日本史講義 更新世と石器文化
さて、日本史の勉強をはじめていきましょう。スマホでごらんになっても結構ですし、ページをプリントして読んで頂いても結構です。日本史の流れを頭に入れていきましょう。
01 日本文化のあけぼの
01-1 文化の始まり
01-2 更新世と旧石器文化
今から約700万年前、人類は地質学でいう新第三紀中新世後期に誕生し、猿人・原人・旧人・新人(現生人類)の順に進化してきた。地質学でいう第四紀は、約1万年前余りを境に更新世と完新世とに区分される。更新世は氷河時代とも呼ばれ、この間に何回かの寒冷な氷期があり、海面は現在に比べて100メートル以上余りも下降した。このため、日本列島は北(サハリン)と南(朝鮮半島)で大陸と陸続きになり、北からマンモスやヘラジカ、南からナウマンゾウやオオツノジカがやってきた。人類もこうした大型獣を追い、日本列島に移動してきたと考えられている。
『新日本史』(山川出版社)
少し前までの世代、とりわけ今の生徒さんの保護者くらいの世代では、人類は400万年前くらいから起こったとされ、その代表格がアウストラロピテクスであったと思います。かくいう私もアウストラロピテクスと覚えたものでした。しかし、現在は、700万年前に活動していたとされるサヘラントロプスが人類の祖として世界史でも日本史でも覚えるようになっております。こうした原始の時代や古代の時代というのは考古学上の発見によって、教科書も版を重ねる毎に記述が変わっていきます。歴史というと近代史以降を思い浮かべる方も少なくありませんが、個人的にはこうした古代史にこそ歴史のロマンはあるのではないかと思う次第です。
さて、冒頭の記述で重要なのは、更新世と完新世、そして更新世の頃は世界は寒く氷河期であり、海が凍り、今の日本列島とは違い大陸と地続きになっていて、大陸からマンモスやヘラジカ、ナウマンゾウやオオツノジカが日本列島にやってきたわけですね。そして、そうした獲物を追いかけて人類がやってきたわけです。その点だけ覚えておきましょう。
日本は、土壌が酸性のため人骨が残りにくく、現在知られている化石人類のうち、静岡県の浜北人、沖縄県の港川人は、いずれも新人段階(3万年前以降)の人骨である。これらの人骨は、身長が低く幅の広い顔など中国南部の柳江人などと共通しており、アジア大陸南部の古モンゴロイドの系統につながり、人類学では日本人の南方起源説が説かれている。1946(昭和21)年に、相沢忠洋が群馬県岩宿で更新世に堆積した関東ローム層から打製石器を発見し、1949(昭和24)年に調査されて以来、旧石器時代が日本に存在していたことが明らかになった。考古学では、人類の文化を使用する道具や利器によって、石器時代・青銅器時代・鉄器時代に区分し、石器時代を、さらに打ち欠いた打製石器のみの旧石器時代(ほぼ更新世に属する)と、石器を磨いて仕上げている磨製石器が現れる新石器時代とにわけている。ただし、日本では新石器時代ではなく、縄文時代という名称を使うことが定着している。今から約3万円前までの時代を後期旧石器時代っと呼ぶが、それより古い時代については、不明な部分が多い。後期旧石器時代は、全国から多くの遺跡が発掘され、その姿が明らかになりつつある。
『新日本史』(山川出版社)
ここでの最初のポイントは、静岡県の浜北人、沖縄県の港川人を覚えておくことと、現在に至るまで、新人段階の人類しか化石は見つかっていないということです。そして、市井の考古学者、相沢忠洋が群馬県岩宿遺跡を発見し、日本にも旧石器時代があったことを明らかにしたことが大事です。この相沢忠洋氏の発見は、当初彼が市井の考古学者であったことや『古事記』や『日本書紀』に記載されていない歴史が存在するということで学会から異端視さえ、冷遇されていました。彼の実績が評価されるには時間がかかったのです。
ところで、そんな相沢忠洋氏の名前を冠した賞の相沢忠洋賞の第一回受賞者には、皮肉な話があります。実は一時期、ゴッドハンドとも呼ばれた藤村新一氏が次々とこれまでの常識を打ち破り、「日本には約七十万前から原人が存在した」というようなことを裏付ける遺跡などをねつ造して一時、教科書や入試でも出題されるという出来事が起きたことがありました。彼は貴重な発見をしたのに、時代から冷遇され苦労した相沢忠洋の名前を冠する賞の第一号受賞者となりました。その後、彼のねつ造は暴露し、教科書からそうした記載が削除されたのはいうまでもないことです。市井の考古学者相沢忠洋とは真逆のような話で非常に残念ですね。
この時代の人びとは狩猟と植物採集の生活を送り、10人前後の小集団をつくって一つの河川の流域で食料資源を求めて移動を繰り返した。さらに黒曜石の石材が遠隔地より運ばれてきたことから、より大きな集団もつくられ、交換や分配の仕組みもできていたらしい。大型動物を捕らえる道具は、槍先に使用するナイフ型石器と採取に用いる打製石斧(局部磨製石斧もみられる)が一般的であったが、気候の温暖化により、狩りの対象となる動物が小型化すると、槍先は小型の尖頭器へと変化した。さらに旧石器時代の週末には、細石刃を動物の骨の側縁に並べて埋め込んだ組合せ式の槍が現れる。この細石器時代は北海道でもっとも発達し、中国東北部からシベリアにかけてもみられることから、北海道と大陸の人びと同じ文化圏に属していたと考えられる。細石器文化のあと、土器の出現とともに、1万3000年前頃に縄文時代に入る。
『新日本史』(山川出版社)
この時代のポイントは、日本人は、狩猟と採集生活を送っていたということですね。いわゆる獲得経済の段階にあったということですね。獲得経済というのは、食料をためずに、腹が減ったら動物や植物をとって食べていたということです。「ためる」ということがないので、貧富の差はなく、フラットな社会(社会が成立しているかどうかも微妙ですが)というか人間関係であったというわけですね。そういうことから、ルソーの「自然に帰れ」などのキャッチフレーズで有名なように、憧れの失われし理想社会のようにも思われることも少なくありません。
しかし、本当に憧れられるような世界かどうかはもちろん、説や考え方にもよりますが、筆者はかなり怪しいと思います。大型動物を一人で狩れるということはないでしょうから、この段階から人類は徒党を組んでチームでナウマンゾウやマンモスなどを倒して、食べていたと思いますが、やっぱり狩りの上手いやつやそのチームのリーダはいたでしょうし、そういうリーダ的な存在がボスみたいになっていたのではないかと思います。その辺を私の好きな漫画家森恒二氏(最近、三浦建太郎『ベルセルク』を三浦氏が急逝したことから同作引き継いだという話が有名な作家です)が『創世のタイガ』という漫画で描いていますが、殺し合いや奪い合いで相当大変そうです。武論尊&原哲夫の名作『北斗の拳』の世界とまではいかずとも、とりあえずめちゃくちゃ強いやつというのが好き放題していたように思えます。実際、当時はまだ道徳も法律も当然なんにもないわけなので、まさにレッセフェールだったのではないでしょうか。
01-3 縄文文化
最後の氷河が終わり完新世になると、地球の温暖化とともに海面も上昇し、日本列島は約1万年余り前までには大陸から切り離された。植物相は亜寒帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナ・ナラなどの落葉広葉樹が、西日本にはシイ・カシなどの照葉樹林が広がり、動物相も大型獣は絶滅し、動きの速いニホンジカとイノシシが中心になった。こうした自然環境の変化に対応して、人びとの生活も大きくかわり、縄文文化が成立したのである。縄文時代の開始は、いくつかの道具の出現、技術の革新によって特徴づけられる。第一は土器の出現で、森林が変化して植物性食物が増加し、食物の煮沸や調理をするために考案されたらしい。また、トチやドングリ(ナラ・カシ・シイの実の総称)は、あく抜きをしなければ食べられないが、その技術は縄文時代前期には広まった。第二に、旧石器時代の投げ槍・突き槍にかわって、動きの速い中型獣を狩猟するために弓矢が使用されるようになり、弓には軽い石鏃(せきぞく)がつけられた。また、磨製石器も広く普及した。土器の出現は、放射性炭素14Cにより年代測定によれば約1万2000万前であり、世界的にも古い年代とされ、日本列島は最初に土器を発明した地域の一つと考えられる。東アジア諸地域の文化とどのような関係にあったのか不明だが、自然環境の変化に対応して、新しい文化を早い段階で生み出したことは確かである。これらの土器は表面に縄(撚糸)を転がして縄文と呼ばれる文様をもつものが多く、縄文土器といわれる。厚手の黒褐色の低温で焼かれたものが多く、深鉢を基本に各種の器形があり、器形と文様の違いから約1万年続いた縄文時代は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に6区分される。中期には関東・中部・北陸を中心として、文様はもっと装飾的で立体的となり、晩期では東北の亀ヶ岡式のように磨消(すりけし)縄文による洗練された文様と硬質な土器がみられる。
『新日本史』(山川出版社)
ついに縄文時代始まりました。日本は世界史的に見ると、鉄と青銅器がほぼ同時期に入ってきたり、文字が生まれるのが遅かったりと非常に後進国のように見られがちですが、実は皆さんもよく知っているあの縄文土器は世界最古の土器といわれているんですよね。ある意味、日本人は昔から手先が器用であったということなのでしょうかね。ちなみに、今では、日本に当たり前のように広がっている落葉広葉樹や照葉樹林ですが、もともとは針葉樹林であったんですね。この縄文時代頃に、更新世から完新世へ移り変わる約1万前に気温が上がり、樹木はもちろん、獲物の種類なども大きく変わっていったわけですね。また、当然この頃、海は広がり、日本列島は今のような形の島国となっていったわけです。まさに日本の誕生ですね。
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |