共通テストで満点をとるための世界史講義 世界史講義⑥ 封建社会の衰亡、大航海時代
〔90〕封建社会の衰亡
十字軍の結果、都市が発達し、農村にも大きな変化が見られた。貨幣経済が浸透し、現物経済が終焉した。貨幣は、保存することができるため(価値の保存)、農奴は余った作物を貨幣に変え、保持することで、貨幣を貯蓄した。そのため、荘園の農民保有地でより働いて、たくさんの生産物を手に入れようと意欲が上がった。封建領主も貨幣によって税を徴収し(貨幣地代)、領主直営地を辞め、全て農民保有地(「純粋荘園」)にすることで、さらに多くの貨幣を手に入れようとした。農奴の中には、多額の貨幣と引き換えに自由になる独立自営農民が登場(イギリスではヨーマンという)。しかし、一度手放した農奴は戻ってこないため、領主の収入は次第に減少するため、領主は「領主直営地」を復活させ、農奴への支配を強化した(封建反動)。しかし、支配を強める領主に対し、農民一揆が増加。代表的なものには、14Cのジャックリーの乱(フランス)や14C末のジョン=ボールが指導したワット=タイラーの乱(イギリス)が有名。「アダムが耕し、イブが紡いだとき、誰が帰属であったか」といわれた。
〔91〕教皇権の衰退
十字軍の失敗と教会の世俗化により、教皇権が弱体化し、宗教的情熱が冷却した。その結果、1303年のアナーニ事件や1309年からの教皇のバビロン捕囚、教会大分裂が起きた。アナーニ事件では、教会課税を巡るフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世が対立し、ボニファティウス8世をフランスに連行した。その後、フィリップ4世が、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、以後約70年間フランス王が教皇に干渉を続けた(「教皇のバビロン捕囚」)。その後、ローマにも教皇が立てられ(教会大分裂=大シスマ)、アヴィニョンの教皇とローマの教皇が対立し、権力争いをする教会への批判が増加。教会は異端審問や魔女狩りを行い強硬化するが、教会革新運動として、イギリスのウィクリフ(オックスフォード大学)が、教皇・教会批判をし、聖書の英訳を行い、フス(ベーメン、プラハ大学)がウィクリフの説に共鳴し、教会の世俗化を批判した。そのため、教会はコンスタンツ公会議で教会大分裂を解決(ローマを正統)し、フスを火刑に処分した。しかし、ベーメンでは抗議のフス戦争が1419年に起き、プラハ市民と神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントが争った。
〔92〕中世のイギリス
ノルマン朝が断絶し、フランスのアンジュー伯がヘンリ2世として迎えられ、プランタジネット朝が1154年に成立する。第3回十字軍に参加したリチャード1世(獅子心王)が早世した後、弟のジョン(欠地王)が後を継ぐ。ジョンは、フランス王フィリップ2世にフランス領の大半奪われる。ジョンは、ローマ教皇インノケンティウス3世に屈服。ジョン王は、1215年にマグナ=カルタ(大憲章)を承認し、王の課税権に貴族の承認が必要であるなど制限が加えられた。ヘンリ3世はマグナ=カルタを無視したが、1264年にシモン=ド=モンフォールの乱が起き、封臣会議(上院)と騎士・市民(下院)によるシモン=ド=モンフォールの議会が1265年に開かれる。その後、エドワード1世が、身分制議会の代表となる模範議会を招集した。
〔93〕中世のフランス
ユーグ=カペーが開いたカペー朝が成立。第3回十字軍に参加したフィリップ2世(尊厳王)がイギリス王ジョンを破り、フランスの領土回復。南フランスの異端であるアルビジョワ派を討伐(アルビジョワ十字軍)。ルイ9世(聖王)は第6回、第7回十字軍に参加するが、捕虜となり敗れた。アルビジョワ派を根絶し、1254年にモンゴル帝国のカラコルムへ、ルブルックを派遣し、モンゴル帝国第4代のモンケ=ハンに面会した。フィリップ4世(端麗王)は、1302年に三部会を招集し、1303年にアナーニ事件で教皇ボニファティウス8世と争い、その後ローマ教皇クレメンス5世をフランスに連行し、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、1309年~1377年までの68年間教皇がローマを離れる教皇のバビロン捕囚が行われ、教皇権を低下させた。
〔94〕百年戦争とバラ戦争
毛織物工業地帯であるフランドル地方(イギリスの羊毛輸入先)を巡る対立やフランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ朝が成立した際に、フランスのフィリップ6世が王に即位したことに対し、イギリスのエドワード3世が王位継承を主張し、百年戦争(1339~1453)が起きる。百年戦争の前半は、エドワード黒太子の活躍により、1346年クレシーの戦い、1356年ポワティエの戦いに勝ち、イギリス側が優勢であったが、後半になると、ジャンヌ=ダルクが国王のシャルル7世を助け、1429年にオルレアンを解放し、戦いの状況は逆転した。イギリスは、カレーを残し、イギリスがフランス全土から撤退。百年戦争中、ペストの大流行(1348年~)やジャックリーの乱(1358年)やワット=タイラーの乱(1381年)が起きている。
百年戦争終結後、イギリスでは、さらに王位継承争いが生じ、ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)によるバラ戦争(1455~1485年)が起きる。ランカスター家とヨーク家が婚姻し、ヘンリ7世によるテューダー朝が成立する。また、星室庁裁判所で王権に反対する貴族を処罰した。
〔95〕スペインとポルトガル
11C頃、イベリア半島はイスラーム教国によるムラービト朝によってイベリア半島の大半が制圧されていたが、イベリア半島北部からキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が進展し、12C頃、ムワッヒド朝の時代、キリスト教徒の勢力が拡大し、とりわけ、カスティリャ、アラゴン、ポルトガルの勢力が拡大した。カスティリャ女王イサベルとアラゴン大生フェルナンドが結婚し、スペイン王国が成立する。その後、イスラーム教徒最後の拠点グラナダを占領し、ナスル朝を滅ぼして、レコンキスタを完成させる。国内では、貴族勢力を抑え、王権を伸長させ、積極的な海外進出を図る。とりわけ、コロンブスを支援したことで知られる。また、イベリア半島南西部では1143年にポルトガルが成立し、エンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検を行い、ジョアン2世はインド航路の開拓をした。
〔96〕ドイツ・イタリア・スイス・北欧
ドイツ方面では、神聖ローマ帝国はローマ支配を試み、イタリア政策を行うが、皇帝権が弱体化し、皇帝の下、多くの領邦(小国家)が所属し、国内は不統一であった。11C頃、東方植民を推進し、エルベ川以東に領域を広げ、ブランデンブルク辺境伯爵、ドイツ騎士団領が成立する(のちのプロイセンのもと)。その後、1256~1273年に大空位時代といわれる事実上皇帝不在の時代が続き、国内が混乱する。カール4世が、1356年に金印勅書(黄金文書)を発布し、皇帝を7人の選帝侯による選挙で選出するようにした。しかし、それによって皇帝の力は益々弱体化し、各地の領邦がそれぞれ中央集権的になり、独立性を高めた。15C以降は、オーストリアのハプルブルク家が、権力世襲するようになり、皇帝の位を独占する。しかし、領邦の独立性が高く、統一性は欠いた。
イタリアでは、多数の国、諸侯、都市が分立しており、外国の干渉を受けやすい状態であった。神聖ローマ帝国の干渉に対して、それに反対する教皇党(ゲルフ)と肯定する皇帝党(ギベリン)に分かれて党争が起きる。
スイスでは、オーストリアのハプルブルク家の支配に対し、独立闘争を起こし、事実上独立していたが、最終的には、1648年にウエストファリア条約で正式に独立が承認される。
北欧、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーによるカルマル同盟が結成され、デンマーク女王マルグレーテの下、同君連合が行われた。
〔97〕西ヨーロッパ中世文化
神学が中世ヨーロッパの最高の学問であり、哲学や自然科学よりも上位として扱われ「哲学は神学の婢」と呼ばれた。カロリング=ルネサンスの時、アルクィンがカール大帝に招かれる。キリスト教と哲学が融合し、スコラ学が発展した。イギリスのアンセルムスは、信仰は理性に優先すると考え、実在論を唱えた。フランスのアベラールは、理性は信仰に優先するとし、唯名論を唱え、普遍論争が起きた。トマス=アクィナスはアリストテレス哲学と神学を融合させ、信仰と理性の調和を図り、「神学大全」を著し、スコラ哲学を大成させた。ウィリアム=オッカムが唯名論の立場から信仰と理性を区別し、近代科学の発展の基礎を築いた。自然科学では、ロジャー=ベーコンが経験を重視した。大学で、神学、法学、医学+7自由科が教えられ、著名な大学としては、ヨーロッパ最古の大学であるイタリアのボローニャ大学(法学)、同じくイタリアのサレルノ大学(医学)やフランスのパリ大学(神学)、イギリスのオックスフォード大学(神学)、ケンブリッジ大学(神学)が成立した。建築では、重厚で小さな窓、半円状アーチであるイタリアのピサの大聖堂で代表されるロマネスク様式(11C~)や尖頭アーチやステンドグラスのアミアン大聖堂(フランス)やケルン大聖堂(ドイツ)に代表されるゴシック様式(12C~)が隆盛した。文学では、ローランの歌やアーサー王物語などの騎士道文学やニーベルンゲンの歌やエッダ(北欧)の叙事詩を吟遊詩人などが語り継いだ。
〔98〕大航海時代のはじまり
大航海時代とはヨーロッパ人による新大陸への航海発見の時代である。地中海時代にマルコ=ポーロの「世界の記述」による刺激や羅針盤の発明により遠洋航海が可能になり、大西洋時代へと移り変わった。香辛料に対する需要や国土回復運動(レコンキスタ)の推進により、キリスト教徒の進出先が大西洋へと変わっていったともいえる。ポルトガルがエンリケ航海王子は、アフリカ西岸の探検を行う。その後、バルトロメウ=ディアスが、1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達。ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに1498年に到達し、1524年にはゴアでインド総督につき、インド航路を開拓した。こうしてポルトガルは香辛料取引により莫大な利益を上げ、都リスボンは繁栄した。ポルトガルの拠点は、インドのゴア、中国のマカオ、マレーのマラッカであった。
〔99〕アメリカ大陸への到達
イタリアのジェノヴァ出身のコロンブスが、トスカネリの地球球体説を信じスペイン女王イサベルの援助を受け、1492年に西インド諸島のサンサルバドル島に到達した。コロンブスはアメリカ大陸をインドと誤解し、先住民をインディアンと命名。コロンブス自身は誤解したまま一生を終えた。その後、コロンブスに続き、イタリア人のカブラルがイギリス王ヘンリ7世の命令で北米を探検。インドへの航海中にブラジルに漂着し、ポルトガル領とした。イタリアのアメリゴ=ヴェスプッチが南米沿岸を探検し、「新大陸」と確認し、1507年にドイツ人の地理学者ヴァルトゼーミューラーが作成した地図で新大陸にアメリカの名がつく。スペイン人のバルボアはパナマ地峡を横断し、太平洋を発見した。ポルトガル人のマゼランがスペイン王カルロス1世の命令を受け、アフリカ南端のマゼラン海峡を通過し、フィリピンに到達(カルロス1世の子フェリペ王子の名をつけた)が、そこで戦死し、部下が世界周航を達成。以後、フィリピンのマニラがスペインの拠点となった。
〔100〕大航海時代の影響
1494年にトルデシリャス条約で、ポルトガルの勢力範囲がアジア、スペインの勢力範囲が新大陸とされた。但し、カブラルが1500年に到達したブラジルはポルトガル、マゼランは1520年にマゼラン海峡を発見し、さらにヨーロッパ人で初めて太平洋を横断し、1521年にフィリピンに到達し、スペイン領とされた(マゼランはセブ島の首長ラプラプの反撃を受け死亡)。その後、1529年にサラゴサ条約が締結され、日本を通る東経133度の線で植民地分界線が引かれた。スペインによって、コンキスタドールといわれる侵略が行われ、コルテスがメキシコのアステカ王国を1521年に滅ぼし、ピサロがペルーのインカ帝国を1533年に滅ぼした。征服したスペイン人はインディオを酷使し、虐殺した。こうした状況をスペインのドミニコ会宣教師のラス=カサスが、「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」を著し、エンコミエンダ制(インディオに対するキリスト教の教化と保護を条件に植民者に統治を委任すること)の廃止をスペイン王カルロス1世に訴え、批判した。
大航海時代の影響で、商業の中心が地中海から大西洋へ変わる商業革命や新大陸の銀(ポトシ銀山や有名で、メキシコのアカプルコからガレオン貿易でフィリピンのマニラを通じて中国へもたらされた)が西欧に流入し、価格革命が起きた。結果として、物価が上昇(インフレーション)する一方、銀が多く流入することで、農奴が銀を多く蓄えるようになり、領主層の地位が低下した(価格革命により、固定の貨幣地代を農奴が払いやすくなった)。一方、エルベ川以東の東欧では、現金収入を得るため、領主が輸出用穀物を生産し、西欧諸国に輸出することで、農奴制が強化(再版農奴制)され、この強化に基づく領地の在り方を農場領主制という。また、新大陸から新しい物(タバコ、トウモロコシ、ジャガイモ、トマト)が流入し、生活革命が起きた。新大陸の銀の生産は、メキシコ、ボリビアのポトシ銀山などであった。
〔101〕古アメリカ文明
モンゴロイド系民族が氷河時代にベーリング海から渡米し、トウモロコシを栽培し、中米、南米に文明を築いた。巨石人面遺跡などで知られるオルメカ文明や前2C~6Cにメキシコ高原で繁栄したテオティワカン文明がある。メキシコ高原では、都テノチティトランにピラミッド型神殿や暦法、絵文字を作っていたアステカ王国(15C)がスペインのコルテスにより滅亡した。ユカタン半島の古アメリカ文明では、グアテマラにマヤ文明が発達していた。ピラミッド型神殿、二十進法、暦法、絵文字があったが、スペインにより滅亡。アンデス高地(ペリーやボリビア)では、紀元前にチャビン文化ではトウモロコシが栽培されていた。15Cには、インカ帝国が都クスコとし、マチュピチュなどが存在した。インカ帝国では、太陽崇拝しており、国王は太陽の化身であった。高度な石造技術を持っており、キープといわれる結縄を文字の代わりとしていた。古アメリカ文明の共通の特色としては金、銀、青銅器の使用はあったが、鉄器や車輪(ウマなどの大型家畜)の使用がなかった。
文明 | ユカタン | メキシコ | アンデス(ペルー) |
文明 | マヤ | アステカ | インカ |
都 | テノチティトラン | クスコ | |
文字 | あり | あり | キープ |
滅ぼした国 | コルテス | ピサロ |
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |
【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |
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