頑張ればできるという幻想
勉強は本当に本人の努力次第なのか?
よく勉強が、出来る出来ないというは本人の努力次第だ、という意見を聞くことがあります。メリトクラシーなどとして、ハーバード大学の教授でもあり、著名な政治哲学者であるサンデル教授が批判することもあるのですが、あまりそうした見解は一般的ではなく、やはり多くの日本人にとって、勉強とはあくまでも自己責任で、本人が如何に頑張ったかどうか、だという考えられるものです。政治思想的には、サンデル氏の例が有名なように、メリトクラシーの問題として取り上げられたりすることも多い問題ですが、日本社会ではあまり議論されることがありません。ちなみに、メリトクラシーというのは、ようは能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるということです。つまり、いい大学に進学して、いい企業に就職できたのは本人の能力と努力次第だという考え方ですね。
これは日本だけではなく、サンデル氏が指摘しているように米国やそのほかの先進諸国で支配的な見解として見受けられる考え方で、近代以前の生まれや身分の違いによって地位が決定される身分制社会より、より平等でリベラルなものと考えられています。確かに、「蛙の子は蛙」というような、親父が農民なら農民になるしかないような身分制社会より、一見自由で平等で、開かれた社会のように見えます。しかし、生まれつきの性格や集団学習などに馴染めないタイプであったりする子供たちとっては、実はかなり残酷な考え方でもあります。
ディスレクシアや自閉症やアスペルガー症候群、学習障害、ADHDなどの発達障害
たとえば、2022年約140億円以上のギャラを稼ぎ出した米国の著名な映画俳優トム・クルーズなどで有名な、ディスレクシアという症状があったりします。簡単にいうと、「b」と「d」が区別がつかなかったり、「c」や「q」、「o」などのわっかの穴がどこにあるのか良く分からなくなり、文字が読めない症状です。先天的な症状で、とりわけ、アルファベットのような表音文字の場合は顕著に報告され、米国の識字率の低さを後ろづけたりしています。日本人でももちろん、そういう症状を持つ人は多く、著名人では、ミッツ・マングローブさんなどが有名かもしれません。彼女(彼)は、慶應高校卒、慶應大学卒のエリートなので、「え?」とびっくりされる方も多いかもしれませんが、実は日本人の隠れディスレクシアの症状の方は意外と多く、本人や周囲が気づいていないだけともいわれたりします。
確かに、トム・クルーズやミッツ・マングローブは、気合いと根性でそれを乗り越え、現在の地位を築きあげたわけですが、かなりレアなケースではないでしょうか。現在小学校から英語教育がされるようになり、英語嫌いになる生徒には、実はこのディスレクシアの症状と似た傾向が見られます。簡単に先ほどの例で言うと「b」と「d」の区別がつかなく、非常に英文が読みづらく感じるわけですね。それを知らずに、無理矢理うちの子は勉強が足りないのだとか、もっと努力しなさいと。、トム・クルーズやミッツ・マングローブさんのように努力と根性を強いられて、それで乗り越えられる生徒さんもいるでしょうが、大半の生徒は挫折してしまいます。
実際、ミッツ・マングローブさんなどは、小さい頃から文字を覚えるのが苦手だったので、絵やイラストに置き換えて覚えようと努力し、受験戦争に勝ち抜いたようで、単に努力と根性ではなく、そもそも方法論がしっかりと確立されていました。しかし、現在の小学校や中学校、高校の教育において、ディスレクシアや自閉症やアスペルガー症候群、学習障害、ADHDなどの発達障害、またそれ以外の障害を持つ子どもに対して、確たる方法論も無く、単に特別支援学級やら課外指導などの単に学習時間を長くしたり、学習する集団を分けるだけで片付けようとして済ましてしまうだけです。
もちろん、明確に特別支援学級などに組み入れられた児童は児童で、既にまるで身分制社会のように組み分けられてしまっていますし、仮にそこまでの程度ではないと判断されても、きちんとした支援はなく、結局努力論に終始します。また、ボーダーラインな児童やそうした症状がはっきりと見受けられない児童に関しては、勉強ができないのは完全に自己責任であり、本人が頑張ってないから勉強ができないのだ、と一方的に断罪されてしまいます。勉強ができないのは努力をさぼったからだ、あるいはそもそも生まれ持った障害があるのだ、というような、万人をプロトタイプに当てはめる大量生産型の教育観がここには見え隠れし、さらに頑張れば誰でも勉強が出来るものだという前提がここには存在しています。
本当に頑張るだけでいいのか?
しかし、本当に頑張れば誰しも勉強が出来るようになるのでしょうか。たとえば、学校の先生の説明を聞いて、ちゃんと理解しているわけではないが、「わからない」と主張することが出来ずに、上っ面だけわかったふりをする、そういう子供は多いと思います。で、先生も「わかっているのならば」と、応用問題を次々と課題として与えます。
しかし、その課題をいくら頑張ってこなそうと、実は根本的なところ躓きが生じているので、なかなか成果は芳しくなりません。本人としてはこれだけ宿題もこなしているし、自分で勉強もしているのにどうして自分は出来ないんだろと一人悩んでしまいます。もちろん、中には、「この子は本当はよく分かっていないのに分かったふりをしているのかな?」と気づく先生もいるでしょう。だが残念ながら、個々の生徒一人ひとりを本当に理解しているのかどうかを確認しながら集団授業を進めていくのは非常に困難です。
さらに、この事態はまだましな方で、一番厄介なのは本人も分かったつもりになっていて、分からないことが分からないというケースも大いに想定されます。たとえば、算数や数学で公式はしっかりと暗記しているが、その使い方やそれを使って解くべき解法まで理解していないけれど、本人としては分かったつもりになっていたとします。そうすると、単純な確認テストなどではしっかり問題は解けるものの、応用問題や文章問題が出ると途端にわからなくなってしまうというケースです。こうした現象を多くの人が「この子は応用力がない」という一言で片づけてしまうケースが多いですが、実際は、基本の理解は浅く、きちんと理解していないだけというケースは少なくありません。別にその子の能力に問題があるわけではばく、根本的な理解を欠いているというケースです。
「頑張ればできる」というのは、あくまでも同じような境遇、性格や気質を前提としていると思われます。少しほかの子と違う境遇の子や性格、気質などそういう集団からはみ出る子には、この「頑張ればできる」というのは、一種強迫的な観念として見えないプレッシャーを与えます。「どうしてうちの子だけできないのだろう」と思うまでならまだ救いはありますが、それが先鋭化して「どうしてあなたはできないの?」という詰問に変わってしまうとき、それはその子の個性や可能性を踏みつぶしてしまう危険性があります。今ではごく普通に見られるようになった不登校やニート問題などもこうしたプレッシャーによる影響がゼロとは決していうことができないでしょう。
確かに努力することそれ自体は決して誤ってもいませんし、努力することは大切なことでしょう。しかし、努力の仕方、つまり頑張り方に問題がある場合は、親なり教師なりがいち早く気づいてあげなければなりません。英語の長文読解の要旨を問われる問題で、一生懸命逐語訳しながら読んでいる生徒がいたとしたら、「この問題はあくまでも大まかに要約できればいいんだよ」ということを伝えてあげなくては、いつまでたっても、その子は制限時間以内に問題が解けずに困ってしまいます。
頑張り方にも方法がある
スポーツと同様に勉強にも適切な頑張り方、努力の仕方、つまり勉強の仕方というものがあります。その勉強の仕方を分からずにただ闇雲に努力を続けても成果はなかなかでません。ディスレクシアのミッツ・マングローブさんの話で紹介したように、勉強の仕方や記憶の仕方など方法論の問題が大きいのです。また、こうした方法論もたった一つの正解があるわけではありません。仮に、正しい勉強法があるならば、世間に何百もの勉強の仕方や学習法について書かれた書籍が出版されないでしょう。猫も杓子も同じように正しい勉強法に取り組めばいいだけの話になってしまいます。そうではなく、勉強の仕方それ自体も子供一人ひとりに合った最適な勉強法を教師と一緒に考えていく必要があるわけですね。
たとえば、暗記の仕方一つをとっても好きなマンガやアニメと関連させて覚えるのが得意な子供もいれば、MindMapのようなツリーを描くことで覚えていくことが得意な子供が居るでしょう。また、算数や数学の解法も正解は一つでもそこに至る計算式の過程は、もちろん、模範回答的な解法もある一方、決して一つに限らず、多種多様な解き方があります。そして、それらに一人ひとりの子供の向き不向きがあるわけです。
闇雲に勉強をすればいい、あるいは勉強をさせれば良いという発想では、効率的な勉強の仕方や勉強の仕方の向き不向きを考えることなく、ただ頑張れば報われるはずだという精神論・根性論で片付けられてしまい、中にはそれで勉強ができるようになる子供や勉強が好きになる子供もできるでしょうが、それはかなり恵まれたレアなケースにならざるを得ないと言わざるを得ないでしょう。
個別指導塾では、子供一人ひとりの個性や特性、好みや嗜好に応じて学習の仕方、勉強の仕方を変えていくことが可能です。とにかく、勉強すればいい、という発想は一旦捨てて効率的で、しかも子供に合った勉強法を一緒に探していくことができるわけです。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員 早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。 |