掲書

などいう、「それを言っちゃあお仕舞いよ」というような一時期の青年や倦怠期の中年などにガツンと響くペシミストぶりが、マニアには溜まらないのですが、これを読んで共感する方はかなり少数派でしょう、苦笑。

おっと、話がずれましたが、現代文では、このような少し意地の悪い課題文は出ることはないものの、現代文の課題文を読むときは文章を客観的に読む必要があるわけです。その読み方というのは、読書感想文を書くときに読むような読み方とは全く異質であるということに最大限注意を払わなければなりません。趣味で、読書するときの読み方は千差万別、自由気ままで全く問題ないですし、むしろある意味そうでなければ楽しくもなんともないということがありますが、現代文(あるいは国語)という受験科目で読む、つまり現代文の問題を解く時に読む「読み方」は全く異なるものであるということです。

04 現代文の第2のルール

これまで例題を通して、その客観的に読むことの必要性を実践的に示してきたわけですが、少し悪意ある問題でしたし、「そもそも客観的に読むってどういうことよ?という疑問がまだ解消されていないかもしれません。次のような例文を登場させましょう。

アキレスが走って亀を追いかけた。

この文章を読んだとき皆さんの頭の中はどうなっているでしょうか?

アキレスと亀 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾
アキレスと亀

この絵のようなイメージを持った方も少なくないかもしれません。有名なゼノンのパラドックスを知っていた方は、上の図をイメージしたかと思います。しかし、このアキレスと亀のパラドックスを知らない方は、そういうイメージは持たないかもしれません。

このように各人がそれぞれイメージを作りながら読むことを「主観的に読む」と言います。主観は人それぞれ違います。そのため、同じ文章を読んでもみなさんが持つイメージは同じになりません。しかし、入試の現代文で「人それぞれ感じ方は違うよね」で回答が成り立ってしまうのであれば、試験を課す意味はありませんよね。入試では、点数をつけ、正誤を判定しなければなりませんが、採点官が「この人のイメージは想像力豊かでいいなあ。○にしよう。」とか「この人のイメージはちょっと好きではないな。×にしよう」などと採点されてはたまったものではありませんよね。個人的な感想によって採点されては困りますし、するわけにもいかないのです。

ですから、入試に於ける現代文では、イメージを膨らませるいわゆる「読書」とは全く違った読み方をする必要があるわけです。では、上の例文を読んで、次のような説明をしたならばどうでしょうか。

この文の主語は、「アキレス」であり、「走っている」のも「追いかけている」のも「アキレス」だ。

この文の主語は、誰が読んでも「アキレス」です。「いや、私には永遠に追いつけないという主張をしているゼノンだと思います」といっても、それは知識を前提にした屁理屈になってしまいます。このように誰がどう見ても同じよう捉えられる形(構造)に注目することが、現代文(国語)で求められる読み方です。そして、これこそが「客観的に読む」ということになります。

読書をする際には、「あー、これはゼノンのパラドックスをいわんとしているのかなあ」とか思いながら読むでしょう。逆に、この文の主語は「アキレス」で、述語は「追いかけた」になっているな、などと確認しながら読む人は少ないと思います。本で言わんとしている内容や本から喚起されるイメージに集中しているはずです。

それに対して、現代文(国語)では、「文の形(構造)」に目を向け、誰が読んでも必ず同じになることを掴まなければなりません。現代文では「自分でイメージする(主観)」のではなく、「誰でも同じになることを掴む(客観)」が重要であるわけです。しかし、この形(構造)を読むことが客観的に読むことだと分かっていても、実はそう簡単なことではありません。一つ例題を出しましょう。

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

アキレスが走って亀を追いかけた。

問 本文の内容と一致するものを、次の選択肢から、最も適切なものを一つ選べ。

(1)アキレスが走った亀を追いかけた。

(2)アキレスが走って亀が逃げた。

(3)アキレスが走っている。

オリジナル問題

現代文(国語)では、第1のルール「課題文をもとにして答えなければならない」んでしたね。そして、次に来るの現代文の第2のルール「課題文を客観的に読まなければならない」ということが、これで明確になります。

あなたはどの選択肢を選びましたか?(1)は主語が「アキレス」という点は問題ありません。しかし、「走った」という補助動詞が、アキレスの「追いかけた」ではなく、「亀」にかかってしまっています。間違えですね。(2)は「アキレス」という主語はOK、補助動詞「走って」もOKです。一見問題なさそうですが、「亀が逃げた」のでしょうか?確かに、アキレスと亀という話をイメージしてしまうと、「亀が逃げている」感じはします。しかし、少なくとも課題文には亀が逃げているという描写・記述は一切ありません。引っかけの選択肢ですね。ここで「あ、これだ」と安易に飛び付いて誤答しないように注意しましょう。最後(3)ですが、これが正解なのは、消去法で分かっていますが、「アキレス」という主語と「走って」という補助動詞の対応がOKですね。亀についての言及はありませんが、課題文の趣旨とずれているところはありません。これが正答です。

ここまでいうと、「こんなの簡単じゃん」と言う方もいそうですが、仮に選択肢(4)が存在し、それが「アキレスが亀を走って追いかけている」という選択肢が存在した場合、こちらの方が「より相応しい選択肢」となり、(3)は何へ向かって走っているのか目的語を欠いているという「不足」から×になってしまう場合もあるので、注意が必要です。課題文と過不足なく、つまり何も足さず、何も引いていない選択肢がもっとも相応しい回答であるということも覚えておきましょう。今回、(3)が正解であったのは、(1)や(2)と比べて相対的に、構造上誤りがないので正解になっているに過ぎません。

もう一問いきましょう。

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

経営者と政治家は、昔から占い好きと言われるものですが、洋の東西を問わず、占いは人気があります。テレビ番組でも、毎日のように「今日の運勢」などを目にしない日はほとんどありません。とりわけ、日本では、西洋の星座占いよりも、血液型占いが昔から定着しています。A型は真面目、B型は少しとっつきづらい、AB型は二重人格、O型は寛容といったような、一定のパターンに基づいた性格診断や相性診断が下されます。問題なのは、この血液型占いというのは、占いという範疇を超えて、あたかも科学であるかのように語られる場合があるということです。「Aくんは、AB型だから、少し両極端なところがあるよね」という言説が何らかの医学的生理学的な根拠に支えられているかのような装いを帯びてくる場合があるということです。こういうことを認知科学では確証バイアスといったりしますが、こうした言説に科学的根拠はないものの、こうした疑似科学的言説に幼少期からさらされ続けることで、AB型の人物が本当に「両極端な性格」を形成するということがあるのです。予言の自己成就ともいわれる現象です。

(オリジナルの筆者の即席の文章、苦笑)

問 「占い」について説明したもので、本文に最も適切なものを次の選択肢の中から選びなさい。

(1)占いは東洋でも西洋でも人気がある。

(2)血液型占いは科学的な根拠がある。

(3)日本では血液型占いを目にしない日はほとんどない。

オリジナル問題

この問題で、(2)はすぐに誤りであることに気づけると思いますが、(3)を誤って選んでしまった方はいませんでしょうか。目にしない日がほとんどないのは血液型占いではなく、「今日の運勢」です。血液型についての話が後半詳しく展開されているので、つい、(3)を選んでしまったということはありませんでしょうか。

このように、現代文は文章を客観的に読む、というルールを守ることが求められていることをしっかりと理解しましょう。

05 現代文の第3のルール

最後に現代文の入門編として、理解しておきたいことは、「設問を正しく読む」ということです。これが、現代文第3のルールです。課題文を正しく読めていても、問題、つまり設問を正しく読めていないと正解には至れません。例題に行きましょう。

次の文章を読んで、後の問いに答えよ。

現代文では、「読み方」だけではなく、解き方も学ぶ必要がある。むしろ、より重要なのは、実は「解き方」にある。なぜなら、現代文では、同じ課題文でも全く異なった問題の作り方があるからだ。

問 「解き方も学ぶ必要がある」とあるが、それはなぜか。次の選択肢の中から最も適切なものを一つ選べ

(1)現代文では、「読み方」を学ぶ必要があるから。

(2)現代文で、より重要なのは「解き方」だから。

(3)現代文では、同じ課題文でも異なった問題の作り方があるから。

(オリジナル問題)

選択肢のどれもが今回は課題文に書いてある通りです。文章を客観的に読むだけなら、どれでも正解になってしまいます。そこで、重要になってくるのが、この問題が何を訊いているのか、ということです。この問題は、理由説明問題で、「解き方も学ぶ必要がある」ことの理由を訊いている問題です。なので、本文に書いてあることでも、理由になっていなければ正しく答えたことになりません。では、どれが回答になるのか、少し考えてみましょう。

答えは決まりましたでしょうか。まず、(1)は前提であり、理由ではありませので、×です。(2)は該当個所の直後に書かれているので、これを選んでしまう人がいると思いますが、これは該当箇所の言い換えに過ぎないもので、理由ではありませんので、×です。正解は、その理由になっている(3)が正解です。設問に正しく答える、ということがどういうことか分かりましたでしょうか。

ちなみに、現代文の問題は大きく分けると、「内容説明問題」(課題文の内容と一致しているか、あるいは傍線部の箇所と一致しているか)という問題と、「理由説明問題」(課題文である主張をしているとして、それはどういう理由で言っているのか、あるいは傍線部の箇所はどういう理由で述べられているのか)の設問しかありません。細かく言えば、評論文では、「指示語」「接続語」「類比」「対比」「抽象と具体」「比喩」「因果関係」の問題があり、小説文では「心情」に関わる問題しか出ません。

06 現代文には解き方がある理由

ここまでで一旦第一講は終わりなのですが、主語と述語の対応(構造)を見抜くことなんて簡単じゃないか、と思った方がいるかもしれません。しかし、それが実はかなり難しいものだということを、最後に、ノーベル文学賞受賞者の川端康成の名作『伊豆の踊子』から検討しておしまいにしましょう。

次の文章を読んで「さよなら」を言おうとしたのは誰か?また「うなづいた」のは誰か?それぞれ主語を答えなさい。

踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた、私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなづいて見せた。

川端康成『伊豆の踊子』

この文を読んだとき、皆さんは頭の中はどうなっているでしょうか?「踊子」が「私」に向かって何も言えずにおじおじと頷いている光景でしょうか。それとも、「私」が「踊子」に向かって頷いている光景でしょうか。また私が好きな悪問です(苦笑。これ難しいですよね。前後の文脈関係なしにぽんとこの文章だけ登場すると、「踊子は」が主語で、「さよならを言おうとした」のであり、それも止して「もう一ぺんうなづいて見せた」と解釈するのが普通の読み方でしょう。

実は、作者である川端康成ですら、「さようならを言おうとした」のは誰か?「うなずいて見せた」のは誰か?それぞれ主語に答えなさいという問題に困惑しているのです。川端康成は『私の文学』でこう書き記しています。

 はじめ、私はこの質問が思いがけなかった。踊子にきまっているではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなずくのでなければならない。この場の「私」と踊子の様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。「私」か踊子かと疑ったり迷ったりするのは、読みが足りないからではなかろうか。

 「もう一ぺんただうなずいた。」で、「もう一ぺん」とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなずいたことを書いているからである。(中略)

 ところがしかし、読者の質問の手紙にうながされて、疑問の個所を読んでみると、そこの文章だけをよく読んでみると、「私」か踊子かと迷えば迷うのももっともだと、私ははじめて気がついた。「私が縄梯子に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。」では、「さようならを言おうとした」のも、「うなずいた」のも「私」と取られるのが、むしろ自然かもしれない。しかしそれなら、「私が」ではなくて「私は」としそうである。「私が」の「が」は「さようならを言おうとした」のが、私とは別人の踊子であること、踊子という主格が省略されていることを暗に感じさせないだろうか。それにしても、「(踊子は)さようならを言おうとした」の踊子という主格を省略したために、読者をまどわせるあいまいな文章となった。英訳者のサイデンステッカー氏も「私」としている。”As I started up the rope ladder to the ship I looked back. I wanted to say goodby, but I only nodded again.”

川端康成『私の文学』

サイデンステッカーという高名な日本文学研究者(であり、むしろ、川端康成のノーベル文学賞受賞を決定付けた立役者)は、川端康成に言わせれば誤読しており、上記英訳は、さよならを言おうとしたのもうなづいたのも「私」になっています。これが本当に誤読なのか、それとも川端の書き間違えなのか。簡単に答えを言ってしまえば、これはサイデンステッカーの誤訳です。但し、上の文章で川端が自身で「主格を省略した」などと言っているのもまた、川端康成という作家もまた、日本の近代的文化人としての限界があったことも明らかなので、これは喧嘩両成敗というか、どっちもどっちで、川端康成ほどの作家をもってしても日本語と英語の違いが意識されていない、と結論づけざるを得ません。なぜなら、日本語には基本文型に「主語などない」のですから。よく「日本語では主語が省略される」とか言ってしまう文化人が多いですが(これは日本の教育システムが培ってきた幻想と洗脳ですが)、省略されているのではなく、そもそも主語がないのが、日本語の通常の文章であるわけです。

この問題(主語が読み取れない問題のこと)、私が言及しているのではなく、実は、作家の平野啓一郎という、『本の読み方』という著作で紹介しているのですが、その平野啓一郎ですら

名文と悪文は紙一重かもしれない。(中略)私たちは、コミュニケーションの中で、ある程度暴力的に相手の心情を仮定するという作業を日常的に行っている。(中略)一人称体小説では、一見、作者としての超越的視点が不意に混入させたと思われるような三人称の登場人物の内面への言及が、実は、私たちのコミュニケーションの一般的な前提に由来しているに過ぎない

平野啓一郎『本の読み方』

などと、明らかに日本語を理解していない発言をしています。京大卒、芥川賞受賞者の平野啓一郎といえども、「人称の呪縛」に囚われていることに注意を促したいと思います。

現代文を構造的に理解しようという話をしているのに、また、それこそ明らかに余計な話に足を突っ込んでいるのは十分承知していますが(そういう性格なんですね)、日本語には主語がないため、仮に主語を想定するならば、コンテクスト(文脈)で判断するしかありません。この問題を突き詰めると、入試現代文の範囲を逸脱してしまいますが、日本語は本来主語なしに文章が成り立つ言語であり、しかしながら、入試現代文では、日本語を英語的に理解し捉え直し、それこそ明治維新後の脱亜入欧で日本がモデルとしてきた英語への無理な矯正が入ってしまっているので(逆に言えば、だからこそ、入試現代文はテクニカルにある一定のルールに従って回答できるわけですが)、必ず、英語の基本五文型のように、主語と動詞、そして目的語を補って回答しなければなりません。

ここから先は専門的な言語学の本などを各自で読んで頂きたいですが、日本語に主語がいらないのが普通であるのは、以下の文章のどちらが、日本語として馴染みがあるか比べるだけで説明を終えましょう。まず、先だって、英語でこう言ったとします。「I love you.」(ドイツ語なら「Ich liebe dich.」、仏語なら、「Je t’aime」.)を日本語に訳してみましょう。

(a)私は君を愛している。(SVO形式)

(b)君を愛している。(SV形式)

(c)愛している。(Vのみ)

生徒諸君は、まだこういう言葉を実生活で、使わないかもしれませんが、「愛している」を「好きだ」に変えて理解して貰っても良いでしょうが、実生活ではなくとも、ドラマやマンガ、小説でも主人公が恋人に向かって日常会話で「愛しているよ」というのと、「私は君を愛しているよ」というのでは、cどちらが自然に聞こえるでしょうか。愛しているよ(現代文、笑)

07 第一講のまとめ

かなり余計な話をしてしまったので、最後にまとめます。現代文を解くには、課題文を読む際に、

そもそも課題文について答えるということ

が大前提で、その上で、その課題文を、

(1)自分の主観(という名の独断と偏見)

(2)自分の感性(という名のフィーリングという好き嫌い)

(3)自分の勘(という名のほぼ博打打ち)

の三つを排して、課題文をそのまま素直に

何も足さず、何も省かず読み

に読み解いていく必要があります。そして、課題文を客観的に読めたら、次は設問に対して、

設問が、何を訊いているのか(内容か理由かの二択)

を、判別する必要があるというわけです。

そして、<近代日本教育のシステム>として、回答は必ず、英語的に、

主語や述語、目的語、補語といった構造

を理解して答える必要があるわけですね。

現代文の世界はこれから始まります。

現代文への偏見

現代文の記述問題の解き方(1)

現代文の記述問題の解き方(2)

現代文の記述問題の解き方(3)

現代文の記述問題の解き方(4)

リベラルアーツ教育に強いのは武蔵野個別指導塾だけ 《武蔵境駅徒歩30秒》武蔵野個別指導塾
【監修者】 宮川涼
プロフィール 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。

TOPに戻る

個別指導塾のススメ

小学生コース

中学生コース

高校生コース

浪人生コース

大学院入試コース

社会人コース(TOEIC対策)

英検準1級はコストパフォーマンスが高い

英文法特講(英語から繋げる本物の教養)

東大合格は難しくない

英語を学ぶということ

英文法講座

英検があれば200~20倍楽に早慶・GMRCHに合格できる

現代文には解き方がある

共通テストや国立の記述テストで満点を取る日本史

共通テストで満点を取るための世界史

武蔵境駅徒歩1分武蔵野個別指導塾の特徴

サードステーションの必要性

学年別指導コース

文部科学省

author avatar
ryomiyagawa
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。
PAGE TOP
お電話