日本史講義 倭の五王とヤマト政権の支配機構
倭の五王
朝鮮半島南部における外交・軍事上の立場を有利にするために、ヤマト政権の大王である倭の五王といわれる五名の王、讃(さん)・珍(ちん)・ 済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が、中国の南朝に遣使して冊封されるます。その過程を読んでみましょう。
このような東アジアの情勢の中で、倭は朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、百済や新羅などと同じように中国の南朝に使いを送り、朝貢した。『宋書』倭国伝には、5世紀初めから約1世紀間、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の5人の倭王(倭の五王)があいついて宋に朝貢したことが記されている。この五王には、『記紀』にみえる応神から雄略天皇の諸天皇をあてるいくつかの説がある。倭王は、中国の南朝に遣使して皇帝の臣下となり、官爵を授けられて(冊封という)、朝鮮半島での影響力を南朝に認めてもらうことをめざしたのである。また倭王は、みずからの臣下への官爵も求めており、ヤマト政権内部での秩序づけにも役立てたと考えられる。朝鮮半島との交流が盛んになる中で、渡来人によって、新しい文化や鉄器・須恵器の生産、機織り・金属工芸や土木などの技術が伝えられた。百済は、475年に高句麗の大群によって都の漢城を攻め落とされ、多くの王族が殺されて南遷した。こうした戦乱の影響を受けて、今来漢人(いまきのあやひと)と呼ばれる百済系の人々が渡来した。5世紀後半が渡来人の第二の波である。倭王は、渡来人を陶作部(すえつくりべ)・錦織部(にしこりべ)・鞍作部(くらつくりべ)・画部(えかきべ)などの部(べ)に組織し、東漢氏(やまとのあやうじ)に管理させた。また、漢字を用いてヤマト政権のさまざまな記録や財物の出納、外交文書の作成に当たったのも、史部(ふひとべ)などと呼ばれる渡来人であった。都の制度は百済の制度に起源を持ち、渡来人の組織化をきっかけに、官僚組織がつくられていった。
下で見るように、倭の五王について、『宋書』倭国伝には、昇明二年(478年)、倭王武(この人が、雄略天皇=ワカタケル大王であることは確実視されています)が、宋の順帝に上表文を送ったことが記されていますが、この雄略天皇=ワカタケル大王についてもう少し詳しく見てみましょう。
ワカタケル大王
渡来人の第二の波があった雄略天皇の時代は、ヤマト政権にとって大きな画期となった。倭王武は、478年に宋に遣使して安東大将軍倭王に任じられた。その上表文には、倭の東・西・北の多くの国を征服したことが述べられ、ヤマト政権の支配領域が拡大したことがうかがわれます。さらに埼玉県稲荷山古墳出土の辛亥年(471年)銘鉄剣と熊本県江田船山古墳出土の鉄刀の銘に「ワカタケル」の名が記され、「記紀」が伝える雄略天皇の本名と一致します。雄略天皇が実在の確かめられるもっとも古い天皇(大王)であり、倭王武は「タケル」の意に漢字をあてたことがわかっています。関東や九州の豪族が、ヤマト政権の組織に組み込まれているだけではなく、銘文に「治天下・・・大王」や「天下を治むるを佐く」とあることから、臣下となっている宋皇帝中心の天下とは別に、倭の大王中心の「天下」(あめのした)」が独自に形作られ、大王のもとに中国の権威から独立した秩序がつくられていることもわかった。「記紀」には、それまで大きな勢力を誇った葛城氏と吉備氏が雄略天皇の時に没落したことが伝えられている。これまで各地の土豪的な大豪族がゆるやかに連合していたヤマト政権が、大王を中心に諸豪族(氏)が奉仕し、それが圧倒的な優位をもって地方を服属させるという性格に変わったのであろう。
次に、ヤマト政権の支配体制について見てみましょう。
朝鮮半島の動きとヤマト政権の支配体制
朝鮮半島では、6世紀に入ると、百済・新羅とも勢力を強めたが、百済は強国高句麗の南下を受けて南遷し、512年、ヤマト政権は朝鮮半島南部の加耶諸国のうち、西部の四つの国(「任那四県」と称した)を百済が支配することを承認した。さらに新羅も巨大化し、562年までに加耶諸国は百済と新羅の支配下に入って滅亡し、ヤマト政権も半島における交易拠点を失った。加耶西部に対する支配の承認と引き換えに、百済から513年に五経博士が渡来し、さらに易博士、暦博士、医博士も渡来し、儒教やそのほかの学術が伝えられた。また、538年(一説には552年)に、百済の聖明王から仏教も伝えられた。ヤマト政権内では王統の動揺があり、6世紀初めには大伴金村(おおとものかなむら)が政治を指導したが、朝鮮半島での失政の責任を問われて引退し、大伴氏は勢力を失った。かわって物部氏、さらに蘇我氏が力をもってきた。九州の豪族やその子孫は、この頃までにヤマト政権とは別に、独自に朝鮮半島と関係をもって活動していた。ヤマト政権は、327年に九州北部を本拠とした筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がおこした反乱をしずめるなど、地方豪族の争いをおさえ、しだいに国造(くにのみやつこ)制を強化して。地方への支配を進めていった。ヤマト政権の政治組織については、6世紀以前は不明であるが、6世紀前半にかけて整備が進んでいったらしい。ヤマト政権中枢は、大王を中心に大和・河内やその周辺を基盤とする氏と呼ばれる豪族の連合によって構成された。氏とは血縁的な結びつきをもととし、始祖以来代々大王に奉仕する組織である。氏上(うじのかみ)と呼ばれる首長に率いられて大王の政治的補佐をしたり、軍事・祭祀などのヤマト政権の特定の職務を世襲し、分担する組織でもあった。氏は農業をおこなう拠点であるヤケ(宅)や私有地である田荘(たどころ)と、隷属民であるヤツコ(奴)を保有していた。大王はヤマト政権に服属した地方豪族の一部に、国造の地位を与えて領域内の従来の支配権を認めると同時に、貢ぎ物をはじめ、大王へのさまざまな奉仕を義務づけた。九州から関東地方におよぶ各地に大王の政治・経済的拠点としてのミヤケ(屯倉)を設け、管理に当たらせ、また領域内に大王家に属する名代(なしろ)・子代(くしろ)の部(べ)を設定した。その部の管理者である伴造(とものみやつこ)には国造の同族を任じたり、国造自身になる場合もあった。伴造一族や国造一族からは伴(トモ)が王宮に出仕して奉仕し、王宮での生活費は出身地の部民集団が負担した。また国造の子弟は舎人(とねり)として出仕し、大王の直属軍がつくられた。大王は、氏に政権内の政治的地位を示す姓(かばね)を与えて統制した。政権の中枢を構成したのは、臣(おみ)と連(むらじ)の姓をもう氏であり、氏は大王への奉仕と引き換えに各地に蘇我部や大伴部などの部(部曲、かきべ)の保有が認められた。そのもとの伴造は、伴や技術者集団である品部(しなべ)を率いて職務を分担して代々奉仕し、高い技術水準や文筆能力をもつ渡来人は、伴造や部に組織された。有力な地方豪族には、筑紫・毛野(けぬ)などに君(きみ、吉備、出雲には臣)、一般の国造氏族には直(あたい)の姓が与えられ、部民を統率する伴造などの小豪族には造(みやつこ)や首(おびと)が与えられた。当時の政治は、大王が臣・連のうち、とくに有力なものを大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)に任命しておこなわせ、さらに重要事項は、有力氏族の代表からなる大夫(まえつきみ)が加わって合議した。
氏姓制度について学んでおきましょう。氏とは、同族の擬制的な血縁・政治集団です。氏上(うじのかみ)が氏人(うじびと)を統率。 姓(かばね)とは、 氏のヤマト政権内における世せ襲的な政治的地位を示す称号のことで、大王が授さずけるものでした。臣(おもに大やまと和地方の自立的有力豪族)や葛城(かずらぎ)・平群(へぐり)・ 巨勢(こせ)・蘇我(そが)などがありました。連(むらじ)は、特定の職務により大王に仕つかえる有力豪族のことを意味し、大伴・物部・中臣などがいました。君(きみ)は、有力地方豪族のことで、筑紫・毛野などがおり、直(あたえ)は地方豪族で、 造や首、村主(すぐり)、史(ふひと)などがいました。
統治機構は、大王を中心とする畿内有力豪族の連合政権であり、中央政府に大王のもと、大臣・大連(中央豪族)、伴造、伴、部(品部など) がいて、地方においては、 国造・県主(あがたぬし)・稲置(いなぎ)などの地方豪族がおりました。経済基盤としては、私地私民制(しちしみんせい)・部民制(べみんせい)で行われ、地方豪族は、支配権を保障される一方、大王のもとに子女を舎人・采女として出仕させ、特産物を貢納するなどしました。朝廷直轄地として屯倉(田部耕作),直属民として子代・名代の部を各地に設け、豪族は、私有地として田荘(たどころ)、私有民として部曲(かきべ)を所有。また、奴隷としてヤツコ(奴婢)も所有していました。
最後に後期の古墳文化を見ておきましょう。
6世紀の古墳時代後期になると、埋葬施設には、玄室とそれに通じる羨道(せんどう)をもち、追葬が可能な大陸系の横穴式石室が一般化し、また丘陵や山の斜面に掘り込んだ横穴も各地に出現した。埴輪もそれまでの円筒埴輪だけでなく、墳丘上や外堤上に、人物埴輪、動物埴輪や家形埴輪、ゆき・盾などの器財埴輪などの形象埴輪も並べられるようになった。こうした埴輪の群像は、葬送儀礼や生前におこなった儀礼などに伝えている。また、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)を中心に、九州北部の古墳には石人・石馬が立てられ、九州や茨城・福島には墓室に彩色や線刻を施した壁画が見られるなど、古墳の地域色が強くなった。また、この頃、群衆墳(ぐんしゅうふん)と呼ばれる小型古墳が爆発的に増加した。それまで首長層だけの連合で成り立っていたヤマト政権が、農業生産力の向上によって新たに力をつけてきた有力農民層をも取り入れて、支配を広げようとしたと考えられる。人々は山や巨岩などに神が宿ると考え、祭祀の対象とし、氏の祖先も神としてまつわれるようになった。禊(みそぎ)・祓(はらえ)・盟神探湯(くかたち)などの呪術的な風習もあった。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |