現代文の記述問題の解き方(6)
それでは、もう一問、今度は一橋大学の過去問を通して、記述問題の解き方を確認していこう。
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。
感情労働の一番辛いところは、情動を強いられることであろう。嬉しくないのに、嬉しそうにしなくてはならない。ちっとも尊敬していないのに、心から尊敬しているようにみせなければならない。すごい人だと感じないのに、褒めそやさなければならない。感情労働に従事する人は、自然に湧いてくる自分の情動を抑えて、その場で求められる情動を無理に抱かなければならない。あるいは、少なくとも、そのような情動を抱いているかのように見せなければならない。それはたしかに辛いことである。
では、なぜ感情労働においては、自然な情動を抑えて、不自然な情動を示さなくてはならないのだろうか。なぜそのような情動の管理が要求されるのだろうか。それはもちろん、情動の管理が雇用者の利益につながり、ひいては従業員の利益につながるからである。店員が無愛想な顔をしていれば、見せに客が寄ってこない。店の売り上げが下がり、店員の給料も下がる。店員は解雇されるか、店がつぶれて失業する。そうなるのが眼に見えている。だから、いやいやでも、店員は客に笑顔を示さなければならない。店主も、店がつぶれては困るから、店員に笑顔を見せることを要求する。新米の店員には、どんな状況でも笑顔を絶やさないように訓練しさえする。こうして雇用者と従業員の利益のために、情動の管理が要求され、不自然な情動が求められるのである。
では、利益のために求められる情動が強いられたものではなく、ごく自然なものになれば、それでよいのだろうか。仕事に慣れてくれば、理不尽な要求をしてくる客であっても、仕事だと思って自然に笑顔で対応できるようになってくるだろう。仕事でなければ、当然、理不尽な要求をしてくる人には怒りを覚えるが、仕事であれば、とくに怒りを感じることもなく、笑顔を見せることができる。つまり、仕事かどうかで、切り替えができるのだ。仕事であれば、仕事人モードになるようにし、そうでなければ、常人モードになる。いや、それどころか、さらに慣れてくると、強いて切り替えることさえ必要なくなる。仕事になれば、おのずと仕事人モードになるのだ。このように雇い主と自分の利益のために要求される情動が何の強制も感じず、まったく自然なものになれば、そのような情動を抱くことがけっして辛いことではなくなるだろう。おのずと湧き上がる情動に身をまかせ、おのずとその情動を顔に出せばよい。何も辛いことはない。
しかし、辛いことでなくなりさすれば、それでよいのだろうか。感情労働で求められる情動がとくに苦痛を感じずに自然に抱けるようになれば、それで問題はなくなるのだろうか。そうではなく、たとえそうなったとしても、そのような情動が抱くことには何か根本的な問題があるように思われる。感情労働において問題になるのは、たんにある種の情動を強いられるということではなく、強いられようと強いられまいと、そのような情動を抱くことそれ自体が問題なのではないだろうか。情動を強いられるということが問題の本質ではないことを、医師の感情労働にそくして見ていこう。
今日では、接客業に従事する人たちだけではなく、医師もまた、聖職者や教師などとならんで、感情労働に従事する人とみなされる。今日の医師は、かつての医師がそうであったかもしれないように、患者が言うことを聞かなければ、ただ叱りとばしていればよい、というわけではない。患者の言うことに真摯に耳を傾け、病状をわかりやすく説明したり、患者の納得のいかない治療方針を示したりしなければならない。たとえ患者が無茶な要求をしてきても、けっして怒ったりせず、その要求が理に適っていないことを丁寧に説明し、患者に納得してもらわなければならない。接客業の従業者と同じく、医師も情動の管理を求められ、ときに不自然な情動を強いられる。今日では、医師の仕事もサービス業になったのである。
しかし、医師の仕事を本当に接客業と同じサービス業とみなしてよいのだろうか。患者は客なのだろうか。医師の仕事と接客業のあいだには重要な違いがあるように思われる。たしかに医師にも、自然な情動を抑えて、求められる情動を示さなければならない場合がある。「飲みたいだけお酒を飲んでも、糖尿病が悪くならないように、先生、何とかならないでしょうか」と患者が言っても、「何を言っているのですか」と頭にきて叱りとばすのではなく、患者に共感を示しつつ、その要求を満たすことがいかに不可能かを納得させてあげなければならない。しかし、それはたんに、そうしなければ、患者が自分のところに来なくなってしまって、収入の道を閉ざされるからではない。むしろ、病のために好きなお酒を制限しなくてはならない患者の苦情に深い共感を示すことが、患者を治療する医師にとってまさになすべきことだからである。ここでは、たとえ強いられたものであれ、共感を抱くことがまさになすべきことであり、それゆえ適切なことなのである。
そうだとすれば、無理やりではなく自然に共感を抱けるようになれば、もう何も言うことはないだろう。医師が自然に共感を示すことができず、むしろその医師がまだ十分一人前の医師になりきれていないからである。たしかに怒りにまかせて叱りとばすよりはよほどましであるが、自然に共感を抱くことができないというのは、医師としてはまだ修行が足りない。立派な医師であれば、おのずと共感が湧いてくるはずだ。そして自然に共感を抱けるようになれば、それでもう何も問題はない。最初のうちは、おのずと湧き起こってくる怒りを抑えて、無理に共感を示さなければならなかったとしても、やがて自然に共感が湧いてくるようになれば、それですべてよしである。そのとき、医師はまさに自分が抱くべき共感を自然に抱いているのである。
それにたいして、接客業の場合には、不当な要求をしてくる客にたいして笑顔で応対するのは不適切である。そのような客には、たとえ客であっても、毅然とした態度で怒りを示さなければならない。不当なことには怒りで応答すべきである。不当なことに喜びで、あるいはその演技で応答しなくてはならない。不当なことには、それに相応しい情動で応答しなくてはならないのだ。医師の場合には理不尽な要求をする患者にも共感を抱くことが、状況に相応しい情動であった。しかし、接客業の場合には、理不尽な要求をする客に喜びを抱くことは、状況に相応しい情動ではない。それは不適切な情動である。そのような不適切な情動を抱かなければならないからこそ、接客業は感情労働なのである。
(信原幸弘『情動の哲学入門 価値・道徳・生きる意味』)
問一 傍線ア「仕事人モード」とあるが、それはどのような状態か、説明しなさい(三〇字以内)。
問二 傍線イ「そのような情動を抱くことには何か根本的な問題があるように思われる。」とあるが、「根本的な問題」とはどのようなことか。文章全体をふまえて答えなさい(三〇字以内)。
問三 傍線ウ「接客業は感情労働なのである。」とあるが、筆者は少し後の段落で、医師の仕事が感情労働ではないように、「接客業もまた、本来は感情労働ではないのである。」と述べている。なぜそのように言えるのか、文章全体およびこの後に予想される論理展開をふまえて説明しなさい(五〇字以内)。
一橋大学2020年
模範解答
問一:利益のために、情動を管理して仕事に相応しい情動で接する状態。
問二:状況に合わせて、抱くべき情動に反した不適切な情動を抱くこと。
問三:接客業は客をもてなす仕事であり、理不尽な客にも笑顔で接するのは職務に合った適切な情動だといえるから。
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |