大学入試の過去問を通して学ぶ日本(日本史編)7~中学受験・高校受験・大学受験にも役立つ
01 日本的な農業の成立
今、学校教育や大学入試の在り方が大きく変わっています。まず、学校教育においては、学習指導要綱が大きく改訂され、高校では2022年から実施されました。新学習指導要綱が謳うのは、「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力・人間性等」という3つの柱です。従来の学校教育は、明治以来、知識の教授に偏りがちでした。そうしたキャッチ・アップ型の教育は、戦前においては欧米各国に追いつき、戦後においては経済を復興させ、高度成長を実現する上で効率的なものでしたが、成熟した社会を迎えた現代においては、自分で問いを立て、自分で調べ、自分で考えることが求められているようになっています。新しい学習指導要綱はそうした社会の変化に対応したものでした。そして、新学習指導要綱の実施前には、2021年から従来の大学入試センター試験に代わり大学入学共通テストが開始されました。共通テストでは、資料文や図表が多用され、単に知識を問うのでは無く、新学習指導要綱が掲げる「思考力」や「判断力」を求める問題が出題されています。政府広報オンラインにはこう記載されています。
近年、グローバル化や、スマートフォンの普及、ビッグデータや人工知能(AI)の活用などによる技術革新が進んでいます。10年前では考えられなかったような激しい変化が起きており、今後も、社会の変化はさらに進むでしょう。海外の専門家の中には、「今後10~20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い」、「2011年度にアメリカの小学校に入学した子供たちの65%は、大学卒業時に彼らが小学生の頃には存在していなかった職業に就くだろう」などと述べる人もいます。進化した人工知能(AI)が様々な判断を行ったり、身近な物の働きがインターネット経由で最適化されたりする時代が到来し、社会や生活を大きく変えていくとの予測がされています。このように社会の変化が激しく、未来の予測が困難な時代の中で、子供たちには、変化を前向きに受け止め、社会や人生を、人間ならではの感性を働かせてより豊かなものにしていくことが期待されています。子供たちが学校で学ぶことは、社会と切り離されたものではありません。社会の変化を見据えて、子供たちがこれから生きていくために必要な資質・能力を踏まえて学習指導要領を改訂しています。
新しい学習指導要領では、教育課程全体や各教科などの学びを通じて「何ができるようになるのか」という観点から、「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力など」「学びに向かう力、人間性など」の3つの柱からなる「資質・能力」を総合的にバランスよく育んでいくことを目指します。「知識及び技能」は、個別の事実的な知識のみでなく、習得した個別の知識を既存の知識と関連付けて深く理解し、社会の中で生きて働く知識となるものも含むものです。そして、その「知識及び技能」をどう使うかという、未知の状況にも対応できる「思考力、判断力、表現力など」、学んだことを社会や人生に生かそうとする「学びに向かう力、人間性など」を含めた「資質・能力」の3つの柱を、一体的に育成します。
こうした変化は、もちろん日本史でも起きています。まず、高校の授業では、近現代の歴史を世界の中の日本という視点から多面的に捉える「歴史総合」という科目が生まれ、必修とされました。また、従来の「日本史A」や「日本史B」は「日本史総合」「日本史探究」に再編され、新課程用教科書には生徒自身が考えるための問いや資料が盛り込まれています。そして、共通テストでもこれに対応して、資料文や図表をもとに受験生に推理させるような工夫がなされています。
ですが、資料文を読み、歴史的な意義や背景を考察するという問題は、従来から主に国公立大の二次試験で論述問題として出題されてきたものです。次の名古屋大学の問題は、史料文あり絵図ありと分量が多いですが、中世の農業や農村の在り方を近世と比較する形で問う面白い内容ですので、問題そのものをお楽しみ頂けたらと思います。
【問題】
中世の納涼に関する次の文章を読み、以下の問いに答えよ。(史料は、一部を省略したり、書き改めたりしたところもある)
現代は、地球温暖化に伴う自然環境の激変が懸念されているが、中世は正反対に、おおむね寒冷期に属し、農作物を育てるのには苦労が多い時代であった。そのような時代においても、人々は、量的、質的に農業生産力を高め、なんとか生き延びようと懸命な努力を重ねていた。
質的な努力でわかりやすいのは、一定の土地の範囲内で収穫量を確保しようという①集約農業の発展である。
量的な努力で分かりやすいのは、農地開発の進展である。②のちにかかげた二つの図ABをみると、同一地域に中世と近世の景観を比較できる。図Aは1316(正和5)年の「日根荘日根野村荒野絵図」、図Bは1761(宝暦11)年の「日根野村井川用水絵図」で、いずれも原図の概要を示すトレース図である。日根野村の所在地は、和泉国、現在の大阪府南部であるから、基本的には、東方が山地で上流、西方が海で下流である。
トレース図ABの共通点は、第一に、北から北東にかけて山地が描かれ、右下に東北から西南に向かって流れる樫井川が描かれる。第二に、トレース図は道筋を二重線で示すが、図Aの西端の熊野大道は、図Bにはみえない。第三に、東南方向の同じ地点に、大井関明神がまつられている。井関とは、一般には用水の取水口を意味する。第四に、「⌂」等は家屋を示し、その集合体は集落である。図Aのみの表記としては、「井」「田」状の単線で田畑が散在している。図Bのみの表記としては、ため池ともつながる毛細血管状の用水が表示されているが、用水にそって、田畑が全面的に展開したものと考えられる。
問1 傍線部①に関連して、次に掲げる鎌倉幕府の命令する史料を読み、以下の設問に答えよ。
史料
諸国の百姓、田稲を苅り取るの後、其の跡に麦を蒔き、田麦と号す。領主等、件の麦の所当を聴取すと云々。租税の法、豈に然るべき哉。自今以後、田麦の所当を取るべからず。宜しく農民の依怙(利益・私利)たるべし。此の旨を存じ、備後、備前(現在の広島県東部と岡山県東南部に所在した国)両国の御家人等に下知しむべきの状、仰せに依り執達件の如し。
文永元年(1264年)四月二十六日
武蔵野守(北条長時)判
相模守(北条政村)判
因幡前司殿(長井泰重)(前因幡国司という意味だが、名目的な称号であり、この史料でも長井は前因幡国司としての役割を期待されていたわけではない)
(出典:『中世法制史料集』一、221頁)
設問 この史料に記されているのは、どのような農法のことか。また幕府は、この史料ではどのようなことを命じているのか、それぞれ述べよ。
問2 傍線部②に関連して、のちに掲げた図A、図Bと、この二つの図に関するリード文の説明をよくよんで、以下の設問に答えよ。
設問 図の表題からもわかるように、近世の図Bの主題は、毛細血管のようにはりめぐらされた用水で、絵図を作成した人々の関心事は農業に必要な取水だと考えられる。一方、中世の図Aの場合、(a)主題は何であり、どのように描かれているか、(b)なぜ中世は近世と異なる景観がみられるのか、その政治的、社会的背景、(c)図Bは何のために描かれたと考えられるか。以上の三点について述べよ。
名古屋大学「日本史」2021年
02 農業生産力を高める努力
問題文を読むと、中世は「おおむね寒冷期に属し、農作物を育てるのに苦労の多い時代であった」と書かれています。さまざまなデータから過去の気候の変化を研究する、歴史気候学という学問分野では、10世紀から14世紀半ばにかけては世界的に「中世の温暖期」と呼ばれる温暖な気候で、それ以降は19世紀半ばまで「小氷期」と呼ばれる寒冷な時期が続いた。ただし、日本列島だけを取り出してみると、「中世の温暖化」のような時期はなく(そもそもデータがヨーロッパに偏っているため、局地的なものに過ぎないとする研究もあります)、寒冷な気候は続いていたようです。中世から近世にかけて厳しい環境に置かれていたことは、飢饉が多発したことからもうかがわれます。
また、古代3・古代4で指摘したように、日本の国土は山がちで、田畑を開ける土地が限られていました。耕地は少なく、寒冷で農作物の育ちも良くない。そうした状況にあって、問題文にあるとおり、中世の人々は「量的、質的に農業生産力を高め、なんとか生き延びようと懸命な努力を重ねていた」のです。まず、問1では「質的」な面での営為が問われています。中世の、というよりも、現代にいたる日本の特質を端的に表す言葉が、集約化と多角化です。肥料を投入するなどして生産性を上げ、また、米以外にもさまざまな作物を栽培する。そうすることで、狭い耕地、寒冷な気候という厳しい条件の下で、少しでも農業生産力を高める工夫をしてきたのです。
その実例として、二毛作が指摘できます。鎌倉時代には、田で裏作として麦を栽培する二毛作が、畿内・西日本に普及し、室町時代には東日本にも広がっていきました。これが多角化に当たることは言うまでも無いでしょう。一方で、泥んこの湿田では麦は栽培できません。乾田化し、灌漑施設を整備して水を引いてくる必要があります。また、年に2つの作物を育てれば土地が痩せてしまいますので、肥料も必要でした。中世には、草葉を地中に敷き込み、腐らせて堆肥とする刈敷や、草木を燃やした灰を肥料とする草木灰などの自給肥料が用いられました。手間暇をかける、集約化です。このように、集約化と多角化は別々のものではなく、連動していることが分かります。
さて、問1の史料は二毛作に関して鎌倉幕府が出した命令です。「諸国の百姓、田稲を苅り取るの後、其の跡に麦を蒔き、田麦と号す」と、二毛作が行われている状況が述べられています。領主は、裏作の麦からも税(所当)を取っていると言います。しかし、租税の法では認められません。そこで、「自今以後、田麦の所当を取るべからず」と麦からの徴税を禁止し、因幡国(現在の鳥取県)の守護であった長井泰重に対して、国内の御家人に伝えるよう命じたのがこの史料です。幕府が農民の努力を無駄にしない善政(「徳政」と呼ばれました)を行おうとしていたことが読み取れます。
03 生活空間の外部に広がる「荒野」
続いて問2では、農業生産力を高めるための「量的」な面での営為、つまり、農地の開発が問われています。鎌倉時代末期に当たる図Aと、江戸時代中期に当たる図Bを比較しながら考えていきましょう。まず、(a)では、図Aの主題を問われています。図Bの主題については、設問文に「毛細血管のようにはりめぐらされた用水で、絵図を作成した人々の関心事は農業に必要な取水だと考えられる」とあります。図Bを見ると、たしかに用水とため池が多数描かれています。また、問題文には「用水にそって、田畠が全面的に展開していたものと考えられる」とあります。「農業に必要な取水」こそが関心事であったといえるでしょう。
これに対して、図Aには用水が描かれていません。また、空白の部分が目立ち、「荒野」の語も見られます。ここから、格子状に線が引かれた部分のみが田畠で、大部分に未墾地として残されていたと推理できるでしょう。鎌倉時代末期の段階では、農地開発がまだ進んでいなかったわけです。だとすれば、図Aの主題は、田畠と荒野の所在を明確にすることであったと考えられます。他に図Aと図Bの違いはないでしょうか。まず、家屋の数に違いが見られます。図Bでは10数軒規模の集落がいくつか見られるのに対し、図Aでは4~5軒程度の集落が点在するだけです。村の人口も少なかったことが分かります。
また、図Aでは空白部が多いこともあって寺社の記載が目立ちます。数えてみると、図Aでは神社が5、寺が4で計9、図Bでは神社が2、寺が3で計5です。中世の農村では南北朝以降、自治的な惣村が形成されますが、村民らの結束の核となったのは、神社の祭礼を行う宮座でした。寺社が村の生活の中心にあったのです。以上の点を踏まえると、図Aには、生活空間である田畠・集落・寺社と、その外部にある荒野を区分する意図があったとは、考えられないでしょうか。それは、今後「荒野」の開発を進めるうえでも、必要なことでした。
04 農地の開発が進んだのは近世
続いて(b)は、(a)で見た景観の違いがみられる政治的・社会的な背景が問われています。図Aに見られるとおり、鎌倉時代末期の段階では、未墾地が広がっている状態でした。それは、図Bと比較すれば、用水路を整備する技術がなかったことによると考えられます。あるいはここに、時代は下りますが、中世は南北朝の動乱、応仁の乱後に突入した戦後の世など、戦乱続きであったことも要因として加えられるでしょう。寺社を中心に自治的な村落を結成して自衛を図ることが主で、農地開発まで手が回らなかったのです。こうした中世の状況は、近世と対比することで明確になります。近世には、大阪の役によって天下泰平の世が訪れると、幕府や藩、さらには江戸・大坂の豪商の手によって、大規模な新田開発が進められました。その際に転用されたのが、戦国時代に培われた鉱山開発の技術や軍事技術です。これを活かして治水を行うことによって、下流の平野部の開発も可能となりました。
日本の河川は流れが急で、台風が直撃すればたちまち氾濫を起こします。ですから、中世までは中流の小高い台地上に田畠を開くのみでした。それが、武田信玄が築いた信玄堤が知られるように、治水が行われ、近世以降、平野部も開発されるようになります。新幹線の車窓に広がる、あたり一面の稲穂の波という風景は、近世に作り出されたものなのです。図Bに見られるとおり、村内でも農民の手によって用水路が整備され、荒野が開墾されていきました。その結果、江戸幕府が開かれた17世紀初めから、享保の改革が行われた18世紀前半の約100年で、耕地面積は164万町歩の約2倍となっています。最後に、(c)の図Bが描かれた目的について考えてみましょう。先に見たとおり、図Bの主題は「用水」であり、村民の関心事は「農業に必要な取水」にありました。では、なぜ「取水」が関心事となったのでしょうか。いつの時代も、水利は農民の争いの火種となります。まして、荒野が開発され「用水にそって、田畠が全面的に展開された」近世の状況では尚更です。ここで、用水を巡る隣村との紛争に備えて、ため池と用水路の位置を地図上で明示したと考えられます。裁判となった場合の証拠書類としてこの絵図を作成したのです。解答例いってみましょう。
問1 史料では、畿内を中心に始まった麦を裏作とする二毛作について記されており、麦からの年貢徴収を禁止する旨、国内の御家人に伝えるよう長井泰重に命じている。
問2
(a) 田畠・集落・寺社の所在地を主題に、荒野との区分が目立つように描かれている。
(b) 治水技術の発達などを背景に幕藩の下で新田開発が進められた近世と異なり、中世の段階では用水路などが整備されておらず、寺社を中心に村落が形成されるのみであった。
(c) 用水をめぐる隣村との紛争に備えて、ため池と用水路の位置を地図上で明示した。
05 これからの歴史教育
文部科学省が作成した「高等学校学習指導要綱解説」では、新設された「日本史探究」の目標として、次のことが掲げられています。
我が国の歴史の展開に関わる事象の意味や意義、伝統と文化の特色などを、時期や年代、推移、比較、相互の関連や現在とのつながりなどに着目して、概念などを活用して多面的・多角的に考察したり、歴史に見られる課題を把握し解決を視野に入れて構想したりする力や、考察、構想したことを効果的に説明したり、それらを基に議論したりする力を養う。
これは、本問の冒頭で示した新学習指導要領の3つの柱のうち、「思考力・判断力・表現力等」に対応するものです。単に過去の出来事を知るだけでは、歴史から何も学んだことになりません。史料を踏まえてそのような出来事が何故起こったのかを考え、他の時代や社会と比較することでどのような特徴があるのかを捉える。そのようにして初めて、歴史を我がこととして理解し、今を生きる糧とすることができます。その意味で、本問は新学習指導要領に合致した問題であったといえるでしょう。中世と近世の2つの絵図の比較を通して、農村や農地開発の在り方が見えてきました。そして、そうした先人の営為は、生産性の向上や「六次産業化」といった現代の農業の課題に対しても資するものでしょう。
06 応仁の乱
次に、前記事の続きとして、室町幕府の滅亡の原因となった応仁の乱について説明しておきましょう。室町幕府6代将軍・足利義教の死後、幕府では、有力守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)を中心とする二大勢力が抗争することになります。その背景には、書院造などを完成させた東山文化を形成した文化人将軍・8代将軍足利義政の跡継ぎをめぐる弟足利義視と義政の妻の日野富子の実子義尚の後継争いを中心に、斯波・畠山などの守護大名の跡継ぎの問題でも二つに分かれて争い始めました。
この頃の相続は鎌倉時代からの分割相続から単独相続へと変わり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなった分、その地位をめぐり一族や家臣団が互いに争うことが多くなりました。こうした争いを通じて、下位のものが実力次第で、実権を主人から奪うなど下剋上と呼ばれる状況を生み出しました。応仁の乱は、1467(応仁元)年から11年間にわたって続き、戦場となった京都は傭兵として使われた足軽の乱暴・狼藉などで焼け野原となり、戦乱の間に、貴族や寺社だけではなく幕府の没落・衰退も決定的なものとなっていきました。諸国の荘園・公領は守護代や国人に押し取られ、京都に住むかつての支配層の生活の場と経済は根底から崩されていきました。
応仁の乱は、両軍が疲労した上に、京都に出陣して戦っていた守護大名が在国の守護代や国人に実権を奪われそうになったり、いそぎ京都から引き上げたことで終結へ向かっていきます。しかし、守護大名各家の家督争いは解決されず、その後も守護大名間の争いは全国でくすぶります。
07 戦国の世
応仁の乱後、下剋上の風潮は全国を覆い、諸国には実力によって領域を支配する大名が次々と生まれ、互いに争いを続けるようになり、これを戦国大名と呼びます。戦国大名の先駆けとなったのは、北条早雲(伊勢宗瑞)でした。関東では、15世紀前半の永享の乱により衰えた鎌倉公方が、下総の古河公方と伊豆の堀越公方に分裂していました。京都から下っていった早雲は、この混乱に乗じて、15世紀末に堀越公方を滅ぼして伊豆を奪うと、相模に進出して小田原を本拠地としました。これが小田原北条氏となっていきます(秀吉によって戦国最後の小田原攻めまで続いた北条氏です)。
また、16世紀半ば、越後の守護上杉氏の守護代長尾景虎は、主家の上杉氏をついて上杉謙信と名乗り、関東にまで進出すると共に、その頃甲斐国内を統一して信濃に領域を伸ばした武田信玄と争いました(川中島の合戦)。こうして諸国に生まれてきた戦国大名のうち、守護大名自身が国人や守護代を抑えて戦国大名に成長できたのは、東国の武田・今川、九州の大友・島津の諸氏など少数に限られており、多くは国人や守護代から成り上がったものでした。その後、尾張の斯波氏の守護代であった織田家が、戦国大名として天下布武を号令の下、勢力を急拡大していき、織田信長によって1573(天正元)年、室町幕府は滅びました。
ちなみに、「戦国時代とは何か」という問いは、歴史学的には非常に難しい問いとされています。というのも、戦国時代には、伝統的な文書が殆どなくなり、各地の戦国大名家から出される文書は従来の体系を引き継いでいないケースも少なくなく、その地方地方の独自の書き方になっており、形式が整っておらず、理解に手こずります。要するに歴史学者の大切にする古文書が少ないのです。さらに歴史書も『吾妻鏡』のような幕府編纂の公式なものがなく、織田信長・羽柴(豊臣)秀吉に仕えた太田牛一が書いた『信長公記』や武田氏の『甲陽軍艦』などの軍記しかありません。このような記録は史料として扱うのは非常に難しく、基本的には自分たちの軍功を中心に書いており、自分の活躍を強調したり、人から依頼されると、その人や関係者を目立たせたりという脚色が随所に見られます。なので、戦国時代について書かれた歴史書の中でもっとも信頼されるのが、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』だと言われることが主流です。
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【監修者】 | 宮川涼 |
プロフィール | 早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士号修了、同大学大学院同専攻博士課程中退。日本倫理学会員。元MENSA会員。早稲田大学大学院文学研究科にてカント哲学を専攻する傍ら、精神分析学、スポーツ科学、文学、心理学など幅広く研究に携わっている。一橋大学大学院にてイギリス史の研究も行っている。 |
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